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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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5/30

5:四十七歳の朝

            忘れられない名前





 午後十時二十一分。

 結城智(ゆいしろさとる)は、テレビの前から動けずにいた。

 札幌市内で確認された地下開口部。

 その周辺を警戒していた警察官との連絡が、一時途絶えたという。

 続報は、まだない。

 画面には何度も同じ映像が流れていた。

 暗闇に浮かぶ赤色灯。

 規制線の向こうに集まる人々。

 そして、道路に開いた巨大な穴。

 智はリモコンを手に取り、音量を少し下げた。

「……無事だといいけどな」

 誰に聞かせるでもなく呟いた。

 警察官の顔も名前も知らない。

 それでも、仕事で現場に出た人間が帰ってこないかもしれないという話は、他人事に思えなかった。

 智自身、危険な現場に立ち会ったことは何度もある。

 割れたガラス。

 不安定な足場。

 重量のある建具。

 ほんの少し判断を誤れば、大怪我につながる。

 だからこそ、危険を軽く見てはいけない。

 それは分かっている。

 だが、世の中には、危険だと分かっていても行かなければならない場所がある。

 誰かを助けるため。

 仕事を果たすため。

 あるいは、自分が行かなければ誰も行かないから。

「……難しいよな」

 智は小さく息を吐いた。

 テレビでは、専門家たちが地下空間の成因について議論していた。

 地質学的な異常。

 未知の地下構造物。

 人工的な施設の可能性。

 どれも、決定的な説明にはなっていない。

 智は画面を見つめたまま、ふと考えた。

 もし自分が、あの穴の近くにいたら。

 もし、誰かが助けを求めていたら。

 どうするだろう。

 危険だから近づかない。

 それが正しい。

 少なくとも、今の自分にはそう言える。

 だが、本当にその場に立った時も、同じ判断ができるだろうか。

「……まあ、考えても仕方ないか」

 智はテレビを消した。

 部屋に静けさが戻る。

 時計の秒針だけが、小さく音を立てていた。



     *



 午後十時四十分。

 智は机に向かい、明日の予定を確認していた。

 部品の在庫確認。

 取引先への連絡。

 現場の日程調整。

 今日の失敗を取り戻すには、朝から動かなければならない。

「……よし」

 手帳に必要なことを書き込み、スマートフォンにも通知を設定する。

 今度こそ忘れないように。

 その時、机の引き出しが少し開いていることに気づいた。

「ん?」

 閉めようとして、手が止まった。

 引き出しの奥に、古い封筒が見えたからだ。

 薄いクリーム色の封筒。

 端が少し黄ばんでいる。

 智はしばらくそれを見つめた。

「……まだあったんだな」

 もちろん、捨てていないことは知っていた。

 ただ、普段は意識しないようにしていただけだった。

 封筒を取り出す。

 中には、一枚の写真が入っていた。

 随分昔のものだ。

 写真の表面には細かな傷があり、色も少し褪せている。

 そこには、二人の子供が写っていた。

 小学生くらいの男の子と、女の子。

 背景には、どこかの公園らしい景色が広がっている。

 男の子は、少し不機嫌そうな顔をしていた。

 女の子は、その隣で楽しそうに笑っている。

「……俺、こんな顔してたっけ」

 智は苦笑した。

 写真の男の子は、自分だった。

 そして、その隣にいる女の子。

 斎藤奏(さいとうかなで)。

 名前を心の中で呼んだだけで、不思議と胸の奥が静かになった。

 最後に会ったのは、いつだっただろう。

 もう、随分長い時間が経っている。

 互いに大人になり、それぞれの人生を歩いてきた。

 今、どこで何をしているのか。

 幸せに暮らしているのか。

 智は知らなかった。

 知ろうと思えば、何か方法はあったのかもしれない。

 だが、積極的に探すことはしなかった。

 会いたくなかったわけではない。

 むしろ、その逆だった。

 会いたいと思う気持ちが、今でも残っているからこそ。

 何も知らないままでいる方が、楽だったのかもしれない。

「……馬鹿だな、俺も」

 智は写真を見つめた。

 子供の頃の奏は、よく笑う女の子だった。

 少し勝ち気で、言いたいことははっきり言う。

 それでいて、誰かが困っていると、放っておけない。

 智が怪我をした時には、誰よりも先に駆け寄ってきた。

 泣きそうな顔で怒られたこともある。


 ――何やってるの、智(さとる)!


