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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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2:小さな発見

           「帰還経路の調査」




 砂の上に残された奇妙な跡を前に、智はしばらく動けずにいた。スマートフォンのライトを低く構えると、細長い三本の窪みが影を作り、その後ろには何かを引きずったような浅い筋が続いている。人間の靴跡ではないことだけは分かるものの、それがどんな生き物によって残されたものなのか、判断できる材料はほとんどなかった。


 通路の奥は緩やかに曲がっており、光の届く範囲には動くものが見当たらない。だが、足跡の向きは明らかにその先へ続いているようだった。今も何かが潜んでいるのか、それとも随分前に通り過ぎただけなのか。智は足元をもう一度照らしたが、砂が湿っている場所と乾いている場所が混在しているため、跡の新しさまでは分からなかった。


「結城さん、やっぱり怪物ですかね」


 高橋の声が背後から聞こえた。振り返ると、彼は悠斗を支えていた位置から少し身を乗り出し、智の足元を覗こうとしている。


「その可能性はあります。ただ、何の跡か分からないうちは、決めつけない方がいいでしょうね」


「でも、こんなところに動物がいるとも思えませんよね」


「地上ならそう考えますけど、ここでは何が普通なのかも分かりませんから」


 自分で口にして、智は改めてその厄介さを感じた。見慣れた建物なら、床に残った傷や汚れから人の出入りを推測できる。工事現場でも、資材の移動跡や工具の置き方を見れば、そこでどんな作業が行われていたか、おおよその見当はつく。しかし、この地下では判断の基準となるものがあまりにも少なかった。


 背後で悠斗が身じろぎし、小さく息を漏らした。美咲がすぐに声を掛け、右脚の状態を確認している。四人で動く以上、いつまでも入口に留まっているわけにはいかないが、先を確かめずに負傷者を進ませることもできなかった。


「高橋さん、少しだけ待っていてもらえますか。入口から見える範囲を調べます」


「分かりました。でも、無理はしないでくださいよ」


「ええ。奥までは行きません」


 智は通路の右側に寄り、足跡を踏まない位置から壁を照らした。岩肌には大小の亀裂が走っていたが、その途中に、周囲とは明らかに異なる直線が混じっている。初めは光の加減かと思ったものの、角度を変えても線は消えず、むしろ一定の幅を保ったまま上方へ伸びていることが分かった。


 気になって近づくと、岩の表面から数ミリほど奥まった位置に、黒ずんだ金属らしいものが見えた。縁には砂が詰まり、ところどころ白い析出物のようなものが付着している。自然にできた鉱脈にも見えなくはないが、露出している部分の端が不自然なほど真っ直ぐだった。


 智はしゃがみ、スマートフォンを左手に持ち替えた。右手の腫れはまだ引いておらず、指を曲げるだけでも痛みがある。左肩にも傷を負っているため、腕を伸ばしすぎないよう身体の向きを調整しながら、金属の周囲を慎重に観察した。


 壁の継ぎ目を目で追うと、少し離れた場所にも似た形のものがあった。さらにその先、ライトの届くぎりぎりの位置にも、同じ高さに小さな影が見える。


「……等間隔か?」


 思わず呟いた声に、高橋が反応した。


「何かありました?」


「壁に金属みたいなものが埋まっているんです。しかも、一つじゃない」


 高橋は悠斗を美咲に任せ、入口の手前まで近づいてきた。智が照らした場所を見て、首を傾げる。


「本当だ。これ、何でしょうね」


「固定金具に見えますけど、何を固定しているのかは分かりません。表面が岩に覆われているので、全体の形も見えないですし」


「誰かが作ったものなんでしょうか」


「少なくとも、そう考えたくなる形ですね」


 智は金属の縁に触れようとして、指を止めた。腐食しているようにも見えるし、内部で何かを支えている可能性もある。無理に動かせば、周囲の岩が崩れるかもしれなかった。


 仕事で古い建具を修理するときも、見えている金具だけを頼りに取り外して失敗することがある。表面に現れているのはほんの一部分で、裏側に別の部材が組み合わされている場合も珍しくない。まして今は、図面も工具もなく、壁の内部構造を確かめる方法さえ限られている。


 触らずに観察を続けると、金属の周囲だけ岩肌の形が微妙に違っていた。平らに削られたような部分があり、その外側を不規則な石の層が覆っている。最初から岩の中に金属が存在していたのか、後から何かが埋まったのか。どちらとも判断できなかったが、少なくとも普通の自然洞窟とは異なる特徴だった。


「縦穴にあった設備と、少し似ていますね」


 高橋が言った。


 智も同じことを考えていた。あの昇降設備には、岩壁に沿って金属の案内溝や固定部材が取り付けられていた。ここにあるものは形も大きさも違うが、壁の一部に部材を収める方法には共通するものを感じる。


