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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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11/33

1:札幌の異変

            変わり始めた朝





 午前六時十四分。


 結城智(ゆいしろさとる)は、カーテンの隙間から差し込む白い光で目を覚ました。


 目覚まし時計は、まだ鳴っていない。


 部屋は静かだった。


 冷蔵庫の低い駆動音。


 壁時計の秒針。


 そして、遠くを走る車の音。


 いつもと変わらない朝。


 そのはずだった。


「……ん?」


 智は、布団の中で右腕を動かした。


 痛くない。


 昨日、あの怪物に引っかかれた腕だった。


 肩に近い上腕の外側。


 三本の裂傷が走り、病院で処置を受けた場所。


 昨夜は、寝返りを打つたびに鈍い痛みがあった。


 それなのに、今は。


「……おかしいな」


 智は身体を起こした。


 右腕をゆっくり上げる。


 痛みはない。


 肘を曲げる。


 肩を回す。


 何の違和感もなかった。


 むしろ、普段より軽いような気さえした。


 智は包帯に目を落とした。


 白いガーゼは、昨夜と同じように巻かれている。


 血が滲んだ様子もない。


「……まあ、痛くないならいいか」


 そう呟いて、布団から出た。


 しかし、洗面所へ向かう途中で足を止めた。


 やはり、気になる。


 智は鏡の前に立ち、慎重に包帯を緩めた。


 医師からは傷を清潔に保つよう言われている。むやみに触るべきではない。


 それでも、一度だけ確認したかった。


 ガーゼをそっと持ち上げる。


 そして、


「……は?」


 智の手が止まった。


 傷が、なかった。


 いや。


 正確には、三本の薄い赤い線が残っている。


 だが、昨日まで裂けていた皮膚は、すでに閉じていた。


 腫れもない。


 出血もない。


 触れても、痛みはほとんど感じなかった。


 智は鏡の中の自分を見つめた。


 四十七歳の男が、寝癖のついた頭で間の抜けた顔をしている。


「……いやいやいや」


 思わず声が出た。


 もう一度、腕を見る。


 やはり、傷は閉じている。


 昨日の出来事が夢だったのかと思った。


 だが、包帯は本物だ。


 作業着の袖には、怪物の爪で裂かれた跡が残っている。


 病院の領収書も、机の上に置いてある。


 夢ではない。


 確かに、あの怪物に襲われた。


 確かに、血が出た。


 それなのに。


「……一晩で?」


 智は、ゆっくりと息を吐いた。


 その時だった。


 視界の端に、青白い光が浮かんだ。


 智は顔を上げた。


 鏡の中。


 自分の肩の横に、半透明の板が浮かんでいる。



 《個体情報を更新しました》



 智は目を見開いた。


 文字が変わる。



 《身体状態:回復傾向》



 続いて、もう一行。



 《適応状態:安定》



「……やっぱり、関係あるのか」


 智は呟いた。


 画面は、静かに浮かんでいた。


 まるで、こちらの反応を待っているかのように。


 智は、心の中で問いかけた。


 ――どうして傷が治った?


 反応はない。


 ――この光は何だ?


