二回目の葛藤
それから数週間、花音は何事もなかったかのように俺に接してきた。
初日の緊張もほぐれ、須藤さんの下でテキパキと仕事を覚える彼女の姿。あの日、香水の香りに取り乱して飛び出していったあの夜の出来事など、まるで最初から存在しなかったかのように自然で、完璧な「同僚」としての振る舞い。
(……俺の勘違いだったのか……?)
あの日見せた、あの尋常じゃない瞳の揺らぎと錯乱。前回の人生で俺と肌を重ねていた記憶がバグとしてフラッシュバックしたのだと確信していたが、本当に記憶があるのは俺だけなのか。ただ体調が悪くて倒れそうになり、過剰に動揺しただけだったのだろうか。
そう自分に言い聞かせ、胸の奥のざわつきを必死に抑え込もうとしていた。
その日の退勤後、一線を越えない程度に彼女に声をかけようと、俺は花音の後を追って会社を出た。
夕闇が立ち込め始めたビルのエントランス。ガラス扉の向こう、少し離れた歩道に立つ一人の男の姿が目に飛び込んできた瞬間、俺の足がピタリと止まった。
息が詰まる。
(……優真……っ!!)
俺たちよりも少し若い男。人懐っこい笑顔を浮かべ、まるで子犬のように花音に駆け寄り、親しげに寄り添っている。
忘れるはずもない。前回の人生で、花音の婚約者だった男だ。あの時も、こうやって会社の前まで彼女を迎えに来ていた。
前回の人生で、俺の手が届かない場所で花音と愛を囁き合い、彼女の薬指に指輪を嵌めさせ、花音を手に入れた男。
「あいつと……結婚していたよな、前回……」
声にならない呟きが、冷えた夜気に消えていく。
智哉の手前、そして「助ける」という名目のため、俺は花音にとってただの「親切な同僚」の仮面を被り続けてきた。だが、目の前で繰り広げられるその眩しすぎる光景に、胸の奥で眠っていたドロドロとしたバケモノが激しく目を覚ます。
子犬のような笑みを浮かべて花音の肩に触れるその手に、俺の手元から失われたはずの狂おしいほどの独占欲と憎悪が沸き立っていく。
俺は柱の影に身を潜めたまま、二人の背中へ殺気を含んだ視線を突き刺し、握りしめた拳の爪が掌に食い込むほど強く力を込めていた。
1回目がなかったら、まだマシだったのかもしれない。ただの同級生として、ただの職場の同僚として、適度な距離感を保ちながら優しく見守るだけで満足できていたのかもしれない。
だが——もう俺は知ってしまっている。
彼女の肌の柔らかさも、俺を呼ぶ切ない声も、俺の腕の中で弾む息の熱量も、俺に抱かれている時の乱れた姿も。すべてをこの身に焼き付けてしまった。
暗い部屋、濡れたシーツ、俺の首に回される細い腕。タイムリープする前、何度も何度も愛し合い、互いの存在を確かめ合ったあの夜の生々しい映像が、脳裏を凄まじい濁流となって駆け巡る。
(もう一度……あの熱を……)
一度味わってしまった甘美な毒は、俺の胸の奥でどす黒い独占欲となって暴れ出し、喉の奥を狂おしいほどに乾かせる。優真と笑い合う彼女の姿を見るだけで、全身の血が逆流するような嫉妬と執着が渦を巻く。
……だが。
激しい衝動に突き動かされそうになる脳裏を、あの日惨劇のなかで流れた冷たい血の赤が、一瞬で突き破った。
(ダメだ……触れたら、壊れる……!!)
俺が欲望に負けて彼女を抱けば、またあの歪んだ悲劇が繰り返される。智哉との誓いを破り、花音の運命を狂わせ、全員を最悪の結末へと引きずり込む引き金になりかねない。
「花音には、触れてはいけない」
歯をくいしばり、自分に固く言い聞かせる。
大丈夫だ。まだ今は、やましいことなんて何もない。俺は彼女を正当に引き上げ、ただ守っているだけの「最高の同僚」であり「同級生」だ。智哉にも、花音にも、自分にすらも疚しい嘘はついていない。
俺はあふれ出そうになる狂おしいほどの愛おしさと欲望を、冷徹な仮面の下へと必死で押し込め、ただ闇の中へ消えていく二人の背中を冷たい熱を宿した瞳で見つめ続けていた。




