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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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5:小さな発見

          「忘れられない発見」





 診察室の白い天井を見上げながら、智はようやく自分の身体がどれほど疲れていたのかを思い知らされていた。地下では立ち止まるたびに周囲を警戒し、痛みがあっても次の行動を考えなければならなかった。それが今は、椅子に腰を下ろしているだけで済む。誰かが背後から近づいてきても、怪物かもしれないと身構える必要はないはずだった。


 それでも、廊下から台車の車輪が転がる音が聞こえたとき、智は思わず肩を強張らせた。金属が床を擦るような響きが、地下の点検通路で聞いた足音と重なったのだ。すぐに病院の音だと分かったものの、一度速くなった鼓動はなかなか落ち着かなかった。


「結城さん、左腕を少し上げられますか」


 医師に声を掛けられ、智は意識を目の前へ戻した。


「このくらいなら……」


 肘を身体から離したところで、肩の奥に鋭い痛みが走った。無理に持ち上げようとすると、傷の周囲が引っ張られるような感覚がある。智が顔をしかめると、医師はそれ以上動かさなくていいと告げ、傷の状態を確認し始めた。


 左肩には擦過傷と裂けた部分があり、周囲には腫れも見られた。地下で何度も壁や金属へ身体をぶつけたせいか、どこで傷を増やしたのかさえ思い出せない。医師は傷口を洗浄し、必要な処置を施したうえで、肩の動きや痛みの出る位置を慎重に調べていた。


 右手についても、指の曲げ伸ばしや腫れの程度を確認された。握り込む動作は特に痛みが強く、親指の付け根から手の甲にかけて熱を持っているように感じられる。画像検査も受けたが、詳しい状態については診察結果を踏まえて判断する必要があるらしく、智は無理に使わないよう説明を受けた。


「お仕事では、手をよく使われますか」


「ええ。建具の修理やメンテナンスをやっています。工具を使うことが多いですね」


「それなら、しばらくは負担の掛かる作業を避けてください。痛みが引いても、すぐに普段どおり使えるとは限りませんから」


「……そうですよね」


 智は右手を見下ろした。


 現場で仕事をする以上、手が使えないのは困る。扉の調整ひとつ取っても、工具を握り、部材を支え、細かな位置を確かめなければならない。片手で済む作業など、そう多くはなかった。


 もっとも、今は仕事の心配をする段階ではないのだろう。地下で怪物に襲われ、命からがら地上へ戻ってきたばかりなのだ。数日仕事ができなくなることよりも、無事に帰れたことを喜ぶべきなのかもしれない。


 そう考えても、現実の生活に関する心配は簡単には消えなかった。


 診察が一段落すると、智は処置を受けた左肩をかばいながら、病院の待合スペースへ移動した。救助された人間がほかにも運び込まれているらしく、廊下では医療スタッフが慌ただしく行き交っている。遠くから聞こえる会話には、道路の崩落や地下での負傷といった言葉が混じっていた。


 智は椅子に腰を下ろし、スマートフォンを取り出した。


 画面には見慣れた時刻表示があり、通信状態を示す印も戻っている。地下では何度確認しても圏外だっただけに、その当たり前の表示が妙にありがたく感じられた。


 通知欄には不在着信やメッセージが並んでいた。仕事関係の連絡もあり、何が起きたのかを尋ねる内容も見える。智はひとまず無事であることを伝える短い返事を送り、詳しい説明は落ち着いてからにすることにした。


 画面を閉じかけたところで、ふと別のことを思い出した。


 メール。


 地下で最後の怪物を倒した直後、視界に現れた文字だ。


 あの通知は、スマートフォンの画面に表示されたものではなかった。何も持っていなくても、目の前に文字が浮かぶ。しかも、ほかの人間には見えていないらしい。


 普段使っている電子メールと同じものなのだろうか。


 智はスマートフォンのメールアプリを開きかけたが、すぐに指を止めた。あの機能が端末と関係しているという根拠はない。そもそも、地下で表示された文字は、スマートフォンの電波が届かない場所でも現れていた。