 やはり、何も起こらない。


 智は眉をひそめた。


「……融通が利かないな」


 思わず苦笑する。


 だが、その笑いは長く続かなかった。


 自分の身体に、何かが起きている。


 それは、間違いなかった。




     *




 午前七時二分。


 智は、台所で朝食を作っていた。


 食パンをトースターに入れ、フライパンで卵を焼く。


 じゅう、と小さな音がした。


 焼けたパンの匂いが、狭い部屋に広がる。


 テレビでは、朝のニュースが流れていた。


『政府は、全国各地で確認されている地下開口部について、引き続き立ち入りを禁止する方針を示しました』


 画面には、札幌市内の規制区域が映し出されている。


 昨日より、明らかに範囲が広がっていた。


 赤い線で囲まれた区域。


 その周辺には、避難所の位置が表示されている。


 智は皿を持ったまま、画面を見つめた。


「……増えてるな」


 昨日、自分が巻き込まれた陥没現場。


 そこにも、新しい規制区域が設けられていた。


 さらに、別の場所にも赤い印がついている。


 市内で新たな地下空間が確認されたという。


 智は椅子に腰を下ろした。


 パンを一口かじる。


 味は、いつもと変わらない。


 しかし、テレビから流れる言葉は、昨日までとはまるで違っていた。


『市内の一部小中学校では、児童生徒の安全を考慮し、臨時休校とする措置が取られています』


『公共交通機関にも影響が出ており、一部のバス路線では運休や迂回運行が続いています』


『物流にも遅れが発生しており、生活必需品の供給への影響が懸念されています』


 智は、パンを持つ手を止めた。


 物流。


 その言葉が、妙に現実味を帯びて聞こえた。


 建築関係の仕事では、部品や材料が届かなければ何もできない。


 ガラス。


 金物。


 建具。


 電気部品。


 どれも、必要な時に必要なものが手に入ることを前提に仕事を組んでいる。


 昨日、発注を忘れた部品を何とか確保できたのは、運がよかっただけかもしれない。


「……こりゃ、仕事にも響くな」


 智はスマートフォンを取り出した。


 取引先からのメールが、何件も届いていた。


『本日の配送は遅延する可能性があります』


『一部地域への納品を一時停止しています』


『現場への立ち入りが制限されているため、作業日程の再調整をお願いします』


 智は、ゆっくりと画面をスクロールした。


 仕事が止まる。


 材料が届かない。


 現場に入れない。


 それは、単に忙しく無くなるという話ではない。


 収入が減るということだ。


 自営業にとって、仕事ができない日は、そのまま生活に響く。


 智は深く息を吐いた。


「……困ったな」


 テレビでは、専門家が地下開口部の構造について説明していた。


 だが、智の頭の中にあったのは、今月の支払いと、来週の仕事の予定だった。


 世界がどれほど大きく変わろうとしていても、目の前の生活は待ってくれない。


 それが、現実だった。




     *




 午前八時二十七分。


 智は、作業車の運転席に座っていた。


 エンジンをかける前に、今日の予定を確認する。


 午前中は、先週から依頼されていた窓の修理。


 午後は、建具の調整。


 どちらも、今のところ規制区域からは離れている。


 ただ、予定通り現場へ行ける保証はなかった。


 智はカーナビを操作した。


 交通規制の情報が、次々と表示される。


「……こっちも通れないのか」


 いつもの道が、いくつも使えなくなっていた。


 仕方なく、遠回りのルートを選ぶ。


 その時、スマートフォンが鳴った。


 佐伯修司(さえきしゅうじ)からだった。


「もしもし」


『おう、智。生きてるか?』


「何だよ、朝から」


『いや、昨日のニュース見ただろ。お前、あの辺で仕事してたって言ってたじゃん』


 智は、一瞬言葉に詰まった。


 佐伯には、昨日の出来事を詳しく話していなかった。


「……まあ、ちょっとな」


『ちょっとって何だよ』


「現場の近くにいただけだ」


『本当か?』


 佐伯の声が、少し真剣になった。


『昨日、あの辺で怪我人が出たって話じゃないか』


「……ああ」


『お前、何もなかったんだろうな』


 智は右腕を見た。


