3:小さな発見
「小さな仕組み」
格子の向こうから流れてくる空気は、通路の途中で感じたものよりも冷たかった。智はスマートフォンのライトを隙間へ向け、奥の様子をもう一度確かめた。光は数メートル先の壁まで届いているが、その先は右へ折れているらしく、通路がどこまで続いているのかは分からない。床には細かな砂が積もり、壁際には黒ずんだ金属の帯が伸びていた。
人が通れる幅はありそうだった。ただ、格子が開くかどうかも分からない段階で、そこを帰還経路と決めるわけにはいかない。智は背後にいる三人へ目を向け、少し調べる時間が欲しいと伝えた。
「格子の周りに、何か仕組みがありそうなんです。開けられるかもしれません」
「壊さずに、ですか?」
高橋が尋ねた。先ほどの戦闘で使った金属片を見ているのだろう。智は格子の縁を照らしながら、小さく頷いた。
「まだ分かりませんけど、無理に壊すのは最後にしたいですね。奥に通路があっても、ここを通れなくしたら意味がありませんから」
高橋は納得したように頷き、悠斗を支え直した。美咲は壁際に座れる場所を探し、そこへ悠斗を移動させる。右脚を伸ばすまでに何度か痛そうな表情を浮かべたが、腰を下ろしてしまえば少し楽になったらしい。美咲は固定していた布の緩みを確かめ、足先の色や感覚について短く尋ねていた。
智も一度腰を下ろしたかったが、格子の前から離れると、そのまま動く気力を失いそうだった。右手の腫れは相変わらずで、指を握り込もうとすると鈍い痛みが走る。左肩はさらに厄介だった。先ほどの戦闘で傷をかばいきれず、腕を持ち上げるたびに皮膚の奥が引きつるような感覚が残っている。
それでも、目の前にある金属の構造は、智にとってまったく理解できないものではなかった。
格子の外周には太い枠があり、その四隅に小さな金属の塊が取り付けられている。最初はすべて同じ固定具に見えたが、光の角度を変えると、左側の上下二か所だけ形が違っていた。右側の部材は枠を押さえるように平たく伸びているのに対し、左側には丸みを帯びた部分があり、その中央に細い隙間が見える。
智は顔を近づけた。
蝶番に似ている。
もちろん、地上で扱ってきた丁番と同じ構造だとは限らない。だが、上下に二つ並んだ丸い部分が回転軸を支えているのだとすれば、格子そのものが左側を中心に動く可能性がある。
試しに枠の右側を照らすと、岩との間にわずかな隙間があった。砂や白い付着物で埋まりかけているものの、完全に一体化しているようには見えない。固定された格子なら、周囲をこれほど丁寧に分けて作る必要があるだろうか。
「……開き戸に近いのかもしれないな」
独り言のつもりだったが、高橋が反応した。
「開き戸?」
「ええ。左側を軸にして、右側が動く仕組みです。普通の扉と同じ考え方なら、ですけど」
「じゃあ、引っ張れば開くんでしょうか」
「そこが分からないんです。何かで固定されているかもしれませんし、反対側へ開く可能性もあります」
智は格子の下端へ光を移した。床との隙間には砂が詰まり、ところどころ小石も挟まっている。枠の右下には、他の部分よりも黒く見える金属片があり、その先端が床の溝へ入り込んでいた。
この部材が何なのか分かれば、開閉の仕組みも見えてくるかもしれない。
智は格子から少し距離を取り、全体が視界に収まる位置へ移動した。疲労の残る頭で細部ばかり追っていると、肝心な構造を見落としかねない。そこで、これまでに得た情報を整理してから、《解析》を使うことにした。
対象は格子の右下にある金属片。周囲の岩や通路全体ではなく、まずは一つの部材に絞る。
意識を集中させると、視界の端に淡い文字が浮かび上がった。
《解析》
対象:金属製固定部材
用途:開閉機構の一部と推定
構造:一部判別不能
操作方法:解析不能
表示はそれだけだった。
智はしばらく文字を見つめたが、それ以上の情報は現れなかった。こめかみの奥に鈍い重さが広がり、集中を続けることが難しくなる。すぐに《解析》を終えると、目を閉じて呼吸を整えた。
開閉機構の一部。
少なくとも、単なる補強材ではない可能性が高くなった。ただ、どの方向へ動かすのか、何を解除すればよいのかまでは分からない。これ以上能力を使っても、同じ情報しか得られないかもしれなかった。
「結城さん、大丈夫ですか?」
高橋の声に顔を上げると、彼が心配そうにこちらを見ていた。
