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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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5:世界に開いた穴

読みやすいかわかりませんが、行間を少し空けてみました。


やっとダンジョンに差し掛かってきましたねw

ちょっと前半長めですみません・・・www

            見えない傷跡





 病院の自動ドアが開いた。


 結城智(ゆいしろさとる)は、その場で足を止めた。


 開ききったガラス扉の向こうから、消毒液の匂いと暖房の乾いた空気が流れてくる。


 どこかで子供が泣いていた。


 受付の奥では電話が鳴り続け、白衣姿の職員が早足で廊下を横切っていく。


 いつもの病院なら、見慣れた光景だったのだろう。


 だが、今日は違った。


 待合室の椅子はほとんど埋まっていた。


 額に包帯を巻いた男性。


 腕を吊った若い女性。


 顔を青くしたまま、付き添いの肩に寄りかかる老人。


 怪我人ばかりではない。何の外傷も見えないのに、ひどく怯えた表情で座っている人もいた。


 そして、壁際に立つ二人の警察官。


 智は無意識に、包帯の巻かれた右腕を左手で押さえた。


「……ここもか」


 午後四時四十八分。


 救急隊員に勧められた医療機関へ、ようやく到着したところだった。


 途中、道路規制に何度も引っかかった。


 普段なら二十分ほどの距離に、倍近い時間がかかっている。


 智は受付へ向かった。


「すみません。怪我を診てもらいたいんですが」


 受付の女性が顔を上げた。


 三十代くらいだろうか。


 目の下に薄い隈があった。


「どうされました?」


「右腕を引っかかれまして」


「動物ですか?」


 智は、一瞬答えに詰まった。


「……たぶん、そういうことになるんでしょうけど」


 女性の指が止まった。


「どちらで?」


「今日、地面が陥没した現場です。警察と消防の方も来ていて」


 その言葉を聞いた瞬間、女性の表情が変わった。


 視線が智の包帯へ落ちる。


 それから、受付の奥にいる別の職員へ向けられた。


「少々お待ちください」


 女性は立ち上がり、奥へ消えた。


 智は小さく息を吐いた。


 こうなるだろうとは思っていた。


 あんなものに引っかかれたと説明すれば、普通の怪我として扱われないのは当然だ。


 ただ、正直なところ、面倒なことになったという気持ちもあった。


 明日の仕事はどうする。


 取引先への連絡は。


 今日の請求書は、まだ一枚も作っていない。


 そんなことを考えている自分に、智は少し呆れた。


 ほんの一時間ほど前、命を落としていてもおかしくなかった。


 それなのに、頭の中には仕事の段取りが残っている。


「……我ながら、しょうがないな」


 その時だった。


 視界の端で、青白い光が瞬いた。


 智は顔を上げた。


 受付の上。


 天井の照明の少し下。


 何かが浮かんでいる。


 薄い、四角い板。


 ガラスのように透き通っているのに、向こう側の景色だけがわずかに青く滲んでいた。


 智の喉が鳴った。


 まただ。


 駐車場で見た、あの光。


 今度は消えなかった。


 板の中央に、細い文字が浮かび上がる。


 《適応処理:継続中》


 智は思わず一歩下がった。


 後ろにいた男性と肩がぶつかる。


「あ、すみません」


「いえ」


 男性は何事もなかったように通り過ぎた。


 智は青白い板を見た。


 男性の身体が、その板をすり抜けたように見えた。


 いや、違う。


 板は、そこにあるように見えて、実際には何もないのかもしれない。


 智は右手を伸ばしかけた。


 だが、途中で止めた。


 待合室の真ん中で何もない空間を触っていたら、どう見られるだろう。


 少なくとも、怪我の診察だけでは済まなくなりそうだった。


「……落ち着け」


 小さく呟く。


 目を閉じる。


 三秒ほど数えて、再び開いた。


 光は、まだあった。


 文字が変わる。


 《個体情報の取得を試行しています》


 その下に、細い線が一本現れた。


 線の左端から、淡い光がゆっくりと右へ進んでいく。


 何かを読み込んでいる。


