動き出す歯車
智哉が出張で不在の夜。
静まり返った暗い寝室で、俺は一人ベッドに横たわり、天井を見つめていた。
(……あの会社に転職さえしなければ、花音に出会うことはなかったはずだ。それなら、転職の話が来ても断ればいいだけじゃないか……)
そう思っていた時、ふと脳裏に稲妻が走った。
(……そうだ!! あの時の智哉が作った香水はどうなった……!?)
考えるより先に身体が弾かれたように動き出していた。
俺は棚へと駆け寄り、奥に仕舞い込まれていたあの試作品の香水を取り出す。急いた手つきで蓋を開け、中の香りを確かめた。
……やっぱりだ。あの時と同じ、甘く深みのある熟成された香り。
この香水こそが、すべての始まりだった。これを商品化させなければ、あの会社からの引き抜きも、転職の話も来ない。それなら……俺の手で、この存在を揉み消してしまえば……。
俺はそっと蓋を閉め、元の位置へと戻した。
(……本当にいいのか? 本当に……?)
自問自答が脳内で激しく渦巻く。
この香水が世に出た時、どれほど多くの反響があったか、俺は知っている。
「初めて買った香水がこれでした」という若い購入者の声。「男女問わず使えるから」とパートナーや家族で大切に使ってくれた人たち。「忘れられない思い出の香りになった」という温かい感想の数々……。
もし俺がここでこの香水を揉み消してしまえば――あの人たちが感じたはずの歓喜も、救いも、愛しい思い出も、すべてこの世から消えてなくなる。
(……っ……!!)
「無理だ……耐えられるわけがない……」
声が漏れ出た。あのプロジェクトの成功と、世界に広まった喜びを知ってしまった以上、俺の身勝手な都合でこの香水の商品化を止めることなんて出来そうになかった。
仮に俺が触れずに放置したとしても、いつか智哉がこの熟成した香りの変化に気づけば、智哉自身の手で商品化へと動き出すかもしれない。
……けれど、もし俺が何もしなければ、本当に誰の目にも触れないまま、永遠にこの棚の奥で埋もれて終わってしまう可能性だってあるのだ。
智哉の才能を殺すのか。
それとも、自分の未来のために過去を歪めるのか。
香水瓶を握りしめる俺の手は、いつしか冷や汗で濡れていた。
翌日の夕方、智哉が荷物を抱え帰ってきた。
「ただいま〜! やっぱ自分の家はいいな〜」
智哉の安堵した声が響き渡る。
「おかえり、智哉」
「……? なんか深刻そうな顔してない? なんかあった?」
不思議そうに、どこか不安を感じさせる表情で智哉が近づいてくる。
「実はお前が前に作った試作品の香水なんだけど……」
絞り出すような俺の声に、カバンを置こうとしていた智哉の手がピタリと止まった。どこか探るような、不安の混じった瞳で俺をじっと見つめてくる。
「え……? あの香水が、どうかした……?」
ここで「変質してダメになってたから捨てた」と嘘をつけば、すべては終わる。
あの会社からの引き抜きも、花音との出会いも、あの雪の日に俺の胸を貫いた包丁の冷たさも、すべてを無かったことにできるのだ。
智哉の喉元がこくりと動く。部屋を包む静寂の中で、俺の鼓動だけがやけにうるさく耳元で跳ねていた。手のひらには嫌な汗がじっとりと滲んでいる。
口を開けば、またあの破滅へと続く運命の歯車を回してしまうかもしれない。
だが――棚の奥で密かに熟成されていたあの芳醇な香りと、この香水を受け取った人々の幸福そうな笑顔が脳裏をよぎり、俺の喉を固く締め上げた。
智哉の才能を、彼の純粋な情熱を、俺の保身のために殺すことなんて……やっぱり俺にはできない。
「……熟成されて、すごく良い香りになってたんだ」
言葉が唇を割って零れ落ちた。もう引き返せない。
「あの深みは、時間を置かなきゃ出なかった魅力だと思う。……智哉、これ、会社で商品化してみないか?」
「えっ……!?」
智哉の瞳が大きく見開かれた。次の瞬間、パッと花が咲くようにその顔全体が歓喜に染まる。
「本当に!? 海斗、あれ……あんなに自信なかったやつなのに、本当に気に入ってくれたの!?」
智哉は抱えていた荷物を床にバサッと放り投げ、弾かれたように俺の元へ駆け寄ってきた。歓喜の熱を帯びた息が俺の頬をかすめ、出張帰りの服からかすかに香る冬の冷気が鼻腔をくすぐる。
「うん……すごく、いい香りだった。智哉にしか作れない香りだよ」
「嘘……嬉しい……っ! 海斗にそう言ってもらえるのが、一番嬉しい!」
智哉は破顔し、俺の首元に飛びつくように強く抱きついてきた。
首筋に感じる智哉の体温と、背中に回された腕の強い力。その純粋で真っ直ぐな愛おしさが、今の俺には鋭い毒針となって胸の深くに刺ささる。
(俺は……自ら引き金を選んだんだ)
智哉の頭を撫で下ろしながら、俺はあたたかい体温の向こう側に、あの冷たい雪と血の匂いを感じていた。
智哉の無邪気な笑顔を守るために選んだこの道が、果たしてどこへ繋がっているのか。運命の狂い始めた秒針が、再びチクタクと音を立てて動き始めていた。