「ええ。ちょっと集中しすぎました」
「顔色、あまりよくないですよ」
「自分でもそう思います。でも、少し分かったことがあります」
智は格子の右下を指した。
「この辺りに、開け閉めするための部品があるみたいです。だから、力任せに引っ張る前に、そこを確認したいんです」
「なるほど。僕にできることはありますか?」
「格子が動くようなら、支えてもらえると助かります。ただ、急に開いたり倒れたりする可能性もあるので、まずは動く方向を確かめましょう」
高橋は頷き、格子の右側へ移動した。智は左側の丸い部材をもう一度照らし、上下の位置関係を確認する。二つの中心はほぼ一直線に並んでおり、枠と岩壁をつなぐ部分には細い隙間があった。
もしこれが回転軸なら、右側を手前へ引くことで開くはずだ。
しかし、格子の奥には狭い通路があり、手前には四人が立つだけの空間がある。点検用の扉なら、どちらへ開く設計でも不思議ではない。智は枠の右端に残る擦れ跡を探し、床と壁の両方を照らした。
手前側の床には、緩やかな弧を描くような傷があった。
砂に半分埋もれているため確実ではないが、格子の右下が移動したときにできた跡にも見える。その弧は壁から離れる方向へ伸びており、扉が手前へ開くという仮説と矛盾しなかった。
智は床にしゃがみ、右下の金属片を詳しく観察した。
部材は格子の枠から斜め下へ突き出し、床の細い溝に入り込んでいる。先端には平らな面があり、そこだけ周囲より明るい金属色が残っていた。表面の黒ずみを考えると、意外なほど傷が少ない。
長い間動かされていなかったのなら、もっと固着していてもおかしくない。逆に、何度も使われていたのなら、擦れる部分だけが磨かれている可能性もある。どちらにしても、外から見える古さだけで内部の状態を判断するのは危険だった。
智は金属片の周囲に詰まった砂を、折り畳み式カッターの背で少しずつ取り除いた。刃を使えば細かな部分に届きそうだったが、無理に差し込んで折ってしまえば、残された数少ない道具を失うことになる。右手が使いにくいため作業は思うように進まず、左肩の痛みもあって、何度か手を休めなければならなかった。
砂が落ちると、金属片の下に別の部材が見えてきた。
薄い板状のものが、格子の枠と床の間に斜めに挟まっている。先端はわずかに曲がり、枠の下端を押し上げるような位置にあった。
智は手を止めた。
これが噛み込んでいるせいで、格子が動かなくなっているのかもしれない。
ただし、部材が外れれば、その瞬間に格子の重さが別の場所へ移る。左側の軸が十分な強度を保っていなければ、枠全体が傾く可能性もあった。見た目には頑丈そうでも、実際にどこへ荷重が掛かっているかは分からない。
「高橋さん、少し手を貸してもらえますか」
「はい。どうすればいいですか?」
「格子の右側を軽く支えてください。持ち上げようとしなくていいです。もし動き始めたら、すぐ教えてください」
高橋は格子の正面に立ちかけたが、智が声を掛けると横へ移動した。枠が手前へ倒れた場合、真正面にいれば逃げる余裕がない。智自身も右下から少し離れ、金属片が外れたときに手を挟まない位置を選んだ。
「これでいいですか」
「はい。無理に押さえ込まないでください。重すぎたら離れてもらって構いません」
「分かりました」
智はカッターの背を薄い金属片の端へ当て、軽く押してみた。ほとんど動かない。角度を変えてもう一度試すと、今度はわずかな手応えがあったが、同時に格子の下端から小さな音が響いた。
高橋が顔を上げる。
「今、動きました」
「どちらへ?」
「手前です。ほんの少しですけど」
智は頷き、作業を止めた。
格子が手前へ動くという仮説は、どうやら間違っていないらしい。しかし、金属片をそのまま押し抜けば、格子が急に開く可能性もある。悠斗と美咲が十分に離れていることを確認し、さらに高橋の足元に障害物がないか確かめた。
「佐々木さん、念のため小林さんをもう少し壁側へ寄せてもらえますか。格子が急に動くかもしれません」
「分かりました」
美咲は悠斗に声を掛け、身体を支えながら少しずつ位置を変えた。悠斗は右脚を動かすたびに顔をしかめたが、格子から十分に離れた場所へ移ると、壁に背中を預けて息を整えた。
智はその様子を確認してから、再び金属片へ向き直った。
