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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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2:四十七歳の朝

            直せるもの、直せないもの




午前十一時四十分。

 結城智は、白石区の小さな事務所ビルで窓の調整を終えたところだった。

「これで大丈夫だと思います。ちょっと開け閉めしてみてもらえますか」

 事務員らしい若い女性が、恐る恐る窓の取っ手に手を掛ける。

 きい、と小さな音を立てて、窓が開いた。

「あ、軽い!」

「閉める時も確認してみてください」

 女性は窓を閉め、もう一度開けた。

「すごい。今まで両手で押さないと動かなかったんですよ」

「戸車が少し傷んでましたからね。今回は調整で何とかなりましたけど、次に同じ症状が出たら交換した方がいいかもしれません」

「そうなんですね。ありがとうございます」

 智は笑って頷いた。

 作業時間は三十分ほど。

 原因さえ分かれば、修理そのものは難しくない。

 問題は、そこに辿り着くまでだった。

 窓が重い。

 ただそれだけの症状でも、考えられる原因はいくつもある。

 戸車の摩耗、レールの変形、建物の歪み。あるいは、長年積み重なった汚れが原因ということもある。

 智は工具を片づけながら、ふと考えた。

 人間関係も、これくらい分かりやすければいいのに。

 どこが悪いのか見つけて、少し調整する。

 それだけで、元通りになるのなら。

「……まあ、そうはいかないよな」

「え?」

「あ、いえ。独り言です」

 女性が不思議そうな顔をしたので、智は苦笑した。

 最近、独り言が増えた気がする。

 一人暮らしが長いせいだろうか。

 それとも、単に年齢の問題なのか。

 どちらにしても、あまり格好のいい話ではなかった。



     *



 車に戻ると、スマートフォンに一件の着信履歴が残っていた。

 見覚えのある名前だった。

 佐伯修司。

 以前から仕事を紹介してくれる、付き合いの長い知人だ。

 智は折り返し電話をかけた。

『おう、智。忙しいか?』

「忙しいってほどじゃないけど、どうした?」

『ちょっと頼みたいことがあってな』

「その言い方、嫌な予感しかしないんだけど」

『まあ聞けって』

 電話の向こうで、佐伯が笑った。

『知り合いの店なんだけど、自動ドアの調子が悪いらしいんだ。今日中に一度見てもらえないかって』

「今日?」

『ああ。夕方でもいいらしい』

「夕方か……」

 智は今日の予定を思い浮かべた。

 午後には中央区のテナントで自動ドアの調査が入っている。

 その後は、材料の発注と請求書の整理。

 それに、明日の現場の準備もあった。

 正直、余裕はない。

「場所は?」

『豊平区。そんなに遠くないだろ』

「症状は?」

『開いたり開かなかったりするらしい』

「メーカーは?」

『知らん』

「型式は?」

『知らん』

「エラー表示は?」

『だから知らんって』

「……情報が少なすぎるだろ」

『そこを何とかするのがお前の仕事だろ?』

 智はため息をついた。

 こういう頼み方をする人間は、昔から一定数いる。

 そして厄介なことに、佐伯はその中でも特に遠慮がない。

「分かったよ。とりあえず現場の住所送って」

『お、助かる!』

「ただし、今日中に直せるかどうかは分からんぞ。部品が必要なら後日になるからな」

『分かってる分かってる』

 本当に分かっているのか怪しいものだった。

 電話を切ると、智はシートにもたれた。

「……また引き受けちまった」

 断ればよかった。

 そう思う一方で、困っている人がいるなら見に行くだけでも行ってやりたい、とも思う。

 その二つの気持ちは、いつも智の中でせめぎ合っていた。

 そして大抵の場合、後者が勝つ。

 結果として、自分の仕事を増やすことになるのだが。

「まあ、何とかなるだろ」

 智はそう呟いて、エンジンをかけた。

 この「何とかなる」が、時々まったく何ともならないことを、本人はよく知っている。



     *



 午後一時過ぎ。

 智は中央区のテナントビルに到着した。

 自動ドアの前には、管理会社の担当者が立っていた。

「結城さん、お待ちしてました」

「お世話になってます。症状、変わってませんか?」

「ええ。朝から何度か途中で止まってまして」

 智は自動ドアの動きを確認した。

 人が近づく。

 センサーが反応する。

 ドアが開く。

 しかし、閉まりかけたところで一度止まり、再び開いた。

「なるほど……」

 智は何度か動作を繰り返した。

 センサーの誤検知か。

 駆動部の抵抗か。

 それとも制御系統の問題か。

 簡単には判断できない。

