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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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3/32

3:四十七歳の朝

                  見落としたもの




午後四時七分。

「……七分遅刻か」

 結城智は、豊平区の小さな商業ビルの前に車を停めた。

 予定では四時ちょうどに到着するはずだった。

 しかし、途中の道路が思いのほか混んでいた。

 正確に言えば、出発が遅れたのが一番の原因なのだが。

「まあ、七分なら……いや、駄目だな」

 智は苦笑しながら、スマートフォンを取り出した。

 約束の時間を過ぎている。

 まずは謝るべきだろう。

 佐伯から送られてきた番号に電話をかけると、数回の呼び出し音の後、落ち着いた女性の声が聞こえた。

『はい、喫茶こもれびです』

「あ、今日自動ドアの件で伺う予定の結城です。到着が少し遅れてしまいまして、申し訳ありません」

『ああ、結城さんですね。大丈夫ですよ。お待ちしてました』

「ありがとうございます。今、建物の前に着きましたので」

 電話を切り、智は車を降りた。

 建物は三階建て。

 一階に喫茶店、二階には小さな事務所がいくつか入っているらしい。

 外壁は少しくたびれていたが、入口には季節の花が飾られていた。

 古い建物を大切に使っている。

 そんな印象を受けた。

 智は工具箱を手に、自動ドアの前に立った。

 ガラス扉には、白い文字で『喫茶こもれび』と書かれている。

 近づくと、ドアはゆっくり開いた。

 しかし、開ききる直前で小さく震え、妙な音を立てた。

「……ああ、なるほど」

 智は足を止めた。

 もう一度、ドアの動きを確認する。

 開く。

 止まる。

 わずかに戻る。

 そして、再び開く。

「駆動系か……?」

 思わず独り言が漏れた。

 その時、店内から声がした。

「結城さん、ですか?」

 振り向くと、エプロン姿の女性が立っていた。

 五十代半ばくらいだろうか。

 柔らかな表情の、落ち着いた雰囲気の女性だった。

「はい。遅くなってすみません」

「いえいえ。急にお願いしたのはこちらですから」

「さっそく見せてもらってもいいですか?」

「もちろんです。どうぞ」

 智は店内に入り、ドアの状態について話を聞いた。

 不具合が出始めたのは一週間ほど前。

 最初はたまに引っ掛かる程度だったが、ここ二、三日で症状がひどくなったという。

「昨日なんて、お客さんが出ようとした時に途中で止まっちゃって」

「それは困りますね」

「そうなんです。古い機械だから、もう交換しなきゃ駄目なのかしら」

「まずは調べてみましょう。直せるものなら直した方がいいですから」

 智はそう答えた。

 交換すれば簡単に済むこともある。

 だが、使えるものを何でも新しくすればいいとは思わなかった。

 古いものには、古いものなりの良さがある。

 何より、修理で済むなら客の負担も少ない。

 それが智の仕事に対する考え方だった。



     *



 自動ドアの点検を始めて、三十分ほどが経過した。

「……おかしいな」

 智は脚立の上で眉をひそめた。

 駆動ベルトに目立った傷みはない。

 モーターの動作も、極端に悪いわけではなかった。

 制御装置にも明確なエラーは出ていない。

 それなのに、ドアは開閉の途中で不規則な動きをする。

 原因が絞り込めない。

 こういう時、智は少し楽しくなる。

 もちろん、客が困っていることを喜んでいるわけではない。

 分からないことがある。

 それを一つずつ調べて、答えに近づいていく。

 その過程が好きなのだ。

「センサーじゃない……いや、待てよ」

 智は脚立から降り、入口の外へ回った。

 ドアの上部に取り付けられたセンサーを確認する。

 次に床面。

 ガラスの反射。

 周囲の照明。

 気になる箇所を一つずつ確かめた。

 そして、あることに気づいた。

「……これか?」

 入口脇に置かれた観葉植物。

 背の高い鉢植えで、葉の一部が自動ドアの検知範囲に入り込んでいるように見えた。

 智は店主に声をかけた。

「すみません。この鉢植え、ちょっとだけ動かしてもいいですか?」

「ええ、構いませんけど……」

 鉢を少し移動させる。

 再びドアを動かす。

 開く。

 閉まる。

 もう一度。

 今度は、途中で止まらなかった。

「おっ」

 智は口元を緩めた。

 さらに数回、動作を確認する。

 異常は出ない。

「どうやら、これが原因の一つだったみたいですね」

「えっ、この植木が?」

「センサーが反応していた可能性があります。少なくとも、今は正常に動いています」

「そんなことがあるんですねえ」

「意外とあるんですよ。機械そのものが悪いとは限らないんです」

 店主は感心したように頷いた。

「さすがですね」

「いやいや、たまたま気づいただけですよ」

 智は笑った。

 しかし、その言葉とは裏腹に、胸の中には小さな達成感があった。

 こういう瞬間が、たまらなく好きだった。

 複雑に見えた問題が、ほんの小さなきっかけで解ける。

 世界が少しだけ単純になるような感覚。

 智は工具を片づけながら、もう一度ドアを動かした。

 問題なく開閉する。

「よし」

 満足げに頷いた。

 だが、その時だった。

 ドアが閉まりきる直前。