 そんな表示だった。


 智は眉を寄せた。


「……何の情報だよ」


 思わず漏れた声に、近くの女性が振り向いた。


 智は慌てて口を閉じた。


 その瞬間、青白い板が消えた。


 まるで最初から存在しなかったかのように。


 智は天井を見上げた。


 白い蛍光灯。


 空調の吹き出し口。


 何も変わっていない。


 ただ、自分の心臓だけが、やけに速く打っていた。




     *




 午後五時十九分。


「結城さん、こちらへどうぞ」


 看護師に呼ばれ、智は診察室へ入った。


 診察室の窓からは、夕暮れの札幌が見えた。


 雲の切れ間に沈みかけた太陽が、遠くのビルの輪郭を橙色に染めている。


 診察台の脇では、年配の医師が電子カルテを確認していた。


「結城さんですね」


「はい」


「右腕の怪我と聞いています。少し見せてください」


 智は作業着の袖をまくった。


 包帯を外すと、赤く腫れた傷が現れた。


 肩に近い上腕の外側。


 斜めに走る、三本の裂傷。


 血はほとんど止まっていたが、周囲の皮膚が赤くなっている。


 医師は傷を見た瞬間、眉を寄せた。


「……これは」


 指先で傷の周囲を慎重に確かめる。


「随分、間隔の広い引っかき傷ですね」


「そうですね」


「何にやられたんですか?」


 智は少し迷った。


 そして、正直に答えた。


「分かりません」


 医師が顔を上げた。


「分からない?」


「見たことのない生き物でした」


「犬や熊ではなく?」


「違います」


「どんな姿でした?」


 智は口を開いた。


 しかし、言葉が出てこなかった。


 あの生き物を、どう説明すればいい。


 灰色の皮膚。


 異様に長い腕。


 黄色い目。


 耳まで裂けた口。


 説明すればするほど、作り話に聞こえてしまいそうだった。


「……人間くらいの大きさで、四つ足で動いていました。でも、腕が妙に長くて」


 医師は黙って聞いていた。


「顔は、犬に少し似てました。ただ、普通の動物とは全然違っていて……」


「なるほど」


 医師は、それ以上追及しなかった。


 ただ、カルテに何かを入力した。


「現場には警察もいたんですね?」


「はい。目の前で襲われた人もいました」


「そうですか」


 医師の声が、少し低くなった。


「では、感染症の可能性も含めて慎重に対応しましょう。傷を十分に洗浄して、必要な検査を行います」


「お願いします」


「破傷風の予防接種歴は分かりますか?」


「……すみません。覚えてないです」


「確認しましょう。あと、相手が正体不明の生物ですから、関係機関にも相談が必要になります」


 智は頷いた。


 医師は傷を洗浄しながら、時折、不思議そうな表情を見せた。


「痛みは?」


「あります」


「この辺りは?」


 医師が傷の周囲を軽く押した。


「……そこは、あまり」


「こちらは?」


「痛いです」


「分かりました」


 医師は傷を見つめた。


「少し妙ですね」


 智の肩が強張った。


「何がです?」


「傷の一部が、もう閉じ始めているように見えます」


「……え?」


「ただ、浅い部分もありますからね。見た目だけでは判断できません」


 医師は慎重な口調で続けた。


「受傷から何時間くらいですか?」


「一時間半くらい……いや、二時間弱です」


「そうですか」


 医師は再び傷を見た。


 智も視線を落とした。


 三本の傷。


 確かに、さっきより赤みが薄くなっているように見える。


 だが、照明のせいかもしれない。


 そもそも、自分の傷を何度も見比べたことなどない。


「……何か問題ありますか?」


「現時点で断定できることはありません。経過を見ましょう」


 医師はそう答えた。


 その言葉に、智は少し安心した。


 しかし、同時に別の不安が生まれていた。


 あの青白い文字。


 適応処理。


 個体情報。


 そして、傷の変化。


 偶然なのだろうか。


 それとも。


 智は、考えるのをやめた。


 今は医師の説明を聞くべきだった。




     *




 午後六時二分。


 智は、病院の待合室に戻っていた。


 必要な処置を受け、追加の検査について説明された。


 傷は重症ではなかったが、正体不明の生物による負傷という事情から、今後の経過観察と関係機関への確認が必要だという。


