3:世界に開いた穴
いつもの街に、知らない音
午後一時四十六分。
結城智は、コンビニの駐車場で買ったばかりの缶コーヒーを開けた。
ぷしゅ、と小さな音がした。
いつもなら、それだけで少し気持ちが落ち着く。
だが、今日は違った。
頭から離れないものがある。
灰色の腕。
黒く湾曲した爪。
耳の下まで裂けた口。
午前中、規制線の向こうで見たものだった。
智はコーヒーを一口飲んだ。
熱かった。
「……あっつ」
思わず顔をしかめる。
こんな時でも、熱いものは熱い。
当たり前のことに、少しだけ安心した。
スマートフォンには、昼過ぎから何件もの通知が届いていた。
地下開口部に関する速報。
交通規制の拡大。
学校の下校時間変更。
そして、真偽の分からない目撃情報。
『札幌市内で巨大な犬のような生物を目撃』
『地下から謎の鳴き声』
『警察が正体不明の生物を回収したとの情報』
智は最後の記事を開いた。
掲載されていたのは、ぼやけた写真一枚だった。
白い防護服。
金属製の台車。
黒いシート。
見覚えがあった。
「……これだ」
思わず呟く。
写真の隅には、あの細長いものが写っていた。
灰色の指。
黒い爪。
智は画面を拡大した。
画像は粗かったが、少なくとも自分の見間違いではなかったらしい。
そこに何かが載せられていた。
ただ、それが生き物なのか、死体なのか、あるいは別の何かなのかは分からない。
記事のコメント欄には、冗談めいた言葉が並んでいた。
『ゴブリンじゃね?』
『ついにダンジョン実装か』
『異世界転生の始まりですか』
『政府は何を隠してるんだ』
智は眉を寄せた。
「……ダンジョン、ねえ」
ゲームや小説の中なら、聞き慣れた言葉だった。
迷宮。
魔物。
宝物。
剣と魔法。
子供の頃、夢中になったゲームにも、そんな世界があった。
だが、現実に現れた地下空間に、その名前を当てはめていいのだろうか。
もし本当に魔物がいるのなら。
もし人間の常識が通用しない場所なのなら。
そこは、ゲームのように何度でもやり直せる世界ではない。
智はスマートフォンを伏せた。
あの警察官たちの負傷は、現実なのだ。
*
午後二時二十分。
智は、午後の修理依頼先に到着した。
古い二階建ての集合住宅。
依頼内容は、共用廊下にある防火扉の不具合だった。
扉が閉まりきらず、少し開いた状態で止まってしまうという。
管理会社の担当者が、玄関先で待っていた。
「結城さん、急にすみません」
「いえ、大丈夫です。症状は変わってませんか?」
「ええ。今朝から急にひどくなって」
「今朝から?」
「そうなんです。昨日までは、多少閉まりが悪いくらいだったんですけど」
智は扉を確認した。
鋼製の片開き戸。
上部にはドアクローザーが取り付けられている。
扉を開け、手を離す。
ゆっくり閉まる。
だが、最後の数センチで止まった。
「……なるほど」
智はもう一度試した。
同じ位置で止まる。
ラッチが受け金具に届いていない。
扉の位置がずれたのか。
枠が変形したのか。
それとも、クローザーの力が弱くなったのか。
智は工具箱から水平器を取り出した。
枠に当てる。
気泡が、わずかにずれていた。
「……またか」
「何かありました?」
「午前中に見た現場でも、似たような症状があったんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。建具だけじゃなくて、建物側が少し動いてる可能性がありまして」
管理会社の担当者は、不安そうに顔をしかめた。
「地震でもあったんでしょうか」
「体に感じるような揺れはなかったと思いますけど……」
智は言いかけて、口を閉じた。
地下開口部。
地盤異常。
建物の歪み。
頭の中で、別々だった情報がゆっくりと繋がっていく。
もちろん、偶然かもしれない。
古い建物では、枠が歪むことなど珍しくない。
たまたま似た症状が続いただけかもしれない。
だが、もしそうではなかったら。
「……念のため、建物全体の点検も相談した方がいいかもしれません」
「そんなに悪いんですか?」
「いや、今の段階では何とも言えません。ただ、防火扉は万一の時に閉まらないと困りますから」
智は扉の調整を始めた。
丁番。
受け金具。
ドアクローザー。
順番に確認し、必要な箇所を調整する。
金属が触れ合う小さな音が、廊下に響いた。
かちり。
扉が閉まった。
「よし」
智はもう一度開け、手を離した。
ゆっくり閉まる。
最後に、ラッチが受け金具へ収まった。
かちんー
「これで、ひとまず大丈夫です」
「助かりました」
