雨宿り
金曜の夜、俺は静まり返ったリビングで智哉の帰りを待っていた。タイムリープしてきてからというもの、智哉とお揃いの指輪は職場では外し、プライベートの時だけ指に嵌めるようになっていた。
どこかで、花音に自分にパートナーがいることを知られたくない――そんな醜い欺瞞と執着が、俺に指輪を外させていたのかもしれない。
シルバーのリングを左手の薬指に滑り込ませる。冷たい金属が肌に馴染む感覚を確かめながら、この土日は智哉とどう過ごそうかと思いを巡らせていた、その時だった。
スマホが甲高い着信音を鳴らし、画面に「智哉」の文字が浮かび上がる。
「どうした? 何かあった?」
『海斗? 今、家? あのさ、突然すごい土砂降りになっちゃって! 車で迎えに来てくれない?』
受話器の向こうから、智哉の明るい声が鼓膜を揺らす。背景には激しい雨の音が混じっていた。
『あ、それとさ! 帰る途中でちょうど知り合いに会ったんだけど、その子も傘持ってなくてびしょ濡れになっちゃっててさ。一緒に車で送ってあげてほしいんだけど、いいかな?』
「……ああ、わかった。すぐ向かうよ」
電話を切り、週末くらいしか出番のない車の鍵をテーブルから摘み上げた。
玄関のドアを開けた瞬間、世界を覆い尽くすような強烈な土砂降りの重低音が全身を包み込んだ。アスファルトに激しく打ちつけられた水しぶきが跳ね返り、ズボンの裾を湿らせていく。
冷たい雨の匂いが、俺の鼻腔を突いた。車に乗り込み、エンジンをかける。ワイパーがけたたましくガラスを拭う暗闇の中、濡れた指輪をそっと握りしめた。
シャッターを叩く激しい雨音が、コンクリートの冷たい匂いとともに夜の街に響き渡っていた。
智哉に指定された、智哉と「知り合い」と呼ぶ人物が待つ閉まった店先へと車を走らせる。ワイパーがけたたましくフロントガラスを拭う青白いライトの先、人影がふたつ浮き上がっていた。
車から降り、そのふたつの影に歩み寄る。
右手に握りしめたビニール傘に当たる雨粒の重い振動。そして、冷えた空気の中でその顔を確かめた瞬間――息が止まった。
濡れた髪、寒そうに自分の肩を抱く仕草、そして智哉の着ていたスーツのジャケットに包まれた小さな体。
「花音ちゃん、……?」
声が勝手に漏れ出していた。
その声に反応するように、水滴の垂れる暗闇の中で花音がパッと顔を上げる。
「海斗、君……」
濡れた指先が跳ねた。俺の左手――職場では決して嵌めることのなかった、智哉とお揃いのシンプルで冷たいシルバーリング。智哉と同じ形の指輪。花音の視線が俺の左手に突き刺さり、離れない。
「あれ? 知り合い? あ、そっか! 同じ会社だもんね!」
智哉が無邪気に明るい声をあげる。その声が、俺の鼓動の音にかき消されそうになる。
花音に向けそうになった、溢れ出しそうな狂おしいほどの愛おしさと執着。俺は必死で喉の奥の乾きを押し殺し、冷徹な仮面を貼り直して口を開いた。
「ああ……。高校の同級生、なんだ」
あえて、あの日、社食で熱を込めて語った『12年間』という言葉を伏せた。これ以上、智哉を傷つけたくないという防衛本能。そして何より、この歪んだ関係を花音に突きつけることへの、耐えがたい恐怖。
車に乗り込むと、智哉がいつものように助手席に座り、花音は後部座席へと乗り込んだ。
ドアが閉まり、密閉された車内。激しい雨音がフロントガラスを打ち付ける音だけが重く響き、智哉の体温と、花音の着ている服から漂う雨と柔軟剤の匂いが、俺の鼻腔を甘く締め上げる。
ミラー越しに花音と視線が交錯する。彼女の瞳に浮かぶ、血が凍りつくような疎外感と絶望。救ってやりたい、抱きしめたい衝動を、ハンドルを握る手足に力を込めて殺した。
その時、智哉のスマホが甲高く鳴った。電話をとった智哉は、トラブルの連絡だったらしく、急に慌て出した。
「ごめん、先に会社でおろして!」
「……わかった」
アクセルを踏み込み、車を走らせる。
会社の手前、赤信号で静かに車を停止させた、その時だった。
「ねえ、キスして」
助手席の智哉が、酒の熱を帯びた甘ったるい声を出し、俺の肩へ自堕落に寄り添ってきた。
「なにいってんだよ、人前で! 酔っ払いすぎだぞ!」
声がひっくり返りそうになるのを必死で抑え、俺はあからさまに慌てて智哉を押し返そうとした。
一瞬、バックミラーへ視線を走らせる。
そこには、息をのんで俺たちのやり取りを見つめる花音の姿があった。
ミラー越しにバチッと視線がぶつかり合う。彼女の瞳の揺れに、俺の心臓が痛いほど激しく跳ね上がった。
左手の指輪が、まるで重い鎖のように俺の皮膚を焼き切ろうとしているように思えた。
智哉を守るため、花音を救うために選んだはずのこの2度目の人生で、俺は自ら仕掛けた歪んだ罠に、全員を巻き込んで溺れかけていた。