薄い板は、枠の下端と床の間に斜めに挟まっている。押し込むよりも、横へずらした方が外れそうだった。ただ、無理な力を掛ければカッターが滑り、左手を傷つけるおそれがある。
そこで智は、床に落ちていた細い石片を拾い、金属片の端へ当ててみた。石片は脆く、少し力を掛けると先端が欠けたが、隙間を広げる程度には使えそうだった。
高橋が格子を支える位置を調整し、智は石片を使って金属片を少しずつ横へ動かした。最初はほとんど変化がなかったものの、何度か角度を変えるうちに、金属同士が擦れるような低い音が聞こえてきた。
その直後、格子の右下がわずかに浮いた。
「結城さん、動いてます」
「分かりました。まだ力を入れないでください」
智は金属片の位置を確かめた。
先ほどまで枠の下端に食い込んでいた部分が、少し外側へずれている。あと数ミリ動かせば、引っ掛かりが外れるかもしれない。
しかし、そこで急に力を加えるのは避けたかった。
智は一度手を離し、格子の左側を照らした。上下の丸い部材は動いていないが、枠の右側だけがわずかに手前へ傾いている。荷重が左側の軸へ移り始めているのだろう。
少なくとも、今のところ枠全体が崩れる兆候は見られなかった。
「もう少しだけ動かします。高橋さん、重さが変わったらすぐ教えてください」
「はい」
智は石片を持ち直し、金属片の端をゆっくり押した。
小さな音がした。
次の瞬間、噛み込んでいた部材が横へ滑り、格子の下端から外れた。
高橋が短く息を呑む。
「動いた!」
格子の右側が、ゆっくり手前へ開き始めた。
智はすぐに石片を手放し、身体を引いた。高橋も枠を支えながら後退し、格子が急に倒れないよう動きを確かめている。
金属の軸が低く軋み、格子は数センチほど開いたところで止まった。
智はしばらく様子を見たが、それ以上動く気配はなかった。左側の軸も外れておらず、枠はほぼ垂直を保っている。
「……開きましたね」
高橋が安堵したように言った。
「ええ。ただ、まだ途中です」
智は格子の隙間へライトを向けた。
奥には、人が一人通れるほどの細い通路が続いていた。床は砂に覆われているが、両側の壁には金属の帯が伸び、天井にも同じような固定具が並んでいる。先ほどまで歩いてきた自然の岩肌とは違い、壁の形が比較的揃っているように見えた。
智は格子の開いた部分を観察し、枠がどこまで動くのか確かめた。左側の軸はまだ動きそうだったが、右下に砂が溜まっており、途中で引っ掛かる可能性がある。
「高橋さん、少しずつ開いてみましょう。無理に押さないでください」
「分かりました」
二人で位置を変えながら格子を動かすと、低い軋み音とともに枠がゆっくり開いた。途中で一度止まったが、床に詰まった砂を取り除くと再び動き、やがて人が横向きにならずに通れる程度の隙間ができた。
智はそこで作業を止めた。
これ以上開ける必要はない。むしろ、格子を閉じられる状態にしておく方が、何かあったときに役立つかもしれなかった。
「通れそうですね」
高橋が奥を覗き込む。
「ええ。でも、先に何があるか分かりません。まずは入口から確認しましょう」
智はスマートフォンのライトを通路の奥へ向けた。床には細かな砂が積もり、ところどころに金属の継ぎ目が見える。壁には一定間隔で固定具が取り付けられ、奥の方には、薄い板のようなものが横方向へ伸びていた。
その構造は、これまで見てきたものよりも明らかに人工的だった。
ただ、いつ作られたものなのかは分からない。
古びた表面とは対照的に、格子の回転部分には思ったほど傷みがなかった。長い年月を経た設備が偶然残っていたのか、それとも別の理由があるのか。智には判断できなかったが、少なくとも、この地下には一定の規則に従って作られた構造物が存在しているらしい。
「結城さん、これなら外へ出られるんでしょうか」
悠斗が壁際から尋ねた。
智は振り返った。
「まだ分かりません。でも、先へ進める道が一つ見つかりました」
悠斗は小さく頷いた。疲れ切った顔には、わずかな期待が浮かんでいる。
智も同じ気持ちだった。
ただ、期待だけで判断するわけにはいかない。格子の先が安全とは限らず、途中で行き止まりになっている可能性もある。何より、四人が無事に通過できるかどうかを確かめる必要があった。
