隠された想い
家に帰り、智哉と顔を合わせると、彼は「お疲れ」といつも通りの柔らかい声で迎えてくれた。
……けれど、どこか違う。
微笑んでいるはずの瞳の奥が、氷のように冷たく静まり返っている気がした。
気まずさを押し殺しながら二人で夕食を摂り、シャワーを浴びる。湯船で温まったはずの身体は、家の中に漂う目に見えない緊張感のせいで一向に温まらなかった。
髪を乾かし、ベッドルームへ向かう。
間接照明が仄暗く照らす部屋の中、智哉は既にベッドに入り、俺に背を向けるように横たわっていた。
俺が掛け布団に手をかけ、潜り込もうとしたその瞬間、智哉が振り返りもせず、ぽつりと呟くように言った。
「……あの女、誰?」
「っ……」
背筋に冷たい氷を直接押し当てられたような衝撃。
思わず息が止まり、掛け布団を半分めくった姿勢のまま、身体がピタッと凍りついた。心臓が嫌な音を立てて打ち始める。
「……さ、最近、異動してきた……同僚の、井上さんだよ」
必死に声を絞り出す。喉がカラカラに乾いて、うまく言葉が紡げない。
「へぇ……」
智哉の声には感情が一切乗っていなかった。掛け布団越しに見える彼の肩が、微かに揺れる。
「……高校の時の、同級生だったんだよ」
「知らなかったな。なんか、すごく仲良さそうに見えたけど」
「そ、そう? 普通の同僚と、変わらないけどね……」
苦しい言い訳を口にするたび、部屋の空気がどんどん重く冷たく沈んでいくのが分かった。
「へぇ……そうなんだ……」
静かな呟き。しばし静寂が流れる。時計の秒針の進む音がやけに耳につく。
背中を向けたまま動かない彼の姿に、胸を激しく鷲掴みされたような恐怖が襲いかかる。
「……智哉……?」
恐る恐る伸ばした俺の手は、彼に触れる直前で震えて止まっていた。
「……中学の頃に一度、女の子と付き合ったって言ってたのって、あの子?」
暗闇の中に落ちた智哉の問いに、心臓が跳ね上がる。
「い、いや! 違う子だよ! あの子とは、何も……っ」
焦って否定する自分の声が嫌に上擦っている。
嘘はついていない。本当に、花音とは付き合っていなかったし、手すら繋いだことなんてなかったのだから。
(嘘は……言ってない。絶対に嘘じゃない)
心の中で必死にそう自分に言い聞かせた瞬間、脳裏に嫌な記憶がハッと蘇った。
智哉と付き合う前、何気ない会話の中で「高校の時、気になってた女の子がいた」と話してしまったことだ。
あの時の会話を智哉が思い出したらどうしよう。もし「あの気になってた子が彼女なのか」と聞かれたら、俺は嘘をつかずに否定できるだろうか――。
底なし沼のような不安が、胸の奥からどんどん湧き上がってくる。冷や汗が背中を伝った。
だが、智哉はそれ以上、それに対して聞くことはなかった。
ただ、ゆっくりと全身でこちらに向き直ると、智哉は俺の胸の中に勢いよく顔を埋めてきた。
「……智哉」
不意に伝わってきた彼の体温と、少しだけ震える息遣い。
智哉はただ黙って、俺のパジャマの胸元をぎゅっと力任せに掴んでいる。問い詰めるのをやめ、不安を押し殺して俺の腕の中に縋りついてきたのだと分かった。
俺は言葉を失ったまま、差し出されたその体をただただ強く抱きしめ返した。
智哉の柔らかい髪に頬を寄せ、彼の香りを胸いっぱいに吸い込む。
こうして強く抱きしめることで、自分の中に渦巻く汚い罪悪感が少しでも薄まってくれることを、俺は心のどこかで浅ましく祈っていた。