 今ここで確かめることもできるのかもしれない。


 だが、待合スペースにはほかの患者もいる。突然何かが表示されたとして、自分がどんな反応をするか分からなかった。疲労も強く、能力を使うことで身体に負担が掛かる可能性もある。


 智はスマートフォンをポケットへ戻した。


 試すなら、落ち着ける場所に帰ってからでいい。


 そう判断したものの、頭の片隅には地下で見た文字が残り続けていた。


 しばらくして、警察関係者から事情を聞きたいと伝えられた。医療スタッフによる確認が済んでいることを確かめたうえで、智は病院内の別室へ案内された。室内には机と椅子が用意され、二人の担当者が待っていた。


 最初に尋ねられたのは、道路が崩れたときの状況だった。


 智は覚えている範囲で、地上にいたときの様子から説明した。突然足元が崩れ、地下へ落ちたこと。周囲には見慣れない岩壁や通路が広がっていたこと。そこで高橋たちと行動を共にし、負傷した悠斗を支えながら出口を探したこと。


 話しているうちに、地下での出来事が少しずつ整理されていった。


 岩壁の小区画で休んだこと。床に残された奇妙な足跡を見つけたこと。通路の先で怪物に遭遇し、金属の部材や格子を利用して逃げ道を確保したこと。最後は隔壁の向こうにいた救助隊と連絡を取り、地上へ戻ることができた。


