第二章 悲劇からの歪み
「……海斗……」
「……海斗……っ」
どこか遠くから、聞き覚えのある愛おしい声が耳をくすぐる。
弾けたように目をひらいた。
視界が明瞭になると同時に、ベッドの上に寝転がり、心配そうに俺の顔を見下ろしている智哉と正面から視線がぶつかった。
(……え……? 一体……何が起きた……?)
刺されたはずの胸にも、背中にも激痛はない。血の匂いも、冬の冷気も存在しない。
頭が追いつかず混乱する俺の顔を覗き込みながら、智哉が呆れたように眉を下げた。
「ねえ、大丈夫? 冬なのに汗びっしょりかいてさ」
そう言って、智哉の細く冷たい手がそっと俺のおでこに触れる。
自分の胸の奥で、触れなくても分かるほど心臓がドクドクと異常な速さで脈打っているのが伝わってきた。
「うーん……熱はなさそうだけど」
目を細め、首をかしげる智哉。
(智哉だ……本当に、智哉だ……)
俺が疑い、傷つけ、狂わせてしまった智哉。
包丁を握りしめ、冷たい目で俺を見下ろしていたあの智哉が――今、こんなにも近くで俺を心配そうに見つめている。
ぶわっと目頭が熱くなり、溢れ出た大粒の涙が頬を伝って枕を濡らした。
俺は起き上がると同時に、智哉の身体を腕の中に強く抱きしめた。
「ははっ……いきなりどうしたの〜?」
不意の抱擁に驚いた智哉が、柔らかく可笑しそうに笑う。
「怖い夢でも見た……?」
「うん……、すっごく……すっごく怖い夢を見たんだ……だから、もう離れたくない……」
声を引き千切るように訴える俺に、智哉は優しく目を細めた。
「いいよ、いいよ。ずっと抱きしめるからね」
智哉は、俺が汗でびっしょりと濡らしてしまった服の上から、それを嫌がる素振りすら見せず、何度も、何度も背中を優しくさすってくれた。
智哉の腕の中で背中を優しく撫でられながら、少しずつ荒い息を整えていく。智哉の体温を感じて、ようやく自分が生きている実感が湧いてきた――はずだった。
智哉の肩越しに、ふと壁に掛けられたカレンダーが目に入る。
(……あれ?)
「なあ智哉。カレンダー、新しく買わなかったっけ……?」
「え?」
智哉は抱きしめる手を緩めて振り返り、可笑しそうにクスッと笑った。
「買ったよ。その下に入れてあるのが来年のカレンダー。まだ2週間あるから掛けてないけど」
カレンダーに2025年の文字が見て取れる。
「え……? 今って、2026年だよな……?」
「ふふ……何寝ぼけてんの! 今は2024年だよ。来年からが2025年じゃん!」
智哉が無邪気に笑う。
(……は……?)
背筋に、氷を叩きつけられたような冷たさが走った。
智哉の腕を振り払うようにして飛び起き、慌てて部屋を見回す。そして、ベッド脇に転がっていたスマホを引ったくるように掴み上げ、画面を点けた。
――2024年12月16日
日付を示すデジタル表示が、鮮明に視界に飛び込んでくる。
(え……? 2年前……!? 俺……過去に戻ってる……?)
2024年――。
花音がまだ誰の妻にもなっていない、あの頃。
そして、智哉を傷つけ、あの惨劇へ至るすべての歯車が動き出す前の時間。
手に持ったスマホが激しく震え始めた。
シャワーの温かい湯を浴びながら、乱れた思考を整理する。
花音と出会わなければいい。そうすれば、あの血に染まった雪の日の悲劇は絶対に起こらない。
……なんだ、簡単なことじゃないか。
俺にはもう未来の出来事が分かっているんだ。花音との過ちに足を踏み入れず、智哉だけを愛して、このまま同じ会社で静かに暮らしていけばいい。ただそれだけだ。運命を塗り替えることなんて、拍子抜けするほど容易いと思っていた。
これからの選択に迷いはないはずだった。
――そう決意を固めてから、あっという間に数週間が過ぎた。
だが、俺の心は一向に晴れなかった。
2年前の記憶と決定的に違う「異変」が、胸の奥を蝕み続けていたからだ。
タイムリープする前の俺は知らなかった。どこで花音と出会うのかも、彼女がどんな存在なのかも。
けれど、一度彼女の体温を知り、あの花のような香りを嗅ぎ、そして目の前で命を散らせる姿を見てしまった今――俺の脳裏から花音の存在が消えてくれない。
(今、花音はどこで何をしている……?)
会社への行き帰り、街の雑踏、ふと立ち寄ったカフェ。
智哉の隣にいる時でさえ、俺の視線は無意識に、あの無邪気に笑う彼女の影を追ってしまっている。
忘れようとすればするほど、出会わないように逃げようとすればするほど、知ってしまった花音の存在感が俺の中で肥大化していく。
智哉を裏切らないと誓ったはずなのに。
俺の心は、すでに過去とは違う形で歪み始めていた。