 ほんの一瞬だけ、ガラス扉が不自然に震えた。

 智は気づかなかった。

 工具箱の中に、ドライバーをしまおうとしていたからだ。



     *



「本当に助かりました」

 店主は何度も礼を言った。

「いえ。しばらく様子を見てください。また同じ症状が出るようなら、別の原因も調べる必要がありますから」

「分かりました」

 智は作業内容を簡単に説明し、店を出た。

 外はすっかり薄暗くなっていた。

 十月の札幌は、日が落ちるのが早い。

 時計を見る。

 午後五時二十分。

「さて、帰るか」

 智は車に乗り込み、エンジンをかけた。

 そこで、ふと何かが引っ掛かった。

「……ん?」

 今日の仕事。

 東区の玄関ドア。

 白石区の窓。

 中央区の自動ドア。

 そして、今の喫茶店。

 何か忘れているような気がする。

 智はしばらく考えた。

「……まあ、いいか」

 思い出せないということは、大したことではないのだろう。

 そう自分に言い聞かせ、車を走らせた。

 十分後。

 スマートフォンが鳴った。

 画面には、取引先の名前が表示されていた。

 智は車を安全な場所に停め、電話に出た。

「お世話になってます、結城です」

『あ、結城さん。明日の現場の件なんですけど』

「はい」

『部品、手配できてますよね?』

「…………」

 智は無言になった。

 部品。

 明日の現場。

 そうだ。

 朝、思い出したはずだった。

 発注しなければならない部品があった。

 しかも、明日の朝一番で使う予定のものだ。

「……すみません。今、確認します」

 電話を保留にし、スマートフォンのメールを開いた。

 発注履歴。

 なし。

 注文確認メール。

 なし。

「……やっちまった」

 思わず額を押さえた。

 朝、確かに思い出した。

 しかし、見積書に追われ、現場を回り、途中でニュースを見て。

 結局、発注していなかった。

 智は深く息を吐き、電話に戻った。

「申し訳ありません。発注が漏れてました」

『えっ、明日使うんですよ?』

「分かってます。今から在庫を確認して、手配できるか当たってみます」

『頼みますよ、本当に』

「はい。すみません」

 電話を切る。

 智はしばらくハンドルを見つめていた。

「……何やってんだ、俺」

 仕事に慣れていないわけではない。

 むしろ、長年やってきた。

 だからこそ、こういう失敗が情けなかった。

 確認しておけば防げた。

 メモを見返せばよかった。

 たったそれだけのことなのに。

 智はすぐに部品の仕入先へ電話をかけた。

 しかし、営業時間はすでに終わっていた。

 別の業者にも連絡する。

 こちらも繋がらない。

 明日の朝、開店と同時に在庫を確認するしかない。

 場合によっては、現場の予定を変更しなければならないだろう。

「……参ったな」

 智は天井を仰いだ。

 その時、車内にニュース速報の通知音が響いた。

 何気なく画面を見る。

 そこには、見慣れた地名が表示されていた。

『北海道内で原因不明の地盤異常を確認』

「……北海道?」

 智は通知を開いた。

 記事はまだ短かった。

 道内の複数箇所で、地面の一部が突然変化したとの通報があり、関係機関が調査を始めているという。

 詳しい場所は公表されていない。

 写真もなかった。

 しかし、記事の最後に気になる一文があった。

『海外で相次いでいる地下空間の発見との関連については、現時点で不明とされています』

「……まさか、な」

 智は小さく呟いた。

 朝、海外のニュースで見た地下空間。

 昼に動画で確認した、妙に整った入口。

 そして、北海道で起きた地盤異常。

 偶然だろうか。

 それとも。

 智は記事を読み返した。

 しかし、そこに答えはなかった。

 しばらくして、スマートフォンを助手席に置く。

「……考えても仕方ないか」

 今の自分にできることは何もない。

 それより、明日の部品の手配だ。

 智は車を走らせた。

 夜の札幌へ向かって。



     *



 午後六時過ぎ。

 喫茶こもれびの店主は、閉店準備をしていた。

 客のいなくなった店内には、静かな音楽が流れている。

 カウンターを拭き、食器を片づけ、最後に入口の自動ドアを確認する。

「……あら?」

 ドアが、わずかに震えた。

 開く。

 閉まる。

 もう一度。

 今度は正常だった。

「気のせいかしら」

 店主は首を傾げた。

 結城という修理屋は、丁寧に調べてくれた。

 説明も分かりやすく、感じのいい人だった。

 だから、きっと大丈夫だろう。

 そう思い、照明を落とした。

 その時。

 誰もいない入口の自動ドアが、ゆっくりと開いた。

 店主は振り向いた。

「……?」

 外には誰もいなかった。

 風も吹いていない。

 センサーの前を通る人影もない。

 それなのに、ドアは開いたままだった。

 数秒後。

 何事もなかったかのように、静かに閉まった。

 店主はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 そして、ぽつりと呟いた。

「……やっぱり、もう一度見てもらおうかしら」

 店の外では、冷たい秋の風が吹いていた。

 札幌の街は、いつもと変わらず夜を迎えている。

 だが、その静けさの下で、何かが確実に動き始めていた。

 まだ誰にも、その正体は分からなかった。



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