 医師からは、発熱や腫れ、体調の変化があればすぐに連絡するよう念を押された。


 智は診察券と書類を受け取り、椅子に腰を下ろした。


 右腕には、新しい包帯が巻かれている。


「……疲れたな」


 深く息を吐く。


 朝から、ほとんど休んでいない。


 昼食も、コンビニで買ったおにぎりを一つ食べただけだった。


 腹が減っている。


 だが、食欲はあまりなかった。


 待合室のテレビでは、地下開口部に関する特別番組が流れていた。


 画面には、世界地図が映っている。


 赤い点が、各地に散らばっていた。


 日本。


 中国。


 ヨーロッパ。


 北米。


 南米。


 アフリカ。


 世界中で、同じような地下空間が確認されているという。


 智は画面を見つめた。


 昨日まで、そんなものは存在しなかった。


 少なくとも、誰も知らなかった。


 それが今、世界中の都市に現れている。


 何の前触れもなく。


 まるで、誰かが地図の上に穴を開けたように。


 番組の司会者が、専門家に質問していた。


『これだけ離れた地域で、同じ構造の地下空間が発見されるというのは、地質学的に考えられるのでしょうか』


 専門家は、少し困ったような表情を浮かべた。


『現時点では、説明が非常に難しいとしか申し上げられません』


 智は小さく頷いた。


「……そりゃ、そうだよな」


 自分だって、理解できない。


 建物の修理を長年やってきた。


 図面も見てきた。


 地下設備にも入ったことがある。


 だが、あんな構造物は見たことがなかった。


 あの石段。


 あの壁。


 自然にできたものではない。


 かといって、誰かが造ったという記録もない。


 そして、そこから出てきた怪物。


 智は右腕を見た。


 包帯の下に、三本の傷がある。


 あれは夢ではなかった。


 現実に起きたことだ。


 その時。


 視界の中央に、青白い光が浮かんだ。


「……っ」


 智は息を止めた。


 まただ。


 今度は、先ほどよりもはっきりしていた。


 薄い板の縁が、淡く輝いている。


 その中央に、文字が並んでいた。


 《適応処理:完了》


 智の目が見開かれた。


 文字が変わる。


 《個体情報の取得に成功しました》


 続いて、別の表示が現れた。


 《基本情報を表示しますか?》


 その下に、小さな二つの文字。


 《はい》


 《いいえ》


 智は固まった。


「……何だ、これ」


 小さく呟く。


 周囲を見回した。


 誰も気づいていない。


 隣の椅子では、老人が新聞を読んでいる。


 向かいの席では、若い女性がスマートフォンを操作していた。


 誰も、智の目の前に浮かぶ青白い板を見ていない。


 智は、ゆっくりと右手を上げた。


 指先を伸ばす。


 《はい》の文字に触れようとした。


 しかし、指は空を切った。


 何の感触もない。


 板は、そこにあるように見えるだけだった。


「……触れないのか」


 智は手を引っ込めた。


 周囲の視線が気になり、慌てて膝の上に戻す。


 どうすればいい。


 画面には、相変わらず二つの選択肢が浮かんでいる。


 智は眉を寄せた。


 そして、心の中で呟いた。


 ――はい。


 その瞬間。


 青白い板が、静かに形を変えた。


 智は息を呑んだ。


 文字が、上から順番に現れていく。


 《個体名:結城 智》


 《年齢:47》


 《種族:人間》


 《状態:適応済》


 智の心臓が、大きく跳ねた。


 名前。


 年齢。


 種族。


 すべて、正しい。


「……何で、知ってるんだよ」


 声が震えた。


 誰が、こんなものを表示している。


 どこから情報を取得した。


 そもそも、これは何なのだ。


 智は画面を見つめた。


 文字の下には、まだ空白があった。


 そして、最後に一行だけ、新しい表示が現れた。


 《固有適性:未判定》


 智は、その文字をじっと見つめた。


 固有適性。


 聞き慣れない言葉だった。


 何かの能力を意味しているのだろうか。


 それとも、身体の状態を示しているのか。


 分からない。


 智は、もう一度心の中で問いかけた。




 ――これは何だ?




 反応はなかった。




 ――誰が出してる?




