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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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1:小さな発見

          「四人の生存者」




 岩の向こうで、何かが擦れる音がした。


 智は顔を上げた。狭い割れ目の先は暗く、先ほどまで四人を追い回していた怪物の姿は見えない。それでも、硬い爪が岩肌を引っかくような音を聞くと、背中の筋肉が勝手に強張った。


 逃げ込んだ小区画は、四人が身を寄せればそれだけで窮屈になる程度の広さしかなかった。天井は低く、壁には細かな亀裂が走っている。足元には砂と砕けた石が溜まり、座る場所を選ばなければ、尖った破片が衣服を突き抜けそうだった。


 あの怪物は、割れ目を通れなかった。少なくとも、四人が逃げ込んだときにはそうだった。


 だが、それだけで安全になったとは言えない。


 智は壁に背を預けたまま、しばらく耳を澄ませた。擦過音は二度ほど続き、やがて途絶える。怪物が諦めたのか、別の場所へ移動したのか、それとも割れ目の向こうで待っているのか。確かめる方法はなかった。


「……まだ、いるんですかね」


 小さな声を出したのは高橋だった。


 智は首を横に振った。


「分かりません。音は止まりましたけど、立ち去ったとは限らないですね」


「そうですよね……」


「しばらくは、あっちに近づかない方がいいと思います」


 高橋は短く頷き、壁際に座っている小林へ視線を向けた。


 小林悠斗は右脚を伸ばし、左膝だけを軽く曲げていた。顔色は悪く、額には汗が浮かんでいる。縦穴から逃げる間、高橋と佐々木に支えられていたものの、最後の狭い通路では何度か足を引きずっていた。今は動かさないようにしているが、痛みが和らいだ様子はない。


「小林さん、脚を少し見せてもらってもいいですか」


 佐々木美咲が、落ち着いた声で尋ねた。


「はい……お願いします」


「痛いところに触れるかもしれません。無理に我慢しないで、痛かったら言ってくださいね」


 美咲は悠斗の右脚の位置を確かめ、靴やズボンの状態を慎重に見た。周囲が暗いため、智が《微光》を使おうとすると、彼女は手を上げて止めた。


「さっきの光、何度も使って大丈夫なんですか?」


「……正直、あまり余裕はないと思います」


「だったら、少し待ってください」


 美咲は自分のスマートフォンを取り出した。画面を操作すると、白いライトが狭い空間を照らす。思いがけず強い光に、智は目を細めた。


「使えるんですね」


「電話は駄目ですけど、ライトはつきます。電池が心配なので、必要なときだけにしますね」


「助かります」


 智は《微光》を使わずに済んだことに、密かに安堵した。


 魔力というものが、どれほど残っているのかは分からない。ただ、繰り返し光を生み出すたびに、身体の奥から何かが少しずつ削られていくような感覚があった。疲労だけでは説明しにくい重さが、今も頭の芯に残っている。


