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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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4:小さな発見

さあ!脱出に向けてですね^^

          「地上の空気」




 壁の向こうから返ってきた三度の音が消えても、智はしばらくその場を動けなかった。手の中には合図に使った小石が残っており、握り込んだ指先にざらついた感触が伝わっている。偶然にしては出来すぎている。二度叩けば二度、三度叩けば三度。同じ間隔で返ってきた音には、少なくともこちらの行動に応じようとする何らかの意図が感じられた。


 だからといって、壁の向こうにいるものが人間だとは限らない。地下で遭遇した怪物の姿を思い返すと、智には簡単に声を掛ける気になれなかった。先ほどの戦闘で痛めた左肩は、腕を下ろしているだけでも鈍く疼き、右手の腫れも引いていない。もし壁の向こうから別の怪物が現れたとして、今の四人に逃げ切るだけの力が残っているかどうかも疑わしかった。


「結城さん、もう一度やってみませんか」


 高橋が小声で尋ねた。彼も壁の向こうを見つめており、期待と警戒の入り交じった表情を浮かべている。


「そうですね。ただ、今度は少し間隔を変えてみます」


 智は小石を持ち直し、金属板の端を軽く叩いた。二度続けてから少し間を置き、さらに一度。先ほどとは違う合図を送ってみる。


 しばらく沈黙が続いた。


 壁の向こうから、かすかな物音が聞こえた。金属同士が触れるような音に続いて、何かを引きずる気配がある。智は小石を握ったまま耳を澄ませたが、すぐには返事がなかった。


「聞こえなくなりましたね」


 高橋が呟いた。


「ええ。でも、何か動いているみたいです」


 智は金属板へ近づきすぎないよう注意しながら、壁の継ぎ目を照らした。板の周囲には細い隙間があり、そこからわずかに冷たい空気が流れている。先ほどの格子と似た固定具が左右に並び、下側には床へ入り込む金属の突起が見えた。


 もしこれも開閉できる設備なら、向こう側と行き来できる可能性がある。


 ただし、今は勝手に触らない方がいい。壁の向こうに誰かいるのなら、こちらが不用意に操作することで、相手を危険にさらすかもしれなかった。


 智がそう考えていたとき、金属板の向こうから音が返ってきた。


 コン、コン。


 少し間を置いて、コン。


 智は思わず高橋を見た。高橋も目を見開き、何か言おうとして口を開きかけたが、声にはならなかった。


 同じ合図だった。


 美咲も悠斗を支えたまま顔を上げ、壁の方へ視線を向けている。悠斗は疲労で青白くなった顔に、わずかな期待を浮かべていた。


「……人がいるんでしょうか」


 美咲が小さく尋ねた。


「まだ分かりません。でも、こちらの合図を理解しているようには見えます」


 智はそう答え、金属板の中央へ目を向けた。


 今度は声を掛けてみるべきだろうか。相手が人間なら、こちらの状況を伝える必要がある。反対に、言葉が通じない何かだった場合、声によって自分たちの位置を知らせることになる。


 迷いはあったが、悠斗の状態を考えると、いつまでも合図だけを繰り返しているわけにはいかなかった。右脚の痛みは強く、歩くたびに顔をしかめている。美咲が応急処置を続けてくれているものの、この場所で十分な治療ができるとは思えなかった。


 智は一度息を整え、金属板から少し離れた位置で声を上げた。


「すみません! 誰か、そちらにいますか!」


 自分の声が狭い通路に反響した。思った以上に大きく響き、智は一瞬、背後の暗がりを振り返った。怪物がこの声を聞きつける可能性もある。だが、今さら取り消すことはできなかった。


 数秒が過ぎた。


 壁の向こうで何かが動く音がしたあと、くぐもった声が聞こえてきた。


「……こちら……聞こえますか!」


 智は息を呑んだ。


 人の声だった。


 金属板に遮られて言葉の一部は聞き取りにくい。それでも、間違いなく日本語だった。高橋が小さく声を漏らし、美咲も驚いたように智を見つめた。


「聞こえます! こちらには四人います!」


 智が答えると、向こう側で複数の声が重なった。何かを確認しているらしく、短い言葉が行き交っている。


「四人ですね! 怪我をしている方はいますか!」


「一人、右脚を怪我しています! 歩くのが難しい状態です! ほかにも怪我人がいます!」


「分かりました! その場から離れずに待ってください!」


 その返事を聞いた瞬間、智の胸の奥で張り詰めていたものが少し緩んだ。


 少なくとも、向こう側にはこちらの言葉を理解する人間がいる。それだけでも、これまでとは状況が違っていた。だが、まだ壁を隔てたままであり、安全が確保されたわけではない。智は気を緩めすぎないよう自分に言い聞かせ、再び声を掛けた。