 担当者は途中で何度か質問を挟み、智の説明を記録していた。


「その怪物というのは、具体的にはどのような姿でしたか」


「種類が違うものを何度か見ました。最初に戦ったものは岩壁に張りつくように動いていて、後から出てきたものは四本脚で、背中に短い突起が並んでいました」


「大きさはどのくらいでしたか」


 智は少し考えた。


 地下では距離感が掴みにくく、怪物が動き回っていたため、正確な寸法を測る余裕などなかった。見た目の大きさを説明することはできても、数字にすると自信が持てない。


「正確には分かりません。小型の犬くらいに見えたものもいましたが、身体が低かったので、比較しにくいですね」


「分かりました。では、特徴を覚えている範囲で教えてください」


 智は頷き、頭部の形や脚の動き、岩壁に張りついていた様子を説明した。怪物がどのような感覚で周囲を探っているのかは分からないことも、併せて伝えた。


 説明しながら、智は解析(アナライズ)で得た情報を思い出していた。


 岩這い種(ロッククローラー)。


 あのとき、視界には確かにそう表示されていた。怪物の名前だけでなく、岩壁へ付着して移動するという特徴も示されていたはずだ。


 しかし、それをどう説明すればいいのだろう。


 突然、目の前に文字が現れた。


 怪物の名前が分かった。


 そんな話をして、相手は理解してくれるだろうか。


 そもそも、同じような能力を持つ人間がほかにもいるのかさえ分からない。警察がすでに能力の存在を把握している可能性もあるが、今の智には確かめる手段がなかった。


「結城さん?」


 呼び掛けられ、智は顔を上げた。


「すみません。少し考えていました」


「無理はしなくて結構です。何か思い出したことがあれば、後からでも構いません」


「ありがとうございます」


 智は軽く頭を下げた。


 能力について話すべきかどうか、結論は出なかった。


 ただ、今ここで確実に説明できるのは、自分が見て、触れて、経験したことだけだ。視界に現れた情報をどこまで信用してよいのか、本人にもまだ分からない。


 そのため、智は怪物の外見や動きについては詳しく説明しながら、能力そのものについては口にしなかった。


 隠すことが正しいのかどうかは分からない。


 だが、知らないことを知っているように話すよりは、今は慎重でいたかった。


 事情聴取は、地下の設備についての質問へ移った。


「通路の中に、人工物のようなものがあったということですね」


「はい。金属の格子や、上下に動く隔壁がありました。ほかにも、壁に同じ形の固定具が何か所も取り付けられていました」


「地上の建物にあるような設備ですか」


「似ている部分はありました。ただ、まったく同じとは言えません。見たことのない形の部材もありましたし、何のために作られたのかは分かりません」


 智は机の上に置かれた紙へ目を向けた。


「図に描いた方が説明しやすいかもしれません」


 担当者が紙と筆記具を用意してくれたので、智は右手の痛みを確かめながら、簡単な略図を描き始めた。握り込むと痛みが強くなるため、線は思うように引けなかったが、格子の開閉方向や固定具の位置を示す程度なら何とかなる。


 左側に回転軸らしい部材が二つ。右下には金属片が噛み込んでいた溝。さらに、その先の点検通路には、一定間隔で同じような固定具が並んでいた。


 隔壁については、左右に案内溝があり、金属板が上へ持ち上がる構造だったことを説明した。


「かなり詳しく覚えていらっしゃるんですね」


 担当者の一人が言った。


「仕事柄、こういうものは気になるんです。扉が開かなかったり、金具が壊れたりしたときに、どこへ力が掛かっているかを調べることが多いので」


「なるほど」


 智は描きかけの図を見下ろした。


 実際には、もっと複雑な構造だったはずだ。細かな寸法も分からず、見えていなかった部分も多い。それでも、紙の上に並べてみると、格子と隔壁の間に共通する考え方があるように感じられた。


 開閉する部材。


 荷重を受ける枠。


 動きを案内する溝。


 そして、一定の位置に繰り返し使われている固定具。


 地上の建具と同じように、何らかの設計基準が存在しているのかもしれない。


 智はそこまで考えたが、担当者には断定せず、あくまで自分の印象として伝えた。


 事情聴取が終わる頃には、身体の疲労がさらに強くなっていた。椅子から立ち上がると、脚に力が入りにくく、少しふらつく。担当者が心配そうに声を掛けてきたが、智は壁に手をついて姿勢を整え、無理のない範囲で歩けることを確かめた。


 病院の待合スペースへ戻ると、テレビでは札幌市内の状況が報じられていた。


 画面には、見覚えのある道路の映像が映っている。


 崩落した路面の周囲には規制線が張られ、警察官や消防隊員が出入りを管理していた。智が地上へ戻った場所とよく似ているが、撮影された角度が違うため、同じ入口なのかどうかは分からなかった。


 続いて、別の場所の映像が流れた。


 そこにも、地面が大きく陥没したような入口があった。


 智は思わず身体を起こした。


 どうやら、地下へ続く場所は一つだけではないらしい。


 報道では、札幌市内の複数の地点で地下へ続く異常な空間が確認されていること、警察や消防が周辺への立ち入りを制限していることが伝えられていた。詳しい規模や地下の構造については調査中で、一般市民が近づかないよう呼び掛けられている。


 智は画面から目を離せなかった。


 自分が落ちた場所だけでも、あれほど広い地下空間が続いていた。


 それが市内の別の場所にもあるという。


 地下で見た設備は、どこまで続いているのだろう。


 すべての入口が同じ場所へつながっているのか。それとも、それぞれ別の空間なのか。


 考え始めると、疑問は尽きなかった。


 ニュースはさらに、立入規制が行われている区域へ無断で近づこうとする人々についても触れていた。地下に珍しい物があるという噂が広がり、現場周辺では警察官が注意を呼び掛けているらしい。


 智は眉をひそめた。


 あの地下へ、わざわざ入ろうとする人間がいる。


 怪物の姿を見ていなければ、興味本位で近づく気持ちも分からなくはない。だが、あの場所では、少し判断を誤っただけで命を失いかねない。足場の悪い通路、見通しの利かない曲がり角、突然襲ってくる怪物。どれも、準備のない人間が簡単に対処できるものではなかった。