 美咲はライトを悠斗の脚に向け、靴の上から左右の形を比べた。足首の周辺に腫れがあり、ズボンの裾にも擦れた跡が見える。


「足の指は動かせますか?」


 悠斗は顔をしかめながら、靴の中で指を動かした。


「動きます。でも、足首が……」


「分かりました。無理に動かさなくていいです」


 美咲は指先の感覚や痛みの位置を確かめたあと、少し考えるように唇を結んだ。


「ここでは骨が折れていないとは言えません。できれば動かしたくないんですけど……」


「歩かなきゃ、帰れないですよね」


 悠斗が先に口にした。


 美咲はすぐには答えなかった。


「歩くとしても、できるだけ右脚に体重を掛けないようにしましょう。高橋さん、支えてもらえますか」


「もちろんです」


「ありがとうございます。あと、何か固定に使えそうなものがあれば……」


 四人は互いの持ち物に目を向けた。


 智は右手を膝に載せた。指の付け根から手の甲にかけて腫れが広がり、握ろうとすると鈍い痛みが走る。左肩の傷も、服が触れるたびに熱を持ったように疼いた。


 これでは、悠斗を抱えて運ぶことなど到底できない。


 自分の身体の状態を改めて突きつけられ、智は小さく息を吐いた。


「結城さんも、後で見せてくださいね」


 美咲がこちらを見た。


「私は大丈夫です。それより小林さんを――」


「大丈夫かどうかは、見てからです」


 声は穏やかだったが、言い方には逆らいにくい強さがあった。


 高橋が苦笑する。


「結城さん、さっきから自分のこと後回しにしてますもんね」


「いや、そんなつもりは……」


「ありますよ。少なくとも、そう見えます」


 智は言い返しかけて、やめた。


 縦穴で三人を助けようとしたときも、逃げ道を探していたときも、自分の怪我を詳しく確かめる余裕はなかった。痛みはずっと感じていたが、動けるうちは問題ないと考えていたのも事実だった。


 けれど、ここから先も同じように動ける保証はない。


「……分かりました。お願いします」


 美咲は頷き、再び悠斗の脚へ向き直った。


 手持ちの衣類や布を確認した結果、無理に靴を脱がせず、脚の動きを抑えるための簡単な固定を試みることになった。十分な添え木は見つからず、医療機関で行うような処置にはほど遠い。それでも、移動中に足首が不用意に動かないよう、布を当てて支えることはできた。


 悠斗は処置の間、何度も歯を食いしばっていた。


「すみません……俺のせいで」


「謝らなくていいですよ」


 美咲が即座に答える。


「怪我をしたくてしたわけじゃないでしょう」


「でも、俺が歩けたら、もっと早く……」


「その話は、地上に戻ってからにしましょう」


 高橋が言った。


「今は四人で帰る方法を考えた方がいい。結城さんも、そう思いますよね」


 智は頷いた。


「ええ。急いで無理をするより、動ける状態を保った方がいいと思います」


 悠斗は俯いたまま、しばらく黙っていた。やがて小さく「分かりました」と答えた声には、まだ悔しさが残っているようだった。


 その気持ちは、智にも少し分かる。


 自分の身体が思うように動かないことほど、腹立たしいものはない。まして悠斗は二十二歳だ。普段なら、四人の中で一番軽快に動けてもおかしくない年齢だった。


 今は、その若さが何の保証にもなっていない。


 美咲が悠斗の処置を終えると、次は智の番になった。


 左肩の傷を確認するため、上着を少しずらす。布が傷口に触れた途端、鋭い痛みが走り、智は思わず息を止めた。


「痛みますね」


「……まあ、少し」


「少し、ではなさそうですけど」


 美咲は傷の周囲を照らし、出血の状態を確かめた。すでに血が乾いている部分もあったが、衣服に擦れた箇所には新しい滲みが見える。


「深さまでは、ここでは分かりません。汚れも入っているでしょうし、地上に戻ったら必ず診てもらってください」


「はい」


「右手もお願いします」


 智が手を差し出すと、美咲は腫れている箇所を見て眉を寄せた。


「これで、あの設備を動かしていたんですか」


「ほとんど高橋さんにやってもらいました。私は見ていただけです」


「見ていただけの人の手じゃないですよ」


 高橋が横から口を挟む。


「いや、本当に。結城さん、結構無茶してましたから」


「高橋さんまで……」


 智が苦笑すると、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。


 それでも美咲の表情は真剣なままだった。


「骨に問題がないとは言えません。できるだけ強く握らないでください。左肩も、重い物を持つのは避けた方がいいです」


「分かりました」


「本当に?」


「……なるべく」


「なるべくじゃ困ります」


 今度は高橋が声を立てずに笑い、悠斗も口元を少し緩めた。


 智は肩をすくめようとして、痛みに顔をしかめた。美咲から呆れたような目を向けられ、今度こそ大人しくしておくことにした。


 応急処置が一段落すると、四人は壁際に身を寄せ、改めて状況を整理し始めた。


 互いの名前は、逃げ込んだ直後に交換している。高橋直人、佐々木美咲、小林悠斗。職業や年齢についても簡単には聞いたが、どこから来て、どうしてあの縦穴にいたのかまでは、まだ十分に話せていなかった。