智は格子の下端をもう一度照らし、足を引っ掛けそうな場所を確認した。床には小さな段差があり、悠斗を支えながら越えるには注意が必要そうだった。高橋と美咲が左右から支えれば通れそうだが、その間はほとんど身動きが取れなくなる。
そのとき、背後の通路から小さな音が聞こえた。
智は手を止めた。
最初は、格子の軸が軋んだ余韻かと思った。しかし、音は開いた格子とは反対の方向から聞こえている。
石の床を、何かが叩いていた。
先ほどの岩這い種が立てていた乾いた音とは違う。もう少し重く、間隔も不規則だった。
智は振り返り、ライトを通路の奥へ向けた。
光の届く範囲には、まだ何も見えない。
だが、音は一つではなかった。
離れた場所で何かが擦れるような響きが重なり、続いて別の方向からも硬い足音が聞こえた。
高橋も気づいたらしく、格子から手を離さずに顔を上げた。
「……結城さん?」
智は返事をする前に、開いた格子と背後の通路を見比べた。
格子の先には、まだ安全を確認していない細い道がある。一方、来た道からは正体の分からない何かが近づいている。悠斗を連れて引き返すことは難しく、ここで長く迷っている余裕もなさそうだった。
智は格子の開閉方向をもう一度確かめた。
もし四人が向こう側へ移れれば、この格子を閉じて追ってくるものを遮れるかもしれない。ただし、最後の一人が通り抜けるまで、入口を開けておかなければならない。
その時間を、どう確保するか。
智は左肩の痛みをこらえながら、格子の脇へ身体を寄せた。
背後の足音が、少しずつ近づいてきた。
※
背後から聞こえる足音は、先ほどよりも明らかに近づいていた。乾いた石の床を硬いものが叩き、その合間に何かを引きずるような音が混じっている。一定の間隔で続くわけではなく、時折二つ、三つと重なって聞こえることから、少なくとも一体だけではなさそうだった。
智は開いた格子の向こうへ視線を移した。人が一人ずつ通るには十分な幅があるが、悠斗を両側から支えたまま抜けるには狭い。格子の下端には数センチほどの段差が残っており、右脚を傷めた悠斗にとっては、それだけでも大きな障害になるだろう。
「高橋さん、先に向こうへ入ってください。佐々木さんと二人で、小林さんを通してもらえますか」
「結城さんはどうするんです?」
「後ろを見ています。全員が通ったら、格子を閉めます」
高橋は一瞬ためらったものの、智の視線が通路の奥へ向いていることに気づくと、すぐに頷いた。美咲と短く相談し、まず自分が格子をくぐって点検通路側へ移動する。入口の内側は思ったより平らだったらしく、足元を確かめながら振り返り、悠斗を受け入れる準備を整えた。
智はその間、曲がり角から目を離さなかった。青白い苔の光が届く範囲には、まだ何も現れていない。しかし、音の響き方が変わっている。先ほどまで遠くの壁に反射していた足音が、今は通路の床を直接伝わってくるように感じられた。
何かが近づいている。
それも、一つではない。
「小林さん、今から格子を通ります。右脚はできるだけ動かさないようにしてください」
美咲が声を掛けると、悠斗は壁に手をつきながら身体を起こした。高橋が格子の内側から両腕を伸ばし、美咲が背後で腰を支える。悠斗は左脚を軸にして身体を少しずつ回し、痛む右脚を引きずらないよう慎重に入口へ近づいた。
格子の下端を越えるところで、動きが止まった。
「……すみません、脚が」
「大丈夫。急がなくていいから」
美咲はそう答えたが、その声には焦りが滲んでいた。悠斗の右脚を持ち上げるには、支える位置を変えなければならない。高橋が内側から上半身を受け止め、美咲が膝の下を支える形にすると、ようやく足先が段差を越えた。
智は背後を振り返らず、耳だけで三人の動きを確かめていた。今、自分が手伝いに回れば、曲がり角から何かが現れたときに対応が遅れる。かといって、負傷した肩と右手では悠斗を十分に支えられるとも思えなかった。
足音が止まった。
不意に訪れた静けさに、智は息を詰めた。
怪物が引き返したのか。それとも、曲がり角の向こうでこちらの様子を窺っているのか。判断できないまま数秒が過ぎ、やがて低い擦過音が岩壁の近くから聞こえてきた。
智はスマートフォンのライトを曲がり角へ向けた。
光の端に、黒っぽいものが動いた。
最初に現れたのは、地面に近い位置で揺れる細長い突起だった。続いて、丸みを帯びた胴体が岩陰から姿を見せる。大きさは先ほど倒した岩這い種よりも小さいが、四本の脚は太く、背中には短い棘のようなものが並んでいた。
