1:世界に開いた穴
夜明け前の悲鳴
午前零時十三分。
札幌市内の地下開口部を照らす投光器が、わずかに揺れていた。
発電機の低い唸りと、無線機から流れる断片的な声。
規制線の内側では、数人の警察官が地面に開いた巨大な穴を取り囲んでいた。
「……今、何か見えたか?」
若い警察官が尋ねた。
隣にいた年配の警察官は、答えなかった。
その視線は、地下へと続く石段の奥に釘付けになっていた。
黄色い光。
先ほど見えた、二つの光。
あれは、確かに目だった。
そうとしか思えなかった。
「本部、こちら現場。地下から動物と思われるものを確認。種類は不明。繰り返す、種類は――」
無線の声が途切れた。
ごり。
ごり。
石を擦るような音が、暗闇の奥から響いてくる。
誰かが懐中電灯を向けた。
白い光が、石段の一部を照らす。
そして。
それが、姿を現した。
「……何だ、あれ」
最初に見えたのは、長い腕だった。
人間の腕に似ていた。
だが、異様に細く、肘の位置がおかしい。
灰色がかった皮膚には毛がほとんどなく、指先には黒く湾曲した爪が伸びていた。
続いて、頭が現れた。
犬のように突き出した口。
耳まで裂けたような口元。
そして、黄色く濁った目。
体高は、前屈みの姿勢でも成人男性の胸ほどあった。
それは四つ足で階段を上がりながら、時折、片方の腕を人間のように持ち上げた。
見覚えのある動物に、どこか似ている。
しかし、どの動物とも違う。
生き物の形を、誰かが悪意をもって組み替えたような姿だった。
「止まれ!」
一人の警察官が叫んだ。
意味が通じるはずもない。
それでも、声を出さずにはいられなかったのだろう。
怪物は動きを止めた。
鼻先を持ち上げる。
空気を嗅ぐような仕草。
そして、ゆっくりと口を開いた。
歯が見えた。
人間のものよりはるかに長く、鋭い歯。
その隙間から、粘り気のある唾液が糸を引いていた。
「下がれ! 全員、距離を取れ!」
現場責任者の怒声が響いた。
その瞬間だった。
怪物が跳んだ。
石段を蹴ったのかどうかさえ分からなかった。
灰色の影が、投光器の光を横切る。
次の瞬間、若い警察官が地面に叩きつけられていた。
「ぐあっ!」
短い悲鳴。
怪物の爪が、防護服の袖を引き裂いた。
右肩から胸元にかけて、赤い線が走る。
遅れて血が噴き出した。
「離れろ!」
別の警察官が警棒を振り上げた。
怪物は振り向きざまに腕を払った。
鈍い音がした。
警棒を持っていた男の身体が、横へ弾き飛ばされる。
地面に転がった男は、起き上がろうとして顔を歪めた。
右腕が、不自然な方向に曲がっていた。
「撃て!」
誰かが叫んだ。
乾いた銃声が、夜の札幌に響いた。
一発。
二発。
怪物の肩が跳ねた。
灰色の皮膚に黒い穴が開き、濃い血が流れた。
しかし、倒れない。
怪物は苦痛に顔を歪めるような仕草を見せた後、銃を構えた警察官へと向き直った。
その目に、人間のような怒りが宿っているように見えた。
「……嘘だろ」
警察官の唇が震えた。
怪物が再び地面を蹴った。
三発目の銃声。
そして、絶叫。
投光器が倒れた。
光が地面を滑り、規制線の支柱を照らし、夜空へと向いた。
暗闇の中で、何かが肉を裂く音がした。
助けを求める声が上がった。
無線機が地面に落ちる。
『現場、応答願います。現場、状況を報告してください』
誰も答えなかった。
ただ、荒い呼吸と、低い唸り声だけが聞こえていた。
*
午前零時二十六分。
増援の警察車両が現場に到着した時、怪物の姿はすでになかった。
現場には、血の跡が残っていた。
倒れた投光器。
引き裂かれた制服。
折れた警棒。
そして、動けなくなった警察官たち。
救急隊員が負傷者の手当てを始める。
「意識ありますか! 聞こえますか!」
若い警察官は、うっすらと目を開けた。
顔色は紙のように白い。
右肩の傷からは、まだ血が滲んでいた。
「……あれ……」
「喋らなくていい。今、搬送します」
「……戻る……」
「何が?」
警察官は震える唇を動かした。
「……また……戻ってくる……」
その言葉を最後に、意識を失った。
救急隊員が担架を運び込む。