 智は美咲のスマートフォンのライトを一度消してもらい、暗闇に目が慣れるのを待った。


 青白い苔が壁の一部に生えているため、完全な闇ではない。だが、顔の表情を読み取るには足りず、少し離れれば相手の輪郭さえ曖昧になる。


「高橋さんたちは、最初から三人一緒だったんですか」


「いえ、違います」


 高橋は首を振った。


「僕は一人でした。道路が急に崩れて、気がついたら下にいて……最初は、どこかの地下工事の現場に落ちたのかと思ったんです」


「道路ですか」


「はい。車道の端の方だったと思います。ただ、あのときは周りも混乱していたので、正確な場所を説明しろと言われると……」


 高橋は言葉を探すように、しばらく天井を見つめた。


「落ちたとき、すぐ近くにほかの人がいたような気もするんです。でも、暗くて。何かが動く音がして、怖くなって逃げました」


「その途中で、佐々木さんと?」


「ええ。細い通路の先で声が聞こえて」


 美咲が頷いた。


「私は、気づいたら地下にいました。落ちたときのことは覚えているんですけど、どの道を通ってあそこまで行ったのかは、正直あまり……」


「分かります」


 智は短く答えた。


 自分も道路の陥没に巻き込まれ、地下で意識を取り戻した。そこから何度も危険な場所を通り、ようやく三人と合流している。落下した地点へ戻れと言われても、今の状態で迷わず辿り着ける自信はなかった。


「小林さんとは、どこで会ったんですか」


「金属の扉みたいなものがある通路でした」


 高橋が答えた。


「僕と佐々木さんが逃げていたら、向こうから人が来て。最初は怪物かと思って、正直、心臓が止まるかと……」


「俺もです」


 悠斗が弱々しく笑った。


「二人が走ってきたから、何かに追われてるのかと思って。そしたら本当に追われてて」


「そのまま三人で逃げたんです」


 美咲が続ける。


「途中で何度か道が分かれていたんですけど、どちらが出口なのか分からなくて。とにかく上へ行けそうな場所を探していました」


 智は話を聞きながら、頭の中で通路の形を組み立てようとした。


 長い通路。金属製の扉らしきもの。分岐。そして縦穴の上部。


 自分が通ってきた道にも、似た構造物はいくつかあった。


 しかし、それらが同じ場所につながっているとは限らない。迷宮の広さも分からなければ、上下にどれほど入り組んでいるのかさえ把握できていないのだ。


「金属の扉って、どんな形でした?」


 高橋は少し考えた。


「大きかったですね。人が一人通るには、かなり幅があったと思います」


「開いていたんですか」


「半分くらい……いや、もっと狭かったかな。端の方が壊れていて、そこを通ったような気がします」


「取っ手とか、蝶番みたいなものは?」


「そこまでは見てないです。すみません」


「いえ、十分です」


 智は頷いた。


 普段の仕事なら、扉の開き方や枠の状態を見れば、おおよその構造を推測できる。だが、他人の記憶だけでは難しい。まして、怪物から逃げている最中のことだ。寸法や部材の位置まで覚えていなくても当然だった。


「ほかに覚えていることはありますか」


「途中で、床が少し下がっている場所がありました」


 意外にも、答えたのは悠斗だった。


「何段か階段みたいになってて……その先に、横へ曲がる通路があったと思います」


「階段?」


「はい。でも、普通の階段じゃなかったです。段差が不揃いで、歩きにくくて」


 悠斗は自分の右脚に目を落とした。


「そこで一回、転びかけました」


「怪我をしたのは、そのときですか」


「違います。脚をやったのは、もっと後です。縦穴のところで逃げようとして……」


 言葉が途切れた。


 智はそれ以上聞かなかった。


 あの場所で何が起きたのかは、四人ともまだ鮮明に覚えている。高い場所から響いた異様な物音、壊れた昇降設備、迫ってくる怪物。今さら細かく説明させなくても、悠斗の表情を見れば十分だった。


 代わりに、智は自分の転落について話した。


 札幌の道路が突然崩れ、地下へ落ちたこと。目を覚ましたときには見知らぬ場所にいて、青白い苔と人工的な構造物を見つけたこと。地上へ戻ろうと進むうちに怪物と遭遇し、あの縦穴に辿り着いたこと。


 《解析》や《危機察知》については、説明の仕方に迷った。


 あの能力が自分だけのものなのか、ほかの人間にも同じような変化が起きているのか、まだ分からない。三人を信用していないわけではないが、曖昧な理解のまま話せば、かえって混乱させるかもしれなかった。