その後ろにも、同じような影が動いている。
二体。
さらに、もう一体。
智は喉の奥が乾くのを感じた。狭い通路で三体を同時に相手にするなど、今の身体では考えたくもない。そもそも、先ほどの一体を倒せたのも、高橋の助けと地形を利用できたからだった。
怪物の一体が頭部を持ち上げた。口の周囲には短い突起が幾つもあり、岩の表面を探るように動いている。智には、それが何を感じ取っているのか分からなかった。
ここで《解析》を使えば、名前や特徴を知ることができるかもしれない。
だが、能力を使った直後に感じる頭の重さを思い出し、智はその考えを退けた。今必要なのは相手の分類ではなく、四人が安全に格子を通過するための時間だった。正体を確かめることに気を取られ、逃げる機会を失っては意味がない。
「高橋さん、あとどれくらいですか」
声を抑えて尋ねると、格子の向こうから返事があった。
「もう少しです。小林君の脚が引っ掛からなければ……」
「分かりました。急ぎすぎないでください」
智は怪物へ視線を戻した。
三体は曲がり角の手前で一度立ち止まり、互いに距離を取るように広がっている。通路の幅は限られているため、完全に横並びにはなれない。それでも、一体が前へ出れば別の個体が壁際を進むことができそうだった。
先ほどの岩這い種とは動き方が違う。
こちらは天井へ張りつく様子を見せず、床を踏みしめながら進んでいる。少なくとも、今のところはそう見えた。
智は格子の右側にある固定具へ目を向けた。先ほど噛み込んでいた金属片は外してあるが、枠そのものは左側の軸で支えられている。閉じる方向へ動かせば、格子は元の位置へ戻るはずだった。
問題は、完全に閉まるまでの時間だった。
開けるときには高橋と二人で慎重に動かしたが、閉じるときも同じように動くとは限らない。途中で砂や小石が挟まれば、枠が止まってしまう可能性もある。
智は足元の溝を照らし、格子の下端が通る範囲を確かめた。そこには細かな砂が残っているものの、大きな石は見当たらない。少なくとも、目に見える障害物はなさそうだった。
そのとき、怪物の一体が急に走り出した。
智は反射的に身体を引いた。先頭の個体は低い姿勢のまま床を蹴り、こちらへ向かってくる。背後の二体も動き始めたが、通路の狭さのため、先頭を追い越すことはできないようだった。
「来ます! 格子の奥へ!」
智の声に、美咲が悠斗の身体を押し込むように支えた。高橋が内側から引き受け、ようやく悠斗の右脚が段差を越える。美咲も続いて格子をくぐったが、その途中で衣服の裾が枠の突起に引っ掛かり、身体が止まった。
「佐々木さん、右側です!」
智が声を掛けると、美咲は慌てずに裾を外し、点検通路へ身を滑り込ませた。
三人が向こう側へ移った。
あとは自分だけだった。
智は格子の外側に立ったまま、怪物との距離を確かめた。先頭の一体はすでに数メートル先まで迫っている。走って格子をくぐり、そのまま閉じるには、ほとんど余裕がなかった。
右手を使えれば、枠を引き寄せながら身体を滑り込ませることもできたかもしれない。しかし、今は左手だけで格子を操作しなければならず、肩の傷もそれを難しくしている。
「結城さん、早く!」
高橋が内側から叫んだ。
智は怪物へ背中を向けず、格子の開口部へ身体を寄せた。先頭の一体が床を蹴った瞬間、左足を軸にして横へ身をかわし、そのまま格子の内側へ飛び込む。
左肩が枠に触れ、鋭い痛みが走った。
思わず声が漏れたが、立ち止まる余裕はなかった。高橋が智の衣服を掴んで引き寄せ、身体が完全に内側へ入ったところで、二人は格子へ手を掛けた。
「閉めます!」
高橋が声を上げた。
「ゆっくりじゃなくていいです。ただ、最後は気をつけて!」
二人で枠を押すと、格子は低い軋み音を立てながら動き始めた。開けるときよりも抵抗は少なく、左側の軸を中心にゆっくり回転していく。
しかし、閉まり切る直前、外側から激しい衝撃が加わった。
金属が鳴り、格子が大きく揺れる。
先頭の怪物が、閉じかけた隙間へ頭部を突っ込んできたのだ。
智は思わず後退しかけたが、格子が押し戻されるのを見て踏みとどまった。怪物の胴体は外側に残っているものの、頭部と前脚の一本が内側へ入り込み、枠を押し広げようとしている。