 テレビでは、今後の調査体制や立入管理のあり方について、関係機関が検討を進めていると説明していた。


 正式な探索制度のようなものが必要になるのかもしれない。


 智はそう考えたが、今の段階では何も決まっていないようだった。


 そもそも、地下の危険がどの程度なのかさえ、まだ分かっていないのだろう。


 画面が別の話題へ切り替わると、智は背もたれに身体を預けた。


 地下にいた間は、地上へ戻ることだけを考えていた。


 戻りさえすれば、すべて元どおりになる。


 心のどこかで、そう思っていたのかもしれない。


 だが、現実は違っていた。


 街には複数の入口が現れ、警察や消防が対応に追われている。怪物の存在も、地下の構造も、まだ十分には解明されていない。


 そして、自分の身体には、あの場所で得た不可解な能力が残っている。


 智は右手を膝の上に置き、指先をゆっくり動かした。


 痛みは相変わらずだった。


 現実の傷は、地上へ戻ったからといって消えてくれない。


 その当たり前の事実が、今は妙に重く感じられた。


 智はスマートフォンを取り出し、画面に表示された時刻を確認した。帰宅して休むには、まだ必要な手続きが残っている。それでも、今夜はできるだけ早く横になりたかった。


 身体を休めて、頭の中を整理する。


 それから、地下で見たものを一つずつ思い出してみよう。


 智はそう考え、スマートフォンのメモ機能を開いた。


 最初に入力したのは、格子のことだった。


 左側に二つの回転軸らしい部材。右下に噛み込んでいた金属片。手前へ開く構造。


 次に、点検通路。


 一定間隔で並ぶ固定具。金属の帯。壁の継ぎ目。


 最後に、救助隊と合流した隔壁。


 左右の案内溝。上方へ持ち上がる金属板。下側の変形した固定具。


 入力を続けるうちに、智はふと手を止めた。


 形は違う。


 使われている場所も違う。


 それでも、どこか似ている。


 智は画面に並んだ短い記録を見つめた。


 地下で見た設備は、ばらばらに作られたものではないのかもしれない。


 そう思ったところで、右手に痛みが走った。


 智はスマートフォンを持ち替え、ゆっくり息を吐いた。


 続きは家に帰ってからにしよう。


 今はまだ、身体を休めることが先だった。



  ※



 病院を出る頃には、智の身体はすっかり重くなっていた。処置を受けた左肩には保護材が当てられ、右手も腫れを抑えるための処置が施されている。医師からは無理をしないよう念を押されていたが、言われるまでもなく、今の状態で仕事に戻れるとは思えなかった。


 外へ出ると、札幌の街にはいつもと変わらない風が吹いていた。車が行き交い、歩道を急ぐ人々の姿もある。しかし、交差点の先には警察車両が停まり、遠くからサイレンが聞こえてくる。地下で起きた出来事が、すでに自分だけの問題ではなくなっていることを、智は改めて感じた。


 帰宅して玄関の扉を閉めた瞬間、身体から力が抜けた。


 靴を脱ぐだけでも左肩が痛み、壁に手をついて姿勢を整えなければならない。普段なら気にも留めない動作が、今はひどく面倒だった。智は上着を脱ぐのを諦めかけたが、傷に触れないよう時間を掛けて袖を抜き、椅子の背へ掛けた。


 室内は出掛けたときのままだった。


 机の上には仕事の書類が残り、壁際には工具箱が置かれている。何度も使ってきたドライバーやレンチが、いつもの場所に収まっていた。地下で拾った金属片を頼りに怪物と戦ったことを思い出すと、見慣れた工具の存在が妙に頼もしく感じられる。


 智は台所で水を飲み、居間の椅子へ腰を下ろした。


 そのまま横になりたい気持ちは強かったが、病院で書きかけた記録が気になっていた。時間が経てば、地下で見た細かな形状を忘れてしまうかもしれない。特に金具の位置や動いた方向は、記憶が曖昧になる前に残しておきたかった。


