望ませた日常
翌日、デスクの上に置かれた社内電話が甲高い音を立てて鳴り響いた。ディスプレイに表示された内線番号を目にした瞬間、胸が大きく跳ね上がる。受付からの直通ライン。俺は速やかに受話器を耳に押し当てた。
「はい、企画開発部の一ノ瀬です」
『……海斗君? 今井です。昨日の……異動のお話の件なんだけど……』
受話器越しに聞こえる、少し緊張を含んだ花音の柔らかい声。俺は無意識のうちにキーボードを叩く手を止め、息を呑んで彼女の次の言葉を待った。
『私、企画開発部で頑張ってみようと思います。……海斗君の部署に行かせてください』
その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、脳内でカチリと音を立てて全ての歯車が噛み合った。
(よし……っ! 筋書き通りだ……!)
「本当に!? ありがとう、花音ちゃん!」
受話器を握りしめたまま、俺の口からは抑えきれない歓喜が漏れていた。声が弾み、社内の誰にも見せたことのないような、心からの興奮が全身を駆け巡る。
「すぐに上へ話を通しておくから。待ってて」
受話器を置くと同時に、俺は速やかに立ち上がった。あらかじめ完璧に準備しておいた「お膳立て」を回収する時が来たのだ。
総務部長のもとへ向かい、先日彼女が見せた鮮やかな議事録作成と臨機応変な対応を理由に挙げながら、人員不足に悩む我が部署への引き抜きを打診した。会議で花音に大きな借りを作っていた総務部長は、二つ返事で快諾。1回目の人生で彼女を苦しめた「会社の都合による不当な異動」ではない。彼女自身が掴み取り、上層部からも歓迎される、完璧で正当なキャリアアップだ。
事態はトントン拍子で、目まぐるしいほどのスピードで進み始めた。
そして、数日後――。
パーテーションが規則正しく並び、液晶モニターの青白い光が満ちる企画開発部のフロア。
自動ドアが開き、緊張した面持ちで一歩を踏み出してきた彼女の姿を認めた瞬間、俺の身体は勝手にデスクから立ち上がっていた。
黒の制服から一転、オフィスカジュアルに身を包んだ花音。受付という狭い世界から、俺が用意した光のあたる場所へ、ついに彼女が足を踏み入れたのだ。
彼女を救い出したという歪んだ全能感と、自分のすぐ近くに置くことができるというドロドロとした歓喜が胸の奥で沸々と沸き上がる。
俺は静かに歩み寄りながら、隠すことすら忘れて、ねっとりと彼女の肌にまとわりつくような、狂おしいほど愛おしい視線をまっすぐに投げかけた。
智哉への罪悪感も、パートナーとしての鎖も、この瞬間だけはすべて記憶の彼方へ吹き飛んでいた。目の前にいるのは、俺の仕掛けた糸によって引き寄せられた、愛しい今井花音ただ一人だ。
「待ってたよ、花音ちゃん」
飛び切りの笑顔を向けながら、俺は心の中で静かに呟いていた。
(これで俺の目の届く場所で、綺麗なまま咲かせてやることができる――)
自分の仕掛けた歪んだ罠に完全に酔いしれながら、俺は戸惑う彼女を自分の領域へと迎え入れた。
受付の開放的な吹き抜けロビーとは打って変わり、このフロアは天井が低く、何百台ものパソコンのキーボードを叩くカチカチという乾いた音が、まるで細かい雨のように絶え間なく降り注いでいる。
その逃げ場のない音が、花音の緊張をさらに増幅させているのが手にとるように分かった。
「——あなたが今井さんね。私が今日から指導にあたる、須藤ひかりです。よろしくね」
声をかけたのは、俺があらかじめ手配しておいた須藤さんだった。ショートカットのサバサバとしたパンツスーツを着こなす彼女は、まさに頼れる姉御肌だ。首を傾げるたびに耳元の小さなピアスがキラッと光る。
その笑顔に、花音の硬くなっていた肩の力が少し抜けたのを見て、俺は密かに胸を撫で下ろした。
案内された自分のデスクに座り、まだ何も入っていない新品の引き出しを静かに開閉する花音。
背筋をピンと伸ばし、新しいパソコンの複雑な初期設定に悪戦苦闘しながら須藤さんに指示を仰いでいる。パーテーションの向こうから飛び交う「仕事のできる男たち」の無機質な視線に、完全なアウェイの緊張感を覚えて息を詰まらせている彼女の姿が、痛々しくも愛おしい。
フロアの奥で、俺は何人もの社員に囲まれながら忙しなく指示を出していた。遠くから彼女の様子を伺うことしかできないが、まだ自分の席で何をしていいかも分からない今の花音が、俺との間に距離を感じて心を軋ませているのではないかと、胸が微かに痛む。
やがて定時を過ぎ、周りの社員たちもポツポツと席を立ち、帰り始めた。
デスクには、慣れない初めてのデスクワークに脳の芯まで使い果たし、重い疲労感を両肩に乗せている花音の姿があった。




