↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/30

4:世界に開いた穴

こんにちは!こんばんは!


とりあえず書き溜めていたものを放出してます~

            闇から伸びる手





 ――全員、下がれ!

 その声が響いた瞬間、結城智(ゆいしろさとる)は穴の奥から目を離せなくなった。

 午後三時三十四分。

 札幌の空は、いつの間にか厚い雲に覆われていた。

 つい先ほどまで駐車場を照らしていた陽光は消え、建物の影が長く伸びている。

 消防隊員の一人が、穴の縁から後ずさった。

 ヘルメットの下で、その目が大きく見開かれていた。

 何かを見たのだ。

 智にも、それが分かった。

 隊員の唇が動いた。

「……何だよ、あれ」

 穴の奥から、湿った息遣いが聞こえた。



 グるるるる……。



 低い。

 獣の唸り声に似ている。

 だが、その音には妙な響きが混じっていた。

 まるで、狭い金属管の中で何かが喉を鳴らしているような、不快な振動。

 智は思わず喉に手を当てた。

 自分の呼吸が、ひどく浅くなっている。

「結城さん! 離れてください!」

 背後から警察官の声が飛んだ。

 智は振り返った。

「あ、はい……」

 返事をしたつもりだった。

 しかし、足が動かない。

 視線が、また穴へ戻ってしまう。

 石段の奥。

 暗闇の中で、何かが擦れる音がした。


 ――ギリ…


 ――ギリ、ギリ…


 硬いものが、石を引っ掻いている。

 智は息を止めた。

 そして、見た。

 階段の縁に、一本の指が掛かった。

 灰色の指。

 人間のものより細く、長い。

 先端には、黒く湾曲した爪が伸びていた。

 続いて、二本目。

 三本目。

 五本の指が、石段を掴んだ。

 その手が、ゆっくりと身体を引き上げる。

「……嘘だろ」

 智の口から、声が漏れた。

 次に現れたのは、頭だった。

 犬のように突き出した鼻先。

 耳の下まで裂けた口。

 黄色く濁った眼球。

 そして、その奥に並ぶ鋭い歯。

 午前中に見たものと、同じだった。

 黒いシートの下から覗いていた、あの異形。

 今度は、動いている。

 生きている。

 こちらを見ている。

 智の背筋を、冷たいものが走った。

 怪物は石段を一段上がった。

 肩が現れる。

 異様に長い腕。

 痩せた胴体。

 肋骨のようなものが、灰色の皮膚の下に浮き上がっていた。

 四つ足で歩く獣のようでありながら、どこか人間に似ている。

 その不自然さが、何より恐ろしかった。

 怪物は、ゆっくりと顔を上げた。

 黄色い目が、消防隊員たちを見渡す。

 そして。

 その視線が、智の方を向いた。

「…………」

 智は動けなかった。

 目が合った。

 そう思った。

 距離はある。

 穴の縁には消防隊員がいて、そのさらに外側に警察官がいる。

 それでも、あの目が自分を捉えたと感じた。

 怪物の口が、わずかに開いた。

 歯の隙間から、白い息が漏れる。

 そして、地面を蹴った。



     *



 次の瞬間、穴の縁にいた消防隊員が叫んだ。

「来るぞ!」

 灰色の影が跳ね上がった。

 人間の背丈ほどもある穴の縁を、ほとんど助走もなく越えてくる。

 智の目には、その動きが一瞬遅くなったように映った。

 伸びる腕。

 開いた口。

 宙を掻く黒い爪。

 そして、怪物の着地点にいた消防隊員。

「危ない!」

 智は叫んでいた。

 怪物が着地した。

 どん、と重い音が響く。

 消防隊員が横へ飛び退く。

 しかし、間に合わなかった。

 怪物の爪が、防火服の肩を引っ掛けた。

 布が裂ける。

 隊員の身体が引っ張られ、地面に倒れた。

「うわあっ!」

 悲鳴が上がった。

 怪物が振り向く。

 倒れた隊員へ、再び飛びかかろうとする。

 その時、別の隊員が消火器を抱えて駆け寄った。

「こっちだ!」

 白い粉末が噴き出した。

 勢いよく広がる消火剤が、怪物の顔を覆う。

 怪物は甲高い声を上げ、頭を振った。

 ぎゃあああっ!

 耳を刺すような声だった。

 智は反射的に顔をしかめた。

 怪物は腕を振り回し、消火器を持った隊員へ向かって突進した。

「下がれ!」

 警察官の怒声。

 続いて、乾いた銃声が響いた。


 パンッ!