 スマートフォンを取り出し、撮影した写真を確認する。


 地下へ落ちてから何度かカメラを起動した記憶はあったものの、保存されている画像は多くなかった。暗い場所で撮ったものは輪郭がぼやけ、ライトの反射で金属部分が白く潰れている。通路の壁を写した一枚も、手前の岩肌ばかりが目立ち、肝心の固定具は端に小さく写っているだけだった。


 智は画面を拡大し、しばらく眺めた。


 金属の帯が壁に沿って伸び、その途中に四角い部材が取り付けられている。形状までは判別できないが、少なくとも同じようなものが複数並んでいたことは確認できた。


「もう少しちゃんと撮っておけばよかったな……」


 思わず独り言が漏れた。


 もっとも、あの状況で写真撮影に時間を掛けていれば、怪物に襲われていたかもしれない。悠斗を支えながら逃げ道を探していたことを考えれば、記録が少ないのも当然だった。


 智はスマートフォンを机へ置き、引き出しから方眼紙を取り出した。


 右手でペンを握ると痛みが走るため、普段よりも力を抜いて線を引く。細かな寸法を記入するのは難しかったが、構造を大まかに描くだけなら何とかなりそうだった。


 最初に描いたのは、地下へ落ちたあとに見た縦穴の設備だった。


 壁に沿って伸びる金属の部材。一定の間隔で配置された支え。昇降に関係しているように見えた構造。どこまでが本来の設備で、どこからが損傷による変形なのかは分からないため、曖昧な部分には疑問符を添えた。


 次に、第三節で開いた格子を描く。


 左側の回転軸らしい部分と、右下に噛み込んでいた金属片。枠の下端が通る溝。格子は手前へ開いたが、あの方向が本来の動きだったのか、それとも何らかの破損によって動きが変わっていたのかまでは確認できていない。


 最後に、救助隊と合流した隔壁を描いた。


 左右の案内溝に沿って金属板が上へ持ち上がる構造。下側には変形した固定具があり、救助隊が向こう側から操作しても、すぐには動かなかった。


 三枚の略図を机に並べると、それぞれ異なる設備であることがよく分かった。


 縦穴の設備は上下方向の移動に関係しているように見え、格子は横へ回転して開く。隔壁は板そのものが上へ動く構造だった。


 動き方は違う。


 それでも、智には共通するものがあるように思えた。


 荷重を受ける部材と、動く部分を案内する部材が分けられている。固定具は決まった位置に取り付けられ、動きを止めるための仕組みも設けられていた。


 建具の構造として考えれば、特別珍しい発想ではない。


 問題は、その部材の形だった。


 格子の下側にあった金属片と、隔壁の固定具。寸法を測ったわけではないが、どちらも似た幅の平たい部材を使っていたように記憶している。壁に取り付けられていた金属の帯も、縁の処理が似ていた気がした。