「結城さん、さっきの光って、どうやって出したんですか」


 先に尋ねたのは悠斗だった。


 智は少し考えたあと、正直に答えた。


「私にも、よく分かっていないんです」


「分からない?」


「ええ。地下に落ちてから、妙なものが見えるようになりまして。頭の中に文字みたいなものが浮かんだり、今までできなかったことができたり」


「それって、ニュースで言ってた……」


 高橋が言いかけ、口を閉じた。


「ニュース?」


「いや、異変が起きてから、変な力が使えるようになった人がいるって話を見たんです。どこまで本当か分からないですけど」


 智は頷いた。


 地上にいたとき、不可解な現象についての報道は耳にしていた。だが、実際に自分の身に起きてみると、画面越しに聞いた話とはまるで違う。


「私の場合、何かを調べようとすると、少しだけ情報が見えることがあります。ただ、何でも分かるわけじゃありません。間違った使い方をすると、頭も痛くなります」


「人の怪我も分かるんですか」


 美咲が尋ねた。


「分かるかもしれません。でも、試したことがあるわけじゃないですし、見えたものがどこまで役に立つかも分かりません」


「そうですか」


 美咲は悠斗の脚へ視線を向けたが、すぐに首を振った。


「それなら、今は無理に使わない方がいいかもしれませんね。結城さんもかなり疲れてますし」


「そうですね」


 智も同意した。


 もし《解析》で怪我の状態を調べられたとしても、それを医師の診断と同じように扱うことはできない。能力が示す情報には限界がある。それは、地下に落ちてから何度も思い知らされてきたことだった。


 まして、本人に断りなく調べる気にはなれなかった。


 話が一段落したところで、高橋がポケットの中身を床に並べ始めた。


「使えるもの、確認しておきませんか。今まで、そんな余裕もなかったので」


「そうですね」


 智も自分の持ち物を取り出した。


 スマートフォン、財布、鍵、折り畳み式のカッター、油性マーカー。地上では何でもない品ばかりだが、ここでは一つひとつが貴重だった。


 マーカーは道標を残すのに使える。カッターは刃が短く、怪物と戦う武器には向かないが、布を切ったり細かな作業をしたりするには役立つ。鍵も、場合によっては狭い隙間を探る道具になるかもしれない。


 ただし、右手の状態を考えると、細かな作業を続けるのは難しそうだった。


「結城さん、工具とか持ってないんですか」


 高橋が尋ねた。


「普段なら車に積んでるんですけどね。まさか、こんなことになるとは思ってませんでしたから」


「そりゃそうですよね」


 高橋は苦笑し、自分の持ち物を確かめた。


 スマートフォン、財布、鍵、ハンカチ。ほかには小さな携帯品がいくつかあるだけで、頑丈な工具は見当たらなかった。


 美咲も同じように持ち物を確認する。スマートフォンのライトは使えるが、電池には限りがある。飲料は残っているものの、四人で分ければ決して十分な量ではなかった。


 悠斗はポケットを探り、スマートフォンを取り出した。


「俺のも、圏外です」


「こっちもですね」


 高橋が画面を見せる。


 智も自分の端末を確認した。通信状態を示す表示は変わっていない。何度見直しても、地上とのつながりは戻らなかった。


 時刻は表示されている。


 だが、地下に落ちてからどれほど正確に時間が経ったのか、智には自信がなかった。意識を失っていた時間もあれば、怪物から逃げるのに必死で、時計を見る余裕のない時間もあった。


