歪んだ出会い
数日後、書類を抱えて静まり返った廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから見覚えのあるシルエットが歩いてくるのが見えた。
花音だ。
(近づいちゃダメだ……関わるな……)
警告を鳴らす脳内の声を振り払うように、俺は壁際に身体を寄せ、息を殺してすれ違おうとした。
だが――すれ違いざま、彼女の髪からふわりと漂った微かな甘い香りに鼻腔をくすぐられた瞬間、初めて身体を重ねたあの日が鮮明に脳内に流れ込んできた。
柔らかい身体、唇の触れ合う感触、込み上げる快感、熱をもったあの表情、そしてこの香り……気づいた時には俺の理性はあっけなく跳ね飛んでいた
抑えきれない衝動に突き動かされ、俺はぐっと顔を覗き込み、彼女の胸元で揺れる小さなプラスチックの名札に視線を滑らせる。
『今井 花音』
まだ、井上じゃない。誰の所有物にもなっていない。
「今井……花音さん、だよね?」
胸元の名札を確かめるフリをしながら、俺はあらかじめ用意していた完璧な顔を作り上げた。爽やかで、害がなくて、屈託のない笑顔。
「あ……はい……」
あまりにも突然のことに息をのんだようで、花音は大きな目をさらに見開いたまま、戸惑ったように俺を見返してきた。
俺は、自分の胸元で揺れる社員証を指先でつまみ、彼女の目の前にそっと掲げてみせる。
「同級生だった、一ノ瀬です。覚えてる? 先週、会議室で見かけて、もしかしたらそうかなって思ったんだけど……話しかけるタイミングがなくて」
喉の奥がカラカラに乾き、粘りつくような緊張が全身を駆け巡るのを感じながら、必死に声を紡いだ。
「……うん、覚えてる。中学、高校一緒だったから……6年間一緒だったん……だよね……?」
花音は、どこか記憶の糸をたぐるような眼差しで答えた。そのぎこちない言葉を聞いた瞬間、胸の奥から湧き上がってきた歪んだ愛おしさに、俺は軽く声を上げて笑ってしまう。
「ハハッ……違うよ」
「え? 違う……の?」
首をかしげる彼女を見下ろし、目を細めて穏やかな表情を浮かべる。
「小学校も。だから、12年間だよ」
「え!? 12年も!?」
花音は驚きのあまり声を裏返らせ、慌てて小さな両手で口元を覆った。その無防備な仕草に、心臓が跳ね上がる。
「そうだよ。ひどいな、忘れるなんて」
からかうように悪戯っぽい笑みを向けると、彼女はどこか申し訳なさそうに視線を泳がせた。
一回目で花音に再会した時、『気づかないなんてひどい』と言ったのは花音の方だった。これだけのことでも、前回とは違う流れになっていることがわかる。
そして、この反応で気づく。花音は小学校のあの出来事を覚えていない。花音にとって、あれは忘れるようなほんの他愛もない出来事だったのかもしれない。
「そんなに一緒にいたんだ……」
ポツリと自分に言い聞かせるように呟いたあと、彼女は首を少し傾げて無垢な疑問を投げかけてきた。
「海斗君は、いつからここで働いてたの? 今まで社内で会ったことなかったよね?」
「あー……うん。3ヶ月くらい前かな。他の会社からこっちに移ってきたんだよ」
言葉を返しながら、俺の視線は彼女の華奢な手元に落ちた。スマホと小さな財布だけが入った、手のひらサイズのミニバッグ。
今から休憩に行くのか、それとも戻ってきたところか。もし前者なら、「俺も今からだから」と誘って一緒に——
(……ダメだ。これ以上近づくのは、本当にまずい)
脳裏に智哉の笑顔と、血に染まった雪の情景がフラッシュバックし、冷や汗が背筋を伝う。
「花音さんは? 今から休憩?」
「うん、そうなの」
「そっか。俺は今、休憩から戻ってきたところ。呼び止めちゃってごめんな、休憩時間短くなっちゃったね」
自分の手を力任せに握り締めながら、俺はあえて一歩後ろに引き、爽やかに手を振ってみせた。
「……じゃあ、また」
そう言い残し、俺は足早に自分の部署のフロアへと戻った。
背中に刺さる彼女の視線を振り払うように歩きながら、胸の中では抑えきれない歓喜と、底知れない恐怖が渦巻いていた。
12年間という嘘のない事実を、彼女の心に刻みつけることには成功した。
指輪のない指。まだ誰のものでもない『今井花音』。
自分のデスクの椅子に深く身体を沈めると、ドッと冷や汗が吹き出した。
運命を書き換えているという全能感と、智哉を裏切りつつある罪悪感が、俺の心をどこまでも深く削り取っていく。
「また」と口にしてしまった自分を殺したくなった。
俺はもう、逃げ出すことなんてできないところまで来ているのかもしれない。
(12年……。そうだよ、俺たちはそれだけの時間を共有してきたんだ……)
前の人生では、あの転職先で「偶然」出会った同僚として、どこか他人行儀な始まりだった。だが、過去の記憶をを手繰り寄せ、完璧に仕組んだ今回の「再会」。
『今井花音』。
まだ他の男の苗字になっていない彼女の呼び名が、脳裏で何度も、何度も甘く反響する。
――近づいたらダメだ。
頭の中の理性がそう警鐘を鳴らしているというのに、彼女の小さなバッグを見た瞬間、心の奥底で恐ろしいほどの独占欲が芽生えていた。
もしあのまま「一緒に昼飯でもどう?」と誘っていたら?
もし俺の手で、彼女のこれからの時間をすべて塗り替えてしまったら?
指先に残る嫌な汗を拭いながら、俺は冷えた缶コーヒーの表面に浮く水滴を見つめた。
出会いは成功した。彼女の記憶に「12年間も一緒だった一ノ瀬海斗」を強く焼き付けることにも成功した。
彼女を苦しめる劣悪な環境から救い出すための仕掛けも、すでに水面下で動き出している。
すべては、俺の思い描いた筋書き通り。
あの血に染まった雪の日の絶望を回避し、誰も傷つかない未来を作るための「正しい選択」のはずだった。
……それなのに。
智哉の笑顔と、今しがた見せた花音の無垢な瞳が交差し、胸の奥を激しい罪悪感が苛む。
(俺は、一体どこへ向かっているんだ……?)
一度狂い始めたギアは、もう誰にも止められない速度で回りはじめていた。




