確信
「えー。じゃあ、あとでね。仕事終わったら連絡するから、迎えにきてね」
「……わかった。気をつけてな」
会社の前で車を止めると、智哉は名残惜しそうに助手席から降りた。だが、そのまま建物へ向かうかと思いきや、智哉はわざわざ後部座席のドアへと回り込み、ガチャリとドアを開けた。
車内に一気に流れ込んでくる、冷たい雨風と水しぶきの匂い。智哉は後部座席にかがみ込み、花音の耳元へ顔を寄せると、何かを小さく囁いた。
バックミラー越しに見える智哉の背中と、急激に顔色を失っていく花音の側顔。智哉の浮かべた笑みの奥に、どこか冷ややかで底知れない何かが宿っているのが見え、胸の奥がひやりと冷えた。
「智哉、何やってんだよ!」
耐えかねて俺が運転席から振り返り、声を張り上げると、智哉はくるりとこちらを向いて何食わぬ顔で首をかしげた。
「ただ、今井ちゃん雨に濡れたから、風邪ひかないようにねって言っただけー!」
無邪気そのものの可愛らしい笑顔でそう言い放つと、智哉はひらひらと軽やかに手を振り、土砂降りの雨の向こうへと消えていった。
パタン、とドアが閉まった瞬間、車内は耳が痛くなるほどの痛切な静寂に包まれた。雨音だけが、天井を容赦なく叩き続けている。
俺はバックミラーに視線を滑らせた。そこに映っていたのは、智哉に何かを囁かれ、絶望の最底辺で今にも壊れそうに固まっている花音の姿だった。彼女が必死で作っていたはずの笑顔の仮面が、木っ端微塵に砕け散っていくのが手に取るように分かった。
(智哉は……一体何を言ったんだ……?)
胸を突く激しい不安と焦燥。俺はミラー越しに、隠すことも忘れて冷ややかで狂おしいほどの熱を孕んだ視線を、まっすぐに彼女へと突き刺した。
密閉された車内。智哉の去った助手席。
濡れた左手の薬指に嵌められた指輪が、鈍く、重く、俺たちの逃げ場を奪うように光っていた。
静寂の支配する車内で、ふとバックミラー越しに交錯する視線。耐えかねたように、花音がぽつりと口を開いた。
「山中さんと……付き合ってたんだね」
ウインカーの乾いた点滅音と、ワイパーがフロントガラスの雨水を弾く重い音だけが、数秒間、俺たちの間を流れた。喉の奥がカラカラに乾き、粘りつくような唾を飲み込んでから、俺は静かに言葉を返した。
「うん……。前の職場で一緒に働いてたんだ。今の職場では、まだカミングアウトしてなくてさ……」
「そっか。指輪……いつもしてるの?」
「休みの日とかは、するかな……」
口にした瞬間、自分の声が微かに震えているのが分かった。
心の中で罪悪感が激しく疼く。本当は職場を離れたらすぐにこの指輪を指に滑り込ませている。花音にパートナーがいることを悟られたくないという欺瞞のままに。
「なんかあった? いつもと違う気がするけど」
フロントガラスを伝う雨脚を見つめたまま、俺は尋ねた。ミラー越しに見える彼女は、必死に引き攣りそうな頬を動かし、いつもの「プロの笑顔」を作ろうとしていた。
「ううん、別に……。ちょっと雨に濡れちゃっただけだよ。……あ!」
「え!? 何!?」
「山中さんに、上着を返すの忘れてた! 濡れたカッターシャツ1枚で、そのまま仕事に行っちゃったよ……!」
花音が肩に羽織っていた智哉のグレーのジャケットを慌てて脱ごうとする。その健気で痛々しい仕草に、俺は喉の奥で低く苦笑を漏らし、首を振った。
「ハハッ、あいつらしいな。そのまま着てなよ、返しとくからいいよ」
「あいつらしいな」と口にした瞬間、バックミラー越しの花音の表情がひやりと冷たく強張るのが見えた。俺と智哉の共有してきた時間、積み重ねてきた関係の深さを突きつけられ、彼女の胸の奥が冷たく軋んでいるのが手に取るように伝わってくる。
智哉のジャケットから漂う柔軟剤の匂い。それは俺の部屋でいつも香っている匂いと同じだ。息苦しそうに シートに身体を深く沈める花音を、俺はただミラー越しに見守ることしかできない。
車は花音のマンションの前へ滑り込み、静かに停止した。ハザードランプの規則的な点滅が、雨の夜のコンクリートを橙色に揺らめかせる。
彼女がドアノブに手をかけ、車から降りようとした――まさにその時だった。
「花音ちゃん……!」
抑えきれなくなった切羽詰まった声が、俺の唇を割って飛び出していた。
驚いて振り返る花音と、バックミラー越しにバチッと視線がぶつかり合う。自分でも制御できないほど、俺の瞳は激しく揺れていた。
何を言えるというんだ……。本当はすべてを打ち明けて、あの血に染まった惨劇から、この歪んだ運命から彼女を拐い去りたい――そんな狂おしい衝動が胸を突き破りそうになる。
……だが。
(……ダメだ。これ以上は……)
「いや……なんでもない。……暖かくして寝ろよ」
俺はすぐに視線を落とし、自分を冷たく突き放すように口をつぐんだ。
「うん、ありがとう……」
花音は智哉の上着を脱ぎ、シートにそっと畳んで置いた。俺たちの匂いが染み付いた温もりが座席に残され、冷気が車内を包み込む。
彼女はドアを開け、激しい土砂降りの中へと降りて足早にエントランスへ向かって行った。オートロックのガラス扉の前で、花音がたまらなくなったように最後に一度だけ振り返った。
フロントガラス越しに彼女の視線を受け止めた瞬間、俺の「クールな仮面」はあっけなく崩れ落ちていた。
雨に濡れる彼女が愛おしくて、痛々しくて、狂おしい。溢れ出す熱を隠すこともできず、俺は酷く優しく微笑みながら、小さく手を振った。
そのままシフトレバーを入れ、テールランプの赤い光を雨の闇の中へと滑らせる。
左手の薬指に嵌められた冷たい指輪。智哉のものだと示すその重い鎖を指に絡ませながら、俺はミラーの向こうで固まっている花音に、残酷なほどの愛おしさを注ぎ続けていた。
自分の中のバケモノが、もう二度と彼女を手放す気などないことを自覚しながら。




