2:世界に開いた穴
規制線の向こう側
午前八時四十三分。
結城智は、車のフロントガラスを流れる雨粒を眺めながら、三度目のため息をついた。
「……参ったな」
信号は青だった。
しかし、前の車は動かない。
そのさらに前にも車が並び、交差点の向こうでは警察官が誘導灯を振っていた。
いつもなら十分もかからない道に、すでに二十五分以上かかっている。
ワイパーが左右に動く。
きゅっ、きゅっ。
少し古くなったゴムが、ガラスを擦るたびに耳障りな音を立てた。
「これも交換しないとな……」
仕事では人の家の不具合を見つけるのに、自分の車のこととなると後回しにしてしまう。
智は苦笑した。
カーラジオから、交通情報が流れていた。
『札幌市内では、原因不明の地下開口部が確認されたことに伴い、一部の道路で通行規制が実施されています。周辺では混雑が続いており――』
「分かってるよ。今まさに、その中にいる」
ラジオに文句を言っても仕方がない。
智はハンドルに指を乗せ、軽く叩いた。
昨夜から、街の様子がおかしかった。
正確には、街そのものが変わったわけではない。
建物は昨日と同じ場所に建っている。
コンビニも、ガソリンスタンドも、信号機も。
通勤する人々の服装だって、いつもと変わらない。
ただ、その顔が違った。
歩道を行く人々は、頻繁にスマートフォンを確認していた。
バス停では、数人の男女が何かを話しながら同じ方向を見つめている。
横断歩道を渡る高校生たちも、普段なら笑いながら歩いているところを、今日は妙に声を潜めていた。
誰もが、何かを気にしている。
けれど、その正体をはっきりとは知らない。
そんな空気が、街全体に薄く広がっていた。
信号が赤に変わる。
前の車は、結局一台分しか進まなかった。
「……こりゃ、迂回した方が早いか」
智はカーナビに目を落とした。
目的地は、部品を取り扱う資材店だった。
昨日発注を忘れた部品を、何とか今日中に確保しなければならない。
幸い、朝一番で電話したところ、必要な部品が一つだけ在庫にあるという。
ただし、取り置きは午前中まで。
それを逃せば、次の入荷は数日後になる。
「頼むから、もう少し動いてくれよ……」
智は前方を見つめた。
雨が、少し強くなった。
*
午前九時十六分。
ようやく渋滞を抜けた智は、資材店の駐車場に車を滑り込ませた。
建物の庇から、雨水が細い滝のように落ちている。
店内に入ると、暖房の乾いた空気と、金属部品特有の匂いが鼻をくすぐった。
「おはようございます」
カウンターの奥から、作業着姿の男性が顔を出した。
「お、結城さん。今日は早いですね」
「いやあ、ちょっと発注を忘れてまして」
「珍しいですね」
「そうでもないんですよ。最近、物忘れがひどくて」
「まだそんな歳じゃないでしょう」
「四十七ですよ。もう立派なおじさんです」
男性が笑った。
智もつられて笑う。
こういう、どうでもいい会話が嫌いではなかった。
大した意味のない言葉を交わしているうちに、少しだけ気持ちが軽くなる。
「例の部品、取ってありますよ」
「助かります」
カウンターに置かれた箱を確認する。
型式。
寸法。
付属品。
智は一つずつ確かめた。
今度こそ間違えられない。
「よし、大丈夫です」
「今日は現場ですか?」
「その予定だったんですけど、近くが規制区域になっちゃって」
「ああ、あの穴ですか」
男性の表情が変わった。
「結城さん、ニュース見ました?」
「警察官が怪我したってやつですか?」
「それもそうなんですけど……」
男性は少し声を落とした。
「うちの配送の人間が、今朝、近くを通ったらしいんですよ」
「へえ」
「ものすごい警察の数だったって。自衛隊の車みたいなのも見たって言ってました」
「自衛隊?」
「いや、本当に自衛隊かは分かりませんけどね。大きな車が何台も停まってたそうです」
智は眉を寄せた。
地盤の異常だけなら、土木関係の車両が集まるのは分かる。
しかし、警察官が襲われたという話が本当なら、警備が厳重になるのも当然だろう。
「……何が出てきたんでしょうね」
男性がぽつりと言った。
智は答えなかった。
昨夜見たニュースが頭に浮かんだ。
警察官の負傷。
銃声。
そして、正体不明の生物。
「熊とかじゃないんですかね」
「熊だったら、もう少し話が早い気もしますけど」