 智は方眼紙の端へ小さく書き込んだ。


 固定具の幅。案内溝の位置。部材の繰り返し間隔。


 ただし、どれも実測値ではない。


 記憶を頼りに描いた図から、同じ規格だと断定することはできなかった。


 智はペンを置き、右手を軽く開いた。指の付け根に鈍い痛みが残り、長く作業を続けられる状態ではない。これ以上描いても、疲労のせいで記憶を取り違えるかもしれなかった。


 そこで、略図の整理をいったん中断することにした。


 机の上には、病院でも気になっていた別の問題が残っている。


 レベルと能力。


 地下で怪物を倒したあと、視界に現れた通知は、今でも鮮明に思い出せた。


 最初にレベルが上がったときには、インベントリという機能が解放された。最後の戦闘では、メールという機能も追加されている。


 どちらも、名前だけなら意味を想像できる。


 しかし、実際に何ができるのかは分からなかった。


 智は椅子に深く座り直し、目を閉じた。


 まずは、インベントリを確かめてみよう。


 そう考え、頭の中でその言葉を意識した。


 何も起こらなかった。


 しばらく待ってみたが、視界に文字が現れることもなければ、周囲の物が動くこともない。


 智は目を開け、机の上にあるペンへ視線を向けた。


 もし名前のとおり物を収納できる機能なら、対象を指定する必要があるのかもしれない。あるいは、何らかの操作方法が存在するのだろうか。


 試しにペンを見つめながら、もう一度インベントリという言葉を意識した。


 やはり、変化はなかった。


「……そんな簡単じゃないか」


 智は小さく呟いた。


 地下で使った解析(アナライズ)は、自分の意思で対象を選ぶことで発動していた。だが、それと同じ方法がインベントリにも通用するとは限らない。


 そもそも、解放されたという通知を受け取っただけで、使用方法を教えられたわけではなかった。


 智はペンを手に取り、机の上へ置き直した。


 収納できるとすれば、どこへ入るのか。


 容量はどの程度なのか。


 生き物や危険な物まで扱えるのか。


 何も分からないまま試すのは、あまり気が進まなかった。


 特に、物が消えるような仕組みだった場合、取り出せなくなれば困る。試すとしても、なくして構わない物を選ぶべきだろう。


 智は机の端に置かれた小さな消しゴムへ目を向けた。


 しばらく考えたあと、結局それにも触れなかった。


 今のところ、機能が本当に使える状態なのかさえ分からない。無理に操作を繰り返すより、まずは情報を整理する方がよさそうだった。


 智は方眼紙の余白に「インベントリ」と書き、その下へ短く記録を残した。


 Lv3で解放。操作方法不明。収納可能な対象・容量ともに未確認。


 続いて、メールについて考えた。


 こちらはさらに分からないことが多かった。


 普通の電子メールなら、送信先のアドレスが必要になる。しかし、あの通知にはアドレスも、通信方法も示されていなかった。地下で出会った高橋たちへ連絡できるのか、それとも同じ能力を持つ人間だけが対象なのか。


 智はスマートフォンを手に取った。


 画面には、いつものメールアプリが並んでいる。


 試しに開いてみたが、特別な変化は見当たらなかった。受信箱には普段どおりの連絡が並び、地下で見た通知に関係するものはない。


 当然かもしれない。


 あの機能がスマートフォンとつながっているという根拠は、どこにもなかった。


 智は端末を置き、今度はメールという言葉を頭の中で意識してみた。


 だが、何も起こらなかった。


 少なくとも、今試した方法では反応しないらしい。


 智は小さく息を吐いた。


 使い方が分からないものを、無理に使おうとしても仕方がない。今後、別の通知や説明が現れる可能性もある。現時点では、機能が解放されたという事実だけを記録しておくことにした。


 方眼紙に「メール」と書き、その下へ操作方法不明と記す。


 Lv5で解放。送受信の対象・方法は未確認。


 書き終えたところで、智はペンを置いた。


 怪物と戦っていたときには、レベルが上がることを深く考える余裕などなかった。目の前の危険を避け、仲間を守り、地上へ戻る。それだけで精いっぱいだった。


 しかし、こうして落ち着いた場所で振り返ると、不可解なことばかりだった。


 なぜ、怪物を倒すことでレベルが上がるのか。


 誰が、その仕組みを用意したのか。


 そして、どうして自分の視界にだけ、あのような情報が現れるのか。


 智は答えを探すように、机の上の略図へ視線を戻した。


 地下の設備と、レベルや能力の仕組み。


 直接つながっている証拠はない。


 それでも、どちらも地上で暮らしていた頃には存在を知らなかったものだった。


 智は椅子から立ち上がり、台所へ向かった。水を飲み、簡単に食べられるものを用意する。空腹は感じていたが、食欲はそれほどなかった。地下での緊張が解けた反動なのか、身体は休息を求めているのに、頭だけが妙に冴えている。