その後ろでは、残る二体が格子へ近づいていた。
「高橋さん、押し返されないように!」
「分かってます!」
高橋は両手で枠を支え、身体を斜めにして力を掛けた。智も左手を添えたが、肩に痛みが走り、十分な力を加えられない。
怪物は頭部を左右に振り、隙間を広げようとしていた。口の周囲にある突起が金属へ触れ、嫌な擦過音を立てる。前脚の爪が格子の内側を引っかき、細かな金属片のようなものが床へ落ちた。
智はその動きを見ながら、格子の構造を思い返した。
左側が回転軸で、右側が閉じる部分。枠の下端には金属片が噛み込んでいた溝があり、その近くに固定具が残っている。完全に閉じれば、格子はその位置で止まるはずだった。
だが、怪物の身体が挟まっている限り、枠は最後まで動かない。
力で押し切るのは難しかった。
智は怪物の前脚が入り込んでいる位置へ視線を落とした。脚は格子の縦材と外枠の間に掛かっており、そこを支点にして身体を引き寄せようとしている。
このままでは、いずれ隙間を広げられるかもしれない。
「高橋さん、少しだけ格子を戻せますか」
「戻すんですか?」
「ほんの少しです。あの脚を外させたいんです」
高橋は戸惑ったように智を見たが、すぐに頷いた。
二人は格子を数センチだけ開く方向へ動かした。
怪物の前脚が自由になり、身体が一瞬前へ傾く。その隙に智は足元へ転がっていた細長い金属片を拾い、格子の下部にある固定具の近くへ差し込んだ。
先ほど開閉機構を調べたときに見つけた溝だった。
金属片を斜めに掛ければ、枠が動く範囲を一時的に制限できるかもしれない。
智は左手で部材を支え、怪物の脚が再び格子へ掛かるのを待った。相手は隙間が広がったことに反応し、頭部をさらに内側へ押し込んでくる。
その瞬間、智は高橋へ声を掛けた。
「今です。閉めてください!」
二人が格子を押すと、枠は勢いよく戻った。
怪物の前脚が縦材と外枠の間に挟まり、身体が大きく傾く。金属片が固定具へ食い込み、枠の動きが止まった。
怪物は激しく暴れたが、前脚を引き抜くことができない。
智はすぐに距離を取り、格子の状態を確かめた。
枠は完全には閉じていないものの、怪物の身体が通れるほどの隙間は残っていなかった。外側の二体が格子へ体当たりするたびに金属が鳴るが、今のところ軸が外れる様子はない。
ただ、挟まった一体はまだ生きている。
頭部を振り、口の周囲の突起を伸ばして、智たちへ近づこうとしていた。
「どうしますか、結城さん」
高橋が荒い息で尋ねた。
「このまま放っておくと、格子を壊されるかもしれません」
智はそう答えながら、怪物の動きを見つめた。
逃げられるなら、戦わずに済ませたかった。だが、格子の隙間に挟まったまま暴れ続けられれば、固定具がどこまで耐えられるか分からない。しかも、外側にはまだ二体が残っている。
今ここで格子を開け直すことはできなかった。
智は床に落ちていた短い金属片へ目を向けた。片端が平たく潰れ、反対側は不規則に折れている。長さは腕の半分ほどしかないが、厚みがあり、握っただけでも相応の重さが感じられた。
怪物は前脚を挟まれたまま、頭部を左右に振っている。口の周囲に並ぶ突起が格子へ触れるたび、耳障りな音が響いた。無理に近づけば噛みつかれるかもしれないが、このまま暴れ続けられれば、固定具が外れる危険もある。
「高橋さん、格子を支えていてもらえますか。あいつが動けないうちに、何とかします」
「結城さん、その肩で大丈夫なんですか」
「大丈夫とは言えません。でも、今なら頭が届く位置にあります」
高橋は不安そうな表情を浮かべたものの、格子の枠へ両手を掛け直した。智はその様子を確かめ、怪物の口が届かない位置から金属片を構える。左肩を大きく動かせないため、腕を振り上げるのではなく、身体を前へ押し出すようにして打ち込むしかなかった。
怪物が頭部を持ち上げた瞬間、智は金属片の先端をその側面へ叩きつけた。
硬いものがぶつかる鈍い音が響いた。
怪物は激しく身を捩り、挟まれた前脚を引き抜こうとした。その衝撃で格子が手前へ揺れ、高橋の身体がわずかに押し戻される。
「くっ……!」
「高橋さん、無理なら離れてください!」
「まだ大丈夫です!」
高橋は足の位置を変え、格子を押し戻した。怪物の前脚が再び枠に挟まり、胴体が外側へ引かれる。智はその間に一歩下がり、金属片を握り直した。
