忘れられない香り
あの告白めいた言葉に俺の心臓が跳ね上がった飲み会から、数日が過ぎた。
あれだけ思わせぶりに指名しておきながら、山中の態度は今までと何一つ変わっていなかった。
会社で顔を合わせても特別親密度が上がった様子はなく、過剰なスキンシップが増えたわけでもない。いつもの人懐っこい笑顔で「おつかれー」と声をかけてきては、同期としてごく自然に接してくる。
(……ただ、からかわれただけなのかな)
居酒屋のノリに乗っかっただけの、冗談だったのだろうか。けれどあの日以来、山中のふとした仕草や視線にいちいち動悸を乱されている。
……きっと俺だけ。自分ばかりが意識して、自分ばかりが振り回されている。
胸の奥が少しだけチクリと痛み、俺はデスクの上の書類に落とした視線を誤魔化すように、小さなため息を吐き出した。
それからしばらくして、俺たちが所属する商品企画部で、新商品のマーケティング研修を兼ねた「オリジナル香水作り」のワークショップが開催されることになった。
調香師の指導のもと、数十種類のベースオイルや香料を組み合わせ、自分たちの理想の香りを調香していくという企画だ。
「海斗、どんな香りにすんの?」
「俺は……柑橘系をベースに、少し落ち着いたウッド系を混ぜようかなって」
作業台の隣に座った山中が、楽しそうに試香紙をひらひらと揺らしながら覗き込んでくる。ふわりと、彼がいつもつけている爽やかな香水の匂いが鼻腔をくすぐり、それだけで心臓が跳ねた。
「へえ、海斗っぽい。大人っぽくて静かな感じ」
そう言って山中は自分の作った試香紙を、俺の鼻先にすっと近づけてきた。
「これ、俺が作ったやつ。嗅いでみて」
急激に縮まった距離。山中の細い指先と、ほんの少し首筋から漂う彼の体温に、息が止まりそうになる。
動悸を必死で押し殺しながら試香紙に集中すると、爽やかなベルガモットの中に、どこか温かみのあるスパイシーな香りが混ざっていた。
「……すごくいい。華やかだけど、奥に温かさがあって……山中っぽい」
「ほんと? 嬉しいな」
山中は嬉しそうに目を細めると、俺の手元にある試香紙をひょいと取り上げ、自分の鼻に近づけた。
「じゃあ、俺も海斗のやつ嗅いでいい?」
俺が直接手で持っていた試香紙だ。山中の唇が、俺の指先に触れそうなほどの距離まで近づく。
「……うん、やっぱり海斗の香り、すごく好きだな」
あの飲み会の夜と同じ、少しだけ照れたような柔らかい笑顔。
ただの試作品の香りを褒められただけなのに、「海斗の香りが好き」という言葉が、まるで俺自身を肯定されたかのように胸の奥深くまで甘く突き刺さった。
ワークショップから少し経った頃、高校時代のクラスと同窓会が開かれることになった。
案内状を見た瞬間、胸が大きく跳ねた。
(……花音も、来るんだろうか)
心の奥底の「鍵付きの箱」に閉じ込めたはずの存在が、一瞬で頭を支配する。会いたいような、会うのが怖いような複雑な気持ちのまま、俺は会場の居酒屋へと向かった。
けれど、宴会が始まってもそこに花音の姿はなかった。
がっかりしたような、どこかホッとしたような妙な安堵感に包まれていると、「海斗君! 久しぶり!」と声をかけられた。結菜さんだった。
「結菜さん、久しぶり。……花音は?」
「あー、花音? 今日の同窓会、仕事の研修と被っちゃって来られなかったんだよね。今、地元に就職して頑張ってるよ」
「そっか……」と頷きながら、俺はグラスのお酒を一口煽った。
結菜さんと黒木の破局以来、どこか遠ざかってしまったあの頃の空気感。周りでは「彼氏できた?」「結婚は?」なんて他愛もない世間話が飛び交っている。
(俺は……本当は男が好きなんだ)
そんな言葉が喉まで出かかったけれど、結局、声にはならなかった。
ここでカミングアウトしたらどう思われるだろう。変な目で見られるんじゃないか。そんな恐怖が足枷になって口を噤んでしまう。
それに――今の俺は、本当にゲイなのだろうか。
山中に惹かれ始めているのは確かだ。けれど、こうして花音の名前を聞くだけで胸が苦しくなる自分も確実にここにいる。
(山中は……すごいな)
飲み会で「俺、ゲイなんだよね」とあっけらかんと言い放った山中の姿が脳裏をよぎる。
自分のセクシュアリティから逃げずに、堂々と胸を張って生きている彼に対する尊敬と羨望が、胸の奥でじわじわと広がっていった。