「似ているところはあります。ただ、同じ仕組みかどうかはまだ分かりません」


「ここにも何か設備があるんでしょうか」


「あるかもしれませんね。少なくとも、先へ進むなら覚えておいた方がよさそうです」


 智はスマートフォンのカメラを起動し、壁の金属部分を数枚撮影した。暗所での撮影なので鮮明とは言い難いが、何も残さないよりはいい。続いて油性マーカーを取り出し、壁の金属には触れず、その手前にある乾いた石の表面へ小さな印をつけた。


 インクが弾かれないことを確認してから、短い矢印を一つ描く。これなら戻るときに通路の位置を見失いにくい。もっとも、似た景色が続く場所では印一つでは足りないため、分岐ごとに記録を残す必要があるだろう。


「高橋さん、ここから先は目印をつけながら進もうと思います。もし引き返すことになっても、同じ道を戻れるように」


「それがいいですね。僕ら、逃げている間に何度も道が分からなくなりましたから」


 高橋は頷いたあと、ふと後ろを振り返った。


「ただ、小林君がどこまで歩けるか……」


「そうですね。まずは、あの先の曲がり角までにしましょう。そこで一度休んで、進むか戻るか決めます」


 四人が移動を始める前に、智はもう一つ確かめておきたいことがあった。先ほど小区画の奥で感じた空気の流れが、この通路でも続いているかどうかである。


 高橋から借りたハンカチを取り出し、端を細く垂らす。壁の近くではほとんど動かなかった布が、通路の中央へ移すと、わずかに奥へ傾いた。何度か位置を変えても同じような動きが見られたため、少なくともこの場所では空気が奥へ流れているらしい。


 ただ、その方向が地上へ通じているとは限らない。地下の大きな空間へ空気が吸い込まれているだけかもしれず、奥に危険な場所があっても不思議ではなかった。


 智は布を畳み、高橋へ返した。


「風は奥へ向かっています。でも、これだけでは出口の方向は分かりませんね」


「空気が動いているなら、どこかにつながっているんですよね」


「そう考えていいと思います。ただ、その先が外とは限らないです」


 高橋は少し残念そうな顔をしたが、すぐに頷いた。期待できる材料が一つ増えたことは確かでも、そこから先を勝手に決めつければ、危険な判断につながりかねない。


 さらに床を照らすと、砂の一部が濃く変色していることに気づいた。指先で触れると、乾いた場所よりも冷たく、湿り気がある。少し奥には細い溝があり、その底にわずかな水が溜まっていた。


 水面にライトを当てても、流れはほとんど見えない。智は小さな砂粒を溝の端へ落とし、しばらく様子を見た。粒はすぐには動かなかったが、時間を置くとわずかに位置が変わっているようだった。


 今度は水が、通路の奥とは反対方向へ流れているらしい。


「風と水で、向きが違うんですね」


 高橋が言った。


「ええ。床の傾斜がそうなっているんでしょう。風は空間のつながり方で変わりますし、水は基本的に低い方へ流れますから」


「じゃあ、どっちを頼ればいいんでしょう」


「今のところ、どちらか一つを選ぶのは危ないと思います。通路の形も含めて見ていくしかないですね」


 智は水の流れる溝を目で追い、床が手前へわずかに下がっていることを確認した。地上へ戻るなら高い場所を目指したくなるが、地下の構造物では一度下がってから上へ抜ける通路もある。そもそも、この場所がどれほどの深さにあるのか分からない以上、高低差だけで帰還経路を決めることはできなかった。


 背後で美咲が声を掛けた。


「結城さん、そろそろ移動できそうですか?」


「はい。入口の近くには、すぐ危険になりそうなものは見当たりません。ただ、奥に足跡が続いているので、十分注意してください」


 高橋は悠斗の左側に回り、肩を貸した。悠斗は右脚をかばいながら立ち上がったが、身体が傾いた瞬間に痛みが走ったらしく、眉を寄せて息を止める。


「大丈夫?」


 美咲がすぐに尋ねた。


「……はい。ちょっと響いただけです」


「無理に歩幅を広げないで。右脚に体重を掛けないようにしましょう」


 悠斗は頷き、高橋の肩をしっかり掴んだ。美咲は反対側に立ち、足元と悠斗の表情を交互に確認している。智は二人が動き始めるのを待ってから先行し、通路の床に大きな段差がないか、ライトを使って一歩ずつ確かめた。