「ですよねえ」
男性は苦笑した。
その笑い方には、どこか無理があった。
智は部品の箱を抱え直した。
「とりあえず、俺らは仕事するしかないですね」
「本当、それです」
代金を支払い、店を出る。
外では、雨が上がり始めていた。
雲の切れ間から薄い光が差し込み、濡れたアスファルトが鈍く輝いている。
智は一度空を見上げた。
いつもと同じ、十月の札幌の空だった。
それが、妙にありがたく感じられた。
*
午前十時三十八分。
智は、予定を変更して別の現場へ向かっていた。
地下開口部の近くにある現場は延期になったが、幸い、急ぎではない小さな修理の依頼が一件あった。
古い雑居ビルの勝手口。
扉が床を擦るようになったので、調整してほしいという。
場所は、規制区域から少し離れたところだった。
智は車を停め、工具箱を持って建物へ向かった。
ビルの裏手は、細い路地になっていた。
雨上がりの空気が冷たい。
排水溝からは、湿った土と古いコンクリートの匂いが漂っていた。
勝手口の前には、管理人らしい初老の男性が立っていた。
「結城さんですか?」
「はい。お待たせしました」
「いやいや、急にお願いしてすみませんね」
「大丈夫ですよ。ちょうど予定が空いたところでしたから」
智は扉を確認した。
鋼製の片開き戸。
長年使われているらしく、塗装の一部が剥がれ、下端には錆が浮いていた。
「開けてみてもらえますか?」
管理人が扉を引く。
ぎぎぎ、と嫌な音がした。
扉の下端が、床の金属見切りに擦れている。
「結構下がってますね」
「そうなんですよ。最近急にひどくなりまして」
「最近、ですか?」
「ええ。前から多少は重かったんですが、昨日あたりから急に」
智は扉の上部を見た。
丁番。
枠。
戸当たり。
そして、床との隙間。
「……ちょっと変だな」
「何がです?」
「普通、これだけ扉が下がるなら、丁番に緩みが出てることが多いんですけど」
智はしゃがみ込み、扉の下端を覗き込んだ。
金属の擦れた跡が、新しい。
しかし、丁番には目立った緩みがない。
扉自体が大きく変形した様子もなかった。
智は水平器を取り出した。
扉枠の縦材に当てる。
気泡が、わずかに中心からずれていた。
「……ん?」
反対側も確認する。
こちらも、微妙に傾いている。
さらに床面を調べる。
智は眉をひそめた。
「管理人さん。この建物、最近何か工事しました?」
「工事?」
「基礎の補修とか、外構の掘削とか」
「いやあ、特には……」
管理人は首を傾げた。
「何かおかしいんですか?」
「断定はできませんけど、扉だけの問題じゃないかもしれません」
智は床の隅を指差した。
コンクリートの表面に、細い亀裂が走っていた。
昨日今日でできたものかは分からない。
しかし、その一部には新しく欠けたような跡があった。
「建物の動きが関係してる可能性もあります。扉だけ削って合わせると、原因が残ったままになりますから」
「ええっ、建物が傾いてるってことですか?」
「そこまでは言えません。まずは、いつから症状が出たのか確認した方がいいですね」
智は立ち上がった。
経験上、こういう時に安易なことを言うのはよくない。
建物が傾いている。
そんな言葉を不用意に口にすれば、相手を必要以上に不安にさせてしまう。
かといって、異常を見逃すわけにもいかなかった。
「応急的に扉の擦れを軽くすることはできます。ただ、建物側も一度、専門の人に確認してもらった方が安心です」
「……分かりました」
管理人は不安そうに頷いた。
智は工具を取り出し、作業を始めた。
扉の状態を確かめながら、無理のない範囲で調整する。
金属が触れ合う音。
工具の小さな打撃音。
路地を抜ける風の音。
それらが、静かな裏通りに響いていた。
そして、作業を終えかけた時だった。
――こん。
足元から、小さな音がした。
智は手を止めた。
「……?」
今のは何だ。
工具を落としたわけではない。
管理人が何かを動かした様子もない。
もう一度、耳を澄ます。
――こん。
今度は、はっきり聞こえた。
地面の下。
コンクリートの奥から響いてくるような音だった。
「……配管か?」
智はしゃがみ込んだ。
古い建物では、給排水管が音を立てることがある。
水撃作用や、温度変化による伸縮。
そうしたものなら、特別珍しくはない。
