近づく時
それから数日は、特に必要以上に関わることもなく過ぎていった。
ある日の20時過ぎ。仕事を終えて帰ろうとオフィスを見渡すと、静まり返ったフロアの隅で、花音が一人パソコンの画面に向かって頭を抱えているのが目に入った。
素通りすればいい。分かっているのに、俺はつい足を止めて声をかけてしまっていた。
「どうしたの? 何か困ってる?」
「あ、海斗くん……! なかなか業務が覚えきれなくて、今日教えてもらった分だけでも復習しておこうと思って」
「そっか。……もし分からないところがあるなら、俺が教えようか?」
「えっ! いいの!? みんなもう帰っちゃって、聞きそびれたままになってたところがあって……助かる!」
ぱあっと顔を輝かせる花音。
一人で残って必死に食らいつこうとする熱心な姿を見ていたら、昔と変わらない健気さに、思わず手を差し伸べたくなってしまった。
(同僚として困っている人を助けるだけだ。……別に、悪いことじゃないよな)
自分の心に言い訳をするように、俺は彼女のデスクの横に椅子を引き寄せた。
ふと、資料を押さえる俺の左手の薬指と、キーボードの上に置かれた彼女の左手の薬指が視界に入る。
静かに光を反射する、二つの指輪。
(そうだ。もう俺たちには、それぞれ大切な人がいる。この指輪が重なることなんて、絶対にないんだから)
自分に暗示をかけるように小さく息を吐いた俺に、花音が身を乗り出してきた。
「海斗くん、ここ! この取引先のデータの入力方法がよく分からなくて……」
「え? ああ、そこはね――」
それから二人で画面を覗き込み、丁寧に説明を重ねること一時間。
「あー、ほんっとうにありがとう!! 海斗くんがいてくれて助かった〜!」
花音は大きく背伸びをして、心底嬉しそうに笑った。俺は壁の時計に目をやりながら、ふと疑問を口にする。
「それより、いいの? 早く帰らなくて。旦那さんが待ってるんじゃない?」
「あ、今日は旦那さん飲み会だって言ってたの。だからちょうどいいやと思って残ってたんだ」
「そうなんだ……」
ほっと胸を撫でおろしかけたその時、花音が「それよりさ!」と悪戯っぽく微笑んだ。
「こないだ受付で久しぶりに会った時、全然気づいてくれなくてショックだったんだからね〜!」
「いや、だって……ほんとに綺麗になってたからさ。分からなかったんだよ」
口から出たのは、お世辞でも何でもない本音だった。
高校時代から一層洗練され、綺麗になった彼女。影でたくさんの努力をしてきたのだろうということが、その佇まいから伝わってきていた。
デスクの周りを片付け、帰り支度をしながら、ふと思い出す。そういえば今日は智哉が出張で不在だった。誰もいない家に一人で帰るのも、どこか味気ない。
(……じゃあ、飯でも一緒に行くか?)
「花音さん……」
そう声をかけようと口を開きかけた、まさにその瞬間だった。
静かなフロアに、花音のスマホが陽気な着信音を響かせた。
画面を見た花音の顔が、ぱっと花が咲いたように輝く。そのまま慌しくスマホを耳に当てた。
「あ、優真? ……え? もう飲み会終わったの? そうなんだ! あたしも今仕事終わったから、ちょうど帰るところ〜! 途中で合流? うん、わかった! じゃあ後でね!」
通話を切る花音の顔には、さっきまで仕事を教えていた時には一度も見せなかった、無防備で甘やかな笑みが浮かんでいた。
そのあまりにも可愛い表情に、ドクンと胸が跳ね上がる。――だが次の瞬間、それ以上に黒く重い感情が胸の奥で渦を巻いた。
(なんだよ、それ……。俺以外の男には、そんな顔して喋るのか……?)
自分でも驚くほどの猛烈なモヤモヤと嫉妬が、胸を苦しく締め付ける。
「あ、ごめん海斗くん! なんだっけ?」
スマホをバッグに仕舞いながら、花音が無邪気に振り返る。俺は固まりそうになる表情を必死で取り繕い、喉を鳴らした。
「……ううん、なんでもない。旦那さんもう終わったって?」
「うん、途中の駅で落ち合って一緒に帰るの!」
「ねぇ……今聞こえたんだけど、ユウマって……学生の時の、あの悠真か?」
あの頃、俺も花音も好きだったサッカー部の悠真。そして花音が告白し、フラれてボロボロと涙を流していた、あの悠真だ。俺の問いかけに、花音はくすっと笑って首を振った。
「ううん! 違うよ〜。そういえば昔、海斗くんに愚痴聞いてもらったっけね。同じ『ユウマ』だけど、全然別の人だよ」
「……そっか。じゃあ、気をつけて帰ってね」
「うん! 今日は本当にありがとう、海斗くん! またね!」
手を振って軽やかな足取りで去っていく彼女の後ろ姿を、俺はただ立ち尽くして見送るしかなかった。
高校時代、花音を傷つけた初恋の相手「悠真」。
彼女は同じ名前の男と出会い、結婚することで、あの頃叶わなかった初恋を自分の中で綺麗に成就させたんじゃないだろうか。
誰もいない暗いオフィスに残された俺は、左手の指輪を力なく握りしめた。
俺だけが、あの頃の過去とトラウマから抜け出せていないような気がして、激しい敗北感と孤独が押し寄せていた。