 四人の歩みは遅かった。


 狭い場所では高橋が身体を横向きにしなければならず、そのたびに悠斗の足が床へ触れないよう気を配る必要があった。小石を踏んで姿勢を崩しかけることもあり、数メートル進むだけで何度も立ち止まる。智も先を急ぎたい気持ちはあったが、今の四人にとって速度を上げることが何より危険だと分かっていた。


 途中、壁の金属部材をもう一つ見つけた。


 最初のものから正確な距離を測ることはできないが、見た目には同じ高さに取り付けられている。金属の端には小さな窪みがあり、以前見た昇降設備の固定部分を思わせた。


 智はその位置を写真に残し、近くの石へ目印をつけた。


「結城さん、何か規則があるんですか」


 美咲が尋ねる。


「まだ何とも言えません。ただ、似た形の金属が何度も出てくるんです。もし同じ間隔で並んでいるなら、何かを固定するための構造だった可能性があります」


「昔の工事の跡、みたいなものですか?」


「そういうものに近いかもしれませんね。でも、ここが本当に昔からあった場所なのかも分からないですから」


 言いながら、智は奇妙な感覚を覚えた。


 札幌の道路が突然崩れ、その下にこれほど広い空間が現れた。普通に考えれば、長年地下に存在していた構造物が露出したように思える。しかし、地上で起きている異変はそれだけでは説明できない。世界各地で似たような現象が報告されていることを考えれば、この地下そのものが何なのか、まだ誰にも分かっていないのだろう。


 少なくとも智には、判断する材料がなかった。


 通路が緩やかに左へ曲がる場所で、四人は最初の休憩を取った。小区画を出てから進んだ距離はそれほど長くないはずだが、悠斗の顔色は先ほどより悪くなっている。高橋も肩で息をしており、支え続ける負担が想像以上に大きいことが見て取れた。


 美咲は悠斗を壁際へ座らせ、右脚の固定がずれていないか確かめた。


「痛み、強くなってない?」


「歩いてるときは痛いです。でも、さっきと同じくらいだと思います」


「しびれは?」


「今のところ、ないです」


「分かった。少し休みましょう」


 智は高橋に水を勧めたが、彼は首を振った。


「もう少し後でいいです。結城さんこそ、肩は大丈夫ですか」


「痛みはありますけど、歩く分には何とか」


「無理してません?」


「していないと言ったら、嘘になりますね」


 そう答えると、高橋は疲れた顔で笑った。


「ですよね。僕も結構きついです」


「少し休んでからにしましょう。ここから先、もっと狭くなるかもしれませんし」


 智は通路の曲がり角へ目を向けた。休憩場所のすぐ先には、岩が張り出して天井の低くなった部分がある。そこを抜ければ道幅が広がるようにも見えるが、今の位置からは先を確認できない。


 先ほどの足跡も、途中から砂の少ない床に変わったため見失っていた。


 智はスマートフォンのライトを消し、壁の青白い苔を眺めながら呼吸を整えた。暗闇に目が慣れてくると、通路の輪郭がぼんやり浮かび上がる。完全に光を失うわけではないのが救いだったが、その薄明かりだけで危険を見分けるのは難しい。


 ふと、何かが聞こえた気がした。


 智は顔を上げた。


 最初は、高橋が衣服を動かした音かと思った。だが、四人とも座ったままで、誰も大きく動いていない。


 もう一度、耳を澄ませる。


 硬いものが石の床を叩くような、小さな音だった。


 一定の間隔ではない。二度続いたかと思えば、少し途切れ、今度は三度ほど細かく響く。


 智はゆっくり身体を起こした。


「……静かにしてください」


 声を抑えて告げると、高橋が口を閉じ、美咲も悠斗の脚から手を離した。四人が動きを止めたことで、通路には再び水の滴るような微かな音だけが残る。


 しばらく何も聞こえなかった。


 気のせいだったのかもしれない。そう考えかけたとき、曲がり角の向こうから、先ほどと同じ硬い音が響いた。


 今度は、はっきり聞こえた。


 石の上を何かが歩いている。


 智はライトをつけようとしたが、すぐに手を止めた。こちらから強い光を向ければ、相手に自分たちの位置を知らせることになるかもしれない。すでに気づかれている可能性もあるが、少なくとも今は、向こうが何なのか分かっていなかった。


「結城さん……」


 高橋が囁く。


「聞こえました。たぶん、奥です」


「戻りますか?」


 智は来た道を振り返った。悠斗を支えながら引き返すには、狭い通路をもう一度通らなければならない。途中で追いつかれれば、四人が身を隠せる場所はほとんどなかった。


 かといって、先へ進むのはもっと危険かもしれない。


 智は周囲を見回し、壁の張り出しと床の段差を確認した。曲がり角の手前には、岩が斜めに突き出した場所があり、その脇を通るには身体を少し横へ寄せる必要がある。人間なら通れるが、大きな怪物には狭いかもしれない。


