急接近
それから数日、俺たちの間にはどこかつくられたような、微妙な距離感が続いていた。
お互いに、互いを刺し合った「匂い」の件には一度も言及しない。触れれば一瞬で崩れ去ってしまいそうな危うい平穏を、互いに守ろうとしているようだった。
金曜日の定時過ぎ。退勤の準備をしていると、デスクの横から明るい声が降ってきた。
「今日、行くんだよね? なんかさっさと一人で帰りそうな勢いだけど?」
振り返ると、花音が悪戯っぽく微笑んでいた。
「え……? 今日?」
「ほら、飲み会! こないだのプレゼンのお疲れ会をしようって、須藤さんが言ってたじゃない!」
「ああ……そうだったな。うん、行くよ」
ぽかんと固まる俺を見て、花音が覗き込むように顔を近づけてくる。
「? なんか元気ない? 飲み会で話聞いてあげるから〜! さ、いこいこ! 今夜は飲むぞ〜!」
智哉との冷え切った関係のことで、最近はずっと心ここにあらずの状態が続いていたせいで、すっかり予定を忘れていた。俺は胸のざわつきを押し殺しながら、急いでポケットからスマホを取り出し、智哉へメッセージを送る。
『今日、会社の飲み会だから遅くなる』
送信ボタンを押し、画面を凝視する。数分後、ぽつんと返ってきた返信はあまりにも短かった。
『いいよ、俺も飲みに行くから』
胸の奥が冷たく冷や汗をかく。
(え……? 誰と……? また、あの篠山と……?)
すぐに指を動かして問い詰めたい衝動に駆られる。けれど、訊けなかった。
もし「誰と?」と問い詰めれば、智哉からも間違いなく「お前は誰と飲んでいるんだ」と聞き返される。そうなれば、今夜の席に花音がいることを隠し通せなくなるかもしれない。余計な疑念を抱かせて、これ以上智哉との仲が壊れてしまうことだけは、どうしても耐えられなかった。
『わかった』
吐き気すら覚える不快感を喉の奥に押し込み、俺はそれだけを打ち込んで画面を伏せた。
その夜のことで、まともな記憶が残っているのは飲み会が始まって一時間ほどの間だけだった。
(智哉も今頃……あの男と酒を飲んでいるのかもしれない)
一度頭に浮かんだ妄想は毒のように全身へ回り、俺はそれを思考から追いやるためだけに、逃げるように、浴びるように酒を煽った。
一次会が終わる頃には、自分でも分かるほどデロデロに酔い潰れ、立ち上がることすらままならなかった。頭を締め付ける激しい痛みに加え、胃の奥から吐き気が押し寄せてきて気分は最悪だった。
最後の一本締めの挨拶が済んでも、同僚たちはそれぞれ立ち話に夢中で店を出る気配がない。耐えきれなくなった俺は、皆がゾロゾロと出てくる前に一人で店を抜け出し、路上にあった小さな段差へ力なく腰掛けた。
ポケットからタバコを取り出し、口にくわえる。
ポケットから取り出したライターを擦るが、視界がぐにゃりと歪んで手元がおぼつかない。カチ、カチと小さな金属音が虚しく響き、ゆらゆら揺れる小さな火種が、くわえたタバコの先端になかなか届かなかった。
どのくらいそうしていただろうか……。
「危ないよ……っ!!」
不意に頭上から悲鳴のような声が上がり、手首を力任せに掴まれた。途端にライターの火が消える。
焦点の合わない目でぼんやりと見上げると、そこには泣き出しそうなほど心配そうな顔をした花音が立っていた。
「こんなことしてたら手火傷しちゃうってば……! 落ち着いてよ、もうみんな二次会のカラオケに行っちゃったよ……?」
(……ハハ、火が絡む時は、いつもこいつがいるな)
あの火事の日のことや、失恋して泣いていた頃の記憶が、濁った脳裏を掠めていく。
花音は俺の隣にそっとしゃがみ込み、隣に腰掛けた。俺はうつろな視線のまま、口にくわえたままのタバコを彼女の方へと向けた。
「……火、つけて」
掠れた声で呟くと、花音は困ったように眉を下げた。
夜の路上。時折通り過ぎる車のヘッドライトが、気まぐれに花音の横顔を真っ白に照らし出していく。車が走り去れば、再び街灯の届かない暗闇が押し寄せ、彼女の表情を薄暗い影の中へと飲み込んでいく。
花音は小さく溜息をつくと、渋々といった様子で俺の手からライターを受け取った。
カチッと火を点け、夜風で消えないように小さな手で包み込むように囲ってくれる。俺はその火種に向けて、くわえたタバコをそっと近づけた。花音も火を逃がさないよう、ぐっと俺の方へ顔を寄せてくる。
その瞬間――ふわりと、花のような甘い香りが鼻腔をくすぐった。
(……これだな。智哉が言っていた、俺に染みついていたっていう匂いは)
タバコの先端にパッと赤い火が点った、その瞬間だった。不意に、花音と視線が重なり合った。
俺は右手で口からタバコをむしり取ると、そのまま左手を伸ばし、目の前にある花音の頭に手を回し、ぐっと自分の方へと引き寄せた。
「え……海斗く――」
彼女の驚く声が途絶えるより早く、俺は吸い寄せられるようにその唇を塞いでいた。