最初の一撃で、怪物の頭部には小さな亀裂のようなものが生じていた。そこから黒ずんだ液体が滲み、表面を伝っている。少なくとも傷を負わせることはできたらしいが、動きが弱まった様子はない。
むしろ、怪物はさらに激しく暴れ始めた。
智は左肩の痛みに顔をしかめた。もう一度同じ動きをすれば、傷を悪化させるかもしれない。それでも、ここで格子を開けられれば、背後にいる三人まで危険にさらされる。
怪物が頭部を格子へ押しつけた。
その瞬間、智は金属片を短く振り、先ほど傷つけた箇所へ再び打ち込んだ。
鈍い衝撃が腕を伝い、左肩に鋭い痛みが走った。金属片の先端が亀裂へ食い込み、怪物の頭部が格子へ強く押しつけられる。
怪物の身体が大きく跳ねた。
挟まれていた前脚が激しく震え、爪が金属を引っかいた。高橋は格子を押さえたまま歯を食いしばっていたが、やがて抵抗が弱まると、驚いたように智へ目を向けた。
「……動きが」
「まだ近づかないでください」
智は金属片を引き抜き、すぐに距離を取った。
怪物の頭部は不自然な角度に傾き、傷口から黒い液体が流れている。前脚が一度だけ痙攣したものの、それ以上身体を動かす様子はなかった。
智はしばらく観察を続けた。呼吸をしているのかどうかも分からず、完全に死んだと断定することはできない。それでも、先ほどまで格子を揺らしていた力は失われていた。
そのとき、視界の端に文字が浮かび上がった。
共通システム通知
**LEVEL UP**
**Lv3 → Lv4**
智は一瞬だけ目を見開いた。
また、レベルが上がった。
先ほどの岩這い種との戦闘から、まだそれほど時間は経っていない。今回も怪物を倒したことで、何かの条件を満たしたのだろう。だが、表示には新しい機能の解放を知らせるものはなかった。
智は通知が消えるのを待たず、格子へ視線を戻した。
今はレベルのことを考えている場合ではない。
「高橋さん、怪物の身体が引っ掛かっています。少しずつ位置を変えて、格子を閉めたいんです」
「分かりました。でも、外の二体が……」
「ええ。だから、開く方向へは動かしません」
智は格子の下端に挟まっている金属片を確かめた。これを外せば枠は動くはずだが、同時に怪物の身体が内側へ倒れ込む可能性もある。そこで、まずは高橋に枠を支えてもらい、智が金属片の角度を少しずつ変えることにした。
作業は思った以上に難しかった。
怪物の身体が枠に挟まっているため、金属片を動かしても格子はほとんど閉まらない。外側の二体が体当たりするたびに振動が伝わり、高橋も何度か姿勢を崩しかけた。
智は無理に閉じようとせず、怪物の身体がどちらへ動くかを確かめながら、少しずつ枠を押した。
やがて、挟まっていた前脚が外側へ滑り、怪物の身体が格子の向こうへ崩れ落ちた。
「今です!」
高橋が力を込めると、格子は一気に閉じる方向へ動いた。
智も左手を添え、最後の数センチを慎重に押し込む。枠の下端が床の溝へ収まり、低い金属音が響いた。
格子が閉まった。
外側の怪物がすぐに体当たりしてきたが、枠は大きく動かなかった。智は右下の固定具を確かめ、先ほど外した金属片を溝へ差し込んで、枠が手前へ開かないようにした。
完全な施錠ではない。
だが、少なくとも今すぐ押し開けられる状態ではなくなった。
「……これで、少しは時間が稼げそうですね」
高橋が息を吐いた。
「そう思います。ただ、いつまで持つか分かりません。ここから離れましょう」
智は格子の向こうを見た。残る二体は何度か枠へ体当たりしたあと、周囲を動き回っている。すぐに諦める様子はないが、こちらへ入り込める隙間は見当たらなかった。
智は高橋とともに点検通路の奥へ戻った。
美咲と悠斗は、格子から少し離れた壁際で待っていた。美咲は悠斗の右脚を支えながら、こちらの様子を気にしていたらしい。二人が戻ると、安堵したように息を吐いた。
「大丈夫でしたか?」
「何とか。格子は閉まりました」
智が答えると、美咲は頷いた。しかし、すぐに智の左肩へ目を向け、表情を曇らせる。
「また傷を痛めたんじゃないですか」
「少し……。でも、今はここから離れた方がいいと思います」
美咲は何か言いかけたが、格子の向こうから響いた衝撃音に顔を上げた。まだ怪物が諦めていないことを理解したのだろう。それ以上は問い詰めず、悠斗を立たせる準備を始めた。