 ただ、足音の主がどれほどの大きさなのかは分からなかった。


「まず、ここから動かないでください。音の位置を確かめます」


 智はそう言って、曲がり角へ近づいた。右手の痛みを避けるため、スマートフォンを左手に持ったまま、壁に身体を寄せて進む。


 数歩先で、床に新しい砂の溜まりを見つけた。


 その表面には、見覚えのある細い窪みが残っていた。


 小区画の入口で見たものと、よく似ている。


 智は足を止め、目の前の跡を確かめた。三本の細長い窪みが扇状に広がり、その後ろには短い溝がある。偶然似た形になった可能性もあるが、同じ種類の足跡と考えた方が自然だった。


 そして、その跡は曲がり角の奥からこちらへ向かって続いている。


 背中に冷たいものが走った。


 智はすぐに高橋たちの方へ戻ろうとしたが、そのとき、頭上から小さな音が落ちてきた。


 カツ、カツ、と硬いものが岩を叩く。


 音は床からではなかった。


 曲がり角の先、低く張り出した天井の辺りから聞こえている。


 智は反射的にライトを向けかけ、寸前で止めた。青白い苔の薄明かりの中、岩の陰に何かが重なっている。最初は天井の一部に見えたが、目を凝らすと、その輪郭がゆっくり動いた。


 四本の細い脚らしきものが、岩の表面に広がっている。


 身体は縦穴で遭遇したあの怪物より、はるかに小さい。それでも、人間が狭い通路で向き合うには十分な大きさがあった。背中は低く盛り上がり、腹の辺りには黒い影が落ちている。脚の先が岩に触れるたび、あの硬い音が響いていた。


 智は息を殺した。


 相手はまだ動かない。


 こちらを見ているのか、それとも別の方向を警戒しているのか。暗さのせいで頭部の位置さえはっきりしなかったが、天井に張りついた姿勢から、少なくとも岩肌を移動できる生き物らしいことは分かる。


 背後では高橋が悠斗を支え直している気配がした。四人で一斉に逃げるのは難しい。智がここで不用意に動けば、怪物を刺激する可能性がある。


 まずは、相手が何なのかを知る必要があった。


 智は意識を目の前の生き物へ集中させた。以前にも使った《解析(アナライズ)》を思い浮かべるが、すぐに発動することはためらわれた。頭の奥にはまだ疲労が残っており、情報を読み取っている間に怪物が動き出せば、対応が遅れるかもしれない。


 それでも、何も知らずに向き合うよりはましだろう。


 智は足場を確かめ、すぐ後退できる位置に身体を置いた。左肩の痛みを避けながら壁に寄り、相手から視線を外さずに呼吸を整える。


 そのとき、天井の影がわずかに揺れた。


 細い脚の一本が岩から離れ、別の場所へ掛かる。続いて胴体が前へ滑るように動き、怪物の輪郭が苔の光の中へ現れた。


 智は一歩だけ後退した。


 怪物は止まらなかった。


 その頭部らしき部分が、ゆっくりと四人のいる方向へ向いた。



  ※



 怪物の頭部がこちらを向いた瞬間、智は足を止めた。天井に張りついた四本の脚は、岩の小さな窪みを捉えながらゆっくり動いている。暗がりから現れた胴体は、横幅こそ人間の肩ほどもないが、背中には幾つもの硬そうな突起が並び、腹の下には短い尾のようなものが見えた。先ほど砂の上で見つけた三本の窪みは、あの脚先が残した跡なのかもしれない。


 後ろへ下がれば、悠斗たちのいる場所まで数歩だった。だが、怪物がどれほど速く動けるのか分からない以上、背中を向けて逃げるのは危険だった。智は左肩の痛みをこらえながら壁際へ身体を寄せ、相手の動きを見失わない位置を探した。


 ここで《解析》を使うべきか。能力を使った直後に動けなくなるほどの負担があるわけではないが、今の疲れた身体では、ほんの一瞬の判断の遅れが命取りになりかねない。それでも、相手の特徴を少しでも知ることができれば、無理に戦わずに済む可能性があった。


 智は怪物の胴体へ意識を向け、自分の意思で《解析(アナライズ)》を発動させた。


 視界の一部に、薄い文字が浮かび上がる。


《解析(アナライズ)》


対象:岩這い種(ロッククローラー)


分類:魔物


特徴:岩壁への付着移動


その他情報:解析不能


文字を読み取った途端、こめかみの奥が重くなった。智は思わず目を細めたが、視線だけは怪物から外さなかった。


 岩這い種(ロッククローラー)。


 名前が分かったところで、どれほど危険なのかまでは判断できない。表示された特徴も、目の前の動きから推測できる範囲を大きく超えるものではなかった。ただ、岩壁を移動できるという情報が確かなら、床の障害物だけを頼りにするのは危険だ。