 やはり、何も起こらない。


 智は眉をひそめた。


「……質問には答えないのか」


 小さく呟く。


 その時、隣の老人が顔を上げた。


「何か言いました?」


「あ、いえ。独り言です」


「そうですか」


 老人は再び新聞へ目を落とした。


 智は、ほっと息を吐いた。


 危ない。


 こんなところで、何もない空間に話しかけていたら、本当におかしな人間だと思われる。


 智は画面を見つめた。


 しばらくして、心の中で呟いた。


 ――消えろ。


 すると。


 青白い板が、ふっと消えた。


 智は目を見開いた。


「……消えた」


 今度は、もう一度。


 ――出ろ。


 何も起こらない。


 智は眉を寄せた。


 ――基本情報。


 その瞬間。


 青白い板が、再び現れた。


 《個体名:結城 智》


 《年齢:47》


 《種族:人間》


 《状態:適応済》


 《固有適性:未判定》


 智は、ゆっくりと息を吐いた。


「……なるほど」


 少しだけ、分かった気がした。


 声に出さなくても、頭の中で命令すれば反応する。


 ただし、何でも聞いてくれるわけではない。


 決まった言葉にだけ反応しているのかもしれない。


 智は画面を見つめた。


 まるで、ゲームのステータス画面だった。


 昔、夢中になったロールプレイングゲーム。


 名前。


 年齢。


 種族。


 能力。


 そんな項目が並んでいた。


 だが。


 これは、ゲームではない。


 右腕の傷が、そのことを教えていた。




     *




 午後六時三十一分。


 智は病院を出た。


 外は、すっかり暗くなっていた。


 街灯が濡れた道路を照らし、車のヘッドライトが白い光の帯を作っている。


 冷たい風が、作業着の襟元から入り込んだ。


「……寒っ」


 智は首をすくめた。


 十月の札幌は、日が落ちると一気に冷える。


 いつもなら、そんなことを考えながら車へ向かうだけだった。


 だが、今日は違う。


 頭の中には、あの青白い板があった。


 自分の名前。


 年齢。


 そして、固有適性という見慣れない言葉。


 智は駐車場の端で足を止めた。


 周囲を見回す。


 人影は少ない。


 少し離れた場所では、車のエンジン音が聞こえていた。


 智は、心の中で呟いた。


 ――基本情報。


 青白い板が現れた。


 智は、それを見つめた。


 やはり、表示されている。


 自分だけに見える、不思議な文字。


 智は右腕を見た。


 包帯の下が、わずかに熱を持っている。


 その時。


 画面の一番下に、小さな文字が浮かび上がった。



 《固有適性の判定条件を確認中……》



 智は眉をひそめた。


「……まだ何かあるのか」


 文字が、ゆっくりと変化する。



 《判定には追加情報が必要です》



 そして。



 《対象個体の行動履歴を参照します》



 智は、思わず息を止めた。


 行動履歴。


 それは、何を意味する。


 今日の出来事か。


 それとも、これまでの人生か。


 智は画面を見つめた。


 しかし、それ以上の文字は現れなかった。


 やがて、青白い板が静かに消えた。


 智は、しばらくその場に立ち尽くした。


 冷たい風が、頬を撫でていく。


 遠くで、救急車のサイレンが鳴っていた。


 そして、ふと思った。


 あの地下の怪物に引っかかれたこと。


 それが、すべての始まりなのだろうか。


 もし、あの場にいなかったら。


 もし、老婆を助けようとしなかったら。


 自分の目の前に、こんなものが現れることはなかったのだろうか。


 智は、包帯の巻かれた右腕を見つめた。


「……分からないことだらけだな」


 小さく呟く。


 だが、不思議と、先ほどまでの恐怖だけではなかった。


 怖い。


 もちろん、怖い。


 それでも、知りたいと思っている自分がいた。


 この光は何なのか。


 地下には何があるのか。


 世界に、何が起きているのか。


 智は、ゆっくりと顔を上げた。


 夜の札幌。


 街灯の下を、人々が足早に歩いていく。


 誰もが、それぞれの生活へ帰ろうとしていた。


 智も、その一人だった。


 ただ。


 今日という一日を境に、自分の人生が何か別のものへ変わり始めている。


 そんな予感だけが、胸の奥に残っていた。


 智は車のドアを開けた。


 そして、運転席に腰を下ろした。


 エンジンをかける。


 暖房の風が、冷えた指先に当たった。


「……とりあえず、帰るか」


 いつもの言葉だった。


 いつもの声だった。


 だが、その言葉が指し示す日常は、もう昨日までと同じではなかった。





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