 食事を済ませると、テレビをつけた。


 画面には、地下迷宮に関する特集が流れていた。


 報道では、札幌市内で確認された複数の入口について、引き続き調査が行われていると伝えている。現場周辺では立入規制が続き、地下へ無断で入ろうとする人々への対応も課題になっているらしい。


 智はソファに腰を下ろし、画面を見つめた。


 続いて紹介されたのは、地下から持ち帰られたという素材だった。


 映像には、黒っぽい板状の物体と、表面に不規則な模様のある鉱物のようなものが映っている。どちらも大きさを比較できるものが隣に置かれていたが、智には正確な寸法までは読み取れなかった。


 説明によれば、研究機関や企業がこれらの素材について調査を始めているという。


 怪物の外皮とみられるものや、地下で発見された未知の鉱物について、強度や加工特性を調べる試みが進められているらしい。


 智は思わず身を乗り出した。


 怪物の外皮。


 あの硬い感触を思い出す。


 金属片を叩きつけても、簡単には傷がつかなかった。頭部に亀裂を生じさせるには、相手の動きを制限し、同じ箇所へ繰り返し力を加える必要があった。


 もし、あの外皮を材料として使えるのなら、確かに興味深い。


 ただし、硬いことと、実用的な材料であることは別の話だった。


 智は画面に映る板状の素材を見ながら、自然と仕事のことを考え始めていた。


 たとえば、扉の表面材に使うとする。


 必要な寸法に切断できるのか。


 穴を開けられるのか。


 金属の枠へ取り付ける場合、ビスで固定できるのか。それとも接着剤や別の方法が必要になるのか。


 仮に強度が高くても、加工できなければ使い道は限られる。熱によって変形するのか、衝撃を受けたときに割れるのか、長期間使用した場合に劣化するのかも確かめなければならない。


 建具に使うなら、開閉時の振動や温度変化への対応も必要だ。


 材料そのものが優れているだけでは、製品にはならない。


 智はテレビの音量を少し上げた。


 番組では、未知の素材を利用した武器や防具の試作研究が始まりつつあることにも触れていた。ただし、性能や安全性はまだ確認段階であり、一般に使える製品が完成したわけではないという。


 智は頷いた。


 それなら理解できる。


 新しい素材が見つかったからといって、すぐに実用品が作れるわけではない。むしろ、そこから先の方が時間が掛かることも多い。


 試験片を作り、強度を測り、加工方法を探る。


 必要な形に仕上げられるようになっても、接合方法や耐久性を確認しなければならない。


 もし地下の素材が本当に従来の材料と異なる性質を持っているのなら、既存の加工設備では対応できない可能性もあるだろう。


 智はテレビに映る研究者の説明を聞きながら、机の上に置いた略図へ目を向けた。


 地下の設備に使われていた金属も、同じような素材なのだろうか。


 格子や隔壁は、長い年月を経たように古びていた。


 それなのに、内部の部材には思ったほど摩耗していない部分があった。外側には錆びに似た変色が見られたものの、実際に動く部分は比較的滑らかだった。


 もちろん、見た目だけでは劣化の程度など分からない。


 だが、あの設備が普通の金属で作られていたとすれば、どのくらいの期間、地下に存在していたのだろう。


 智はテレビを消し、机へ戻った。


 三枚の略図をもう一度並べる。


 縦穴の設備、格子、隔壁。


 それぞれの形状は異なるが、固定具や案内溝の配置には、似た考え方が見られる。部材の寸法まで揃っているかどうかは分からないものの、同じ設計思想に基づいて作られた可能性はある。