「結城さん、どうしますか」


 背後から高橋の声が聞こえた。


「まだ動かないでください。あれは天井や壁を移動できます。逃げるなら、上にも注意しないと」


「……分かりました」


 高橋の返事は短かったが、緊張が伝わってきた。智は一歩ずつ後退し、悠斗たちのいる場所へ戻った。怪物はすぐには追ってこなかったものの、天井から頭を下げるようにして四人の動きを見ている。


 美咲は悠斗の肩を支えたまま、曲がり角の方へ視線を向けていた。


「小林さんを立たせますか?」


「まだです。動くと、かえって目立つかもしれません」


「でも、あれが来たら……」


「その前に、通れる場所を狭くできないか考えます」


 智は周囲を見回した。右側の壁が張り出した場所には、床との間に小さな隙間があり、その手前には拳より大きな石が幾つか転がっている。通路の中央にも低い段差があったが、怪物が天井を移動できる以上、石を並べるだけでは足止めにならないだろう。


 もっとも、岩に張りついて移動できるからといって、どんな場所でも自由に通れるとは限らない。天井が低くなる部分では身体の向きを変えなければならず、壁の張り出しによって進路も限られているように見えた。


 智は怪物の位置を確認した。相手は天井の陰から半身を出し、こちらへ少しずつ近づいている。前脚が岩に触れるたび、硬い音が響いた。


「高橋さん、あの張り出した岩の手前に、大きな石がありますよね」


「はい」


「動かせそうですか」


 高橋は足元を見た。


「一人で持ち上げるのは難しそうですけど、押すくらいなら」


「それで十分です。壁際へ寄せて、通れる幅を狭くしたいんです」


「分かりました」


 高橋が動き始めると、智は怪物へ視線を戻した。岩這い種(ロッククローラー)は二本の前脚を天井から離し、壁へ掛け直している。どうやら、四人のいる場所へ向かって降りてこようとしているらしい。


 その動きに合わせて、智は高橋へ声を掛けた。


「急がなくていいです。音を立てすぎないように」


 高橋は頷き、石の側面に両手を当てた。身体を低くして押すと、石は砂を擦りながら少しずつ動いた。悠斗を支え続けていた疲れもあるのだろう。高橋の額には汗が浮かび、息が荒くなっている。


 智も手伝おうとしたが、右手の痛みを思い出して踏みとどまった。今、無理に力を掛ければ、その後の行動に支障が出るかもしれない。代わりに足元の小石を左足で払い、石を動かす邪魔にならないようにした。


 大きな石が壁際へ寄ると、通路の幅はさらに狭くなった。人間なら横向きに通れるが、四足の怪物がそのまま駆け抜けるには窮屈そうだった。


 ただし、上を通られれば意味がない。


 智は天井を見上げた。


 岩の張り出しがある部分は、周囲よりも低くなっている。怪物が天井を進むなら、いったん身体を横へ向けるか、床へ降りる必要がありそうだった。


 その一瞬を利用できれば、四人が後退する時間を稼げるかもしれない。


「佐々木さん、小林さんを少し後ろへ移してください。高橋さんも、石を動かしたら下がってください」


「結城さんは?」


 美咲が尋ねた。


「最後に下がります。ここで少し様子を見たいので」


「危なくないですか」


「危ないと思います。でも、四人で一度に動くよりは、相手の位置を確認した方がいいでしょう」


 智はそう答えたものの、自分の判断が正しいという確信はなかった。相手が急に跳びかかってくれば、対応できないかもしれない。それでも、悠斗を連れて狭い通路を戻るには、どうしても時間が必要だった。


 高橋と美咲が悠斗を立たせると、岩這い種(ロッククローラー)が反応した。


 天井に張りついていた身体が、わずかに沈む。頭部が左右に動き、四本の脚が一斉に位置を変えた。


 次の瞬間、怪物は壁を蹴って前へ進んだ。


「下がって!」


 智の声に、高橋が悠斗を抱えるようにして後退した。美咲も反対側から身体を支え、三人は来た道へ向かう。


 岩這い種(ロッククローラー)は天井から壁へ移り、そのまま斜めに駆け下りてきた。想像していたより速い。硬い脚先が岩を叩く音が連続し、薄暗い通路に乾いた響きが広がった。