しかし。
――こん。
――こん、こん。
一定の間隔で、音が続いた。
智は顔を上げた。
「管理人さん。この下って、何か設備あります?」
「地下ですか? いや、うちに地下室はありませんけど」
「配管とかは?」
「それはあるでしょうけど……」
智は再び床を見つめた。
音が、止まった。
しばらく待つ。
何も聞こえない。
「……気のせいかな」
智は小さく呟いた。
その時、管理人が不思議そうな顔をした。
「結城さん、どうしました?」
「いや、ちょっと音がしたもので」
「音?」
「下から何か叩くような……」
管理人は耳を澄ませた。
しかし、何も聞こえなかった。
「私は分からなかったですねえ」
「そうですか」
智は立ち上がった。
考えすぎかもしれない。
昨夜から地下のニュースばかり見ているせいで、何でもそちらに結びつけてしまうのだろう。
そう思った。
だが。
工具箱を閉じようとした瞬間、智はもう一度床を見た。
亀裂の奥。
そこに、ほんのわずかな黒い隙間が見えた気がした。
光の加減だろうか。
智は指先で触れようとして、やめた。
仕事の範囲を超えている。
下手に触れば、余計な損傷を与えるかもしれない。
「……念のため、写真を撮っておきますね」
スマートフォンを取り出し、床の亀裂を撮影した。
あとで確認できるように。
それが、この時の智にできる最も現実的な判断だった。
*
午前十一時五十六分。
修理を終えた智は、管理人に作業内容を説明していた。
「扉の擦れは、ひとまず軽くなりました。ただ、さっき話した床の亀裂は気になります。できれば建物の管理会社か、構造を見られる業者に相談してください」
「分かりました。ありがとうございます」
「もし扉がまた急に重くなるようなら、無理に使わないでください」
管理人は何度も頷いた。
智は工具箱を持ち、路地を抜けた。
表通りに出ると、街の音が一気に戻ってきた。
車の走行音。
信号機の電子音。
遠くで鳴る救急車のサイレン。
その音に、智は思わず顔を上げた。
赤い車両が、交差点を横切っていく。
一台。
続いて、もう一台。
「……また何かあったのか?」
周囲の人々も、足を止めていた。
誰かがスマートフォンを掲げている。
別の誰かが、道路の向こうを指差していた。
智は視線を追った。
遠くの空に、ヘリコプターが見えた。
灰色の雲を背景に、ゆっくりと旋回している。
その下には、昨日まで見慣れていた街並みが広がっていた。
ビル。
マンション。
道路。
そして、その一角を遮るように設置された規制線。
「……あそこか」
智は立ち止まった。
現場からは少し距離がある。
地下開口部そのものは、建物に隠れて見えない。
しかし、周辺に集まる車両の数は尋常ではなかった。
警察車両。
消防車。
救急車。
さらに、見慣れない大型の車両まで停まっている。
智は眉をひそめた。
何が起きているのか。
昨夜の襲撃事件と関係があるのか。
そんなことを考えていた時だった。
「……おい、あれ」
近くにいた男性が、声を漏らした。
智は振り向いた。
男性は、規制線の向こうを見つめていた。
顔から、血の気が引いている。
その隣にいた女性が、口元を押さえた。
「……何、あれ……」
智は二人の視線を追った。
最初は、何も見えなかった。
建物の隙間。
警察車両の向こう。
白い防護服を着た人影が、何人か動いている。
その中央に、何かがあった。
大きな、黒い袋。
いや。
袋ではない。
智は目を細めた。
それは、金属製の台車に載せられていた。
全体を厚いシートで覆われている。
しかし、シートの端から、何かが突き出していた。
細長い。
灰色。
先端が、黒く曲がっている。
「……何だ、あれ」
智は思わず呟いた。
突き出しているものは、腕のように見えた。
だが、人間の腕にしては長すぎる。
指のようなものが、五本。
その先には、鋭く湾曲した爪。
智の喉が、ひくりと動いた。
目を離せなかった。
シートが、風に煽られた。
ほんの一瞬。
覆いの下にあったものが見えた。
灰色の皮膚。
異様に長い顎。
そして、耳の下まで裂けた口。
「…………」
智は息を止めた。
理解できなかった。
何を見ているのか。
脳が、すぐには答えを出してくれなかった。
熊ではない。
犬でもない。
人間でもない。
