背徳の夜
キスができたことで、俺の胸の中で火がついたような高揚感が跳ね上がったのは言うまでもなかった。
自分は、女を愛することなんてできない男だと思っていた。
……なのに。
会社で花音を見るたびに胸を締め付けていたあの息苦しさは、酒の毒に侵されてすっかり鈍感になっていた。
(これ以上のことも……俺は、できるのだろうか?)
冷たい夜風の中で、恐ろしいほどの興味が湧き上がってきた。俺は花音の手首を掴み、夜道を半ば引っ張るようにして歩き出した。
もし嫌なら、突き放せばいい。嫌がるなら、その手を振り払えばいい。
自分でも嫌になるほど足元がおぼつかない。今の俺の足取りは、女の力で少し押されただけでも簡単に倒れてしまうほど力が入っていなかった。
(嫌なら断ってくれればいい。少しでも拒絶されたらすぐにやめるから……)
泥酔していたって、無理やり押し倒すような真似なんて絶対にしない。心の中で必死にそう自分に言い訳を繰り返していた。
歩いている間、花音が拒否する様子は一切なかった。ただ静かに、俺の引く力にその身体を委ねてくれているようだった。
周囲から見れば、終電に乗り遅れそうで急いで歩いているカップルに見えたかもしれない。それくらい俺は一度も後ろを振り返らなかったし、振り返る勇気すら持てなかった。
息を乱しながらホテルに入り、重いドアが閉まった、その途端――カチャリと施錠される金属音が静かな空間に高く響き渡った。
その音で、俺は急に現実へと引き戻されるような感覚に襲われた。
だが、酒のせいで麻痺した脳と身体は、もうブレーキの踏み方を完全に忘れていた。
ドアを背にした花音が、息を整えるように肩を上下させている。
俺の左手には、まだ彼女の細く温かい手首が握られたままだ。拒絶されなかった。逃げ出されもしなかった。その事実が、自分の中でどろりとした全能感と歪んだ優越感へと形を変えていく。
(男しか愛せないんじゃなかったのか……? 男じゃなきゃダメなんじゃなかったのか……?)
智哉と出会ってからずっと疑うことのなかった自分の根底が、酒と衝動によって呆気なく揺らいでいく。
暗がりの中で見つめ合う。
彼女は呼吸を乱しながら、じっと俺の顔を見上げている。その瞳に浮かんでいるのは拒絶でも恐怖でもなく――ずっと昔、俺に向けられていたかもしれない、あの切ないほどの熱を帯びた眼差しだった。
「……海斗……」
手すりも繋いだことのなかった昔の記憶が、一瞬で吹き飛ぶ。
「海斗くん」という境界線が、彼女の唇から溢れ出た声によって一瞬で崩れ去った。
旦那を呼ぶのと同じ、呼び捨ての響き。
その瞬間、俺の中で何かがプツリと切れた。
俺は握りしめていた手首をそのまま引き寄せ、花音の華奢な体を壁へと押し付けた。
香水の花の香りが、逃げ場のない狭い空間に充満する。息が詰まるほどの甘い匂いに酔い痴れながら、俺は再び彼女の唇を塞いだ。
路上でのそれとは違う、深くて重いキス。
花音の小さな手が俺のスーツの胸元をぎゅっと掴み、爪が立ちそうなほど強く縋りついてくる。その体温を感じるたび、頭のどこかで鐘が鳴り響いていた。
(これでいいんだ。俺だって、智哉がいなくたって……)
智哉への嫉妬、篠山への苛立ち、そして自分が抱えていた底なしの罪悪感。
それらすべてを忘れるために、俺は花音の背中に手を回し、さらに強く抱きしめ直した。
二人の薬指に嵌められた指輪が、暗闇の中で互いの皮膚に冷たく食い込んでいた。重なるはずのなかった二つの指輪が、最悪な形で触れ合っていることすら、今の俺にはどうでもよくなっていた。
初めて触れる女性の身体の柔らかさに、戸惑いがなかったと言えば嘘になる。これまで智哉しか抱いたことのなかった俺にとって、それはまったくの未知の世界だった。
けれど、戸惑いの理由は「相手が女性だから」ということだけではなかった。
何よりも、目の前にいるのが花音だからこそ、その重みが胸を押し潰しそうになるのだ。……むしろ、もし花音が男であったなら、俺は何の迷いもなく彼女を抱けていたのかもしれない。
他人の妻となり、他の男のものになった花音を、今こうして自分が抱いているという歪んだ優越感。
熱を帯び、自分だけを見つめて濡れた目を向けてくる花音を、この空間で自分だけが独占しているという時間。
それがたまらなく、頭を狂わせそうだった。
酒が入っていて本当によかった。酒のせいにできる――そんな浅ましく泥苦しい言い訳を、思わなかったわけじゃない。
けれど、身体を重ねているその瞬間、俺の目にはもう花音しか映っていなかった。
そして嫌というほど自覚したのだ。小学生の頃、初めて彼女に心を奪われたあの日の少年としての自分が、何一つ変わらないままずっとここにいたのだと。
(……好きなんだ。俺は、ずっと花音のことが――)
胸の奥から溢れ出しそうなその感情。
だが、「好きだ」というその三文字を、俺はどうしても口に出すことができなかった。
言っていいはずがない。智哉を激しく裏切り、こんな泥沼のような過ちを侵している自分が、そんなあまりにも純粋で綺麗な言葉を口にすることが許されるのだろうか。
言葉にならない吐息と熱気の中に、自分を誤魔化すように没頭していく。
何もかもを忘れ去るように、俺はただひたすらに、花音を強く求め続けた。