 智は反射的に身体を引いた。


 怪物は張り出した岩の手前まで来ると、速度を落とした。壁際に寄せた石と低い天井の間で、身体の向きを変えようとしている。


 その動きを見て、智はわずかな希望を感じた。


 やはり、狭い場所では自由に動けない。


 だが、怪物はすぐに前脚を伸ばし、岩の突起を掴むようにして身体を持ち上げた。石の上を越えようとしている。


 智は足元を見た。壁際には、先ほど見つけたものと似た細長い金属片が落ちている。片端が曲がり、反対側には丸い穴が開いていた。何かの固定具が外れたものだろうか。


 長さは三十センチほど。武器として振り回すには短いが、狭い場所で相手の動きを妨げるには使えるかもしれない。


 智は左手で金属片を拾い上げた。


 思ったより重かった。表面には細かな傷があり、曲がった部分には厚みがある。折れ曲がった端を岩の隙間に掛ければ、簡単な突っ張りとして使えそうだった。


 怪物は石の上へ前脚を掛けていた。


 智は金属片を岩の隙間へ差し込み、反対側を石の縁に当てた。部材は斜めに固定されたが、どの程度の力に耐えられるかは分からない。


 軽く押してみると、少し動くものの、すぐには外れなかった。


「高橋さん、もう少し下がってください!」


 智が叫ぶと、高橋は悠斗を支えながら後退した。美咲も続いたが、悠斗の右脚が床に触れた瞬間、彼は苦痛に顔を歪めた。


「……っ!」


「大丈夫、ゆっくり!」


 美咲が声を掛ける。


 その声に反応したのか、岩這い種(ロッククローラー)が頭を上げた。


 智は金属片から手を離し、身体を横へ寄せた。怪物は石の上から前へ進もうとしたが、斜めに掛けられた部材が胴体の下へ入り込み、動きが一瞬止まった。


 甲高い音が響く。


 怪物は前脚を振り、金属片を押しのけようとした。部材が大きくしなり、岩の隙間から砂がこぼれる。


 長くは持たない。


 智は後退しようとしたが、その瞬間、怪物の身体が横へ傾いた。片側の脚が石から滑り、胴体が金属片に引っ掛かったのだ。


 怪物は低い唸り声を上げ、身体を激しく捻った。


 智は思わず足を止めた。


 今なら、逃げられるかもしれない。


 だが、怪物がすぐに体勢を立て直せば、悠斗たちに追いつく可能性がある。通路の先では、高橋と美咲がまだ数歩しか進めていなかった。


 智は周囲を見回した。


 壁際に、もう一つ大きな石がある。先ほど高橋が動かしたものより小さいが、片手で持ち上げるには重そうだった。


 右手は使えない。左肩も痛む。


 それでも、足なら動かせる。


 智は石の位置を確かめ、左足で強く押した。


 石は砂を擦りながら動き、怪物の前脚の近くへ転がった。狙った場所へ正確に当たったわけではないが、怪物はそれを避けようとして身体をさらに捻った。


 金属片が岩に食い込み、鈍い音を立てる。


 次の瞬間、怪物の身体が大きく揺れた。


 智は反射的に後ろへ跳んだ。


 金属片が外れ、石の上へ落ちた。怪物はその勢いで前へ転がり、床に身体を打ちつける。


 硬い音が響いた。


 だが、怪物はすぐに脚を動かし、起き上がろうとした。


 智は息を呑んだ。


 あれだけの衝撃を受けても、まだ動けるのか。


 怪物は前脚を床につき、頭を持ち上げた。背中の突起が震え、口のような部分から低い音が漏れる。


 智は後退しながら、落ちた金属片へ視線を向けた。


 部材は怪物のすぐ近くに転がっている。


 拾いに行けば、攻撃されるかもしれない。


 しかし、他に使えそうなものは見当たらなかった。


 そのとき、背後から高橋の声が響いた。


「結城さん!」


 振り返ると、高橋が悠斗を美咲に任せ、こちらへ戻ってきていた。


「何か手伝えませんか!」


「危ないです! 小林さんを――」


 言い終える前に、怪物《ロッククローラー》が動いた。


 床を蹴り、智へ向かって飛びかかってくる。


 智は身体を横へ投げ出した。


 怪物の前脚が肩のすぐ脇を通り、岩壁を叩いた。鋭い音とともに小さな破片が飛び散り、頬に当たる。


 左肩に激痛が走った。


 智は歯を食いしばり、転がるようにして距離を取った。だが、右手を床についた瞬間、腫れた部分に体重が掛かり、思わず声が漏れる。


 怪物は壁にぶつかった勢いを利用し、すぐに向きを変えた。


 次の攻撃を避けられるか。


 智は立ち上がろうとしたが、左肩の痛みで身体が思うように動かない。


