秘密の始まり
ぐんと強い力で両腕を首に回され、智哉の体温が一気に至近距離まで迫る。
耳元にかかる、少し湿り気を含んだ温かい吐息。心臓が跳ね上がる。
「抱いてくれる……よね?」
「な、なんで……?」
唐突すぎるねだりに、裏返りそうな声で問い返すのが精一杯だった。智哉は耳元で「フフッ……」と、低く小さく笑った。
「なんでって、いつもやってるじゃん。……それとも、何かできない理由でもあるの?」
「え……いや、そんなわけ、ないじゃないか……」
しどろもどろにしか答えられない。
強く抱きつかれているせいで、智哉が今どんな目をし、どんな表情を浮かべてその言葉を口にしているのかが全く見えない。首元をゆっくりと通り抜ける吐息の温もりが、恐怖と罪悪感で強張った皮膚を酷く撫で上げていく。
「好きだよ、海斗。……海斗も、だろ……?」
試すような、それでいてどこか壊れそうな脆さを孕んだ声。
「ああ……当たり前だろ……」
俺は震える声でそう絞り出すと、智哉の身体に両腕を回し、彼を崩れ落ちないように優しく抱きしめ返した。
(俺は……一体、誰を抱きしめているんだ……)
昨夜、同じ腕の中で確かに抱きしめた花音の感触。
そして今、何も知らず、いや、あるいは全てを察した上で甘えるように縋りついてくる智哉の体温。
自分の胸の内で渦巻くドロドロとした罪悪感と嘘が、智哉の「好きだよ」という純粋な言葉によって、鋭く深く胸を刺し穿っていた。
その日、智哉からはタバコの匂いがしなかった。
だが、それは終わりへ向かって崩れ去っていく前の、あまりに静かな前兆だったのかもしれない。
それからというもの、毎日のように智哉からタバコの匂いが漂うようになった。日によっては、それが吐き気を覚えるほど強く染みついていることがある。
(……今日も、あの男に抱かれてきたのだろうか?)
そう勘ぐってしまう夜は、居ても立ってもいられず、無性に花音を求めてしまうようになった。
智哉の服や肌から漂う他人のタバコの匂いを自分の中から消し去るために、花音の花のような香りを身体に纏って家に帰り、相殺する。
そんな、何の意味もない虚しい作業を何度も、何度も繰り返した。
だが、いつの間にか花音という存在は、俺の中で歪んだ救いそのものになっていた。
胸が潰れそうなほど苦しい時に、誰かがただ側にいてくれることが、どれほど自分を支えてくれるのかを初めて知った。
花音を抱き、家に帰っては智哉を抱く。
智哉を抱くのは、そうしていなければ今すぐにでも彼がどこかの誰かに奪われてしまうような恐怖に苛まれていたからだ。半ば義務のように、縋るように智哉の身体を求めた。
一方、花音と過ごす時間は穏やかそのものだった。
ある日、ホテルのベッドで彼女に腕枕をし、二人で並んで寝転んでいた時。花音がふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、海斗の誕生日って2月じゃなかった?」
「そうだよ! すごいね、覚えてたの?」
「うん! 私も2月なんだけど、2月生まれってあまり周りにいないから。ふふ、2月の何日?」
「14日なんだよね。バレンタイン」
「えー! それじゃ誕生日プレゼントなのかバレンタインのチョコなのか分からないね!」
花音は子供のように面白がって瞳を輝かせる。
「そうそう、昔から自分でもそれ思ってた。……花音は何日なの?」
「私は3日! 節分なの!」
そう言って無邪気に笑ったあと、花音はふと動きを止め、じっと俺の目を覗き込んできた。
「……同じ日が良かったな。運命って感じ、するじゃない?」
「ハハッ……同じ日じゃないけどさ。じゃあ、お互いの誕生日の真ん中らへんで、一緒にお祝いしようか」
「うん!! 楽しみ!!」
そんな、どこにでもいる普通の恋人同士のような会話を交わした。
花音のキラキラとした笑顔は何ものにも代えがたいほど眩しく――そして何より、彼女といる時だけは、自分がやっと「普通の男」になれた気がしていた。
こんな関係が許されるはずもない。いい訳がないなんて分かっている。
けれど、この関係を断ち切ってしまえば、もう二度と女を抱くことも、「普通」の人間になれたという安らぎを得ることもできなくなってしまう。
花音に会えなくなったら、俺はこの底なしの心の虚しさを、一体誰に埋めてもらえばいいというんだ?
(……花音は、俺に必要な存在なんだ)
自分にそう強く言い聞かせながら、俺は智哉の存在も、自分の侵している罪の重さも、都合の悪いすべてから目を背け続けていた――




