異変
帰り支度を済ませ、ロビーのエレベーターホールへ向かう彼女の背中を追いかけ、俺は周りの社員に聞こえないようあえて声を潜めて話しかけた。
「花音ちゃん、初日お疲れ様」
振り返った花音に、いつもの優しい笑顔を向ける。その瞬間、彼女の胸の中で一日中張り詰めていた緊張の氷がフッと溶けていくのが分かった。
「……うん、お疲れ様。海斗君」
安堵の表情を浮かべる彼女を見送りながら、俺は心の中で静かに自負していた。
これでいい。受付という狭い世界から救い出し、こうして俺のすぐ近くで、優秀な同僚として輝かせてやる。彼女を正当に評価し、守り抜く——それが、この2度目の人生で俺が選んだ「正解」のはずだった。
——それから、あっという間に一週間が過ぎた。
ある日の夜。手元の時計に目をやると、液晶の文字はすでに20時を回っていた。他の社員は退社し、しんと静まり返ったフロア。青白い液晶の光だけが、暗闇の中で俺と彼女のデスクを照らしている。
コツ、コツ、と足音を響かせながら、俺は花音のデスクの横へ歩み寄った。
「花音ちゃん、ちょっと手伝ってくれない?」
見上げてくる彼女に、俺はガラス瓶に入ったいくつかの試作の液体を見せた。
「いま開発してる、新しいメンズ香水のサンプルなんだけど。……これ、どうかな」
俺はそう言って、小さなスプレーノズルを押し、自分の首筋へとそれを吹き付けた。シュッ、と微細な霧が静かなオフィスに弾ける。
次の瞬間、俺は彼女の椅子のすぐ横にかがみ込み、自分の体温が混ざった首元を、花音の顔の目と鼻の先まで近づけた。
ほんの少しの香り、ほんの少しの距離感——のはずだった。
だが、俺の首筋から漂う香りを吸い込んだ瞬間、花音の瞳が信じられないほど見開かれ、顔色が一変した。まるで凄まじい濁流のような何かに飲み込まれたかのように、彼女の瞳が焦点を失い、呼吸が乱れていく。
何かが彼女の脳内にバグとして直接流れ込んでしまったのか?
「……っ、あ……」
呼吸の仕方を忘れたように胸を押さえ、花音はそのまま椅子から崩れ落ちそうになった。
「大丈夫、花音ちゃん!?」
俺は焦燥に駆られ、倒れそうになった彼女の華奢な身体を咄嗟に大きな腕で強く抱きとめた。
抱きしめられた花音は、まるで狂気に触れたかのように顔を歪め、「ごめん、体調が……!」とだけ叫ぶと、俺の手を力任せに跳ね除け、逃げるようにその場を飛び出していった。
「花音ちゃん……!?」
差し伸ばした俺の手は、冷たい空気を掴むだけだった。
静まり返ったフロアに取り残され、俺は自分の首筋から漂う香水の匂いと、手に残る彼女の体温の残像に呆然と立ち尽くした。
彼女の瞳に宿っていた、あの尋常ではない揺らぎ。
経験していないはずの「惨劇の夜」が蘇り混乱したのか?
まさか……花音の中に、前回の『記憶』が残っているというのか……?
智哉との関係を維持しながら、花音を救うという名目のもとで彼女を引き寄せ、あろうことか「あの夜」と同じ香りを纏って近づいてしまった自分の浅はかさと罪深さに、背筋が凍りつく。
遠ざかるエレベーターの表示灯を見つめながら、俺は冷や汗に濡れた手で固く拳を握りしめた。
彼女を救うために書き換えたはずのこの世界で、俺の歪んだ執着と過去の残像が、容赦なく花音の心を壊し始めていた。