 そのとき、高橋が横から石を押し出した。


 怪物の前脚に石が当たり、動きがわずかに乱れる。


「結城さん、今のうちに!」


 智は高橋の声に応じ、身体を起こした。怪物は石を乗り越えようとしているが、前脚の一本がうまく動いていないように見えた。


 先ほどの衝撃で傷めたのかもしれない。


 確証はないが、動きが鈍っていることは確かだった。


 智は落ちていた金属片を拾い上げた。


 怪物が再び頭を上げる。


 その瞬間、智は金属片の曲がった端を前へ突き出した。刃物のように切りつけるのではなく、怪物の進路を遮るように構える。


 怪物は避けようとしたが、片側の脚が石に引っ掛かり、身体が傾いた。


 智はその動きに合わせて一歩踏み込み、金属片を怪物の頭部と岩壁の間へ押し込んだ。


 硬い感触が左手に伝わる。


 怪物は激しく暴れ、金属片を押し返そうとした。智の左肩に鋭い痛みが走り、腕から力が抜けそうになる。


「高橋さん、石を!」


 高橋はすぐに動いた。


 足元にあった石を両手で持ち上げ、怪物の胴体へ向けて落とす。


 鈍い衝撃音が響いた。


 怪物の身体が大きく跳ね、四本の脚が不規則に動く。智は金属片を押さえたまま、必死に体勢を保った。


 もう一度、高橋が石を落とした。


 今度は怪物の動きが明らかに弱くなった。


 智は金属片を押し込む力を緩めず、相手の脚が止まるのを待った。怪物はしばらく小さく震えていたが、やがて身体から力が抜け、床に崩れ落ちた。


 通路に静けさが戻った。


 智はすぐには動かなかった。


 怪物が本当に動かなくなったのか、まだ判断できない。金属片を構えたまま数秒待ち、脚や頭部に変化がないことを確かめる。


「……終わった、んでしょうか」


 高橋が荒い息の合間に尋ねた。


「まだ、近づかないでください」


 智はそう答え、少しずつ距離を取った。


 怪物は動かなかった。


 やがて、視界の端に文字が浮かび上がった。



共通システム通知


LEVEL UP


Lv2 → Lv3


新機能:インベントリ解放



 智は思わず目を瞬いた。


 レベルが上がった。


 先ほどの戦闘によって、何かの条件を満たしたのだろう。だが、今はその仕組みを考えている余裕がなかった。


「結城さん、今、何か変なものが見えませんでしたか」


 高橋が戸惑ったように尋ねた。先ほどまで怪物と格闘していたせいか、息はまだ荒い。智が顔を向けると、高橋は何もない空間を確かめるように視線を動かしていた。


「何か表示されたんですか?」


「ええ。経験値を獲得したとか、そんな文字が……。すぐ消えたんですけど」


 智は美咲の方を見た。彼女も小さく頷いたが、悠斗の身体を支えているため、詳しく話せる状況ではなさそうだった。


 智は自分に表示された通知を思い返した。経験値だけでなく、レベルアップと新機能の解放まで告げられている。どうやら、同じ戦闘に関わっていても、全員に同じ結果が与えられるわけではないらしい。


「詳しいことは、安全な場所に出てから確認しましょう。今は小林さんの脚と、次の逃げ道が先です」


 高橋と美咲は頷いた。智もそれ以上は考えず、動かなくなった怪物から距離を取った。


 インベントリという言葉も気になったが、悠斗たちの安全を確かめる方が先だった。


「高橋さん、怪我はありませんか」


「僕は大丈夫です。結城さんこそ、肩が……」


「後で確認します。まず、小林さんたちのところへ戻りましょう」


 高橋と美咲は頷いた。智はそれ以上考えるのをやめ、動かなくなった怪物へ一度だけ目を向けた。


 美咲と悠斗は、少し離れた壁際にいた。二人とも無事だったが、悠斗の顔色は悪く、額には汗が浮かんでいる。


「大丈夫ですか!」


 美咲が立ち上がりかけた。


「何とか。怪物は動かなくなりました」


 智が答えると、美咲は安堵したように息を吐いた。しかし、すぐに智の左肩へ目を向け、表情を引き締める。


「傷を見せてください」


「大したことは……」


「今の動きで悪化しているかもしれません。確認させてください」


 その口調に逆らう理由はなかった。


 智は壁際へ腰を下ろし、美咲に肩を見せた。服の裂けた部分には新しい血が滲んでおり、先ほどより痛みも強くなっている。美咲は手持ちの布を使って状態を確かめ、できる範囲で傷を保護し直した。