「そちらは、どなたですか!」


 少し間があってから、返事があった。


「救助活動に入っている者です! 地上から地下へ入っています! 今、そちらへ行く方法を確認しています!」


 救助活動。


 その言葉を聞いて、高橋が壁に手をつきかけた。智は反射的にその腕を止め、金属板から少し離れるよう目で促した。開閉する可能性がある以上、どこが動くか分からない場所へ不用意に触れるのは避けたかった。


「救助隊……本当に来てくれたんですね」


 高橋の声には、隠しきれない安堵があった。


 智も同じ気持ちだった。地下へ落ちてから、どれほどの時間が経ったのか正確には分からない。スマートフォンで時刻を確認することはできたが、怪物から逃げ、負傷者を支えながら進むうちに、時間の感覚は曖昧になっていた。


 それでも、地上で何かが起きていることだけは確かだった。


 誰かが地下へ入り、行方の分からない人間を捜している。


 智はその事実を受け止めながら、壁の向こうへもう一度声を掛けた。


「こちらの通路には怪物がいます! 今は離れていますが、いつ戻ってくるか分かりません!」


「怪物ですね! 確認しました! そちらから無理に移動しないでください!」


 返答は落ち着いていたが、その言葉だけで相手が怪物の存在をどこまで理解しているかは分からなかった。救助隊がすでに遭遇している可能性もあるし、地下で起きている異常を把握しきれていない可能性もある。


 智は余計な推測を口にせず、必要な情報だけを伝えることにした。


「こちらは狭い点検通路のような場所です! 金属の格子を開けて入ってきました! 今いる壁にも開閉できそうな設備があります!」


「こちらからも確認しています! 少し時間をください!」


 向こう側で金属を叩く音が続き、やがて低い軋みが聞こえてきた。智は壁の継ぎ目を照らしたが、目に見える変化はない。


 しばらくすると、金属板の下側から鈍い衝撃音が響いた。


 ガン、と一度。


 続いて、何かが引っ掛かるような音がした。


「……動きませんね」


 高橋が呟いた。


「ええ。固定具が噛んでいるのかもしれません」


 智は壁の右下を照らした。そこには格子で見たものと似た金属片があり、床の溝へ入り込んでいる。表面は黒ずみ、細かな砂が詰まっていたが、周囲の部材には不自然な曲がりも見えた。


 同じ仕組みとは限らない。


 ただ、形が似ている以上、何らかの共通性がある可能性は高かった。


 向こう側から声が聞こえた。


「開閉部分が損傷しているようです! こちらから操作していますが、途中で止まります!」


 智は壁の下側をもう一度確認した。金属片の一部が枠の内側へ入り込み、斜めに傾いている。先ほどの格子では、下側に噛み込んだ部材を外すことで開くことができた。だが、今回は板の厚みも違い、周囲の構造も十分に見えていない。


「こちら側にも、下の方に金属の固定具があります! 右下です!」


「右下ですね! どんな形ですか!」


「平たい金属片が、床の溝に斜めに入っています! こちらから見ると、枠の下側を押さえているように見えます!」


 向こう側で短いやり取りが続いた。


「こちらにも似た部材があります! ただ、変形していて動かない状態です!」


 智は頷きかけ、相手には見えないことに気づいて声を返した。


「無理に動かすと、枠が傾くかもしれません! 左右の支えが残っているか確認してください!」


「了解です! 確認します!」


 智は金属板から一歩下がり、全体を見渡した。


 壁の左右には太い縦材があり、上部には横方向へ伸びる金属の帯がある。先ほどの格子では左側に回転軸があったが、こちらの隔壁には同じような丸い部材が見当たらなかった。代わりに、左右の縦材に細い溝があり、板そのものが上下へ動く構造にも見える。


 もしそうなら、先ほどの格子と同じ方法では開かない。


 智はライトを上へ向けた。


 金属板の上端には、天井へ入り込むような隙間があった。そこから黒い金属の帯が伸び、壁の奥へ消えている。開閉のための案内材なのか、それとも別の設備なのか、判断はつかなかった。