「ただ、もしまた急に閉まりが悪くなったら連絡ください。枠の動きが続いてる可能性もありますから」
担当者は頷いた。
智は工具を片づけた。
その時だった。
――どん。
廊下の奥から、低い音がした。
智は顔を上げた。
「……?」
何か重いものを落としたような音。
しかし、どこか違う。
床の上ではなく、その下から響いてきたように感じた。
管理会社の担当者も、足を止めていた。
「……今の、何ですか?」
「聞こえました?」
「ええ。下から……?」
智は黙って耳を澄ませた。
風が、共用廊下を抜けていく。
遠くで車が走る音。
どこかの部屋から、テレビの音が漏れていた。
そして。
――どん。
もう一度。
今度は、少し近い。
智は床を見た。
コンクリートの表面には、細かな傷があるだけだった。
目立った亀裂はない。
それでも、足元から伝わってくる微かな振動があった。
「……何か、下で工事してます?」
「いえ。この建物に地下はありませんし、工事の予定も聞いてません」
担当者の声が、少し硬くなった。
智は唇を結んだ。
午前中の現場。
床の下から聞こえた、規則的な音。
あの時は、配管か何かだと思った。
しかし、今の音は違う。
もっと大きい。
もっと重い。
そして、妙に生々しい。
――どん。
智は息を止めた。
何かが、下から叩いている。
そんな感覚だった。
*
午後二時四十七分。
音は、突然止まった。
智と管理会社の担当者は、しばらく無言で立っていた。
「……止まりましたね」
担当者が言った。
「ええ」
「何だったんでしょう」
「分かりません」
智は正直に答えた。
分からないものを、分かったふりはできない。
それは、仕事でも同じだった。
「とりあえず、建物の外も確認してみましょう」
二人は階段を下りた。
建物の裏手には、小さな駐車場があった。
雨上がりのアスファルトが、午後の光を反射している。
智は建物の基礎周辺を見て回った。
大きな亀裂はない。
外壁にも、目立った損傷は見られなかった。
だが、排水溝の近くで足が止まった。
「……ん?」
地面に、細い線が走っていた。
アスファルトの継ぎ目ではない。
新しくできたような亀裂だった。
幅は数ミリほど。
そこから、黒い隙間が覗いている。
智はしゃがみ込んだ。
「……これ、いつからありました?」
「え?」
担当者が覗き込む。
「いや、分かりません。普段あまり見ない場所なので」
智はスマートフォンを取り出し、写真を撮った。
その時。
亀裂の奥から、冷たい空気が流れてきた。
「……っ」
智は思わず顔を上げた。
風ではない。
地面の下から、確かに空気が吹き上がってきた。
湿った土の匂い。
古い石のような匂い。
そして、何か別のもの。
鼻の奥に残る、鉄に似た臭い。
「……何だ、これ」
智は小さく呟いた。
担当者も顔をしかめた。
「何か、変な臭いがしませんか?」
「しますね」
智は亀裂を見つめた。
幅は、ほんの数ミリ。
人間どころか、小動物すら通れない。
それなのに、そこから流れてくる空気には、妙な存在感があった。
まるで、地下に巨大な空間があるかのような。
「……一応、ここには近づかない方がいいですね」
「危ないんですか?」
「まだ分かりません。でも、地面の下に空洞ができている可能性もあります」
智は立ち上がった。
「管理会社に連絡して、専門業者に確認してもらってください。状況によっては消防や市にも相談した方がいいと思います」
「分かりました」
担当者はスマートフォンを取り出した。
その時だった。
――ぱき。
乾いた音がした。
智は振り向いた。
亀裂の端。
アスファルトの小さな破片が、ひとつ落ちた。
地面の上ではない。
下へ。
黒い隙間の奥へ、吸い込まれるように消えた。
智は目を見開いた。
「……おい」
次の瞬間。
――ぱき、ぱき。
亀裂が、伸びた。
細い線が、アスファルトの表面を走っていく。
まるで、見えない刃物で地面を切り裂いているかのようだった。
「下がって!」
智は叫んだ。
担当者の腕を掴み、後ろへ引く。
その直後。
――ばきん!
地面が、割れた。
アスファルトが持ち上がり、砕けた破片が跳ねる。
黒い隙間が、一気に広がった。
智は足を踏ん張った。
だが、地面が揺れた。
視界が傾く。
「うわっ!」
担当者が悲鳴を上げた。
智は腕を離さず、必死に後退した。
足元で、アスファルトが崩れる。
靴底が滑った。
身体が、前へ引っ張られる。
「くそっ!」
智は近くのフェンスに手を伸ばした。
指先が金網を掴む。
冷たい金属が、掌に食い込んだ。
そして。
――ごおおおっ!