それなのに、どこか人間に似ている。
最も近いものを探そうとして、どれにも当てはまらない。
そんな不快な感覚が、胸の奥から這い上がってきた。
次の瞬間、作業員らしい人物が慌ててシートを押さえた。
異形の姿は、再び隠された。
「……見たか?」
近くの男性が、震える声で言った。
「見ました……」
智は、かろうじて答えた。
「あれ、何なんですかね……」
男性は答えなかった。
誰にも、答えられるはずがなかった。
規制線の向こうでは、台車が建物の陰へと運ばれていく。
白い防護服の人々が、その周囲を取り囲んでいた。
そして、すべてが見えなくなった。
智はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
風が吹く。
冷たい十月の風だった。
だが、背中には嫌な汗が滲んでいた。
「……本物、なのか」
口から漏れた言葉は、自分でも驚くほど小さかった。
昨夜まで、画面の向こうにしか存在しなかったもの。
正体不明の生物。
地下から現れた怪物。
それが、ほんの数百メートル先にいた。
いや。
いたのではない。
今も、この街のどこかにいるのかもしれない。
そう考えた瞬間、智は初めて、はっきりとした恐怖を覚えた。
*
午後零時二十三分。
智は車に戻っていた。
エンジンはかけていない。
運転席に座ったまま、先ほど見たものを思い返していた。
灰色の腕。
黒い爪。
異様に長い顎。
そして、あの口。
「……何だったんだよ、あれ」
智は額に手を当てた。
見間違いだった可能性はある。
遠くから、ほんの一瞬見ただけだ。
シートの下にあったのは、何らかの機材かもしれない。
特殊な模型ということだって、絶対にないとは言い切れない。
しかし。
あの場にいた人々の表情。
防護服の人間たちの慌ただしい動き。
周囲の厳重な警備。
それらすべてが、ただの見間違いではないと告げていた。
智はスマートフォンを取り出した。
ニュースを検索する。
だが、先ほど見たものについての情報はなかった。
警察官の負傷。
地下開口部の調査。
周辺道路の規制。
それだけだった。
「……まだ公表してないのか」
智は画面を閉じた。
しばらく考えてから、佐伯にメッセージを送ろうとした。
『さっき変なものを見た』
そこまで入力して、手を止める。
何を見たと説明すればいいのだろう。
灰色の怪物。
長い爪。
人間とも獣ともつかない生物。
そんな話をしたところで、冗談だと思われるのが関の山だ。
智は文章を消した。
代わりに、短く打ち直す。
『ニュース、まだ騒いでるな。そっちは大丈夫か?』
送信する。
すぐに返事が来た。
『大丈夫。お前こそ変なところ行くなよ』
智は苦笑した。
「……行ってないんだけどな」
もっとも、仕事のついでに規制線の方を見に行ったことは否定できない。
言い訳する気にもならなかった。
スマートフォンを助手席に置く。
フロントガラスの向こうでは、雲の切れ間から陽が差し始めていた。
濡れた道路が、白く光っている。
歩道では、小さな子供が母親の手を握って歩いていた。
子供は水たまりを見つけると、嬉しそうに飛び跳ねた。
母親が何か言う。
子供が笑う。
何でもない光景だった。
智は、その姿をぼんやりと眺めた。
さっきまで、数百メートル先で怪物らしきものが運ばれていた。
それなのに、ここでは子供が水たまりで遊んでいる。
同じ街。
同じ空の下。
その落差が、妙に恐ろしかった。
もし、あの怪物が生きていたら。
もし、規制線を越えてきたら。
この親子は、どうなる。
智は目を伏せた。
「……考えすぎか」
そう呟いたものの、胸の奥に残った冷たさは消えなかった。
やがて、エンジンをかける。
午後にも仕事がある。
いつまでもここにいるわけにはいかない。
智は車を発進させた。
その時。
スマートフォンが短く震えた。
ニュース速報だった。
『政府、国内で確認された地下開口部について緊急対策本部を設置』
智は信号待ちで通知の見出しだけを確認した。
そして、小さく息を吐いた。
「……大ごとになってきたな」
車列が動き始める。
智もアクセルを踏んだ。
彼の背後では、規制線の向こうに広がる地下入口が、なおも静かに口を開けていた。
その奥で何が待っているのか。
まだ、誰も知らなかった。