 今の情報だけで操作方法を決めつけるのは危険だった。


「結城さん、何か分かりますか」


 高橋が尋ねた。


「先ほどの格子とは、少し違うみたいです。こちらは横に開くというより、上下に動く仕組みかもしれません」


「上に持ち上がるんですか?」


「その可能性があります。ただ、まだ確かではありません」


 智は右手の腫れを確かめながら、壁の下端を照らした。力を入れると痛みが走るため、細かな作業を続けるのは難しい。それでも、今は相手と情報を共有するだけで役に立てるかもしれなかった。


 智は救助隊へ声を掛けた。


「こちら側から見ると、左右に縦の溝があります! 上にも隙間があるので、板が上下に動く構造かもしれません!」


「上下ですね! こちらでも確認します!」


 返事のあと、金属板の向こうで何かを動かす音がした。数人が協力して作業しているのだろう。工具が金属に触れるような響きが続き、時折短い指示が聞こえてくる。


 智はその音を聞きながら、周囲へ目を向けた。


 点検通路の壁には、同じ形の固定具が一定の間隔で取り付けられている。隔壁の周囲にも、似た部材が使われていた。地上で扱ってきた建具のように、規格を揃えて製作された設備なのかもしれない。


 だが、そう考えるほど疑問も増えていく。


 なぜ、こんな地下にこれほど整った構造物があるのか。


 誰が作り、何のために使っていたのか。


 そして、地上の道路が崩れた先に、なぜ怪物が徘徊しているのか。


 智には何一つ答えが出せなかった。


 今は考えても仕方がない。


 そう思い直し、悠斗の様子を確かめようと振り返ったときだった。


 通路の奥から、硬い音が聞こえた。


 最初は救助隊が作業している音の反響かと思った。しかし、耳を澄ませると、音の方向が違う。隔壁の向こうではなく、自分たちが進んできた通路の奥から響いている。


 コツ、コツ。


 少し間を置いて、また二度。


 智は身体を固くした。


 先ほど格子の外側に残してきた怪物たちの足音に似ている。だが、格子を閉じた場所はここからかなり離れており、途中には曲がり角もある。あの格子が破られたのか、それとも別の経路から入り込んできた個体なのか。


 分からない。


 ただ、何かが近づいていることだけは確かだった。


「高橋さん」


 智が低い声で呼ぶと、高橋も音に気づいたらしく、すぐに振り返った。


「……また、ですか」


「まだ分かりません。でも、念のため準備しましょう」


 智は美咲へ目を向けた。


「佐々木さん、小林さんを壁の近くへ。できるだけ通路の中央から離れてください」


「分かりました」


 美咲は悠斗の身体を支え、隔壁の脇へ移動させた。悠斗は痛む右脚をかばいながら左脚で身体を支え、壁に背中を預ける。疲労が強いのか、顔色はさらに悪くなっていた。


 智は二人の位置を確かめてから、通路の奥へ視線を戻した。


 通路は途中で少し狭くなっており、壁際には金属の固定具が幾つも突き出している。もし怪物が一体だけなら、そこを利用して動きを制限できるかもしれない。だが、複数だった場合は話が違う。前の戦闘と同じように、狭い場所で追い詰められる可能性があった。


 智は救助隊へ声を掛けた。


「こちらの通路に、何かが近づいています! 怪物かもしれません!」


 向こう側の作業音が止まった。


「了解しました! こちらも開放作業を急ぎます! できるだけ隔壁から離れないでください!」


「分かりました!」


 智は返事をしながら、通路の奥を見つめた。


 足音は近づいている。


 その間隔は先ほどより短くなり、硬い爪が床を叩くような響きが混じり始めた。


 高橋が智の隣へ立った。


「結城さん、僕もやります」


「お願いします。ただ、無理に倒そうとはしないでください。まずは時間を稼ぐことを考えましょう」


「分かりました」


 智は頷き、壁際に落ちていた細長い金属片を拾った。先ほど使ったものより軽く、先端は丸みを帯びている。武器として頼りになるものではなかったが、怪物を押し返したり、距離を取ったりする程度には使えるかもしれない。