 智は方眼紙の上へ透明な定規を置き、描いた線を見比べた。


 ここで寸法を測っても意味はない。


 実際の設備を採寸したわけではなく、記憶を頼りに描いた略図だからだ。紙の上で幅が同じだからといって、現物も同じとは限らない。


 それでも、確認すべき場所を整理することはできる。


 固定具の取り付け位置。


 案内溝と枠の関係。


 可動部分を支える部材の形。


 智はそれぞれの図へ短い注記を書き加えた。


 こうして並べてみると、地下の設備は、単なる古い遺構とも思えなかった。


 少なくとも、行き当たりばったりに作られたものではない。


 誰かが目的を持って設計し、一定の手順に従って組み立てたように見える。


 問題は、その誰かが分からないことだった。


 智は椅子の背へ身体を預けた。


 地下迷宮が突然現れたという報道は、何度も耳にしている。だが、あの設備まで同じ瞬間に作られたのだろうか。


 もしそうなら、なぜ長い年月を経たような姿をしているのか。


 反対に、設備が以前から存在していたのなら、なぜ今まで発見されなかったのか。


 札幌の地下には、地下鉄や地下街、さまざまな設備がある。建設工事も行われてきたはずだ。それほど広い空間が存在していたなら、どこかで痕跡が見つかっていてもおかしくない。


 もちろん、智が知らないだけという可能性もある。


 地下のすべてを調べたわけではないし、報道されていない情報があるのかもしれない。


 それでも、説明のつかない部分が多すぎた。


 智は目を閉じ、地下の光景を思い返した。


 青白く光る苔。


 岩壁に張りついて動く怪物。


 古びた格子の奥に続いていた点検通路。


 そして、壁の向こうから返ってきた三度の音。


 あの音を聞いたとき、ようやく助かるかもしれないと思った。


 だが、そこへ至るまでには何度も危険な目に遭っている。怪物に襲われ、身体を傷つけ、悠斗を支えながら狭い通路を進んだ。少し判断を誤れば、四人とも地上へ戻れなかったかもしれない。


 もう一度、あそこへ入るのか。


 智は自分に問い掛けた。


 答えは簡単には出なかった。


 地下には、確かに知りたいことがある。


 あの設備の構造も、怪物の正体も、レベルや能力の仕組みも、何一つ解明できていない。今後、研究が進めば地上からでも情報を得られるようになるかもしれないが、自分の目で確かめたいという気持ちが消えるわけではなかった。


 しかし、好奇心だけで命を懸けるつもりもなかった。


 左肩の痛みが、そのことを思い出させる。


 今の身体では、まともに工具を扱うことさえ難しい。地下へ戻ったところで、怪物から逃げ切れる保証はない。そもそも、現在は立入規制が行われており、自由に出入りできる場所でもなかった。


 智は右手を軽く握り、痛みを確かめた。


 まずは怪我を治す。


 仕事をどうするか考える。


 地下について調べるのは、そのあとでも遅くない。


 そう結論づけたところで、机の上に並んだ略図が目に入った。


 縦穴の設備。


 格子。


 隔壁。


 形は違っていても、どこかに共通するものがある。


 智はペンを取り、三枚の図を見比べた。


 まだ、何も証明できていない。


 だが、もし同じ規格で作られているのなら、地下にはそれらを設計し、製作した何者かが存在したことになる。


 それは、単に古い設備が残っているという話では済まない。


 智は方眼紙の端へ、ゆっくり文字を書き込んだ。


 共通規格?


 書き終えたあとも、しばらくペンを置けなかった。


 地下へ戻りたいのかと聞かれれば、今はまだ分からない。


 あの暗闇を思い出すだけで、身体が強張る。


 それでも、あそこで見たものを、ただの恐ろしい出来事として忘れてしまうことはできそうになかった。


 智は三枚の略図を重ねず、そのまま机の上へ残した。


 窓の外では、札幌の街にいつもと変わらない夜が訪れようとしている。


 けれど、その地下に何が広がっているのかを、智はもう知ってしまった。


 少なくとも、ほんの一部だけは。


 机の上の方眼紙には、最後に書き込んだ疑問符が残っていた。


 智はそれを見つめながら、地下で見た設備のことを考え続けていた。

「小さな発見」はこれで終了です

次節に向けて一度時系列の作成、見直しにはいります~

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