苦い朝
背を向けたまま静かに息を吐く智哉の横で、ゆっくりとベッドに身体を沈ませた。
だが、目を閉じると暗闇の中でより一層、鼻腔を突いてくる。自分のではない不快なタバコと、鼻を刺す粗悪なアルコールの混ざった匂い。
智哉に背を向けてそのまま眠ろうと試みたが、胸を締め付ける嫌な圧迫感に耐えきれず、海斗は静かにベッドを抜け出した。リビングのソファへと移動し、暗闇の中に一人佇む。
「なんなんだよ……っ」
胸をかきむしりたいほどの衝動と激しいモヤモヤに駆られ、吸い寄せられるようにベランダへと向かった。
サッシを静かに開け、冷たい夜風に当たりながらタバコに火をつける。紫煙が夜の闇に溶け込み、灰皿へ静かに灰を落とし込む。
(……俺がここで吸う意味って、もうあるのかな)
あんなに全身から他人のタバコの匂いをさせて帰ってきた智哉。
それでも、長年の習慣と智哉への無意識の配慮から、部屋の中で吸う気にはどうしてもなれなかった。
◇
翌日の昼過ぎ。太陽がすっかり高く昇った頃、頭を片手で押さえながら智哉が寝室から起きてきた。
「んー……ごめーん……昨日、俺めちゃくちゃ飲みすぎてたみたいで……すっごい頭痛いんだけど……」
智哉は眉を下げて顔を顰めながら、スマホの画面をのぞき込む。
「今、篠山ってやつからメッセージ来ててさ〜。『山中先輩、かなり飲んでましたよ!』だって。あはは、ほんと最悪だー」
そう言って、智哉は何の隠しだてもなくカラッと明るく笑ってみせた。
その悪びれない笑顔を、どこか冷めた目で見つめ返した。
「おはよう。……とりあえず、先にシャワー浴びたら? 昨日、汗かいてるのにそのまま寝てたからさ」
「あ、うん。そうだね、そうする……」
智哉が洗面所へ向かう後ろ姿をじっと見送る。
(早く綺麗な身体に戻ってほしい。智哉に染みついたあのタバコの匂いも、アルコールの匂いも、一刻も早く全部洗い流してほしい……)
シーツも今日中に全部洗わなきゃだめだ。寝室には、まだあの見知らぬ男の気配を含んだ匂いが残っているのだろうか。
――いや、待てよ。
篠山とのメッセージのやり取りを隠そうともせず、目の前で普通に見せて笑っているということは……本当に二人には何の関係もなくて、ただの会社の付き合いだったということだろうか?
頭の中で「やましいことはないはずだ」という安堵と、「それでもあの男は智哉に執着しているんじゃないか」という黒い疑惑が、絶え間なく渦を巻き続けていた。
シャワーを終え、濡れた髪をタオルで拭きながら智哉がリビングへ戻ってきた。
洗面所から漂う石鹸の香りが、昨夜の嫌な気配を上書きしていく。智哉はリビングの椅子に深く腰掛け、スマホを眺めながら、俺がテーブルに置いておいた淹れたてのコーヒーに口をつけた。
俺はその反対側にそっと腰を下ろし、自分のマグカップを両手で包み込む。立ち上る香ばしい苦い香りを鼻腔に吸い込み、無理やり乱れた心を落ち着かせようとした。
「何?」
不意に、智哉の視線がパッとこちらに向けられた。その唇には、いつもの屈託のない笑顔が浮かんでいる。
「なんかさ、さっきからずっと俺のこと見てない?」
……なんでもない。
そう言って流せばいい。頭では分かっていたのに、抑えきれなかった不快感がつい言葉となって口をついて出てしまった。
「昨日……お前、タバコの匂いかなりきつかったよ」
言ってから、自分で自分に嘘をついていることに気づく。
確かにタバコの匂いはしていた。だが、「かなりきつい」と言うほどではなかったのだ。普段からタバコを吸っている俺が、そこまで敏感に反応するほどの強烈さではない。
ただ――俺以外の、見知らぬ男のタバコの匂いが智哉に染みついているのが、たまらなく嫌だっただけだ。自分の独占欲を隠すために、俺はわざと大袈裟に棘を立てていた。
「え? 本当に? 全然気づかなかった……ごめんね、海斗はいつもベランダで吸ったりして気を使ってくれてるのに」
まっすぐに俺を見て、心底申し訳なさそうに謝る智哉。
その素直な反応に、嘘をついて言いがかりをつけた自分が途端に惨めになり、申し訳なさが胸を突いた。
……だが、俺が口を開きかけたその瞬間だった。
「――海斗もだったよ?」
「……え?」
智哉の口から落とされた一言に、一瞬で背筋が凍りついた。
思考が停止する。
何のことだ? 俺が、何だったというんだ?
「ほら、こないだの海斗のプレゼンの日」
智哉はテーブル越しにぐいっと身を乗り出してくると、息が触れ合うほどの距離に顔を近づけてきた。
動揺して固まる俺の反応をどこか楽しむように、智哉は嗜虐的な光を宿した目で、ゆっくりと目を細めた。
「女物の香水の匂い、すごくきつかったよ?」