 左肩の痛みは消えていない。


 右手も十分に握り込めない。


 それでも、ここで逃げれば、悠斗と美咲を危険にさらすことになる。


 智は深く息を吸い、通路の奥へライトを向けた。


 暗がりの向こうで、何かが動いた。


 低い位置を這うように進む影が、壁の固定具の間を通り抜ける。


 智はその動きを見つめた。


 先ほどの怪物と似ているようにも見えたが、まだはっきりとは分からない。


 やがて、影が光の届く場所へ姿を現した。


 四本の太い脚。


 丸みを帯びた胴体。


 背中に並ぶ短い突起。


 第三節で遭遇したものと、よく似た姿だった。


 智は奥歯を噛みしめた。


 やはり、まだ終わっていなかった。


 怪物は通路の中央で立ち止まり、頭部をゆっくり持ち上げた。口の周囲にある短い突起が細かく動き、何かを探るように左右へ揺れている。


 その背後には、今のところ別の影は見えなかった。


 一体だけなのか。


 それとも、後ろにまだいるのか。


 智はライトを動かし、奥の暗がりを確かめた。しかし、通路が途中で曲がっているため、その先までは見通せない。


 怪物が一歩、前へ出た。


 硬い爪が床を叩く。


 智は壁際の固定具へ目を向けた。


 ここなら、相手の動きを制限できるかもしれない。


 だが、格子のように閉じ込められる設備はない。狭い通路を利用するにしても、怪物が予想外の動きをすれば、すぐに距離を詰められてしまうだろう。


 智は高橋へ小さく声を掛けた。


「高橋さん、右側の壁に寄ってください。あの金具のところです」


「ここですか?」


「ええ。怪物が近づいてきたら、正面から受け止めずに横へ逃げてください。僕が反対側から動きを見ます」


 高橋は頷き、慎重に位置を変えた。


 智も左側の壁へ寄り、怪物との距離を確かめる。


 隔壁の向こうでは、救助隊が再び作業を始めていた。金属を叩く音と短い指示が聞こえてくるが、こちらの状況を直接見ることはできない。


 その間にも、怪物は少しずつ近づいていた。


 智は手の中の金属片を握り直した。


 今度は、倒すことよりも生き延びることを優先する。


 そう考えながら、怪物が壁際の固定具に近づく瞬間を待った。


 怪物の脚が、床を強く蹴った。


 次の瞬間、その身体が一気にこちらへ向かってきた。



  ※



 怪物が床を蹴った瞬間、智は身構えた。低い姿勢から一気に距離を詰めてくる動きは、先ほど格子の前で見たものとよく似ている。ただし、今回はその勢いを止められる扉もなければ、十分な強度を確かめた障害物もない。壁際に並ぶ金属の固定具が、どこまで役に立つのかさえ分からなかった。


「高橋さん、前に出ないで!」


 声を掛けながら、智は左側の壁へ身体を寄せた。怪物は二人の間へ飛び込もうとしたが、通路の中央に残された幅は思ったほど広くない。智が金属片を突き出すと、相手は頭部を振ってそれを避け、壁際へ進路を変えた。


 硬い爪が床を滑り、短い音を立てる。


 智は一歩下がった。相手の勢いをまともに受け止めれば、今の身体では押し負ける。だからこそ、怪物が方向を変える瞬間を利用する必要があった。


 しかし、予想していたよりも動きが速かった。


 怪物は壁際の固定具を避けるように身体を捻り、今度は智の足元へ飛びかかってきた。智は咄嗟に左脚を引いたが、完全には避けきれず、靴の側面を硬いものが掠める。足首に衝撃が伝わり、身体が壁へ傾いた。


 左肩が金属の縁に触れた。


 鋭い痛みが走り、思わず息が詰まる。


「結城さん!」


 高橋の声が響いた。


 智が顔を上げると、怪物はすでに身体を反転させていた。口の周囲にある短い突起が細かく動き、頭部がこちらへ向けられている。先ほどの一撃で興奮したのか、胴体を低く沈め、再び飛びかかる姿勢を取っていた。


 智は金属片を握り直した。


 右手は腫れていて十分に力が入らない。左手で持つしかなかったが、肩を大きく動かすこともできない。腕の力だけで怪物を押し返そうとすれば、次の一撃で金属片ごと弾かれるかもしれなかった。


 そのとき、高橋が壁際に落ちていた石を拾い上げた。


「こっちだ!」


 高橋が声を上げ、怪物の横へ石を投げた。


 石は床に当たり、硬い音を立てて跳ねた。怪物の頭部が一瞬そちらへ向く。その隙に智は壁から身体を離し、通路の奥へ数歩移動した。


 怪物は石の方へ進みかけたが、すぐに智たちへ向き直った。


「音に反応するみたいですね」


 高橋が言った。


「そうかもしれません。でも、音だけとは限りません」


 智は短く答え、怪物の動きを観察した。


 先ほどから、相手は頭部を細かく振りながら進んでいる。目に当たる器官がどこにあるのかは分からないが、石の音に反応したことは確かだった。ただ、それだけで視覚や嗅覚がないと判断するわけにはいかない。


