爪痕
タクシーの運転手に少し待ってもらうよう頭を下げ、俺は振り返った。
少し離れた街灯の影で、花音がふらりと地べたへ座り込むのが見える。
(……足でも滑らせたか?)
不思議に思い、急いで引き返そうと足を進める。街頭の明かりが薄暗いせいで、遠目には状況がよく掴めなかった。けれど、近づくにつれて見えてくる。横たわりかける花音のすぐ脇に、一人の男が静かに立っているのが。
その時、道路を通り過ぎた一台の車のヘッドライトが、二人を真っ白に照らし出した。
光が差し込んだ、ほんの一瞬。
うずくまる花音の周りの真っ白な雪が、禍々しいほど真っ赤に染まっているのが目に飛び込んできた。
あまりにも鮮やかすぎて、一瞬、赤ペンキか何かをぶちまけたのかと脳が理解を拒んだ。
だが、冬の澄んだ冷気とともに鼻腔を突いたツンとする重い生臭さが、それが紛れもなく人間の血なのだと嫌というほど証明していた。
恐怖で足が竦みそうになるのを押し殺し、俺は無我夢中で雪を蹴って花音の元へ駆け寄った。
「花音……!? 花音!!」
「……」
肩を強く揺さぶると、彼女は何も答えず、その身体は糸が切れた人形のように、力なく真っ赤な雪の上へと倒れ込んだ。
「花音!? 分かるか!? おい、しっかりしろ……! 今すぐ、救急車を……っ!」
動揺で震える手でスマホを取り出そうと、コートのポケットに手を突っ込んだ――その瞬間だった。
背中に、鈍く重い衝撃が走った。
「……ッ!?」
少し遅れて、灼熱の鉄棒を押し当てられたような激痛と熱さが背中から全身へと突き抜ける。厚手のコートの上からでも、確実に肉体を穿たれたのだと分かる破壊的な痛み。
(そうだ……花音をこんな目にあわせた奴が……すぐ側に……)
全身から急激に力が抜け落ちていく。膝から崩れ落ち、俺はどさっと花音の横の赤く染まった雪の上へと倒れ込んだ。意識が遠のきそうになる目を必死に開け、かすむ視界で背後の人影を見上げる。
ぬらぬらと赤い血が滴り落ちる包丁を握りしめた手。その握り拳から、カタカタと激しく震える腕を辿っていく。
街灯の明かりの差す先にいた、その人間の顔が見えた。
「智哉……」
引き千切られそうな背中の痛みと絶望の中、俺はなんとかそれだけを声にして絞り出した。
智哉は、血と雪で赤く染まった俺の横へ静かにしゃがみ込んだ。
「なあ、海斗。……もう俺、待つの疲れちゃった」
そう吐き捨てる声は、驚くほど静かで、どこまでも冷たかった。
「気づいてた? 俺がタバコ吸い始めたの」
(え……タバコ……何、を……言ってるんだ……?)
「海斗が女の匂いさせて帰ってきただろ? あれ、すっごくショックでさ。タバコ吸ったら海斗の気持ちが理解できるのかなって思って、篠山に一本もらってさ……それで、時々吸ってたんだ」
(まさか、そんな……それじゃ、あの匂いは……篠山と何かあったわけじゃなくて……俺のせいだったのか……?)
「篠山とは何もなかったんだよ。海斗が女のところに行っちゃったから、俺も篠山に抱かれようと思って良い感じになったんだけど……」
智哉は自嘲気味に息を漏らし、瞳から光を失った目で見下ろしてくる。
「……俺、できなかった。お前じゃないと、ダメだったんだよ」
(俺が……俺がお前を追い詰めて、壊したのか……)
背中の激痛を忘れるほど胸が締め付けられ、視界が溢れ出た涙で歪む。
「なあ、背中に爪痕ついてんの知ってた? 気づいてなかっただろうけどさ。お前、その女とヤッた後、必ず背中に傷が残ってたんだよ。その女の癖だろ?
背中に爪痕を残して帰ってくるんだ。俺、それを上書きしたくて、帰ってきたお前に抱いてもらってたんだよ。
なあ、見せろよ。今もついてんだろ、この女の爪痕が」
智哉の顔がぐんと近づいてくる。
(そんな……そんなことまで……全部見抜かれていたのか……)
「前に付き合ってた奴もさ、バイだったんだけど……結局、女を選んで俺を捨てたんだ。どっちかを選ばなきゃいけない時って、いつも俺、選んでもらえないんだよ。はは……」
虚しい乾いた笑い声が、夜の冷気に響き渡る。
「でも、海斗のこと信じて……ずっと戻ってきてくれるの、待ってた。けど……ダメだったね」
(違う……違うんだ智哉! 今夜、全部終わらせてきたんだ……お前のもとへ帰ろうと……二人でやり直そうとしてたんだ……!)
喉の奥で必死に叫ぼうとするのに、口を開いても声にならない擦れた音が空しく漏れるだけだった。言葉が、身体が、何一つ届かない。だんだん呼吸が苦しくなってくる。
「好きだったよ。いや……、愛してたよ、海斗」
智哉は俺の頬を乱暴に掴むと、無理やり顔を自分の方へと向かせ、血の味が混ざるほどの荒々しいキスを降らせた。
……それが、最後の接触だった。
唇が離れた直後、冷たい銀光が夜の暗闇を裂いた。
胸の真ん中へ向けて、迷いなく包丁が深く刺し込まれる。
「ガッ……は、あ……っ」
「女の匂いがするのがもう耐えられないんだよ。死ねば消えるんだろ? その匂いも。これ以上、海斗が穢れていくの見たくない。
……さよなら、海斗。」
胸を貫く絶大な熱と痛みのなか、視界が急速に黒く塗り潰されていく。
降り積もる雪の白さと、智哉の泣き出しそうな顔だけが、遠ざかる意識の最後の中に残されていた。
胸を貫かれた激痛と、急速に奪われていく体温。
智哉は誰の男にもなっていなかった。
篠山に抱かれてなどいなかった。
あの日感じた他人のタバコの匂いは、不貞の証などではなく、海斗の心に少しでも近づこうと身を削りながら必死に伸ばされた、痛々しいSOSだったのだ。
俺を裏切っていたのは、俺だけだった。
智哉の心はずっと、俺だけのものだった。
(ああ……良かった……)
自分を苛み続けていた汚ろしい疑念が消え去り、暗闇へと溶け込んでいく意識の淵で俺の心には不思議と穏やかな安らぎが広がっていく。
智哉が刺した胸の傷から流れる血の熱さも、背中の痛みも、降り積もる雪の冷たさも、もう何も感じない。
花音を壊し、智哉を壊し、自分自身さえも破滅させた男の、あまりにも身勝手で、あまりにも切ない最期の救い。
暗転していく視界の果てで、智哉の愛に満たされながら、静かに目をつぶった。
ごめんなんて言葉じゃ補えない。
最後に愛してるって言えばよかったかな。
いや、ますます悲しませるだけかな。
ごめんね、智哉。
せっかく出会えたのに。
自分を偽らなくていい、受け止めてくれる人に。