現場責任者は、血のついた地面を見下ろしていた。
銃弾が命中したことは確認されている。
それなのに、怪物の死体はない。
血痕は、地下へ続く階段の途中で途切れていた。
「……中に戻ったのか」
誰も答えなかった。
ただ、地下入口から吹き上がってくる冷たい空気だけが、彼らの頬を撫でていた。
*
午前六時二十七分。
結城智は、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
「……ん」
薄暗い天井を見つめる。
いつもの朝だった。
少なくとも、目を開けた瞬間は。
枕元のスマートフォンを手に取る。
通知が、見慣れない数だけ溜まっていた。
「……何だ?」
ニュース速報。
緊急会見。
交通規制。
札幌市内で発生した原因不明の襲撃事件。
智は身体を起こした。
「襲撃……?」
記事を開く。
そこには、信じがたい内容が書かれていた。
『札幌市内の地下開口部付近で警察官複数名が負傷。現場では銃器が使用されたとみられ、警察が詳しい経緯を調査しています』
智は眉をひそめた。
銃器。
警察官の負傷。
そして、地下開口部。
「……昨日のあれか」
すぐにテレビをつけた。
画面には、夜間に撮影された現場の映像が流れていた。
規制線の向こうに並ぶ救急車。
多数の警察車両。
そして、地下入口を取り囲む警察官たち。
『警察は、何らかの生物が関与した可能性も含めて調査していますが、現時点で詳細は明らかにされていません』
「生物……?」
智はリモコンを握り直した。
昨日、海外の動画で見た影。
暗闇の中を横切った、細長い何か。
あれと関係があるのだろうか。
画面が切り替わった。
目撃者らしい男性が、顔を隠した状態で話している。
『人間じゃなかったと思います。四つ足で走ってたんですけど……途中で立ち上がったように見えて』
男性の声は震えていた。
『犬とか熊とか、そういうのじゃないです。もっと……変な形で……』
智は黙って聞いていた。
作り話にしては、声が切迫している。
もちろん、恐怖の中で見間違えることはある。
暗い場所なら、なおさらだ。
だが、銃声まで聞こえたという。
「……冗談じゃ済まないな」
智はテレビを見つめた。
その時、スマートフォンが鳴った。
取引先からだった。
「はい、結城です」
『おはようございます。朝早くすみません』
「いえ、大丈夫です」
『今日の現場なんですが、予定を変更できませんか?』
「……ああ、部品の件ですよね。すみません、こちらも確認が必要で――」
『いや、それもあるんですけど』
相手は少し言い淀んだ。
『現場の近くが、立入規制になってるらしいんですよ』
「……え?」
『地下に変な穴が開いたとかで。道路も一部通れなくなってるみたいでして』
智は、ゆっくりとテレビに目を向けた。
画面には、札幌市内の交通規制区域が表示されていた。
その一角に、見覚えのある地名があった。
今日、向かう予定だった現場の近くだった。
「……なるほど」
智は短く答えた。
昨日まで、世界のどこかで起きている奇妙なニュースに過ぎなかった。
それが今、仕事の予定を変えようとしている。
智はスマートフォンを持ち直した。
「分かりました。現場は一度延期にしましょう。部品の件も含めて、こちらから改めて連絡します」
『すみません。助かります』
「いえ、安全第一ですから」
電話を切る。
智はしばらく動かなかった。
テレビでは、地下開口部の映像が流れ続けている。
その奥に、何があるのか。
何が出てきたのか。
誰にも分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
もう、昨日までと同じ日常ではない。
「……参ったな」
智は小さく呟いた。
それから、立ち上がった。
まずは朝飯だ。
仕事の予定が変わったなら、組み直さなければならない。
ニュースがどれほど騒がしくても、腹は減る。
請求書だって勝手には片づかない。
それが、結城智という男の日常だった。
しかし。
この朝を境に、その当たり前が少しずつ失われていくことを、智はまだ知らなかった。