地面の奥から、低い轟音が響いた。
まるで、巨大な何かが目を覚ましたような音だった。
智は歯を食いしばり、担当者を引き寄せた。
二人は、転がるように安全な場所へ逃れた。
その直後、駐車場の一角が崩れ落ちた。
土砂が舞い上がる。
砕けたアスファルトが、暗闇へ吸い込まれていく。
そして、音が止んだ。
智は地面に膝をついたまま、荒い息を吐いた。
「……はあっ、はあっ……」
心臓が、胸の奥で激しく鳴っていた。
管理会社の担当者も、隣で震えている。
「……な、何が……」
智は答えられなかった。
ゆっくりと顔を上げる。
そこには、さっきまで存在しなかった穴が開いていた。
直径、三メートルほど。
縁には砕けたアスファルトが残り、内部には崩れた土砂が見える。
自然の陥没事故。
最初は、そう思った。
だが。
穴の奥に、何かが見えた。
石だった。
灰色の、平らな石。
そして、その奥には、規則的に並んだ段差があった。
「……階段?」
智の喉が、乾いた音を立てた。
地下へ続く石段。
昨日から、何度もニュースで見たものと同じだった。
しかし、こちらは穴の縁が崩れており、全体の形は分からない。
もともと地下にあった空間が、地盤の崩落で露出したのか。
それとも、別の何かなのか。
智には判断できなかった。
ただ、ひとつだけ分かったことがある。
地下の異変は、規制線の内側だけで起きているわけではない。
*
午後三時六分。
消防と警察が到着した。
智と管理会社の担当者は、建物から離れた場所で事情を聞かれていた。
「地面が割れる前に、何か異常はありましたか?」
警察官が尋ねた。
「下から音がしてました」
智は答えた。
「音?」
「何かを叩くような音です。最初は建物の中で聞こえて、その後、外の亀裂を確認しました」
「地面の亀裂ですね」
「はい。そこから冷たい空気が出ていて……その直後に割れました」
警察官は手帳に書き込んだ。
「写真は撮っていますか?」
「あります」
智はスマートフォンを取り出した。
撮影した写真を見せる。
亀裂。
排水溝。
アスファルトの表面。
警察官は、画面をじっと見つめていた。
「……これ、撮影したのは何時頃ですか?」
「二時四十五分くらいだったと思います」
「ありがとうございます。必要になれば、改めてお話を伺うかもしれません」
「分かりました」
智は頷いた。
その時、少し離れた場所から声がした。
「結城さん!」
管理会社の担当者だった。
顔色が悪い。
だが、怪我はなさそうだった。
「さっきは、本当にありがとうございました」
「いや、無事でよかったです」
「結城さんが引っ張ってくれなかったら、落ちてたかもしれません」
智は少し困ったように笑った。
「俺も危なかったですけどね」
実際、あの時は何も考えていなかった。
危ないと思った。
腕を掴んだ。
それだけだった。
もしフェンスがなかったら。
もし足を滑らせていたら。
考えると、今さら背筋が冷たくなる。
智は自分の右手を見た。
掌に、赤い擦り傷ができていた。
フェンスを掴んだ時のものだろう。
少し血が滲んでいた。
「……痛っ」
今になって痛みを感じた。
人間の身体というものは、妙なものだ。
危険な時には痛みを忘れ、落ち着いてから思い出す。
智はポケットからハンカチを取り出し、掌を押さえた。
*
午後三時三十二分。
智は警察の指示で、少し離れた場所に移動していた。
規制線が張られ、周辺の住民が避難を始めている。
消防隊員が建物の安全を確認し、警察官が通行人を誘導していた。
智は車のそばに立ち、遠くから現場を見つめた。
つい一時間ほど前まで、ただの修理現場だった。
防火扉の調整をして。
管理会社の担当者と話して。
床の下から聞こえる音を、不思議に思って。
それだけだった。
なのに、今は。
駐車場に穴が開き、建物から人々が避難している。
智は深く息を吐いた。
「……何なんだよ、本当に」
その時、現場の方から無線の声が聞こえた。
『内部に人工構造物らしきものを確認。繰り返す、人工構造物らしきものを確認』
智は顔を上げた。
消防隊員たちが、穴の周囲に集まっている。
誰かが照明を向けた。
光が、地下の奥へ差し込む。
智は思わず、一歩前へ出た。
警察官に制止される。
「すみません。ここから先は立入禁止です」
「あ、はい。すみません」
智は足を止めた。
その時だった。
穴の奥から、音がした。
――こん。
小さな音。
しかし、確かに聞こえた。
智の背筋が、ぴくりと動いた。
午前中の現場。
そして、この建物。
同じ音だった。
――こん。
――こん、こん。
規則的な音が、暗闇の奥から響いてくる。
消防隊員の一人が、顔を上げた。
「……今の、何だ?」
別の隊員が、照明を奥へ向けた。
智は息を止めた。
穴の底。
石段のさらに奥。
暗闇の向こうで、何かが動いた。
ほんの一瞬。
灰色の影が、光を横切った。
「……っ!」
智は目を見開いた。
午前中に見た、あの腕。
あの爪。
あの異形。
脳裏に、鮮明に蘇る。
智は叫ぼうとした。
危ない。
そこに何かいる。
そう伝えようとした。
だが、声が出なかった。
喉が、恐怖で固まっていた。
そして。
暗闇の中から、低い唸り声が響いた。
ぐるるるる……。
人間のものではない。
犬でも、熊でもない。
もっと低く、湿った音。
まるで、喉の奥に石を詰め込んだまま唸っているような声だった。
消防隊員たちが、一斉に動きを止めた。
誰かが叫んだ。
「全員、下がれ!」
智は、その声で我に返った。
そして、初めて理解した。
あの穴は、ただ地下へ続いているだけではない。
向こう側からも、何かが上がってこられるのだ。