 少なくとも、体感では相当な時間が過ぎている。


 喉が渇き、空腹も感じる。それ以上に、身体の芯へ溜まった疲労が重かった。


「飲み物は、少しずつにしましょう」


 美咲が言った。


「いつ出られるか分からないので、全部飲んでしまうのは避けたいです」


「分かりました」


 悠斗が答え、高橋も頷く。


 智は四人の顔を見回した。


 誰も十分な装備を持っていない。怪我人が二人いて、うち一人は自力で歩くことさえ難しい。通信手段もなく、帰還経路も分からない。


 条件だけを並べれば、厳しいことばかりだった。


 それでも、先ほどまでとは違う。


 高橋は身体を動かせる。美咲には応急処置の知識がある。悠斗も、逃げてきた通路の特徴を覚えていた。智自身には、設備の構造を観察する経験がある。


 四人が同じことをする必要はない。


 それぞれができることを持ち寄れば、一人では気づかなかった道が見つかるかもしれなかった。


「……少し、先を調べてみたいと思います」


 智が口を開くと、三人の視線が集まった。


「ここにいれば、すぐに襲われることはないかもしれません。でも、水も食べ物も足りませんし、怪物が別の道から来ないとも限らない」


「動くしかない、ということですね」


 高橋が言った。


「そうですね。ただ、闇雲に歩くのは危険です」


 智は割れ目の反対側へ目を向けた。


 小区画の奥には、岩壁が途切れているように見える場所がある。逃げ込んだときには、そこまで調べる余裕がなかった。


「奥に、通路があるかもしれません。まずは近くを確認して、進めそうなら少しずつ移動しましょう」


「小林さんは?」


 美咲が尋ねた。


「高橋さんに支えてもらうのがいいと思います。私も手伝いたいんですが、今の肩と手では、かえって危ないかもしれません」


 口にすると情けなさもあったが、事実だった。


 無理に悠斗を支えて二人とも転べば、状況はさらに悪くなる。できないことを認めるのも、今は必要な判断だ。


「任せてください」


 高橋が言った。


「ただ、ずっと支えるのは僕もきついと思うので、休みながらですね」


「ええ。それでお願いします」


「私は小林さんの脚を見ながらついていきます」


 美咲も頷いた。


 悠斗は申し訳なさそうに視線を落としたが、やがて顔を上げた。


「あの……俺も、何かできることがあったら言ってください。歩くのは遅いですけど、周りを見るくらいならできます」


「お願いします」


 智は即座に答えた。


「特に、来た道に似た場所があったら教えてください。私より、小林さんの方が覚えているものもあるでしょうから」


「……はい」


 悠斗の表情が少し変わった。


 ただ守られるだけではないと分かれば、気持ちも違うのだろう。智はそう思いながら、自分の足元に散らばる小石を避けて立ち上がった。


 途端に、左肩が鈍く疼いた。


 壁へ手をつこうとして右手を出しかけ、慌てて引っ込める。代わりに左の肘を壁へ軽く当てて姿勢を整えたが、それだけでも傷口が引きつった。


「大丈夫ですか」


 美咲が声を掛ける。


「ええ。ちょっと、立ち上がり方を間違えました」


「無理しないでくださいね」


「はい」


 今度は素直に返事をした。


 智は奥の壁へ近づいた。青白い苔の光だけでは細部が見えないため、美咲に短時間だけライトを借りる。


 照らされた岩壁には、いくつもの亀裂が走っていた。そのうち一つは、ほかよりも幅が広い。足元の石が奥へ向かって緩やかに傾斜し、壁の輪郭も途中から見えなくなっている。


 通路らしい。


 ただし、人が通れる幅がどこまで続いているのかは分からない。


 智は入口から少し離れた場所で立ち止まり、耳を澄ませた。


 水音は聞こえない。怪物の足音もない。


 それでも、何かが違った。


 頬に、ほんのわずかな冷たさを感じたのだ。


 最初は汗が冷えたのかと思った。だが、顔の向きを変えると感覚が薄れ、奥の亀裂へ向き直ると、また微かな冷気が触れる。


「……風?」


 智は小さく呟いた。


「どうしました?」


 高橋が尋ねる。


「少し、空気が動いているような気がします」


「ここで、ですか」


「ええ。でも、気のせいかもしれません」


 智は足元へ目を落とし、持ち物の中から使えそうなものを探した。


 細い布があれば、空気の流れを確かめられる。手のひらだけでは分からない程度の風でも、軽い布なら動くことがある。


「高橋さん、ハンカチを少し借りてもいいですか」


「どうぞ」


 受け取ったハンカチの端を、智は慎重に持ち上げた。