 智は通路の壁を照らした。


 右側には金属の帯が一定の間隔で取り付けられており、そのうち一か所だけ、床に近い部分が大きく張り出している。人間なら身体を横にして通れる程度の隙間があるが、胴体の幅が広い怪物には通りにくそうだった。


 あそこなら、相手の動きを制限できるかもしれない。


「高橋さん、右側の金具が出ているところ、見えますか」


「はい」


「僕があそこまで下がります。怪物が追ってきたら、横から石を投げてください。ただし、近づきすぎないでください」


「分かりました」


 智は怪物から目を離さず、少しずつ後退した。金属片を前に向けたまま、壁際の張り出しへ近づく。怪物はその動きを追うように頭部を振り、短い脚で床を踏みしめながら距離を詰めてきた。


 智は足元の段差を確かめ、張り出した固定具の手前で止まった。


 ここなら、怪物が正面から突っ込んできても、身体を横へ逃がせる余地がある。固定具そのものが壊れれば意味はないが、少なくとも相手の進路を狭めることはできそうだった。


 怪物が再び走り出した。


 智は金属片を構えたまま、ぎりぎりまで動かなかった。


 相手が張り出しの手前へ差しかかった瞬間、智は左へ身体を引いた。怪物は勢いを止めきれず、肩のように盛り上がった胴体の側面を金属の角へぶつけた。


 鈍い衝撃音が響いた。


 固定具が小さく揺れ、怪物の身体が横へ傾く。


 智はその隙に金属片を突き出し、怪物の頭部を壁から遠ざけるように押した。相手は激しく身を捩ったが、張り出した金具と通路の壁に挟まれ、思うように向きを変えられないらしい。


「高橋さん、今です!」


 高橋が石を投げた。


 石は怪物の背中に当たり、乾いた音を立てて跳ねた。怪物は頭部を振り、高橋の方へ身体を向けようとしたが、金属の張り出しが邪魔になって動けない。


 智はその様子を見ながら、固定具の位置を確かめた。


 怪物の胴体は完全に挟まっているわけではない。前脚を引けば、まだ後退できる余地がある。だが、相手は智へ向かおうとして前へ進もうとするため、張り出した金具に身体を押しつける形になっていた。


 その動きを利用できれば、もう少し時間を稼げるかもしれない。


 智は金属片を怪物の頭部へ向けたまま、足を一歩引いた。


 怪物が前へ出ようとする。


 金属の角が胴体へ食い込み、動きが止まった。


 その瞬間、智は金属片の先端を頭部の側面へ打ち込んだ。


 硬いものがぶつかる鈍い音が響き、怪物が大きく身を捩った。左肩に痛みが走ったが、智は無理に押し続けず、すぐに金属片を引いた。


 怪物の頭部には浅い亀裂のようなものが生じ、黒ずんだ液体が滲んでいた。


 傷を負わせることはできた。


 だが、相手はまだ動いている。


 怪物は前脚を引き、金属の張り出しから身体を抜こうとした。智は反射的に金属片を突き出したが、今度は頭部を避けられ、先端が床を叩いた。


 その隙に、怪物の胴体が半分ほど自由になった。


「まずい……!」


 智は一歩下がった。


 怪物が身体を反転させ、こちらへ向かおうとする。高橋が再び石を投げたが、今度は壁に当たり、怪物の背後へ転がった。


 智は金属片を構え直したものの、左肩が思うように動かなかった。痛みだけでなく、腕全体に重さが広がっている。これ以上同じ動きを繰り返せば、金属片を保持することさえ難しくなるかもしれなかった。


 そのとき、隔壁の向こうから大きな音が響いた。


 金属を叩く音に続き、何かが動くような低い軋みが聞こえる。


「こちら、隔壁が少し動きました! もう少しです!」


 救助隊の声だった。


 智は一瞬だけ振り返った。


 壁の中央にある金属板が、わずかに上へ持ち上がっている。下端には数センチほどの隙間ができ、向こう側から白い光が差し込んでいた。


 出口が近づいている。


 しかし、怪物はまだ倒れていない。


 智が視線を戻すと、相手は再び頭部を低く構えていた。今度は張り出した固定具を避けるように、通路の中央へ身体を移している。


 同じ方法は通用しないかもしれない。


「結城さん、隔壁が開きそうです!」


 高橋が叫んだ。


「分かっています。でも、あいつを近づけないでください!」


 智は怪物との距離を保ちながら、足元の金属片を確かめた。手にしているものは先端が丸く、押し返すには使えるが、深い傷を与えるには向いていない。先ほど頭部に亀裂を作れたのも、相手が固定具へ押しつけられていたからだった。


