変化
次の日。花音の手には包帯もガーゼも巻かれておらず、俺は心底ホッとした。もう一度謝りに行こうかと思ったけれど、あまりしつこいのも嫌がられるかもしれないとうじうじ悩んでしまう。
すると、離れた席にいた花音とふと目が合った。
俺の葛藤が伝わったのか、彼女は昨日赤くなっていた手のひらを、笑顔でひらひらと見せてくれた。その無邪気な笑顔につられて、俺の頬も自然とゆるんだ。
それ以来、俺は花音のことが気になり始めた。
教室にいると、ついつい目で彼女を追ってしまう。けれど、あの日のように目が合うことは滅多になかった。
花音は、サラサラとした触り心地のものが好きなようだった。授業中、ふとした瞬間に窓際のカーテンへ手を伸ばし、愛おしそうに触れている。その癖は、中学校に進学してからも変わらなかった。
中学に入っても、花音は窓際の席になると必ずカーテンに触れ、どこか満足そうな笑みを浮かべていた。
日差しに透ける彼女の横顔と、その穏やかな笑顔を見るたび、俺の胸はぎゅっと押し潰されるような感覚に襲われた。
中学生になり、花音は目が悪くなったらしく授業中に眼鏡をかけるようになった。その眼鏡姿を見られるのが恥ずかしいらしく、授業中も見えない時だけ。掛けてもすぐ外していた。
小学校を卒業するまでは花音より低かった俺の背も、中学に入ってからはぐんぐんと伸びていった。
――だけど。俺はその頃から、周りの友達との間に、目に見えない違和感を覚え始めていた。
その頃になると、周りの男友達は急激に女子に対して過敏になり始めていたのだ。
女の子の体に興味津々で、「胸を触ってみたい」だの「エッチな画像を見た」だのといった話題で持ちきりになる。だが俺は、どうしても彼らの熱量に同調できず、密かに困惑していた。
ある日、親友の黒木が俺の家に遊びに来た時のことだ。
「海斗、お前にいいもの見せてやるよ」
ニヤニヤしながらそう言って、黒木がスマホの画面を突き出してきた。画面に映っていたのは、髪の長い女性の裸の写真。大きな胸が露わになった画像だった。
それを見た瞬間、俺の頭に真っ浮かんだのは――
(……母さんみたいだな)
という、あまりにも身も蓋もない感想だった。
しかもあろうことか、それがボソッと口から漏れ出てしまう。
「あ……っ!」
しまった、と血の気が引いた。
中学生男子の会話で「母さんみたい」なんて言ったら、絶対に変な奴と思われるか、気持ち悪がられるに決まっている。必死で言い訳を考えて焦りまくっていた俺に、黒木は拍子抜けするような間抜けた声を上げた。
「あー……あぁ〜、なるほどな! お前の母ちゃんスタイルいいもんな~!」
――黒木が、いい意味でちょっとズレている奴で本当に助かった。
みんな普通は、こういうエッチな画像を見て興奮するらしい。だが、俺は正直なところ、何の感情も湧いてこなかった。
……だからといって、みんながみんな母親の身体に興味があるわけでもない。
「同じ女の裸でも、自分の母親のは気持ち悪いだけだ」
と、誰もが口を揃えて言う。
不思議だった。
――俺は、普通じゃないのかもしれない。
そんな漠然とした孤立感を抱いていた、中学2年の秋のことだった。
黒木が「一つ下の後輩」だという男子生徒を俺の家に連れてきた。
「海斗、こいつ幼馴染の『悠真』。暇そうにしてたから連れてきた」
「初めまして、海斗先輩! 黒木先輩からお話は聞いてます!」
玄関で靴を脱ぎ、ふと顔を上げたそいつを見て、俺は思わず息をのんだ。
自分より頭ひとつ分小さな体躯に、少し大きめの制服。そして何より、挨拶の後に目を細めてにっこり笑ったその笑顔が、目眩がするほど可愛かったのだ。
雷に打たれたような衝撃だった。男相手にこんなことを思うのは変かもしれないが、俺は文字通り、一瞬で彼に一目惚れをしてしまった。
部屋で3人で過ごす間も、俺はもう生きた心地がしなかった。
黒木が大雑把にゲームで騒いでいる横で、悠真は「海斗先輩、お茶淹れましょうか?」「ここ、僕が代わりましょうか?」と、驚くほど細やかに俺を気遣ってくれる。
その通る声で話しかけられるたび、顔が熱くなり、鼓動が痛いほど跳ね上がった。不意に手が触れたときは、心臓が口から飛び出すんじゃないかと思った。
耳の奥に自分の鼓動が聞こえてきて、触れなくても心拍数が上がっているのが伝わってきた。
花音を見つめている時の「手を伸ばしても届かない切なさ」とは違う、もっとダイレクトで、物理的に触れ合いたいと願ってしまうような甘い感情。
……ああ、そうか。俺は――。
悠真の横顔を見つめながら、俺は自分の中の決定的な答えにたどり着いた。
周りの男子たちが女子の体に夢中になる中で、なぜ自分だけが冷めていたのか。その理由が、すべてのパズルが嵌まるように解けていく。
――俺は、男が好きなんだ。
恐怖よりも、目の前の悠真を愛おしく思う気持ちが勝っていた。
自分が「ゲイ」だと自覚した瞬間だった。
それから数回遊んで、ますます彼への気持ちが抑えきれなくなっていたある日。俺は意を決して、ゲームの合間に努めて軽いトーンを装って尋ねてみた。
「なぁ、悠真って今、好きな奴とかいるの?」
コントローラーを握る手に少しだけ力を込めながら、俺は努めて軽いトーンで尋ねてみた。
心臓が破裂しそうなくらい脈打っているのを悟られないよう、目線はテレビ画面に向けたままにする。
「え? 好きな人ですか? ……いないですよ」
悠真は画面のキャラクターを動かしながら、あっけらかんと答えた。
「そっか」と返しつつ、俺の胸の奥にはどこか小さな期待と、抑えきれない欲が出始めていた。
もしかしたら……。
そんな淡い期待に背中を押され、俺はさらに踏み込んだ質問を重ねてしまった。
「なぁ、悠真……世の中にはさ、男を好きになる男もいるらしいよ。……どう思う?」
ただの雑談を装いながら、心臓が破裂しそうなくらい脈打っていた。
だが、返ってきたのは、想像もしなかった言葉だった。
「えっ……? うーん……男同士で付き合うとかですか? 正直、そんなの気持ち悪いよね」
何の悪気もない、無邪気でストレートな拒絶。悠真はゲーム画面を見つめたまま、へらりと笑っていた。
「……あはは、そうだよね。変だよな」
俺は必死で作り笑いを浮かべ、そう答えるのが精一杯だった。
胸の奥で、何かが静かに途切れる音がした。
生まれたばかりの初恋と、ようやく見つけた自分自身の居場所。その両方に、俺は自ら固い蓋をした。




