新しい日常
お昼のピークを迎え、ガヤガヤと喧噪に包まれる社食。大勢の社員が行き交う熱気と食べ物の匂いの中で、俺は遠くに花音の姿を見つけた。
近づいちゃダメだ――そう頭では分かっているのに、吸い寄せられるように足が勝手に動いてしまう。気づいた時には、彼女のすぐそばまで辿り着いていた。
「花音さん、隣いい?」
声は裏返っていないだろうか。あまりにも唐突で不自然じゃなかっただろうか。冷や汗が背筋を伝い、急激な不安が押し寄せる。だが、声に反応して顔を上げた花音とバチッと目が合った瞬間、ドクンと胸が大きく跳ね上がった。
「あ、海斗君! うん、どうぞ」
彼女の許可を得て、隣の席へ腰を下ろす。思った以上に近い距離感。彼女の髪から漂うかすかな甘い香りと熱気が肌に伝わってきて、鼓動がうるさいほどに脈打ち始める。
(俺は一体何をしてるんだ……何を求めて、ここに座ったんだ……?)
自分の愚かさと衝動に困惑しながら、ふと花音の手元に視線を落とした。その左手の薬指には、やはり指輪は嵌められていない。
その横の小さなお弁当箱には、きれいに盛り付けられた、手作りのおかずたちが並んでいる。
「おいしそうだね。今度俺の分も作ってよ」
動揺を隠すように、冗談めかした軽いトーンで笑いかけてみる。
言った当の本人の心臓が破裂しそうなほど叫んでいるのに、花音は慌てた様子で卵焼きを口に放り込んだ。そして、少しぎこちなく口を動かしている。
俺は手にしていたAランチの唐揚げを箸でつまみ、努めて美味しそうに口へ運んだ。
他愛もない会話でこの距離を埋めようと、箸を止めて口を開く。
「花音ちゃ……」
言いかけて、ハッとして口をつぐんだ。しまった、という顔を作りながら、照れくさそうに頭をかいてみせる。
「……ごめん。実は企画部のやつら、受付の花音さんたちのこと、名前で、しかもちゃん付けで呼んでてさ。二人とも可愛い名前だから。花音ちゃん、楓ちゃんって。そのクセがつい出てしまった……ハハッ」
「いいよ、ちゃんでも。楓ちゃんはファンが多そうだね」
どこか自分を卑下するように自嘲気味に笑う花音。その表情を見て、俺はいやいやと慌てて手を振った。
「ちゃんと、花音ちゃんファンもいるんだよ! 俺だって……もしどっちかなら、花音ちゃん派だから!」
「ふふっ、それはありがたいね〜。同級生からの同情票だとしても」
「いやいや、そんなんじゃないって……っ!」
俺の必死な否定に、花音の表情がパッと華やぐのが分かった。社交辞令だとしても、ひとりの人間として、そして名前を覚えてもらえていたことが純粋に嬉しかったのだろう。その素直な笑顔が俺の胸を強く突き刺す。
「それより、花音ちゃん、何か背、縮んだ?」
「え? いやいや、海斗君が伸びすぎなんだよ!」
「俺、成長すんの遅くてさ。小学校のときは花音ちゃんのほうが大きかったんだよ。覚えてないかもしれないけど……。でも、それからどんどん伸びて、180近くにはなったかな」
見上げてくる彼女の視線を受け止めながら笑ってみせると、彼女は少し悪戯っぽい目でからかってきた。
「じゃあ、太らないように気をつけないとね」
「何で?」
「身長高い人が太ると、すっっごい巨大に見えるから」
あまりにストレートな言いぐさに、思わず声を上げて笑ってしまう。
「花音ちゃんは、痩せたよね」
「そうだよ、ちゃんと努力して綺麗になりましたから!」
「ハハッ…自分で言う、普通?」
ふたりで顔を見合わせて和やかに笑い合う。社食の賑やかな喧騒が、今は不思議と心地よいバックグラウンドミュージックのように響いていた。
(ああ……いいな、こういう関係。これでいいんだ。恋愛とかじゃなく、こうやって友達として並んで過ごせれば……)
そんな穏やかな幸福感に満たされかけた、その時だった。食べ終わり、名残惜しそうに「じゃあお先に」と立ち上がろうとした花音を見て、俺は思わず「あ!」と箸を止めて声をあげた。
何事かと見下ろしてくる彼女をまっすぐ見上げ、あらかじめ頭の中にあった確信を口にする。
「誕生日、二月三日だよね?」
「うん。節分生まれなんて可愛くないでしょ。ひな祭りとかに生まれたら、もっと女の子っぽくて可愛いのにさ」
いつもの癖で自虐を混ぜて返す花音。だが次の瞬間、ハッとしたように思考を追いつかせた。
「……っていうか、なんで知ってるの?」
その問いかけに、俺は歯車を合わせるように言葉を重ねた。
「俺も、二月三日だから」
「ええー!!! それって運命だよね!! 同じ学校で、同じ誕生日なんて!! 奇跡だよね!!」
混み合う社食のガヤガヤを吹き飛ばすような大声。花音は弾けたような満面の笑みを浮かべると、感極まった勢いで俺の腕をガシッと掴んできた。
スーツの袖越しに伝わる、彼女の掌の力強い圧迫感と、熱いほどの体温。
本当は2月14日が誕生日だ。だが前回ベッドの上で、花音に「同じ誕生日だったら運命だと思うのに」と言われたことが頭に蘇り、咄嗟に口から出てしまっていた。
目の前で無防備に輝く花音。指輪のない綺麗な指。
その肌の熱に触れた瞬間、胸の奥底から狂おしいほどの愛おしさと執着が溢れ出し、視線が勝手に熱く濡れていくのが分かった。
肌にねっとりとまとわりつくような、隠しきれない熱を孕んだ視線を彼女の瞳に注ぎながら、俺の唇が勝手に動いていた。
「運命とか、好きだったもんな」
「……ふふ! じゃあ、お先ね! また社食で!」
花音は小さく手を振ると、名残惜しそうにしながらも、パタパタと足早に社食の出口へと向かっていった。
遠ざかっていく彼女の華奢な背中を見送りながら、俺は深く、重い息を吐き出した。
(危なかった……)
掴まれていた右腕に、彼女の温もりと感触の残像がねっとりと残っている。
ただの友達。恋愛じゃなく、こうして並んで穏やかに過ごせればいい。
そうやって自分に言い聞かせ、運命を綺麗にコントロールしているつもりだった。
だが、彼女の無邪気な笑顔を見つめ、腕を掴まれた瞬間の肌の熱を感じただけで、前回の人生で俺の狂気を満たしていた、あのドロドロとした愛おしさと執着が溢れ出しそうになる。
自分でも抑えきれなかった、あの執拗で甘い視線。
俺がどれだけ「誰も傷つけない綺麗な未来」を画策しようとしても、俺の胸の奥に潜むバケモノは、もう花音を手放すことなんてできなくなっていた。