 もう一度、動きを止める必要がある。


 智は通路の右側にある金属の張り出しを見た。


 怪物はその位置を避けている。ならば、無理に同じ場所へ誘い込むよりも、別の角度から進路を狭める方がよさそうだった。


 高橋が壁際に立ち、怪物の注意を引くように石を拾い上げた。


「結城さん、どうしますか」


「僕が少し前に出ます。高橋さんは、あいつがこちらへ向いたら石を投げてください」


「危なくないですか」


「危ないです。でも、隔壁が開くまで、このまま下がり続けるわけにもいきません」


 智はそう答え、怪物の正面から少しずれた位置へ移動した。


 怪物が頭部を振る。


 智は金属片を構えたまま、相手の動きを待った。


 数秒後、怪物が床を蹴った。


 智は正面から受け止めず、左側へ身体を逃がした。怪物は勢いのまま通り過ぎようとしたが、その進路には壁際の金属の張り出しがある。


 高橋が石を投げた。


 石は怪物の頭部近くの床に当たり、鋭い音を立てて跳ねた。


 怪物が反射的に頭部を振った。


 その瞬間、胴体の側面が金属の角へぶつかった。


 智はすぐに近づかず、相手の動きを見た。


 怪物は一度後退しようとしたが、後脚が床の小さな段差に掛かり、身体が不自然に傾いている。張り出した金属と段差の間で、動ける方向が限られていた。


 今なら、頭部へ届く。


 智は金属片を短く構え、怪物の側面へ回り込んだ。


 左肩を大きく振り上げることはできない。そこで、金属片の先端を頭部の亀裂へ当て、身体を前へ押し出すように力を加えた。


 怪物が激しく暴れた。


 金属片が滑りかけたが、智は無理に押し込まず、一度引いて角度を変えた。高橋が横から石を投げ、怪物の注意がそちらへ向いた瞬間、智は再び金属片を突き出した。


 先端が亀裂へ食い込む。


 硬い感触が腕を伝い、怪物の頭部が壁へ強く押しつけられた。


 怪物の身体が大きく跳ねた。


 前脚が床を引っかき、短い爪が金属の帯へ当たって火花のような光が散る。智は反射的に身体を引いたが、金属片の先端は亀裂に引っ掛かったままだった。


 そのまま力を加えれば、怪物の頭部をさらに押しつけられるかもしれない。


 だが、左肩が限界に近かった。


「高橋さん、ここを押してください!」


 智が叫ぶと、高橋はすぐに駆け寄り、金属片の中央へ両手を添えた。


「ここですか!」


「ええ。ゆっくり、壁の方へ!」


 二人で力を加えると、金属片がわずかに動いた。


 怪物の頭部が壁へ押しつけられ、亀裂の周囲から黒い液体が流れ出す。怪物は激しく身を捩ったが、胴体が金属の張り出しに引っ掛かっているため、頭部を自由に動かせない。


 高橋がさらに力を加えた。


 鈍い音が響いた。


 怪物の頭部が不自然な方向へ傾き、身体が大きく震える。智は金属片を引こうとしたが、先端が傷口に食い込んでおり、すぐには抜けなかった。


 そのまま数秒が過ぎた。


 怪物の前脚が一度だけ痙攣し、やがて動きを止めた。


 智は高橋へ声を掛け、二人で金属片を慎重に引き抜いた。怪物は床へ崩れ落ち、頭部から黒い液体が広がっていく。


 智はすぐに距離を取った。


 まだ動く可能性がある。


 そう考えて様子を見ていたが、怪物は再び起き上がることはなかった。


 そのとき、視界の端に文字が浮かび上がった。


 共通システム通知


 LEVEL UP


 Lv4 → Lv5


 新機能:メール解放


 智は思わず目を瞬いた。


 また、レベルが上がった。


 しかも、今回は新しい機能が解放されたらしい。メールという言葉には聞き覚えがあったが、ここで使われている意味が普段の電子メールと同じなのかは分からない。


 詳しく確かめたい気持ちはあった。


 しかし、その余裕はなかった。


「こちら、隔壁が開きます! 近くにいる方は離れてください!」


