2人だけの幸せ
それから数ヶ月が経ち、智哉の誕生日の夜を迎えた。
レストランでの食事を終え、夜風が少し冷たくなってきた帰り道。部屋に着くなり、俺はジャケットのポケットから一つの小さな鍵を取り出し、智哉の掌にそっと載せた。
ひんやりとした金属の感触に、智哉が不思議そうに首を傾げる。
「え? 海斗の部屋の鍵? 今更? ……まあ、もらえるのはめちゃくちゃ嬉しいけど」
「違うよ。――俺たちの、家の鍵」
「え……?」
理解が追いつかないように目を丸くする智哉に、俺は少し誇らしい気持ちを隠しながら微笑みかけた。
「前に二人でうちのワンルームにいる時、『二人で住むには狭いよね』ってぼやいてただろ? だから、2LDKの部屋、契約してきた。
……これからは、あっちで一緒に住もう」
「えっ、えっ、ええ……!? マジで言ってるの!?」
驚きで声を裏返らせる智哉の瞳に、瞬く間にじわじわと光る涙が溜まっていく。
俺はそんな彼の反応を愛おしく思いながら、もう一つの小さな箱をポケットから取り出し、彼の目の前へ差し出した。
「それと、これ」
「なに……これ……」
「開けてみて」
智哉は震える指先でリボンを解き、黒いベルベットの箱をそっと開いた。
部屋の温かいライトを浴びて、静かに輝きを放っていたのは――シンプルなシルバーのペアリングだった。
法律上の「結婚」という制度は、今の俺たちにはまだ届かないかもしれない。けれど、そんな紙切れや形式なんかに負けないくらいの誓いを、形にして彼に贈りたかった。
『結婚指輪の代わり』として買ってきた、世界でたった一つのペアリング。
「海斗……っ、俺……もうこれ以上の幸せ、本当にないよ……」
ボロボロと溢れ出す涙を拭おうともせず、智哉は指輪を持ったたまま、俺の胸へと飛び込んできた。
腕の中に収まる彼の温もり、髪から漂ういつもの香水の匂い、そして胸に伝わる激しい鼓動。
「ははっ……大げさだな。幸せなんて、これから二人でいくらでも更新していこうよ」
抱きしめ返した背中越しに、指輪の箱を握りしめる智哉の手の震えが伝わってくる。
誰が何と言おうと、俺たちは二人で生きていく。揺るぎない絆と確信を抱き締めながら、俺は智哉の髪に静かにキスを落とした。
その週末、俺は数年ぶりとなる高校の同窓会に参加していた。
かつてあれほど俺の心を掻き乱していた花音の存在は、今ではもう頭の片隅にごくわずかに残っている程度だった。
「海斗くん! 見て見て、私結婚したんだよ!」
嬉しそうに声を弾ませた結菜さんが、薬指に嵌められたピカピカのリングを差し出してくる。名字が変わったんだと誇らしげに笑う彼女の姿。
以前の俺なら、そんな「普通」の幸せを羨ましくてたまらない気持ちで見つめていただろう。
けれど、今の俺の心は驚くほど穏やかだった。
「あれ? っていうか海斗くんも指輪してるじゃん! え、結婚したの!?」
結菜さんの目ざとい指摘に、周囲の同級生たちが「マジで!?」「相手誰!?」と一気に集まってきた。
一昔前の俺なら、血の気が引いてパニックになっていたはずだ。けれど俺は、自分の左手の薬指に収まる智哉とお揃いのリングを愛おしく撫でると、あっけらかんと笑って見せた。
「いや、結婚っていうか……俺、同性が好きなんだ。今はそのパートナーと一緒に住んでる」
一瞬、宴会場の喧噪がふっと途切れ、周囲に驚きの声が広がった。
けれど次の瞬間には、「えー! そうなんだ!」「お祝いしなきゃじゃん!」という温かい祝福の声へと変わっていった。世界は、俺が思っていたよりもずっと優しかった。
ただ――人集まりの少し後ろで、黒木だけがどこか寂しそうな、切ない瞳で俺を見つめていた。
◇
「海斗、途中まで一緒に帰ろうぜ」
二次会が終わり、同窓会の帰り道。黒木に誘われ、二人で夜の路上を並んで歩いた。
「あいつ、相変わらず酒弱いな」とか「あいつはもう父親になったらしいぞ」とか、同窓会での昔話や近況報告をしながら歩く静かな時間。
やがて、黒木の足がふっと止まった。
それに合わせて俺も足を止める。深夜の環状線、通り過ぎる車のヘッドライトが、気まぐれに彼の横顔を白く照らしては過ぎ去っていく。
夜風の音に掻き消されてしまいそうなほど、か細い声が黒木の口から漏れた。
「……ごめんな」
「え? なにが?」
突然の謝罪に、何に対して言っているのか分からず俺は困惑の表情を浮かべた。黒木は視線を足元に落としたまま、絞り出すように言葉を続けた。
「お前……辛かったよな。親友の俺にすら話せなくて、ずっと一人で抱え込んでたんだろ……?」
「あ、いや……それは、俺がバレないように隠してただけだし……」
「ごめんな……お前がどんなに辛い思いをしてたか、一番近くにいたのに、全然気づいてやれなくて……。平気で女の話したりとかさ、俺が言い出しにくい環境作ってたんじゃないかって……」
見上げると、頼りない月明かりの下で、黒木の目には溢れんばかりの涙が溜まっていた。
夜の暗がりと薄い月光のせいで、彼が泣いていることに気づくのが遅れてしまったのだ。
「黒木……」
自分のセクシュアリティを隠していたことを責めるどころか、「気づいてやれなくてごめん」と俺の孤独に寄り添い、涙を流してくれる親友。
夜風は冷たかったけれど、胸の奥からじんわりと温かいものが溢れ出し、全身を包み込んでいくのが分かった。
智哉というかけがえのないパートナーがいて、こんなにも俺を想って涙を流してくれる親友がいる。
(……俺は、なんて恵まれているんだろう)
満たされた幸福感とともに、俺は静かに夜空を見上げた。
その満たされた夜空の下で、俺は本気でそう思っていた。
指先に触れるペアリングの確かな重み。
家で待っている智哉の温かい笑顔と、二人で始めた新しい部屋での生活。
そして、俺の過去ごと抱きしめて涙を流してくれた黒木の友情。
暗闇の中で怯え、自分を偽り、誰にも心を開けなかったあの頃の俺はもういない。
温かな愛と確かな絆に守られた今の生活が、これから先、何年、何十年――いや、大袈裟でもなんでもなく、このままずっと「永遠」に続いていくのだと。
この時の俺は、何一つ疑うことなく、本気でそう信じ切っていたんだ。




