新たな道
ある休日、ふと思い立って部屋の棚に置いてあったあの思い出の香水瓶を手にとった。ワークショップで智哉が作り、熟成させていたものだ。
キャップを外し、何気なく試香紙に吹き付けて鼻を近づけた瞬間、俺は目を見張った。
(……え!?)
「これ……!! 智哉、急いでこれ嗅いでみて!」
近くでテレビを見ていた智哉に駆け寄り、興奮気味に試香紙を差し出す。智哉は不思議そうな顔をしながら、息を吸い込んだ。
「海斗……!? これ、こんな匂いじゃなかったのに……!」
「だろ!? 熟成されて角が取れて、信じられないくらい深みが出てる! これなら男性も女性も、性別関係なく使えるし、さりげないから濃い香りが苦手な人にも絶対にウケるよ! ……俺、これを商品化したい!」
身を乗り出して熱弁する俺を見て、智哉は眩しいものを見るように目を細め、嬉しそうに顔をほころばせた。
それからの俺の動きは早かった。社内コンペに企画を持ち込み、粘り強くプレゼンを重ねた結果、見事プロデュース枠を獲得。発売された香水は SNS を中心に爆発的な大ヒットを記録した。
数ヶ月後、同期の高柳から「会わせたい人がいるんだ」と誘われた。奥さんでも紹介されるのかと思って指定のカフェへ向かうと、そこにいたのはサバサバとしたショートカットに洗練されたスーツを纏う女性だった。
「初めまして。須藤です。あの香水、素晴らしい企画力でしたね」
彼女は高柳の大学の先輩であり、ライバル会社でブランドを手掛けられている精鋭だった。須藤さんは真っ直ぐに俺を見つめ、熱意を込めて言葉を口にした。
「新しく立ち上げる新作開発の専門部署で、あなたの感性を思い切り振るってみませんか?」
自分のアイデアを思う存分試せる環境。胸が高鳴った。
だが――転職の意向を伝えると、智哉は反対こそしなかったものの、どこか寂しげな陰を瞳に宿すようになった。智哉にとってその香水は「俺が作った香水のせいで、海斗が遠くへ行ってしまう」という切ない引き金になっていたようだった。
ある夜、キッチンに立つ智哉の背後から、俺は静かに両腕を回して抱きしめた。
「ごめんな……寂しい?」
「……ちょっとね」
「もし智哉が嫌なら、転職はやめる。俺にとって一番大切なのは智哉だから」
首筋に顔をうずめて囁くと、智哉は愛おしそうに俺の腕に触れた。
「ううん。海斗が仕事の話をしてる時のあのキラキラした顔を見たら、止められるわけないよ」
智哉の手の上に自分の左手を重ね合わせる。カツッ、と互いの薬指にはめられたシルバーリング同士が小さな金属音を立てて触れ合った。
「それに……これがあるから、大丈夫」
智哉は振り返り、不安を押し殺すように健気に笑ってみせた。
その愛おしさと切なさに胸が締め付けられ、俺は腕に力を込め、智哉の体を強く強く抱きしめた。
いよいよ、新しい職場での初日を迎えた。
ビルの一階で人事の担当者と合流し、そのまま整然としたオフィスビルの受付へと案内される。
「こちらに、お名前と入館時刻のご記入をお願いします」
言われるがままにペンを取り、芳名帳へ『一ノ瀬 海斗』と名前を書き進めていく。
ふと、目の前に立つ受付の女性から熱い視線を感じ、俺はわずかにペンを止めた。ガラス張りのカウンター越し、彼女は俺の手元と顔をどこか確かめるような瞳で見つめている。
「ご記入ありがとうございます、一ノ瀬様」
名前を書き終えると、彼女はフッと柔らかく微笑んだ。
胸元に留められたゴールドの名札には、『井上』と刻まれている。
(……井上?)
整った顔立ちの綺麗な女性だったが、俺の記憶のどこを掘り返しても心当たりがない。高校や大学の同級生でもなければ、前の会社の取引先でもないはずだ。名前にも顔にも、まったく見覚えがなかった。
首をかしげそうになるのをなんとか抑え、俺は失礼にならないよう軽く会釈を返して、案内されるままエレベーターへと乗り込んだ。
◇
案内された新しい商品企画部では、あの須藤さんが待っていた。
「ようこそ、一ノ瀬さん。今日からよろしくお願いします」
サバサバとした声で迎えてくれた須藤さんから、さっそく濃密なオリエンテーションを受ける。
新しい部署のチームメンバーへの挨拶、取り扱うブランドのコンセプト、これから手がける新作ラインのスケジュール……。怒涛のように押し寄せる新しい情報に頭をフル回転させ、必死についていった。
「初日から詰め込んじゃってごめんなさいね。でも、あなたならすぐ慣れてくれるって期待してるわ」
「いえ、ありがとうございます。精一杯頑張ります」
須藤さんの期待に満ちた言葉に身を引き締めながらデスクの片付けを終えると、窓の外はすっかり群青色に染まっていた。
「はぁ……っ」
デスクに置かれた新しい名刺入れを撫でながら、俺は小さく息を吐き出した。
慣れない環境と怒涛の情報量に、どっと身体の奥から疲労が押し寄せてくる。
(早く帰って、智哉の顔が見たいな……)
クタクタになった身体を椅子から起こしながら、俺は真っ先に愛しい恋人の顔を思い浮かべていた。