 救助隊の声が響いた。


 智はすぐに高橋へ目を向けた。


「戻りましょう。佐々木さんたちのところへ」


「はい!」


 二人は怪物から距離を取り、隔壁へ向かった。


 美咲は悠斗を支えながら、壁の脇で待っていた。悠斗の顔色は悪かったが、意識ははっきりしているようで、二人が戻ると安堵したように息を吐いた。


「終わったんですか」


 美咲が尋ねた。


「今のところは。でも、ここから早く出ましょう」


 智が答えると、隔壁の下端から大きな金属音が響いた。


 金属板がゆっくり持ち上がり、向こう側から白い光が差し込んでくる。


 最初に見えたのは、厚い手袋をはめた手だった。


 続いて、ヘルメットを被った人影が屈み込み、こちらを覗いた。


「四人ですね! 救助に来ました!」


 その声を聞いた瞬間、高橋が大きく息を吐いた。


 智も返事をしようとしたが、喉の奥が詰まり、すぐには言葉が出なかった。


 人間がいる。


 しかも、助けに来てくれた人間だ。


 救助隊員は開いた隙間から身体を滑り込ませ、まず悠斗の状態を確認した。美咲が右脚の負傷と応急処置の内容を説明すると、隊員は頷き、無線で何かを伝えた。


「担架を用意します。ほかの方も怪我をしていますね」


「はい。肩と手を……」


 智が答えかけると、隊員が左肩へ目を向けた。


「無理に動かさないでください。こちらで確認します」


 その言葉に、智はようやく自分が相当無理をしていたことを思い出した。


 左肩は熱を持ち、右手は指を曲げるだけでも痛む。足首にも先ほどの戦闘で受けた衝撃が残っていた。怪物から逃げ、設備を調べ、何度も戦ってきた間は気を張っていたが、救助隊員の姿を見た途端、全身の疲労が一気に押し寄せてきた。


 智は壁に手をつき、ゆっくり息を吐いた。


 救助隊は悠斗を優先して搬送する準備を進めた。隔壁の向こうには数人の隊員がおり、簡易担架のようなものを持ち込んでいる。通路が狭いため、そのままでは運びにくいらしく、隊員同士で位置を確認しながら慎重に作業していた。


 美咲は悠斗のそばを離れず、隊員の質問に答えている。高橋も周囲の荷物を片づけ、通路を空けるのを手伝っていた。


 智はその様子を見ながら、隔壁の開閉部分へ目を向けた。


 金属板は上方へ持ち上げられた状態で固定されており、左右の溝には細い案内材が残っている。救助隊がどのように開けたのか詳しくは分からなかったが、先ほど智が推測した上下方向の動きは間違っていなかったらしい。


 ただ、設備の一部は大きく曲がり、金属片が床へ落ちていた。


 ここも、何らかの理由で損傷していたのだろう。


 智はそれ以上調べようとはしなかった。


 今は地上へ戻ることが先だった。


 救助隊の案内で、四人は隔壁の向こうへ移動した。


 そこから先は、これまで歩いてきた通路よりも幅が広かった。壁には照明器具のようなものが取り付けられているが、すべてが点灯しているわけではなく、隊員たちが携帯するライトで足元を照らしている。


 床には金属の板が敷かれ、ところどころに細い溝が走っていた。


 智は歩きながら、その構造を目で追った。


 地下に存在する設備の一部が、地上の建築物と似た考え方で作られている。そう感じる場面は何度もあったが、ここまで来ても、それが何を意味するのかは分からないままだった。


 救助隊員が先導し、悠斗を乗せた担架が慎重に運ばれていく。美咲はそのすぐ後ろを歩き、高橋が続いた。智は別の隊員に付き添われながら、最後尾に近い位置を進んだ。


 途中で何度か立ち止まり、通路の安全を確認する時間があった。


 隊員たちは無線で連絡を取り合い、進む方向を慎重に選んでいる。智にはその内容をすべて理解することはできなかったが、少なくとも、地上へ戻る経路が確保されているらしいことは分かった。