 怪物の身体が跳ねた。

 肩口から、黒ずんだ液体が飛び散る。

 しかし、倒れない。

 怪物は一瞬だけ動きを止めた後、警察官の方へ顔を向けた。

 その口が、大きく開いた。

 智は、思わず後退した。

「……効いてないのか?」

 いや、違う。

 傷はついている。

 血も出ている。

 それでも動き続けている。

 痛みを感じていないのか。

 それとも、痛みよりも強い何かに突き動かされているのか。

 智には分からなかった。

 警察官が再び銃を構えた。

 怪物が跳ぶ。

 二発目の銃声。

 その直後、怪物が警察官へ体当たりした。

 鈍い音がした。

 警察官の身体が地面を転がる。

 拳銃が手から離れ、アスファルトの上を滑った。

「くそっ!」

 智は歯を食いしばった。

 目の前で人が襲われている。

 助けなければ。

 そう思った。

 だが、どうやって。

 工具箱には、バールもハンマーも入っている。

 しかし、あんなものを相手に、何ができる。

 相手は銃で撃たれても止まらない。

 智の足が、一歩前へ出た。

 その瞬間。

「結城さん!」

 聞き覚えのある声がした。

 振り向く。

 管理会社の担当者だった。

 少し離れた場所で、こちらを見ている。

 その顔は、恐怖で引きつっていた。

「逃げてください!」

 智は、はっとした。

 そうだ。

 自分がここにいても、何の役にも立たない。

 むしろ、邪魔になる。

 智は拳を握りしめた。

「……分かってます!」

 そう答えた。

 だが、次の瞬間。

 怪物が、こちらを向いた。



     *



 黄色い目。

 裂けた口。

 血の混じった唾液。

 怪物は、智を見ていた。

 いや。

 智の背後を見ていた。

 智は振り返った。

 そこには、先ほどの管理会社の担当者がいた。

 そのさらに後ろ。

 集合住宅の入口から、一人の老婆が出てきていた。

 小柄な女性だった。

 買い物袋を片手に持ち、もう片方の手で杖をついている。

 避難の呼びかけを聞いて出てきたのだろう。

 しかし、何が起きているのか理解できていない様子だった。

「……何ですか、この騒ぎは」

 老婆が、不安そうに辺りを見回した。

 智の心臓が跳ねた。

「おばあちゃん! 戻って!」

 声を張り上げる。

 だが、老婆は立ち止まったままだった。

「え?」

 怪物が、地面を蹴った。

 智の頭の中が、真っ白になった。

 考えるより先に、身体が動いた。

 老婆へ向かって走る。

 距離は、十メートルほど。

 間に合うか。

 いや。

 間に合わない。

 怪物の方が速い。

 それでも、足は止まらなかった。

「伏せろ!」

 智は叫んだ。

 老婆が目を見開く。

 その瞬間、智は彼女の肩を抱き、横へ飛び込んだ。

 ごつん、と鈍い音。

 智の肩が、建物の外壁にぶつかった。

 痛みが走る。

 だが、構っていられなかった。

 怪物が、すぐ横を通り過ぎた。

 黒い爪が、智の作業着の袖を裂いた。

「ぐっ!」

 腕に熱い痛みが走った。

 智は歯を食いしばった。

 老婆を庇うように身体を丸める。

 怪物は勢い余って、建物の入口に突っ込んだ。



 ドゴン!



 金属製の扉が、大きく歪んだ。

 智は目を見開いた。

 鋼製の扉だった。

 普通の人間が体当たりしたところで、簡単に曲がるものではない。

 それが、怪物の衝突で大きく凹んでいる。

「……冗談だろ」

 智の喉が、ひりついた。

 老婆が震えていた。

「な、何が……」

「いいから、こっちへ!」

 智は老婆の腕を支え、立ち上がらせた。

 右腕が痛む。

 作業着の袖から、血が滲んでいた。

 深い傷ではなさそうだ。

 だが、じくじくとした痛みが広がっている。

 怪物が、ゆっくりと振り返った。

 黄色い目が、智を捉える。

 口の端から、黒ずんだ血が滴っていた。

 智は老婆を背後へ押した。

「走れますか?」

「え、ええ……」

「じゃあ、あっちへ。警察の人がいます」

 老婆は頷いた。

 だが、足が震えている。

 思うように動けない。

 智は一瞬、迷った。

 自分が支えれば、逃げる速度が落ちる。

 しかし、置いていくわけにはいかない。

「……仕方ないな」

 智は小さく呟いた。

 そして、老婆の腕を自分の肩に回した。

「ゆっくりでいいです。転ばないように!」

 その時だった。

 怪物が、再び唸った。


 グるるるる……。


 智は振り向いた。

 怪物は、こちらへ一歩踏み出していた。

 その爪が、アスファルトを引っ掻く。


 ギリ…

 ギリ…


 近づいてくる。

 智の背中に、冷たい汗が流れた。

 逃げ切れない。

 そう思った。

 その瞬間。



 ――パンッ!



 銃声が響いた。

 怪物の頭が、横へ弾かれた。

 続いて、もう一発。


 パンッ!


