帰る場所
いつの間にか眠っていたらしい。
ゆっくりと体を起こすと、ベッドの隣に花音の姿はもうなかった。
一瞬、全てが泥酔の果てに見失った質の悪い夢だったのではないかとも思った。けれど、シーツや枕元には花音のあの花のような柔らかい香りが、鮮烈に残されていた。目をつぶると、まだすぐそこに彼女が横たわっているかのように濃く、熱っぽく漂っている。
花音がいた場所のシーツを手でなでると、既にひんやりと冷たくなっていた。
彼女はいつ、どんな顔をしてここを出て行ったのだろう。……まさか、自分を責めて泣いたりしてはいないだろうか。
枕元に転がっていたスマホを拾い上げ、画面を点ける。時刻は夜中の0時を少し回ったところだった。
終電はもうない時間帯だが、今すぐ帰れば「二次会のカラオケで盛り上がって遅くなった」と誤魔化すことができるかもしれない。浅ましい計算が頭を駆け巡る。
俺は弾かれたように起き上がり、急いで帰り支度を始めた。
ホテルの浴室にある見知らぬ石鹸の匂いを全身に纏って帰るよりは、酒と汗の匂いに塗れている方がまだマシだと思い、シャワーすら浴びずに逃げるように部屋を出た。
路上で拾ったタクシーに飛び乗り、行き先を告げる。流れていく夜の街灯をぼんやりと見つめながら、心臓が嫌な音を立てて早打ちしていた。
智哉になんと理由を言おう。顔を見たら、過ちを見破られてしまうのではないか――。
マンションに到着し、鍵を差し込んで静かにドアを開ける。
玄関の向こうの部屋の中は、静まり返り、冷たく真っ暗だった。人の気配も、生活の温度も感じられない。
(智哉は……何時頃に帰ってきたんだろう。もう寝てるのかな)
靴を脱ぎ、息を潜めながらそっと寝室のドアを押し開ける。
……だが。
ベッドの上に、智哉の姿はなかった。
シャワーを浴びながら、頭から勢いよく冷水を被り、必死に冷静になろうと努力する。
……智哉はどこにいる? 今、誰とどこで何をしている?
自分のしでかした破滅的な過ちのことは、すっかり棚に上げていた。
日付が変わるような時間まで、一体誰と一緒にいる? 今、誰の隣で笑っているんだ……?
シャワーを終え、智哉のいない冷え切ったベッドに一人で潜り込む。
ボディソープで丹念に洗い流した身体からは、もう花音の香水の匂いなんて残っていないはずだ。そう自分に言い聞かせるように、深く息を吐き出した。
その時だった。
ガチャリ、と静まり返った室内へと玄関ドアの開く音が響いた。
心臓が跳ね上がる。慌てて智哉と反対側の壁を向き、深く目を閉じて寝たふりをした。布団の中で全身が強張る。
智哉の静かな足音が聞こえてきた。
そのまま寝室へ一直線に来るかと思われたその足音は、ドアの手前でゆっくりと向きを変え、遠ざかっていった。やがて、脱衣所のドアが閉まり、かすかにシャワーの流れる水音が聞こえ始めてきた。
(……シャワー?)
こんな深夜に帰ってきて、部屋へ入る前にまずシャワーを浴びる。
やましいことがあるからすぐに洗い流したいのか?
それとも……単に汗を流してサッパリしたいという、いつもの無意識の習慣なのか?
水音の響く暗闇の中で、俺は自分自身の罪悪感と、智哉への猛烈な疑念に挟まれ、身動きが取れなくなっていた。
翌朝、割れるような激しい頭痛とともに目を覚ました。
視界をうっすら開けると、隣にはいつの間にか智哉が布団に潜り込み、静かな寝息を立てていた。智哉は俺と反対側の壁を向いて横たわっており、その表情を窺うことはできない。
枕元のスマホを手に取り、画面の灯りに目を細める。時刻はすでに昼過ぎを回っていた。
重い体を引き起こすと、喉が焼けるようにカラカラに渇いていた。静まり返った部屋の空気のせいで、昨夜の出来事――花音とのキスも、あのホテルの部屋の熱も、帰宅した時の智哉の冷たい静けさすらも――すべてが質の悪い夢だったのではないかと錯覚しそうになる。
(……喉、渇いたな)
隣で背を向けて眠る智哉を起こさないよう、俺は息を殺しながらゆっくりとベッドを抜け出し、足音を忍ばせて静かなリビングへと向かった。
「海斗……」
思わぬ背後からの声に、リビングに向かおうとしていた足を思わず止め、ゆっくりと振り返った。
布団の中からこちらを見つめていた智哉が、柔らかく優しく微笑んでいた。昨夜の冷ややかな空気や静かな問い詰めが嘘だったかのように、どこか幼さすら感じさせる、甘く愛おしそうな表情。
「……来て」
差し出された手と、その穏やかな声。
引き寄せられるように、俺は言われるがまま智哉の座るベッドのそばへと歩み寄った。