 包帯の下には、ほとんど消えかけた傷がある。


 そして、自分にだけ見える青白い文字。


 智は、しばらく黙っていた。


「……少し、引っかかれた」


『は?』


「大した怪我じゃない。病院にも行った」


『おいおい、何に引っかかれたんだよ』


 智は答えなかった。


 言えば、どうなる。


 灰色の怪物。


 黄色い目。


 人間のような腕。


 そんな話を、佐伯は信じるだろうか。


 いや。


 佐伯なら、きっと信じようとしてくれる。


 長い付き合いだ。


 智がくだらない嘘をつく人間ではないことくらい、分かっているはずだ。


 だが、それでも。


 自分の目に浮かぶ、あの光のことまで話していいのだろうか。


 智はハンドルに視線を落とした。


「……説明しづらいんだ」


『何だ、それ』


「俺にも、まだよく分からない」


 電話の向こうで、佐伯が黙った。


 数秒の沈黙。


 そして、低い声が返ってきた。


『……分かった』


 智は顔を上げた。


『今は無理に聞かない。でも、何かあったら言えよ』


「……ああ」


『お前、昔からそうだからな』


「何が?」


『一人で何とかしようとするところ』


 智は、思わず苦笑した。


「……そんなつもりはないんだけどな」


『あるんだよ』


 佐伯は、少し笑った。


『まあ、無事ならいい。あと、今日は無茶するなよ』


「分かってる」


『本当かよ』


「……たぶん」


『そこは言い切れよ!』


 佐伯の声が、車内に響いた。


 智は、久しぶりに声を出して笑った。


「悪い悪い」


 電話を切る。


 智は、しばらくスマートフォンを見つめた。


 誰かが、自分のことを心配してくれる。


 それは、当たり前のことではない。


 四十七歳にもなると、そんなことを改めて感じる。


「……ありがとな」


 小さく呟いた。


 そして、エンジンをかけた。




     *




 午前九時十一分。


 智は、最初の現場に到着した。


 古い住宅街。


 低い建物が並び、庭木の葉が赤や黄色に色づいている。


 秋の札幌らしい、静かな朝だった。


 車を停めると、近くの家から犬の鳴き声が聞こえた。



 わん、わん。



 智は、その声に思わず肩を震わせた。


「……びっくりした」


 自分でも驚くほど、身体が反応した。


 昨日の怪物の唸り声が、頭の奥に残っている。


 ただの犬の鳴き声なのに、心臓が跳ねた。


 智は苦笑した。


「……情けないな」


 工具箱を持ち、依頼先の家へ向かう。


 玄関のチャイムを押す。



 ピンポーン。



 少しして、年配の女性が顔を出した。


「あら、結城さん。おはようございます」


「おはようございます。窓の修理に来ました」


「こんな大変な時に、ありがとうございます」


「いえ、予定通り来られてよかったです」


 女性は、少し不安そうな顔をした。


「ニュース、怖いですねえ」


「そうですね」


「うちの孫も、今日は学校が休みになったんですよ」


「そうなんですか」


「昨日から、ずっとテレビばかり見ていて……」


 女性は小さくため息をついた。


「何が起きてるんでしょうね」


 智は、すぐには答えられなかった。


 自分も、知りたかった。


 世界に何が起きているのか。


 地下には何があるのか。


 そして、自分の身体に何が起きたのか。


「……早く落ち着くといいですね」


 結局、そう答えるしかなかった。


 女性は静かに頷いた。




     *




 午前九時三十八分。


 智は、居間の窓を調整していた。


 アルミサッシの引き違い窓。


 戸車が摩耗し、開閉が重くなっている。


 智は障子を外し、床に置いた。


 工具箱から部品を取り出す。


 いつもの作業だった。


 ネジを緩める。


 古い戸車を外す。


 新しい部品を取り付ける。


 動きを確認する。


 手順は、身体が覚えている。


 智は作業に集中した。


 その時だった。


 視界の端に、青白い光が浮かんだ。


「……またか」


 智は手を止めた。


 半透明の板。


 そこに、文字が表示されていた。



 《対象物を認識しました》



 智は目を見開いた。


 対象物?


