秘密の終わり
だが、あっけなく終わりは訪れた。
花音と月に数回会う関係が続いていた、冬のある日。
ホテルに入り、ドアが閉まった途端、花音が突然崩れ落ちるように泣き出した。花音の涙を見るのは、学生時代に彼女が失恋したあの時以来だった。あまりに唐突な出来事に、俺は分かりやすく狼狽えてしまった。
「どうした……? 一体何があった?」
何度も彼女の頭を優しく撫で、抱きしめ、冬の外気で冷え切った華奢な身体を何度も何度もさすった。
しばらくすると、花音はしゃくりあげながらも自分の手で涙を拭い、ポツリと口を開いた。
「……もう、終わりにしたいの」
頭を鈍器で殴られたかのようなショックが全身を突き抜けた。
「いきなりどうしたんだよ……? 旦那に……ばれたのか?」
花音は弱々しく、首を横に数回振った。
そして、深く息を吸い込むと、真っ直ぐに俺の目を見つめて言った。
「……赤ちゃんが、ほしいの」
それは、あまりにも重く、残酷な言葉だった。
旦那との間に、子供が欲しくなったのだ。
俺には花音を旦那から奪うつもりも、彼女を自分のものにして引き受ける勇気も度胸もないということを見透かされたようだった。
それは――俺が引き止めることなど、絶対にできない理由だった。
分かっていたはずだった。いつかこの歪んだ関係に終わりがくることなんて。最初からダメなことだって、ずっと分かっていたのに。
数日前、偶然、街中で花音が旦那と一緒にいるところを見かけた時の光景が脳裏に蘇る。
冬の明るい街中、二人は腕を組みながら、楽しそうにショーウィンドウを覗き込んで歩いていた。聞けば、その旦那は俺たちの会社とは比べものにならないほどの大企業に勤めているらしい。
誰から見ても、理想の夫婦そのものだった。
俺が花音に与えられるものなんて何一つなく、あの男に勝てる要素なんてどこを探しても残されていなかった。
(あの男のところに戻るのか……)
茶髪で、くしゃっと無邪気に笑う花音の旦那の顔が浮かぶ。
(いいな……。俺には、そんな温かい未来なんて絶対に訪れないのに)
「……分かったよ。これで終わりにしよう」
俺は必死に顔を作り、優しく微笑みながら答えた。花音は俺のその言葉を聞くと、安堵と悲しみが混ざった複雑な表情を俺に向けた。涙をこぼしながらボソッと呟く。
「結婚する前に海斗に会いたかった……」
その言葉に突き動かされるように思わず花音を抱き締めた。
そしてその日、俺はこれまでで一番優しく、丁寧に花音を抱いた。
23時前、二人で静かにホテルを出た。
最後に、夜の闇に沈み人通りの途絶えた道を、そっと手を繋いで歩いた。
その指の重なりは、恋人同士の手繋ぎというよりも、二度と会わないための「さよなら」の握手の延長のように思えた。
街灯はぽつり、ぽつりと冷たい明かりを路上に落としている。アスファルトの上にうっすらと積もった白雪が光を反射し、いつもなら暗い夜道がどこか幻想的に明るく感じられた。
もうすぐ今年が終わる。来年からは、俺たちがこうして二人きりで会うことなんて金輪際ない。ただの職場の一同僚に戻るだけだ。
花音は旦那の元へ戻り、新しい人生――傷ひとつない綺麗な人生を歩んでいく。
ふと、道路脇に空車のタクシーが停まっているのが目に入った。
「花音、ゆっくり来ていいよ。俺がタクシー捕まえておくから」
俺はそう言って、足早に小走りでタクシーへと向かった。路上にうっすら積もった雪のせいで足元が滑りやすく、転ばせてしまっては危険だという、花音への気遣いだった。
……だが、もしあの日。一緒に走っていれば。
転ぶことなんて配慮せず、彼女の手を強く握りしめたまま、二人で連れ立っていれば。
……あんなことには――ならなかったのに。




