二人の距離
深夜、ふと目を覚ました。
オレンジ色の間接照明だけがぼんやりと灯る寝室。隣を見ると、智哉が穏やかな寝息を立てていた。
その無防備で愛おしい寝顔を見つめていると、数時間前にあのロビーで花音に会ったことすら、たちの悪い夢だったのではないかと思えてくる。
そっと手を伸ばし、枕元に散らばる智哉の柔らかい茶色い髪を撫でた。指先に伝わる確かな体温に安堵しようとするのに、頭の奥でどうしても、無邪気に笑う花音の顔がフラッシュバックして消えない。
今、俺の目に映っているのは間違いなく智哉なのに。智哉だけを見ていたいのに。
どうしようもない罪悪感と息苦しさに耐えきれず、俺は音を立てないようにベッドを抜け出した。リビングを抜け、タバコを吸うためにベランダの窓に手をかける。
スッと窓を開けた瞬間、びゅうっと冷たい夜風が容赦なく吹き込んできた。
薄着の身体をぶるりと震わせながら外に出ると、冷え切ったベランダの柵に両腕を預けた。ポケットからタバコを取り出し、カチッとライターで火をつける。智哉はタバコの匂いが嫌いだから、俺が吸う時は季節を問わず、いつもこうして外に出ることにしている。
深く冷えきった空気を吸い込み、紫煙を夜の闇に向かって細く吐き出した。冷たい風に流され、煙はあっという間に形を失って消えていく。
また、会うだろうか……。
いや。会うだろうな……。
同じビルの受付に彼女がいる以上、出勤するたびに、退勤するたびに、絶対に顔を合わせることになる。避けようがない現実が、重くのしかかってくる。
せっかく手に入れたこの平穏で幸せな日々に、決定的なひびが入ってしまうのではないか。
そんな根拠のない恐怖と予感が、タバコの苦味と一緒にじわじわと胸の奥を侵食していった。
翌日、社食へ向かうと、大勢の社員で賑わうフロアの角で、花音が一人でポツンと席に座っているのが目に入った。
視界に入った瞬間、どっと心拍数が跳ね上がるのを感じる。
俺はあえて彼女に気づかないフリを決め込み、できるだけ離れた遠くの席へと腰を下ろした。
箸を進めても、何を食べているのかまったく味がしなかった。
◇
それから、そうこうしているうちに数ヶ月が過ぎた。社食やロビーで花音を見かけることは時々あった。けれど、回数を重ねるうちに初日のような激しい動悸はおさまり、胸のざわつきも次第に小さくなっていった。
廊下ですれ違う時も、「お疲れ様です」と軽く大人な笑顔を交わすだけ。
(大丈夫。俺はちゃんとうまくやれてる)
互いに踏み込まず、ただの「同じビルの社員」として過ごす。こうしていれば何の問題もなかったのだ。
……だが。
そんな俺の淡い安堵を打ち砕く、思いもよらない事態が起こった。
ある朝、須藤さんが突然俺のデスクへやってきた。その隣に、見慣れた人物を連れて。
「一ノ瀬くん」
名前を呼ばれて振り返ると、須藤さんの横で、少し緊張した面持ちの花音が縮こまるように立っていた。
嫌な予感に背筋が凍りつきながらも、俺は慌てて席を立ち上がる。
「彼女、井上さん。人事異動で今日からうちの部署のサポートに入ってもらうことになったから。一ノ瀬くん、色々教えてあげてね」
「え……!?」
頭の中が一瞬で真っ白になった。
なんで……!? 受付だったはずの彼女が、どうして俺のいる商品企画部に――!?
パニックになりかける頭を必死で回転させる。そういえば以前、会社の噂で聞いたことがあった。『受付のスタッフは若い女性しか置かない』という、この会社の時代遅れで徹底された裏の方針。年齢制限の波に飲まれ、彼女は受付を追い出される形でこの部署に配属されたのだろう。
「……そ、そうなんですね。よろしくお願いします、井上さん」
喉の奥まで込み上げた激しい動揺を必死で押し殺し、俺は引きつった笑顔を張り付けた。
「よろしくお願いします……っ」
須藤さんの横で、花音は縮こまるように深く頭を下げた。
消え入りそうな弱々しい声。自分の意にそぐわない異動だったのだろう、彼女の表情には強い緊張と戸惑いが滲み出ていた。
よりによって、なんで俺の部署なんだ。
毎日、すぐ目と鼻の先で顔を合わせなければいけない距離。
「大丈夫? 一ノ瀬くん、顔色が悪いわよ」
「あ、いえ! なんでもないです。……大丈夫です」
須藤さんの心配そうな声に慌てて首を振る。
せっかく智哉との平穏を取り戻し、「うまくやれている」と自分に言い聞かせていた日常が、逃げ場のない現実によって再び足元から崩れ去っていく。冷たくなった自分の指先を、俺はデスクの下で固く握りしめることしかできなかった。




