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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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4/33

4:四十七歳の朝

            地面の下から




午後七時十二分。

 結城智(ゆいしろさとる)は、ようやく自宅の駐車場に車を停めた。

「……疲れた」

 エンジンを切り、ハンドルに額を預ける。

 朝から四件の現場を回り、見積書を一件作成し、さらに明日の部品発注を忘れていたことまで発覚した。

 なかなか充実した一日だった。

 もちろん、悪い意味で。

「明日の朝一番で電話して……在庫がなかったら日程変更か」

 考えるだけで気が重い。

 だが、仕方がない。

 忘れたのは自分なのだ。

 智は工具の一部を車内に残し、仕事用の鞄を持って部屋へ戻った。

 玄関の照明をつける。

 誰もいない部屋。

 静かな空気。

 いつもの光景だった。

「ただいま」

 返事がないことを承知で声をかける。

 靴を脱ぎ、上着をハンガーに掛けた。

 冷蔵庫を開けると、昨日買った弁当と卵が二つ。

 野菜室には、少しくたびれたキャベツが残っている。

「……今日は弁当でいいか」

 電子レンジに弁当を入れ、温める。

 その間にテレビをつけた。

『――続いて、北海道内で相次いで確認されている地盤異常についてです』

 智の手が止まった。

 画面には、札幌市内の道路が映っていた。

 警察車両。

 規制線。

 集まった報道陣。

 そして、地面に開いた黒い穴。

「……おいおい」

 智はリモコンを手に取り、音量を上げた。

『本日午後、札幌市内の複数箇所で地面に異常な開口部が確認されました。現在、警察と消防が周辺への立ち入りを規制しています』

 映像が切り替わる。

 今度は、上空から撮影されたらしい穴の様子だった。

 智は思わずテレビに近づいた。

 穴は、道路の一角に開いていた。

 直径は十メートルほどだろうか。

 だが、普通の陥没事故とは明らかに違っていた。

「……なんだ、これ」

 縁が、あまりにも整いすぎている。

 崩れたアスファルトも、周囲に散乱した土砂も見当たらない。

 まるで巨大な円形の蓋を、地面から綺麗に取り外したようだった。

 さらに奇妙なのは、その内側だった。

 穴の壁面には、石造りの構造物らしきものが見える。

 均等な幅で並ぶ石。

 一定の間隔で刻まれた溝。

 自然の地層には見えなかった。

「いや……地下にこんな構造物があったら、工事の時に分かるだろ」

 智は独り言を漏らした。

 札幌の地下には、地下鉄もあれば、共同溝や上下水道などの埋設設備もある。

 もちろん、すべての地下構造物を智が把握しているわけではない。

 だが、道路の真下にこれほど大きな空間が存在していたなら、何らかの記録が残っていてもおかしくない。

 それが突然現れたという。

 しかも、世界各地で同じような現象が起きている。

 智は腕を組んだ。

「……地盤沈下じゃ説明つかないな」

 テレビでは、専門家らしい男性が説明を始めていた。

『通常の陥没事故では、周辺地盤の崩落や亀裂が見られます。しかし今回の映像では、そうした特徴が確認できません。現時点では原因を断定できない状況です』

「だよなあ」

 思わず相槌を打つ。

 その時、電子レンジが鳴った。

 弁当の温めが終わったらしい。

 だが、智は動かなかった。

 画面から目が離せなかったのだ。



     *



 午後七時四十分。

 智は食卓に弁当を置き、スマートフォンで関連記事を調べていた。

 ニュースサイト。

 SNS。

 海外の報道。

 次々に情報が流れてくる。

 札幌だけではない。

 東京、大阪、仙台、福岡。

 さらに、ロンドン、ニューヨーク、パリ、上海。

 世界各地で、ほぼ同時に同じような地下空間が確認されているらしい。

「……世界規模かよ」

 智は箸を止めた。

 中には、現場に近づいて撮影した動画もあった。

 警察官に制止される人々。

 興奮した声。

 巨大な穴を覗き込むカメラ。

 その奥には、暗闇へ続く階段が映っていた。

「階段……?」

 智は画面を拡大した。

 確かに、階段だった。

 自然にできたものではない。

 人間が作ったように見える。

 いや、人間が作ったと考える方が自然だった。

 しかし、それなら誰が、いつ、何のために。

 疑問ばかりが浮かんでくる。

 別の動画を開く。

 今度は海外の映像だった。

 地下入口の奥を、強力なライトで照らしている。

 石造りの通路。

 天井には、規則的に並んだ奇妙な模様。

 その奥で、何かが動いたように見えた。

「……ん?」

 智は動画を止めた。

 巻き戻す。

 もう一度再生する。

 暗闇の中に、細長い影が横切った。

 人間だろうか。

 動物だろうか。

 画質が悪く、判別できない。

 コメント欄には、さまざまな憶測が書き込まれていた。

『地下に未知の生物がいるんじゃないか?』

『これ、映画の撮影だろ』

『政府が何か隠してる』

『世界中で同時に起きるわけない』

『日本でも出てるぞ』

 智は苦笑した。

「まあ、そうなるよな」

 情報が少ない時ほど、人は好き勝手なことを言う。

 自分だって、つい想像してしまう。

 だが、映像に映っているものが本物なら、ただの噂話では済まない。

