新作プロジェクト
「本日より、我が社のメインブランドとなる新作フレグランスのプロジェクトを本格始動させます。開発リーダーは、一ノ瀬くん」
須藤さんの、通りやすいハッキリとした声が会議室に響き渡り、部署内の社員たちから大きな拍手が湧き起こった。前回の爆発的ヒットによって、自分への社内の期待感が頂点に達しているのがひしひしと伝わってきた。
「一ノ瀬くん、頼んだわよ。前作を超えるヒットを期待してるわ」
「……はい! 精一杯頑張ります!」
周囲の期待に満ちた視線に応えながら力強く返事をしたものの、席に戻り一人になると、冷たい汗が背中を伝った。
そして、ラボに篭り、無数の香料の試薬瓶と向き合う日々が静かに始まった。
トップノートには甘やかな果実を、ミドルには華やかなフローラルを……幾重にも組み合わせを試すが、どれを調合しても「どこかで嗅いだことのあるような、ありふれた香り」にしかならない。
「ダメだ……。前作の『あの熟成された奇跡』を超えられない……」
他の社員が帰宅し、静まり返ったフロア。ラボの蛍光灯がむき出しの焦りを白く照らし出す。思わず頭を抱え、突っ伏した。焦燥感で心臓が嫌な鐘を打つ。静かになればなるほど焦りに拍車がかかる。
「海斗くん、頑張りすぎじゃない? はい、ちょっと休憩」
すっと鼻先をくすぐったのは、柑橘系の爽やかなハーブティーの香りだった。
温かいマグカップを差し出してきたのは、花音だった。彼女は俺の隣に椅子を引き寄せ、優しく目を細める。
「……花音さん……」
「みんなの期待が重いのは分かるよ。でもね、海斗くんだから選ばれたって思うの。いつも言ってるじゃない? 目に見えない香りで人が幸せになれるってすごいことだって。その想いが……人を幸せにしたいって強い気持ちが、産み出す原動力になってるんだと思ったの。
焦らなくて大丈夫。私、ずっと隣でサポートするから」
その柔らかく温かい声に、張り詰めていた肩の力がすっと抜けていく。
智哉以外の誰かに弱みを見せ、受け止められた感覚。彼女の存在が、窒息しそうだった胸に小さな酸素を送り込んでくれたように思えた。
新作開発に没頭するにつれ、帰宅は連日深夜におよんだ。
疲弊しきって家に帰り、心配して起きて待っている智哉に対して、余裕のなさから素っ気ない態度をとってしまうことも増えていた。
「海斗、少し休んだ方がいいよ。顔色悪いよ」
「分かってるよ……智哉はいいよな、心配するだけで済むんだから」
言った瞬間、後悔が押し寄せた。智哉は傷ついたように瞳を揺らしたが、責めることなく静かに「……ごめんね、無理しないで」と微笑むだけだった。
そんなぎこちない空気のまま迎えた、他社との大型合同カンファレンス当日。
今回の新作プロジェクトは、大手Web制作会社およびマーケティング企業との共同コンペ形式で進められることになっていた。
重厚な木材で固められたドアを開け、プレゼン会場となる大会議室に一歩足を踏み入れた瞬間、思わず息を飲んだ。
円卓の向こう側――競合・協力企業の席に座っていたのは、自分がかつて辞めた前職の智哉と高柳だった。一気に喉の奥がカラカラに乾く。
一緒に働いていた時は、共に支え合った気心の知れた仲間だった。だが、今は他社の人間として目の前に立っている。
智哉の表情は、家で見る柔らかいそれとは全く違い、まるで別人のように温もりを捨てた表情をしている。
それを見て、恐怖に近い緊張が湧き出てきた。
「――定刻となりましたので、只今より合同カンファレンスを開始いたします」
智哉の第一声は、家で聴く甘く柔らかいものとは完全に異なっていた。低く、響き渡る、威厳に満ちた声。
鋭い眼光で資料を精査し、容赦ない指摘で他社の担当者を平然と論破していく。家で俺の甘えを受け止め、愛おしそうに微笑んでいたあの智哉はどこにもいない。そこには、業界でも一目置かれる凄腕のプロフェッショナルとしての「山中智哉」がいた。
(これが……俺の知らない、今の……俺が会社を去った後の仕事場での智哉……?)
見たこともない恋人の顔に、俺の胸は激しく動揺し、足がすくみそうになった。
その時、隣にいた花音がそっとジャケットの袖を引っ張った。彼女は相手企業の代表が智哉であることも、過去の確執も何も知らない。ただ、怯える俺に気付き、励まそうと懸命に囁いてきた。
「大丈夫だよ、海斗くん。私たちが作った香りは絶対に一番だから。私がずっとついてるからね!」
「……以上のコンセプトに基づき、私たちはこの香りを提案いたします」
壇上に立ち、喉の乾きを押し殺しながら声を張り上げた。
智哉たちの射抜くような視線を受け止めながら、花音とともに夜遅くまで作り上げた香水のストーリーを全身全霊でぶつけた。
プレゼンが終わると、静寂の後に大きな拍手が沸き起こった。智哉もまた、静かに、しかし力強く拍手を送っていた。
無事にプレゼンを終え、緊張の糸が切れた海斗と花音は会議室を出て、静かな廊下を歩いていた。
「海斗くん! すごかったよ! 私、感動しちゃった!」
「ありがと……花音さんがずっと支えてくれたおかげだよ」
胸を撫でおろしたその時、背後からカツン、カツンと整然とした靴音が近づいてきた。
振り返ると、智哉や高柳を筆頭に他の社員と共に、威風堂々と歩いてくる智哉の姿があった。
すれ違いざま、智哉は歩みを一切緩めることなく、周囲に聞こえないギリギリの低い声で、海斗の耳元だけに言葉を落とした。
「……お疲れ様。すごく良かったよ、海斗」
その一言のトーン、自分の名を呼ぶ深みのある響きには、先ほどまでの冷徹な仮面の裏に隠された、いつもの深く甘い愛おしさが確かに込められていた。
思わず足を止めてしまう。
だが、智哉は歩調を緩めることなく、そして振り返ることもなく去っていく。
「……智哉」
安堵と愛おしさが混ざり合った呟き。
しかし、その声は隣にいた花音の耳にハッキリと届いていた。
歩み去っていく智哉の完璧な後姿。そして、今まで会社では見せたことのないような、切なく愛おしそうな瞳でその背中を見つめてしまう。
「智哉……? え、海斗くん、今の人……」
花音の顔から笑みがスッと消え、血の気が引いていく。
海斗が「ルームシェアをしている同居人」と呼び、そして自分が決して入り込むことのできない深い絆で結ばれた相手――それが、今目の前を通り過ぎたあの大手企業の男なのだと、花音はすべてを察した瞬間だった。