 そんな声が、今でも耳の奥に残っている。

 智は小さく笑った。

「……今でも怒られそうだな」

 今日の仕事ぶりを見られたら、きっと呆れられるだろう。

 発注を忘れ、約束の時間に遅れ、仕事中も妙なニュースに気を取られていた。

 昔から、何かに夢中になると周りが見えなくなる。

 その癖は、四十七歳になっても治っていない。

 奏は、そんな智をよく叱った。

 けれど、最後には必ず笑ってくれた。

 智は写真の端を指でなぞった。

 そこに写る二人には、まだ未来が無数にあった。

 どんな大人になるのか。

 どこで暮らすのか。

 誰と人生を歩くのか。

 何一つ決まっていなかった。

 あの頃は、時間というものが、いくらでもあるように思えた。

 だが、実際にはそうではなかった。

 気づけば四十七歳。

 振り返れば、あっという間だった。

「……元気でいろよ」

 智は静かに呟いた。

 誰に届くこともない言葉だった。

 そして、写真を封筒に戻した。

 大切なものだからといって、いつまでも眺めているわけにはいかない。

 過去は過去だ。

 今を生きなければならない。

 それは、智が長い年月をかけて覚えたことの一つだった。



     *



 午後十一時十八分。

 智はシャワーを浴び、寝室に入った。

 明日の朝は早い。

 いつもより少し早めに目覚ましを設定する。

 布団に入り、天井を見上げた。

 今日も、いろいろあった。

 仕事では失敗した。

 客には喜んでもらえた。

 奇妙なニュースを見た。

 そして、久しぶりに奏の写真を眺めた。

 考えてみれば、何ともまとまりのない一日だった。

「……明日は、もう少しまともにやるか」

 智は目を閉じた。

 しかし、なかなか眠れなかった。

 頭の中に、あの地下入口の映像が浮かぶ。

 整いすぎた輪郭。

 暗闇へ続く階段。

 石造りの壁。

 そして、行方が分からなくなった警察官。

 あれは、いったい何なのだろう。

 誰が作ったのだろう。

 何のために。

 考えれば考えるほど、疑問が増えていく。

 智は寝返りを打った。

「……やめだ、やめ」

 明日の仕事に響く。

 そう自分に言い聞かせ、再び目を閉じる。

 しばらくして、ようやく眠気が訪れた。

 意識が沈みかけた、その時。

 枕元のスマートフォンが震えた。

「……ん?」

 智は薄く目を開けた。

 通知が一件。

 ニュース速報だった。

 画面には、短い文章が表示されていた。

『札幌市内の地下開口部付近で負傷者を確認。警察が詳しい状況を調査中』

 智は身体を起こした。

「……負傷者?」

 記事を開く。

 しかし、詳しい情報はまだ掲載されていなかった。

 負傷したのが警察官なのか、一般人なのかも分からない。

 何が原因で怪我をしたのか。

 誰かに襲われたのか。

 事故なのか。

 何も分からなかった。

 智はしばらく画面を見つめた。

 そして、ゆっくりとスマートフォンを伏せた。

「……嫌な感じだな」

 理由は説明できない。

 ただ、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚があった。

 朝、テレビで見た海外の地下空間。

 その時は、遠い世界の珍しいニュースでしかなかった。

 しかし、今は違う。

 同じ現象が、札幌で起きている。

 誰かが怪我をした。

 誰かが帰ってこられないかもしれない。

 それはもう、単なる好奇心で眺めていられる話ではなかった。

 智は天井を見上げた。

 部屋は静かだった。

 窓の外では、時折車の走る音が聞こえる。

 いつもと変わらない夜。

 いつもと変わらない街。

 少なくとも、今はまだ。



     *



 同じ頃。

 札幌市内の、とある地下開口部。

 規制線の内側では、警察官たちが慌ただしく動いていた。

 大型の照明が、地面に開いた巨大な穴を照らしている。

 その傍らに、一人の男性が横たわっていた。

 制服を着た警察官だった。

 右腕には、深い傷があった。

 布で圧迫されているものの、血は完全には止まっていない。

「救急車、まだか!」

「もうすぐ到着します!」

 若い警察官が、震える声で答えた。

 負傷した男性は、意識こそあったものの、顔色がひどく悪かった。

 呼吸も荒い。

 上司らしい男性が、その傍らに膝をついた。

「何があった。中で何を見た?」

 負傷者は唇を動かした。

 だが、声にならない。

「落ち着け。ゆっくりでいい」

 男性は耳を近づけた。

 負傷した警察官は、かすれた声で何かを呟いた。

「……違う……」

「何が違う?」

「……あれは……」

 そこで言葉が途切れた。

 男性は眉をひそめた。

「何だ。何がいた?」

 負傷者の目が、大きく見開かれた。

 その視線は、上司の顔を見ていなかった。

 背後。

 地面に開いた巨大な穴。

 その奥の暗闇を、まっすぐ見つめていた。

「……人じゃ、ない……」

 誰も、すぐには言葉を返せなかった。

 その時。

 穴の奥から、低い音が響いた。

 ごり、と。

 硬いものが、石を擦るような音だった。

 警察官たちが一斉に振り向く。

 照明の光が、暗闇へ向けられた。

 何も見えない。

 ただ、黒い階段が下へと続いている。

 数秒間の沈黙。

 やがて、再び音がした。

 今度は、先ほどよりも近い。

 ごり。

 ごり。

 何かが、階段を上がってくる。

 誰かが無線機を握りしめた。

「……本部、こちら現場。地下から異音を確認。至急、応援を――」

 その声が、不意に止まった。

 階段の奥。

 照明の届かない闇の中に。

 二つの、小さな光が浮かんでいた。

 黄色く濁った、獣の目のような光。

 それが、ゆっくりと持ち上がる。

 誰かが息を呑んだ。

 そして。

 暗闇の中から、何かが低く唸った。

 その声は、少なくとも彼らが知るどんな動物のものとも違っていた。




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