香水の重み
智哉の歓喜する声と体温を全身で感じながら、俺は心の中で静かに覚悟を決めた。
そこからの展開は、まるで恐ろしいほど精巧に作られた再現ドラマのようだった。
だが、前回と明らかに違う部分がある。俺自身が、恐怖を殺して誰よりも熱心に、率先してこの香水の商品化プロジェクトを推し進めたのだ。智哉の才能を世に知らしめるために、試作の調整から社内プレゼンまで、俺の手で引き寄せるように導いていった。
狙い通り、香水は社内外から絶大な評価を受けた。
「これまでにない深みのある香りだ」「ストーリーを感じる」と絶賛の嵐が巻き起こり、智哉は一躍、業界の注目の的となった。
そして、その波に乗り遅れることなく、あの人物が現れた。
同僚の高柳から「会わせたい人がいる」と紹介されたのは、競合大手の企画開発部の社員・須藤だった。
パリッとしたスーツをスマートに着こなし、サバサバとした無駄のない口調と、すべてを見透かすような鋭い目元が印象的なキャリアウーマンだった。あの日と同じホテルのラウンジで、須藤はあの時と全く同じ洗練された手つきで名刺を差し出し、破格の条件で俺をヘッドハンティングしてきた。
「あなたの社内での立ち回り、評価してるの。うちに来て、その手腕を振るってみない?」
何もかもが、前の人生と同じ軌道を描いている。
……ただ一つ、決定的に違う点を除いては。
(1年……早いんだ)
頭の中で何度も日付を計算する。前回の人生で俺が転職し、花音と出会ったのは2025年だった。だが今は、まだ2024年の終わり。香水の商品化を前倒しで推し進めた結果、すべてが「1年早いスケジュール」で動いていた。
(……待てよ)
喉の奥がカラカラに乾いていく感覚がした。脳裏に鮮明に浮かんできたのは、花音がぽつりと漏らしていた過去の記憶だった。
『私ね、30過ぎてから無理やり今の部署に異動させられてさ……最初は右も左も分からなくて、毎日夜遅くまで一人で泣きそうになりながら残業してたんだよ』
あの時、何気なく聞いていた彼女の昔話。今、この瞬間――2024年の花音は、まだ異動前の状態のはずだ。俺がいない世界なら……転職しなければ、彼女は冷たい蛍光灯の下で残業に追われ、不安に押し潰される運命になるのではないか。
胸を突くような強い焦燥感が湧き上がった。
出会わなければいい。関わらなければあの惨劇は起きない。頭ではそう分かっているはずなのに、彼女の孤独を思い浮かべた瞬間、胸の奥が張り裂けそうになる。
(……いや、待てよ。希望部署への異動なら……)
会社の人事制度や、あの会社が求めている人材の傾向は、前の人生で嫌というほど叩き込まれていた。
もし俺が今、あの会社に転職すれば。俺の社内での立ち回りや政治力を使って、彼女が無理な残業に苦しむことなく、彼女自身の希望する部署へ異動できるよう裏から手を回せるのではないか。
彼女を救い、本来行くべきだった穏やかな道へ、彼女の「意思」で進ませてあげられるのではないか。
「……お引き受けします」
目の前で脚を組み、どこか挑戦的な笑みを浮かべる須藤に向かって、俺はゆっくりと口を開いた。
「ぜひ、御社で働かせてください」
智哉の頭を抱きしめた時のあたたかさを、俺は心の中で力任せに振り払った。
花音を救うため、そして今度こそ誰も傷つかない完璧な未来を作るため――俺は再び、あの運命の転職へと足を踏み入れた。
転職を果たした初日、俺は会社の受付で彼女の姿を遠くから見つけた。
サラサラと流れる髪、聞き覚えのある柔らかい声、どこか不安げな面持ち――間違いなく花音だ。
だが、俺は声をかけなかった。ここで唐突に関わりを持てば、前回の人生の二の舞になりかねない。まずは新しい職場で立場を固め、須藤からの絶大な信頼を得ることに全力を注いだ。
そうして数ヶ月が過ぎた頃、待ちに待った好機が訪れた。
複数の同業他社が集まる大型の合同企画会議。そこには、前職の仲間である高柳、そして智哉の姿もあった。智哉のプレゼンが評価されれば、智哉の社内での立場はさらに揺るぎないものになる。俺も自然と気合いが入っていた。
会議開始の直前、俺のスマホが震えた。高柳からだ。
『やばい、智哉の奴、本番で使う一番大事な差し替え資料忘れてる! スマホもマナーモードにしてるみたいで連絡つかない!』
電撃のような閃きが脳裏を駆け抜けた。
(……これだ!!)
花音には実力がある。ただ、今は日の目を見ない受付で燻っているだけだ。
もしこの緊急事態で彼女が立ち回り、他部署の上層部や総務部長の目に留まれば――彼女自身の「実績」として、本人の希望する部署への異動が圧倒的に容易になるはずだ。




