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押した背中

 二人で軽く笑い合ったあと、俺は声のトーンを落とし、まっすぐに彼女を見つめた。


「花音ちゃん、今後のことどう考えてる?  受付ってさ、長いことできる仕事じゃないだろ?  ちゃんとこれからのこと考えておかないと……」


 静かに告げたその言葉に、花音の身体が一気に強張るのが目に見えてわかった。既に、年齢的な焦りを感じていたのかもしれない。


「海斗くんには言われたくない!」


 涙目で反論した彼女が、ソファから勢いよく立ち上がる。図らずとも、彼女を傷つけてしまったことにハッとさせられる。

 

 俺はただ、前回の人生で彼女を追い詰めたあの劣悪な環境から引き上げたいだけなのに。


 花音は背を向けて足を踏み出した。カツ、とヒールが鳴った直後、俺の手は勝手に伸びて彼女の左腕を掴んでいた。制服の薄い袖越しでも彼女の肌の感触が伝わってくる。


「ごめん!  悲しませる気はなかったんだ!!」


 振り向いた彼女の瞳から、熱い涙が頬を伝って顎へと落ちた。その涙に胸が押し潰されそうになる。


「うまく言えなくてごめん!!  ただ、心配してて、花音ちゃんのこと見てたらどうしても言いたくなってしまって……!」


 薄暗いロビーの街灯の下、俺は必死に彼女の瞳を射抜いた。


「俺のところに来ないか?」


 一瞬、彼女の息が止まり、瞳に思いがけない揺らぎが走った。


「俺の部署さ、最近、人が減っちゃって業務が溢れかえってるんだ。それで毎日この時間になってしまって。特に俺、まだここに来て日が浅いから、慣れるためにも先輩たちの仕事ももらってて。

 高柳はわかるだろ?  あいつや智哉……、山中たちがいる他社とは、今でもプロジェクトで深く繋がってるからさ。こないだ2人と飯食ったときに花音ちゃんの話を聞いて、『すごい気遣いもできて機転も利くよな』って。無理難題を言われても受付でうまく解決したりしてることも聞いて、俺の部署に来てくれないかって……」


 彼女の表情から一瞬の戸惑いが消え、プロの完璧な笑顔へと戻っていくのが分かった。


「とりあえず……考えとくね。ありがとう、海斗君」


「うん。待ってるから。無理はしないで」


 ゆっくりと彼女の腕から手を離す。肌の熱が消えていく瞬間、強い寂しさが指先を襲った。


 彼女を引き上げるための「正しい理由」は提示できた。彼女自身の実力を評価し、光の当たる場所へ導くための完璧な道筋。これで彼女は救われるはずだ。


 ロビーの自動ドアを抜け、夜の静寂に包まれた街へと消えていく花音の背中を、俺はしばらくの間、動かずにじっと見つめていた。


 胸の奥で、甘い全能感と計算通りの全能感が静かに蠢いている。


(すべて……仕込み通りだ)


 先日の合同会議。智哉の忘れ物という突発的なアクシデントを利用し、後輩を定時で帰らせてあらかじめ席を空け、高柳を介して花音にあの場所へ駆けつけさせた。

 大勢の役員や他部署の上層部が揃う緊迫した空気の中で、彼女が見せた手際と気配り。


 あの日、あの場にいた全員が『受付の今井花音』という存在と、彼女の隠された高い能力を嫌でも焼き付けられたはずだ。

 そして何より、土壇場で救われた総務部長には、花音に対して大きすぎるほどの「貸し」ができている。


(今だ。今、彼女が自分の意思で異動希望を出せば、ほぼ100%通る)


 1回目の人生――あの悲劇的なルートでは、彼女は上からの勝手な都合で、自分の意志に反して無理やり異動させられた。環境の変化に戸惑い、自分の価値を見失い、心をすり減らしていった彼女の姿を俺は痛いほど知っている。


 だが、今回は違う。彼女は自分の手でチャンスを掴み取り、自分の実績と周囲からの正当な評価を引っ提げて、自らの意思で光の当たる場所へと足を踏み出すのだ。

 誰かに強いられた異動じゃない。自分で掴み取ったステップアップなら、もう彼女が惨めに落ち込むことも、自分を責めることもないはずだ。


「救ってやったんだ……俺の手で」


 ぽつりと漏れた言葉が、冷えた夜気に溶けていく。彼女の才能を証明し、居場所を作り、未来を綺麗に整えてやる。


 智哉との約束を破破ることなく、彼氏としての顔を守りながら、影から花音の人生を完璧にコントロールする快感。


 だが、腕を掴んだときの柔らかい感触と、涙を浮かべて俺を見つめていた彼女の眼差しが脳裏をよぎるたび、全能感の隙間からどす黒い欲望が顔を覗かせる。


(本当に……俺は彼女の『同僚』や『同級生』で満足できるのか?)


 自分の意思で輝き始める花音。その美しい未来を作ったのは俺だという自負と、決してその手に触れてはならないという矛盾した苦痛が、俺の胸の奥でどこまでも深く渦巻いていた。




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