「深くなっているかもしれません。できるだけ左腕を大きく動かさないでください」


「分かりました」


「右手も、かなり腫れていますね」


「さっき床についたとき、少し響きました」


「少し、ではなさそうですけど」


 智は苦笑しようとしたが、うまく表情を作れなかった。


 高橋も近くに座り込み、しばらく黙って呼吸を整えていた。怪物との戦闘は長い時間ではなかったはずだが、四人とも消耗している。特に悠斗は、移動と緊張が重なったせいか、目を閉じて壁にもたれていた。


 智はスマートフォンで時刻を確認した。


 小区画を出てから、思っていた以上に時間が経っている。途中で何度も立ち止まり、壁や床を調べていたことを考えれば、不思議ではなかった。


 このまま同じ速度で進めば、地上へ戻るまでにどれほど掛かるか分からない。


 それでも、ここに留まり続けるわけにもいかなかった。


 智は怪物が倒れている方向へ目を向けた。


 戦闘の最中、岩壁に埋め込まれた金属部材が幾つも見えていた。通路の奥にも同じようなものが続いているなら、何らかの設備へつながっている可能性がある。


 今は、それが唯一の具体的な手掛かりだった。


「少し休んだら、もう少しだけ先を見に行きたいと思います」


 智が言うと、高橋が顔を上げた。


「さっきの怪物がいた場所ですか」


「ええ。危険なのは分かっています。でも、壁の金属が奥まで続いているんです。何か設備があるかもしれません」


「僕も一緒に行きます」


「ありがとうございます。ただ、今度は無理に進まず、見える範囲だけにしましょう」


 高橋は頷いた。


 美咲も悠斗の状態を確認し、短い距離なら移動できそうだと伝えた。四人はもう一度準備を整え、怪物が倒れている場所を慎重に通り過ぎた。


 智は足を止め、怪物の身体を横目で確かめた。


 岩這い種(ロッククローラー)と表示されたその生き物は、もう動いていない。背中の突起や硬い脚先には、地上の動物とは異なる特徴があった。詳しく調べれば何か分かるかもしれないが、今はそんな余裕はない。


 智は視線を前へ戻した。


 通路は少しずつ広くなり、壁の金属部材も以前よりはっきり見えるようになっていた。途中には、岩の表面が不自然に平らな場所があり、その端に細い溝が走っている。


 さらに進むと、通路の奥に黒い格子状のものが見えた。


「……あれは?」


 智は足を止めた。


 スマートフォンのライトを向けると、岩壁の一部に金属の格子がはめ込まれていた。高さは人間の腰ほどで、横幅は一メートルに満たない。格子の向こうは暗く、奥行きまでは分からなかったが、隙間からわずかな空気の流れが感じられる。


 智は近づきすぎない位置でしゃがみ、格子の周囲を観察した。


 縁には複数の固定具があり、その形は通路の途中で見つけた金属部材とよく似ている。表面の傷み具合も近く、同じ材質で作られているように見えた。


「結城さん、これって……」


 高橋が言葉を探すように格子を見つめた。


「換気口、でしょうか」


「そう見えますね。ただ、何のためのものかは分かりません」


 智は格子の隙間へライトを向けた。


 奥には細い空間が続いており、その壁面にも金属らしいものが見える。完全に塞がっているわけではないらしく、冷たい空気がゆっくり流れてきた。


 格子の下部には、細かな砂が溜まっている。


 智は固定具の位置を一つずつ確認した。


 四隅に似た形の金属片があり、そのうち一つは表面が欠けている。縦穴で見た昇降設備の固定部分と同じものかどうかは分からないが、取り付け方には共通する特徴があった。


 偶然だろうか。


 それとも、この地下の設備は、最初から一定の規格で作られているのだろうか。


 智は格子から少し離れ、通路の壁を振り返った。


 等間隔に埋め込まれた金属部材。岩肌に残る直線的な継ぎ目。そして、ここに設けられた格子。


 それぞれが別々のものに見えていたが、同じ構造の一部だと考えれば、つながりが見えてくる気もした。


 ただ、まだ分からないことの方が多い。


 格子の向こうに何があるのか。通路の金属部材が何を支えているのか。そもそも、誰が、いつ、こんな場所に設備を作ったのか。


 智は答えの出ない疑問をいったん脇へ置き、格子の固定部分をもう一度照らした。


 今すぐ開けるべきかどうかは、慎重に判断しなければならない。


 しかし、ここまで続いていた金属部材が、この格子につながっているのだとしたら、帰還経路を探す上で重要な手掛かりになるかもしれなかった。


 智は格子の前にしゃがんだまま、しばらくその構造を見つめていた。


 目の前にあるのは、ただの古びた金属の格子だった。


 それでも、この地下に存在するものが、何の規則もなく配置されているわけではない。


 少なくとも、そう考える理由が一つ増えた。


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