再会
足早に照明が落とされ、すっかり薄暗くなったロビーを歩いていると、後ろから通りかかった女性の声が聞こえた。
「一ノ瀬……海斗くんだよね?」
思わず足を止め、振り返る。
先ほどの受付の女性だということはすぐに分かった。
ええと、名前は何だっけ……。井上、だったか。いや、どうして呼び止められた? 入館手続きで何か不備でもあっただろうか。
困惑する俺を見て、彼女は「ふふっ」と可愛らしく笑うと、距離を詰めて近づいてきた。
私服に着替え、名札も外しているため、名前の確証が持てないまま見つめ返す。彼女は俺をまっすぐに見上げ、懐かしいような笑みを浮かべた。
「私だよ。今井花音!」
「え……ええっ!? 花音……さん!?」
心臓を直接素手で叩かれたような強烈な衝撃に、一瞬、めまいすら覚えた。
頭の中の景色がぐにゃりと歪む。
「うん、そうだよ! ひどいな、気づいてくれないなんて! ……あ、でも結婚したからもう『今井』じゃないんだけどね」
無邪気に笑いながら、彼女は左手の薬指をこちらにかざしてみせた。そこには、シンプルで上品な結婚指輪がキラリと光っている。
「海斗くんも……そうでしょ?」
彼女の視線が落とされたのは、俺の左手。智哉とお揃いで嵌めている、あのペアリングだ。
「あ、ああ……。あ、ごめん! 俺、急いで帰らなきゃいけなくて……!」
引きつった顔で、必死に喉から音を絞り出す。パニックで崩れそうになる自分を留めるだけで精一杯だった。
「あ、そうだよね! ごめんね、急いでるところ引き止めちゃって。今日は初出勤で疲れたでしょ? 家で奥さんに癒やしてもらってね〜! じゃあ、また!」
「うん……じゃあ、また……」
花音は軽く手を振ると、軽やかな足取りで去っていった。
胸が激しく鷲掴みにされるような、嫌な苦しみが襲いかかる。
なんなんだよ、これ……。
俺には……今の俺には、智哉という一番の理解者がいる。過去のトラウマに怯えていたあの頃の俺とは違うんだ。
鼓動がこんなに速いのは、全部急いで歩いているせいだ。呼吸が荒いのは、一刻も早く智哉に会いたくて足早になっているからだ。
そうだよな? それ以外に理由なんてあるわけないよな……!?
恐怖にも似た感情に全身を包み込まれながら、俺は赤信号で立ち止まり、ポケットからスマホを取り出した。
(今から帰るって……智哉にメッセージを送ろう)
画面に指を走らせようとした瞬間、自分の右手が激しく震えていることに気づいた。文字のボタンすらまともに押せない。
俺は思わず、智哉とのペアリングが嵌った左手で、震える右手を上から強く押しつけ、力任せに押さえ込んだ。
大丈夫だ。大丈夫だ。
俺は、もう大丈夫なんだから――。
家に着くなり、俺は縋りつくような勢いで雑にドアを開けた。
「あ、おかえり〜。遅かったね。ごはんそこに準備して――」
リビングでは智哉がカーペットに座り、ソファに背をもたれかけながら仕事の書類を眺めていた。いつもの柔らかな笑顔で俺を出迎えてくれる。
その言葉を最後まで言い終わる前に、俺は智哉に向かって倒れ込むようにして、その体に強く抱きついた。
「え? 海斗……? どうしたの? なんかあった?」
不意の衝撃に驚いた智哉が慌てる。俺は何も言えず、ただ彼を失ってしまう恐怖を払いのけるように、ぐっと腕に力を込めて智哉の体を締め付けた。
「……いや。なんも……。急に、寂しくなっただけ……」
首筋に顔をうずめ、掠れた声で嘘をつく。
智哉は手にするはずだった書類をローテーブルにそっと置くと、戸惑いながらも優しく俺の背中に腕を回し、抱き返し返してくれた。トントン、と背中をあやすように叩く彼の手のひらが温かい。
「ははっ。なんかいつもと逆じゃない? 俺だって、初めて海斗のいない職場、めちゃくちゃ寂しかったよ〜。海斗が使ってたデスクに他のやつが座ってんの見るの、地味につらかったんだから」
智哉の冗談めかした声と、体から伝わってくるいつもの香水の匂い。それが、パニックを起こしていた俺の心拍数をゆっくりと落ち着かせていく。
「……好きだよ、智哉」
「なんなの、改まって〜」
智哉はくすっと照れたように笑うと、俺の髪に優しく指を滑らせた。
「俺も好きだよ、海斗」
その言葉と包み込まれるような体温に、俺は喉の奥で小さく息を吐いた。
智哉の腕の中にいる時だけが、恐怖から逃れられる唯一の安全な場所だった。