 何のことだ。


 目の前には、取り外した戸車がある。


 智は、それを見つめた。


 すると、文字が変わった。



 《解析対象:金属部品》



 続いて、



 《材質:アルミニウム合金・鋼材》


 《状態:摩耗》


 《推奨処置:交換》



 智は、しばらく動けなかった。


「……何だ、これ」


 思わず呟く。


 表示されている内容は、正しい。


 確かに、戸車は摩耗している。


 交換が必要だ。


 だが、それは自分が見て判断したことだ。


 それを、なぜこの光が知っている?


 智は戸車を持ち上げた。


 すると、青白い文字が、まるで追いかけるように移動した。


 智は息を呑んだ。


 画面が、対象物に合わせて動いている。


 まるで、何かが戸車を見ているかのようだった。


 智は、試しに別の部品へ視線を移した。


 新しい戸車。


 すると、表示が変わった。



 《解析対象:金属部品》


 《状態:正常》


 《推奨処置:不要》



 智は、ゆっくりと息を吐いた。


「……すごいな」


 思わず、そんな言葉が出た。


 怖い。


 不気味だ。


 しかし、それ以上に。


 これは、使える。


 そう思ってしまった。


 智は、自分の手元を見つめた。


 長年、建具の修理をしてきた。


 見ただけで分かることもある。


 触らなければ分からないこともある。


 分解して初めて見つかる不具合だってある。


 それが、もし。


 この光で、見えない部分まで分かるのだとしたら。


「……いや、待てよ」


 智は首を振った。


 まだ、何も分かっていない。


 たまたま正しいことを表示しただけかもしれない。


 それに、こんなものを信用して仕事をするわけにはいかない。


 間違っていたら、責任を取るのは自分だ。


 智は戸車を置いた。


 そして、いつも通り、自分の目と手で確認を続けた。


 青白い板は、静かに浮かんでいた。


 まるで、その様子を見守っているかのように。




     *




 午前十時五分。


 修理は、無事に終わった。


 窓は、軽く動くようになっていた。


 年配の女性が、嬉しそうに何度も開け閉めしている。


「あら、すごい。こんなに軽くなるんですね」


「戸車がかなり減ってましたからね」


「助かりました。これで冬も安心です」


「よかったです」


 智は工具を片づけた。


 その時、女性がふと窓の外を見た。


「あら……」


「どうしました?」


「鳥が、全然いないですね」


 智は顔を上げた。


 窓の外には、小さな庭が広がっていた。


 赤く色づいたナナカマド。


 低い塀。


 電線。


 いつもなら、スズメやカラスが飛んでいるのだろう。


 しかし、今は。


 何もいなかった。


 鳥の声が、聞こえない。


 風が葉を揺らす音だけが、静かに響いていた。


「……そうですね」


 智は窓の外を見つめた。


 何となく、胸の奥がざわついた。


 その時だった。


 遠くから、低い音が聞こえた。



 ――ゴオオオ……



 智は眉を寄せた。


 飛行機か。


 大型車両か。


 それとも、工事の音か。


 しかし、音は空からではなかった。


 地面の下。


 もっと深い場所から響いてくるような、低い振動だった。


 窓ガラスが、かすかに震えた。



 カタカタ…



 女性が、不安そうに顔を上げた。


「……地震?」


 智は答えなかった。


 床に、微かな振動が伝わっている。


 昨日の現場で感じたものと、よく似ていた。


 だが、今度はもっと広い。


 もっと遠い。


 まるで、街全体の下で、巨大な何かが動いているようだった。


 智は窓の外を見た。


 住宅街は、静かだった。


 人影もない。


 車も通っていない。


 それなのに、低い音だけが続いている。



 ――ゴオオオオ……



 そして、突然。


 音が止んだ。


 静寂が戻る。


 智は、ゆっくりと息を吐いた。


「……何だったんでしょうね」


 女性が呟いた。


 智は、すぐには答えられなかった。


 ただ、ひとつだけ分かっていた。


 昨日から続く異変は、まだ終わっていない。


 むしろ、


 これから、もっと大きな何かが起ころうとしている。





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