 怪物の胸元から、黒い液体が飛び散る。

 怪物は大きくよろめいた。

 智は振り向いた。

 警察官が、両手で拳銃を構えていた。

 顔は青ざめている。

 だが、その目は怪物を捉えていた。

「早く逃げてください!」

 警察官が叫んだ。

 智は頷いた。

「ありがとうございます!」

 老婆を支えながら、必死に歩く。

 足がもつれそうになる。

 背後では、怪物の唸り声が響いていた。

 そして。


 ――ドサッ。


 何か重いものが倒れる音がした。

 智は振り返らなかった。

 振り返る余裕がなかった。

 ただ、老婆の身体を支え、規制線の外へ向かって歩き続けた。



     *



 午後三時五十二分。

 智は、救急車の脇に座っていた。

 右腕に、白いガーゼが巻かれている。

 傷は、思っていたほど深くなかった。

 だが、皮膚が裂け、出血していた。

 救急隊員が、傷口を確認しながら言った。

「痛みはありますか?」

「まあ、少し」

「少し、ですか?」

「……結構、あります」

 救急隊員が苦笑した。

「我慢しないでくださいね」

「すみません」

 智は頭を下げた。


 老婆は、少し離れた場所で別の隊員に付き添われていた。

 大きな怪我はなさそうだった。

 それを見て、智はようやく息を吐いた。

「……よかった」

 救急隊員が顔を上げた。

「知り合いの方ですか?」

「いえ。初めて会いました」

「そうなんですか」

「たまたま、近くにいたもので」

 救急隊員は、少し驚いたような顔をした。

 しかし、それ以上は何も言わなかった。

 智も、説明する気にはなれなかった。

 自分が何をしたのか。

 どうして、あんな無茶をしたのか。

 今になって考えると、よく分からない。

 怖かった。

 本当に怖かった。

 怪物の目を見た瞬間、足がすくんだ。

 それでも、老婆が襲われそうになった時、身体が動いてしまった。

 正しい判断だったのか。

 もっと安全な方法があったのではないか。

 そんなことばかり考えていた。


「……結城さん」

 声がした。

 管理会社の担当者だった。

 顔色は、まだ悪い。

「大丈夫ですか?」

「ええ。ちょっと引っかかれただけです」

「……すみません」

「何がです?」

「私、何もできなくて……」

 智は首を振った。

「いや、あんなの見たら誰だって動けませんよ」

「でも、結城さんは……」

「たまたまですよ」

 智は短く答えた。

 それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。

 担当者は、しばらく黙っていた。

 そして、深く頭を下げた。

「……本当に、ありがとうございました」

 智は困ったように笑った。

「……無事でよかったです」

 それだけだった。



     *



 午後四時十一分。

 現場周辺は、さらに厳重な規制が敷かれていた。

 警察官の数が増え、消防車両も追加されている。

 智は救急隊員から、念のため医療機関で診察を受けるよう勧められた。

 怪物の爪による傷。

 正体不明の生物による負傷。

 感染症の危険もある。

 そう説明された。

 智は素直に頷いた。

「分かりました。病院に行きます」

 立ち上がろうとした時、ふと違和感を覚えた。

 右腕が、少し熱い。

 傷口が疼いているのかと思った。

 だが、違った。

 熱は、傷そのものではなく、その奥から広がってくるようだった。

「……ん?」

 智は包帯の上から腕を押さえた。


 じん。

 じん。


 心臓の鼓動に合わせて、熱が脈打つ。

 そして。

 ほんの一瞬。

 視界の端に、何かが見えた。

 青白い光。

 文字のようなもの。

 空中に浮かんだ、薄い板のようなもの。


「……え?」


 智は目を瞬かせた。

 光は、消えていた。

 何もない。

 ただ、いつもの街並みが広がっている。

 警察車両。

 救急車。

 規制線。

 そして、曇り空。

 智は眉をひそめた。

「……今の、何だ?」

 疲れているのだろうか。

 恐怖と緊張で、頭がおかしくなったのかもしれない。

 智は目を擦った。

 しかし、次の瞬間。

 再び、光が現れた。

 今度は、はっきりと。

 視界の中央。

 半透明の青白い板が、静かに浮かんでいた。

 そこには、見慣れない文字が並んでいた。

 いや。

 文字そのものは、日本語だった。

 ただ、その意味が分からなかった。

 智は息を呑んだ。

 目の前の光を、じっと見つめる。

 そこには、こう表示されていた。



 《接触を確認しました》


 《適応処理を開始します》


 《個体情報を解析中……》



 智の心臓が、大きく跳ねた。

「……は?」

 思わず声が漏れた。

 周囲を見回す。

 誰も、こちらを見ていない。

 救急隊員は別の負傷者の手当てをしている。

 警察官たちは、現場の確認に追われていた。

 誰も、この光に気づいていない。

 智は、もう一度目の前を見た。

 青白い板は、まだ浮かんでいた。

 その表面で、文字が静かに変化した。


 《解析を継続します》


 そして。

 光が、消えた。

 智は、その場に立ち尽くした。

 右腕の熱は、いつの間にか収まっていた。

 だが、胸の鼓動だけは、なかなか静まらなかった。

「……何なんだよ、今日は……」

 声が震えていた。

 怪物。

 地下の穴。

 銃声。

 血。

 そして、目の前に浮かんだ、不可解な文字。

 もう、偶然や見間違いでは片づけられない。

 何かが起きている。

 世界に。

 そして、自分自身に。

 智は、包帯の巻かれた右腕を見つめた。

 そこには、ただ白いガーゼがあるだけだった。

 しかし。

 その奥で、何かが静かに動き始めているような気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。