「ちょっと点検させてもらいますね」

 管理会社の担当者に了承を取り、智は点検作業を始めた。

 安全を確認して電源を切り、点検カバーを開ける。

 内部には長年使われてきた機械特有の埃が溜まっていた。

「結構使い込んでますね」

「もう十五年くらいになりますかね」

「そろそろ交換部品が手に入りにくくなるかもしれません」

 智は内部の状態を確認し、可動部の抵抗やセンサーの状態を一つずつ調べた。

 原因らしい箇所はいくつか見つかった。

 しかし、決定的ではない。

 こういう時に、無理に結論を出すのは危険だ。

 分からないものは、分からない。

 その事実を認めることも、仕事のうちだった。

「今日は応急的な調整までですね。部品の状態をメーカーに確認してから、正式な修理方法を提案します」

「分かりました。お願いします」

 担当者は納得したように頷いた。

 智は点検カバーを戻し、動作確認を行った。

 完全に直ったわけではない。

 それでも、現状でできることはやった。

 あとは必要な部品を調べ、見積りを作るだけだ。

「……だけ、なんだけどな」

 智は小さく呟いた。

 見積書。

 今日だけで、いったい何件作ることになるのだろう。



     *



 午後三時二十分。

 智は近くのコンビニで遅い昼食を買った。

 おにぎり二個と、温かいお茶。

 駐車場に停めた車の中で、それを頬張る。

 ようやく一息つけた。

 何気なくスマートフォンを開く。

 ニュースアプリの画面には、朝とは違う見出しが並んでいた。

『欧州で新たな地下空間を確認』

『南米でも類似の現象か』

『各国研究機関が情報収集を開始』

「……また地下空間か」

 智は記事を開いた。

 掲載されていた写真には、地面にぽっかりと開いた巨大な穴が写っていた。

 周囲には警察らしき人影と、規制線が見える。

 しかし、智の目を引いたのは穴の大きさではなかった。

「……ん?」

 穴の縁。

 そこに、妙な違和感があった。

 崩落した地面なら、周囲に土砂が散らばっていてもおかしくない。

 だが写真では、穴の輪郭が妙に整っているように見えた。

 まるで、最初からそこに入口が作られていたかのように。

「いや、写真の角度か……?」

 智は画面を拡大した。

 解像度が低く、細部までは分からない。

 それでも、何かが引っ掛かった。

 地盤沈下でもない。

 陥没事故とも違う。

 少なくとも、智がこれまで見てきた現場のどれとも似ていなかった。

「面白いな……」

 思わず口元が緩む。

 未知のものを見ると、つい仕組みを知りたくなる。

 子供の頃から、そうだった。

 壊れたラジオを分解して、元に戻せなくなったこともある。

 古い時計を直そうとして、余計に壊したこともある。

 それでも、何かの内部を覗く瞬間のわくわくした気持ちは、今でも変わらなかった。

 記事の下には、関連する動画が表示されていた。

 智は再生ボタンを押した。

 外国語の音声。

 揺れるカメラ。

 人々のざわめき。

 そして、巨大な地下入口。

 映像の奥には、人工物にも見える壁面が続いていた。

「……これ、自然にできたものじゃないだろ」

 智は思わず身を乗り出した。

 入口の奥に、規則的な模様が見えた気がしたのだ。

 石造りの通路。

 あるいは、何らかの構造物。

 そんなものが、地中に突然現れるだろうか。

 動画を巻き戻す。

 もう一度見る。

 さらに巻き戻す。

「ちょっと待てよ……」

 智は夢中になって画面を見つめた。

 その時、スマートフォンの上部に通知が現れた。

『本日16時のお約束について』

「…………」

 智は固まった。

 佐伯から紹介された豊平区の店。

 そうだ。

 夕方に行くと言ったのだった。

 時計を見る。

 午後三時四十八分。

「やばっ!」

 慌てておにぎりの包みを片づけ、車のエンジンをかける。

 予定を確認する。

 移動時間は、道路状況によっては二十分以上。

「間に合うか……?」

 智はスマートフォンを車載ホルダーに戻し、ナビを設定した。

 ニュースのことは、ひとまず頭の隅へ追いやった。

 仕事が先だ。

 当然のことだった。

 しかし、走り出してからも、あの奇妙な地下入口の映像が頭から離れなかった。

 整いすぎた輪郭。

 人工物のような壁面。

 世界各地で同時に見つかる地下空間。

 偶然にしては、出来すぎている。

「……何なんだろうな、あれ」

 赤信号で車を停めた時、智は小さく呟いた。

 答える者はいない。

 ただ、車の外ではいつもと変わらない札幌の街が広がっていた。

 人々は歩き、車は走り、店には明かりが灯る。

 誰もが、それぞれの一日を生きている。

 そして、その足元で何が起こり始めているのか。

 まだ、誰も知らなかった。


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