 智は弁当を食べ終え、ようやく冷めたお茶を飲んだ。

 その時、スマートフォンが震えた。

 佐伯からのメッセージだった。

『おい、ニュース見たか? 札幌にも変な穴が開いたらしいぞ』

「見てるよ……」

 智は返信した。

『見た。普通の陥没には見えないな』

 すぐに返事が来た。

『お前、こういうの好きだろ?』

『まあ、興味はある』

『見に行ったりするなよ(笑)』

 智は笑った。

『行かねえよ。立入禁止だろ』

 送信してから、少し考えた。

 正直なところ、見てみたい気持ちはあった。

 実際に近づいて、入口の構造を確認したい。

 壁面は何でできているのか。

 どれほど深いのか。

 内部はどうなっているのか。

 考え始めると、興味が尽きない。

「……いやいや、仕事が先だ」

 智は自分に言い聞かせた。

 明日の部品発注すら忘れている人間が、未知の地下空間に首を突っ込んでいる場合ではない。

 もっとも、そう考えた直後に、別のニュース動画を開いてしまったのだが。



     *



 午後八時十五分。

 智はようやくパソコンを開き、残っていた事務仕事に取りかかった。

 請求書の整理。

 見積書の確認。

 明日の現場の資料。

 やることは山ほどある。

 だが、集中できなかった。

 頭の片隅に、あの地下入口が引っ掛かっている。

「……石造り、か」

 智は思わず呟いた。

 映像に映っていた壁面。

 あれが本当に石造りだとしたら、相当な重量があるはずだ。

 それを支える構造はどうなっているのか。

 地下水の影響は。

 換気は。

 そもそも、なぜ崩れない。

 次々に疑問が浮かぶ。

 智は仕事用のメモ帳を引き寄せた。

 そこに、簡単な断面図を描き始める。

 地表。

 開口部。

 階段。

 地下通路。

 映像から分かる範囲を、線で整理していく。

「……おかしい」

 智はペンを止めた。

 映像では、階段がかなり深くまで続いていた。

 だが、その下にあるはずの地盤の状態が分からない。

 もちろん、映像だけで判断できることではない。

 それでも、妙だった。

 地下構造物には、必ず何らかの施工過程がある。

 掘削し、支え、材料を運び込み、組み立てる。

 どれほど高度な技術でも、何もない場所に突然完成品が現れるわけではない。

 少なくとも、智が知る建築の常識では。

「……誰が作ったんだ、これ」

 メモ帳に、その言葉を書き込んだ。

 そして、ふと手を止める。

 誰が作ったのか。

 それ以前に。

 本当に、作られたものなのか。

 その疑問が浮かんだ瞬間、背筋に小さな寒気が走った。

 智は首を振った。

「……考えすぎだな」

 時計を見る。

 午後九時を過ぎていた。

 仕事は、ほとんど進んでいない。

「またやっちまった……」

 智は深いため息をついた。

 好奇心というものは、時として厄介だった。



     *



 午後九時三十七分。

 テレビでは、緊急の記者会見が始まっていた。

 画面には、政府関係者らしい男性が映っている。

『現在、国内で確認されている地下開口部について、関係機関が連携して調査を進めています。周辺には危険が伴う可能性がありますので、一般の方は絶対に近づかないようお願いいたします』

 記者から質問が飛ぶ。

『海外でも同様の現象が確認されていますが、関連性はあるのでしょうか?』

『現時点では調査中です』

『内部に生物がいるという情報がありますが?』

『確認された事実については、適切な時期に公表いたします』

『人が内部に入ったという情報は?』

 一瞬、会見場がざわついた。

 男性は手元の資料に目を落とした。

『……現在、確認を進めています』

 智は眉をひそめた。

「……入った奴がいるのか?」

 それは十分にあり得る話だった。

 未知の場所を見つければ、誰かが入ろうとする。

 危険だと分かっていても、好奇心に勝てない人間はいる。

 智自身、少し前まで見に行きたいと思っていたのだから、人のことは言えない。

 しかし、もし内部に危険な生物がいたら。

 もし、帰り道が分からなくなったら。

 考えただけでも恐ろしい。

 智は腕を組んだ。

「……さすがに、入るのは無茶だろ」

 そう呟いた時だった。

 テレビの画面が切り替わった。

『速報です』

 女性アナウンサーの声が、わずかに硬くなっていた。

『札幌市内で確認された地下開口部の一つについて、周辺の警戒にあたっていた警察官との連絡が一時途絶えたとの情報が入っています』

「……は?」

 智は思わず身を乗り出した。

『現時点で詳しい状況は分かっていません。消防などが現場に向かっているということです』

 画面には、夜の札幌が映し出された。

 赤色灯。

 規制線。

 暗闇の中にぽっかりと開いた穴。

 そして、その奥へ向けられた強力な照明。

 光は、途中で闇に飲み込まれていた。

 智はしばらく黙って画面を見つめた。

 誰かが、あの中にいるのかもしれない。

 戻ってこられないのかもしれない。

 そう考えた瞬間、昼間まで感じていた好奇心が、少しだけ別のものに変わった。

 不安。

 恐怖。

 そして、説明のつかない胸騒ぎ。

「……何が起きてるんだよ」

 答えはなかった。

 テレビの向こうでは、警察官たちが慌ただしく動いている。

 その背後で、巨大な地下入口は静かに口を開けていた。

 まるで、何かを待っているかのように。




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