 右手でつまむと痛みが走るため、左手の指先を使う。肩を大きく動かさないよう肘を身体へ寄せ、布の端だけを亀裂の前へ垂らした。


 最初は何も起きなかった。


 高橋がライトを近づけ、四人は布の動きを見守った。


 しばらくすると、垂れた端がわずかに揺れた。


「動いた……?」


 悠斗が声を上げる。


「まだ分かりません」


 智は布を一度下ろし、持ち直して同じ位置へ垂らした。


 今度も、細い端が奥へ引かれるように動いた。


 ごく弱い流れだったが、偶然の揺れとは思いにくい。


「風、ありますね」


 高橋が言った。


「ええ。ただ、どこから来ているのかまでは分かりません」


 地下には、空気が流れる場所がある。


 それは地上へ通じているからかもしれないし、もっと広い地下空間につながっているだけかもしれない。通気設備のようなものが働いている可能性もある。


 智は考えを巡らせたが、結論を急がなかった。


 確かなのは、この奥が完全に閉ざされた空間ではないらしいということだけだ。


「進んでみますか」


 高橋が尋ねた。


 智は亀裂の奥を見つめた。


 通路の先が安全とは限らない。先ほどの怪物とは違う何かが潜んでいるかもしれず、狭い場所で襲われれば、悠斗を連れて逃げるのは難しい。


 かといって、この小区画に留まっていても状況は変わらない。


「まず、私が入口の近くを調べます。危なそうなら戻りますから、三人は少し待っていてください」


「一人で行くんですか」


「奥までは行きません。すぐ戻れる範囲だけです」


 美咲は何か言いたそうだったが、智の右手と左肩を見てから、短く頷いた。


「分かりました。でも、少しでも危ないと思ったら戻ってください」


「はい」


 智はスマートフォンのライトを使うことにした。


 《微光》を使えば電池は節約できる。しかし、今は魔力の残量が分からない。小さな確認のたびに能力へ頼るより、使える道具を使った方がいいと判断した。


 画面を操作し、ライトを点灯させる。


 白い光が亀裂の奥を照らした。


 入口は肩幅ほどの広さしかないが、数歩先で少し広がっているようだった。壁は不規則に張り出し、床には細かな砂が溜まっている。天井は低いものの、身を屈めれば進めそうだった。


 智は入口の手前でしゃがみ、足元を確かめた。


 砂の表面には、細い筋がいくつも走っている。


 最初は、水が流れた跡かと思った。だが、よく見ると筋の向きが揃っていない。途中で重なり合い、ところどころに深い窪みができていた。


 何かが引きずられたようにも見える。


 智はライトを少し横へ向けた。


 壁際の砂には、小さな石が押しのけられた跡があった。窪みの一つは、先端が細く尖っている。


 靴底の跡とは違う。


 少なくとも、自分たち四人がここへ来たときにつけたものではなかった。


 智は動きを止めた。


 この通路には、先客がいる。


 そう考えかけて、すぐに言い直した。


 今もいるとは限らない。いつついた跡なのかも分からないし、人間以外の生き物が通ったものなのかさえ、まだ確かめていない。


 ただ、何かがこの道を通った可能性は高そうだった。


「結城さん?」


 背後から高橋の声がした。


「どうしました」


 智は振り返らず、ライトを足元へ向けたまま答えた。


「……足跡みたいなものがあります」


「人のですか」


「それが、よく分からないんです」


 高橋が近づこうとする気配がしたため、智は左手を上げて制した。


「待ってください。踏むと分からなくなるので」


 砂の上には、同じような窪みが奥へ向かって続いている。一定の間隔で並んでいるようにも見えるが、暗さと足場の悪さのせいで、形を正確に捉えられない。


 智はスマートフォンを持ち直し、光の角度を低くした。


 横から照らすと、砂の凹凸に影ができる。


 窪みの一つが、先ほどよりはっきり浮かび上がった。


 丸い靴跡ではない。


 細長いものが三つ、扇のように開いている。


 智は喉の奥が乾くのを感じた。


 あの怪物の足跡なのか、別の怪物のものなのか。それを判断できるほど、彼は地下の生き物を知らない。


 ただ一つ、分かったことがある。


 四人がようやく見つけた帰還の手掛かりは、誰も通らない安全な道ではなさそうだった。


 智はライトを消さず、奥の暗闇を見据えた。


 そして、背後の三人へ静かに告げた。


「ここを通ったものがいます。……進む前に、もう少し調べた方がよさそうです」

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