四人は点検通路の奥へ進んだ。
入口付近は人が一人通れる程度の幅だったが、数メートル進むと少し広くなり、高橋と美咲が悠斗を支えながら並べるようになった。床には細かな砂が積もっているものの、大きな段差は少なく、先ほどまでの岩だらけの通路よりは歩きやすい。
智は先行し、壁の固定具を照らした。
同じ形の金属部材が、一定の間隔で繰り返し取り付けられている。途中には薄い隔壁のようなものもあり、その縁には格子で見たものと似た固定具が使われていた。
何かの設備を維持するために作られた通路なのだろうか。
智はそう考えたが、確信は持てなかった。
ただ、通路の形や部材の配置には、明らかな共通性がある。自然の岩肌に偶然できたものとは思えず、何らかの規格に従って組み立てられているように見えた。
智は壁に触れず、ライトだけで構造を追った。
金属の帯は通路の奥へ続き、途中で天井へ向かって曲がっている。隔壁の一部には細い溝があり、その先には別の空間があるようだった。
ここが何のための設備なのか。
誰が作ったのか。
そして、なぜ地上の道路の下に、こんなものが存在しているのか。
疑問は増えるばかりだった。
それでも、智は少しだけ希望を感じていた。
少なくとも、ここには通路としての形がある。格子が開閉できたように、他の設備にも何らかの仕組みが残っているかもしれない。そうであれば、ただ闇雲に歩き回るよりも、構造を確かめながら進む方が帰還につながる可能性は高い。
四人は何度か休憩を挟みながら、通路を進んだ。
背後の格子を叩く音は次第に遠ざかり、やがてほとんど聞こえなくなった。代わりに、通路の奥から別の音が響き始める。
最初は水滴の音かと思った。
だが、よく聞くと一定の間隔があった。
コン、コン。
少し間を置いて、また二度。
智は足を止めた。
「……今の、聞こえましたか」
高橋が頷いた。
「聞こえました。何かを叩いているみたいですね」
「そうですね」
智はライトを奥へ向けた。
通路はさらに先へ続いているが、途中で厚い壁のようなものに遮られている。壁の中央には金属の板があり、その周囲には格子と似た固定具が取り付けられていた。
音は、その向こうから聞こえているようだった。
コン、コン。
今度は三度。
智はしばらく耳を澄ませた。
自然に発生する音にしては、間隔が揃いすぎている気がする。もちろん、機械が動いている可能性もあるし、どこかの設備が風や水によって揺れているのかもしれない。
それでも、何かが意図的に叩いているように聞こえた。
「結城さん、もしかして……」
高橋が言いかけた。
智も同じ可能性を考えていた。
人がいるのかもしれない。
だが、確かめずに近づくのは危険だった。
智は足元に落ちていた小石を拾い、壁の金属部分から少し離れた場所へ移動した。音の出所を確かめるため、まずは自分たちのいる側から合図を送ってみることにした。
小石で壁を軽く叩く。
コン、コン。
二度。
そのまま待った。
しばらく何も聞こえなかった。
やはり、ただの機械音だったのかもしれない。そう考えかけたとき、壁の向こうから小さな音が返ってきた。
コン、コン。
同じ二度だった。
智は息を止めた。
高橋も美咲も、壁の方を見つめている。悠斗は二人に支えられたまま、何かを聞き逃すまいと顔を上げていた。
智はもう一度、小石で壁を叩いた。
今度は三度。
コン、コン、コン。
数秒後、向こう側から音が返ってきた。
コン、コン、コン。
同じ三度だった。
偶然とは思えなかった。
智は小石を握ったまま、壁の向こうを見つめた。
そこに何がいるのかは、まだ分からない。
だが、少なくとも、こちらの合図に応じる何かが存在している。
そして、その反応は、これまで遭遇した怪物たちの動きとは明らかに違っていた。
智は高橋たちへ目を向けた。
「……誰か、いるのかもしれません」
高橋は何も言わず、ゆっくり頷いた。
美咲も悠斗の肩を支えたまま、壁の向こうへ視線を向けている。
智はもう一度、金属の板を見た。
その向こうに人間がいるのなら、地上へ戻る手掛かりを知っているかもしれない。
そう考えた瞬間、胸の奥に久しく感じていなかった期待が生まれた。
だが、まだ確かめなければならない。
智は小石を握り直し、壁の向こうへ声を掛けるべきかどうか、慎重に考え始めた。