 やがて、通路の先に明るい光が見え始めた。


 最初は救助隊の照明かと思った。


 だが、近づくにつれて、光の色が違うことに気づいた。


 白く、広がりがある。


 地下のライトとは違い、どこから照らされているのか分からないほど自然に周囲を明るくしていた。


 智は足を止めかけた。


 地上の光だった。


 通路の先には仮設の足場のようなものが組まれ、隊員が数人待機している。その向こうには、見慣れた札幌の街並みがわずかに見えていた。


 救助隊員が声を掛けた。


「もう少しです。足元に気をつけてください」


 智は頷き、ゆっくり歩き出した。


 最後の段差を越えた瞬間、冷たい空気が顔に触れた。


 地下の湿った空気とは違う。


 車の排気の匂い、遠くから聞こえる人の声、風に混じる街の気配。普段なら意識することもないものが、一度に押し寄せてきた。


 智は思わず立ち止まり、深く息を吸った。


 札幌の空が見えた。


 曇りがちな空の下には、見慣れた建物が並んでいる。道路の一部は規制線で封鎖され、警察車両や消防車両が何台も停まっていた。赤色灯が点滅し、隊員や警察官が慌ただしく行き交っている。


 その光景は、普段の街とは明らかに違っていた。


 それでも、地上だった。


 智はもう一度、空気を吸い込んだ。


 帰ってきた。


 その実感が、ようやく胸の奥へ広がっていった。


 悠斗は担架のまま救急隊へ引き継がれ、美咲がそのそばで状況を説明していた。高橋も別の隊員から怪我の有無を確認され、何度か頷いている。


 智にも救急隊員が近づき、左肩と右手の状態を確認した。


「詳しく診ますので、こちらへお願いします」


「分かりました」


 智は素直に頷いた。


 もう、自分だけで何とかしようとする必要はなかった。


 高橋が少し離れた場所から近づいてきた。


「結城さん」


 智が顔を上げると、高橋は疲れ切った表情のまま、小さく頭を下げた。


「ありがとうございました。結城さんがいなかったら、どうなっていたか……」


「僕一人じゃ、何もできませんでしたよ。高橋さんが手伝ってくれたから、ここまで来られたんです」


 高橋は少し困ったように笑った。


「そう言ってもらえると、助かります」


 智も小さく笑った。


 大げさな言葉は必要なかった。


 地下で何度も危険を乗り越えたことは、互いに分かっている。今はそれ以上、何かを確かめ合う必要もないように思えた。


 美咲が悠斗の搬送を見届けたあと、こちらへ歩いてきた。


「結城さん、高橋さん。本当にありがとうございました」


「佐々木さんも、お疲れさまでした」


 智が答えると、美咲は小さく頷いた。


「小林さんは、これから病院で診てもらうそうです。私も一緒に行くことになりました」


「そうですか。よかった」


 智は救急車の方へ目を向けた。


 悠斗は担架に横たわったまま、こちらを見ていた。目が合うと、弱々しく手を上げる。


 智も右手を上げかけたが、痛みが走ったため、左手を軽く持ち上げて応えた。


 悠斗は小さく笑った。


 そのまま、担架は救急車の中へ運び込まれていった。


 高橋も事情を聞かれるため、別の場所へ案内されることになった。美咲は救急車へ戻り、智も医療確認を受けるために隊員へ促された。


 四人は、そこで別れることになった。


 また会えるかどうかは分からない。


 連絡先を交換する余裕もなく、今後の約束を交わすこともなかった。それでも、互いの無事を確かめ合えたことだけで、十分だった。


 智は隊員の案内に従いながら、ふと足を止めた。


 地下への入口が見えた。


 道路の一部が大きく崩れ、その周囲には仮設の柵と規制線が張られている。救助隊員が出入りするための通路が確保され、警察官が周囲の人々を遠ざけていた。


 そこから先は、暗くて見えない。


 智はしばらく、その入口を見つめた。


 あの下に、怪物がいる。


 人間の手で作られたような設備があり、説明のつかない仕組みが存在している。


 そして、自分の視界には、レベルや能力を知らせる文字が現れるようになった。


 地上へ戻ったからといって、それらが消えてなくなるわけではない。


 智は右手をゆっくり握り、すぐに痛みで力を緩めた。


 今は、休まなければならない。


 怪我を治し、身体を戻すことが先だ。


 それでも、地下で見たものが頭から離れなかった。


 なぜ、あの場所にあれほど整った設備があったのか。


 誰が作ったのか。


 そして、あの怪物たちは、いったい何なのか。


 答えの出ない疑問が、胸の奥に残っている。


 智は最後にもう一度、地下への入口を振り返った。


 帰ってきたはずなのに、あの暗闇の向こうには、まだ何かが続いているような気がした。


 救急隊員に声を掛けられ、智はようやく視線を戻した。


 札幌の冷たい風が、頬を撫でていった。

こんにちは、こんばんは!


どうも戦闘描写が苦手ですね~・・

もう少し人物も出していったほうが良さそう


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