5:生き残るための選択
「生き残った者たち」
金属の奥で何かが弾け、昇降台が大きく揺れた。
智は反射的に身を引いた。右側の案内溝から甲高い音が響き、台の縁がわずかに沈む。頭上では女性の悲鳴が上がり、続いて男が誰かを引き留めるように叫んだ。負傷者を台へ移そうとしていた三人が、突然の揺れに体勢を崩したらしい。
「動かないで! 台から離れて!」
智の声が縦穴に反響した。昇降台は右側を案内溝に引っ掛けたまま、左側が低く傾いている。先ほどまで受け金具に乗っていた左端が、わずかに浮いていた。何かが折れたような音は右側から聞こえたが、どの部材が損傷したのかまでは分からない。
「怪我した人は、まだ台に乗ってませんね!」
「はい! こっちにいます!」
男の返事を聞き、智は胸を撫で下ろした。負傷者が乗った状態で台が揺れていたら、転落していたかもしれない。だが、安心できるのはそこまでだった。昇降台は先ほどより不安定になっており、このまま操作を続ければ、完全に支えを失う可能性がある。
智は壁際へ移動し、右側の案内溝を見上げた。弱い《微光》を向けると、落下抑止部の先端が斜めに浮き、金属の突起から半分ほど外れかけているのが見えた。先ほどの操作で負担が掛かり、金具が変形したのかもしれない。少なくとも、正常な状態ではなかった。
そのとき、背後の通路から激しい金属音が響いた。
裂爪種が、障害物を押し続けている。
智は振り返った。斜めに渡した金属片は大きく歪み、怪物の細長い脚が隙間から伸びている。爪が床を探るたびに石が転がり、金属片の下端が少しずつ浮き上がっていた。
もう長くは持たない。
智は一瞬、岩の割れ目へ逃げ込むことを考えた。あの通路なら、怪物の大きな胴体は通りにくい。少なくとも、今いる場所よりは安全だろう。
だが、上の三人を残して逃げるわけにはいかなかった。
智は足元を見回し、壁際に転がっている細長い石を見つけた。先端が尖り、片側が平たくなっている。これを金属片の下へ押し込めば、怪物の進路をもう少し塞げるかもしれない。
智は石を拾い上げようとして、右手の痛みに顔をしかめた。腫れた指に力が入らず、思わず石を落としてしまう。左手だけでは重すぎるため、足で押しながら少しずつ通路の入口へ運んだ。
怪物の爪が金属片を叩いた。
智は身体を引き、爪が届かないことを確かめてから、石を押し込んだ。金属片の下端が床へ押し戻され、隙間がわずかに狭くなる。怪物が内側から押すと石が軋んだが、すぐには外れなかった。
智は数歩下がり、呼吸を整えた。
時間を稼げたとしても、ほんのわずかだろう。
昇降台を使うなら、今しかない。
智は右側の案内溝へ視線を戻した。落下抑止部は半分ほど外れかけているが、完全には離れていない。左側の受け金具も、台の縁を支える位置に残っている。
もし、右側の金具をもう一度正しく噛み合わせられれば。
智は上方へ声を掛けた。
「上の人! さっきの取っ手、今どの位置にありますか!」
「下です! 元に戻してあります!」
「その横の小さい金具は!」
「まだ外したままです!」
智は考え込んだ。取っ手を元の位置へ戻したことで、落下抑止部は再び案内溝へ掛かった。しかし、先ほどの衝撃で先端が変形したのか、完全には噛み合っていない。
このまま人を乗せるのは危険だった。
だが、ほかに方法があるだろうか。
智は昇降台の下面を見上げた。台の中央には太い横桁が通り、その両端が案内部材へつながっている。右側の金具が不完全でも、左側の受け金具と横桁で荷重を分散できれば、短時間なら足場として使えるかもしれない。
もちろん、確証はない。
智は《解析》を使おうとして、すぐに思いとどまった。頭の奥には鈍い痛みが残り、視界も少し重い。能力を使っても、必要な情報が得られるとは限らない。
今は、目で見て判断するしかなかった。
智は壁際へ近づき、左側の受け金具を確かめた。昇降台の縁は、金具の平たい部分へ斜めに乗っている。先ほどの揺れでわずかにずれたものの、完全には外れていなかった。
右側の落下抑止部が外れれば、台は左へ傾く。
しかし、左側の受け金具が支えになれば、落下を防げる可能性がある。
智は深く息を吐いた。
危険は大きい。
だが、ここで立ち止まれば、怪物が通路を抜けてくる。
智は上方へ声を掛けた。
「今から、台をもう少しだけ下げます! でも、誰も乗らないでください!」
「分かりました!」
「取っ手を動かすときは、僕の合図を待ってください!」
男の返事を聞き、智は退避経路を確かめた。昇降台の真下には立たず、右側の案内溝が見える位置へ移動する。台が落ちた場合、岩の突起の陰へ逃げ込めるよう、足元の石をどけておいた。
そのとき、上方で重いものが岩壁を擦る音が響いた。
大型の怪物が、再び動き始めたらしい。
智は顔を上げた。
「大きい怪物、どこにいますか!」
「上の壁です! こっちには来てません!」
男の声には緊張が滲んでいた。
智は頷き、昇降台へ視線を戻した。
今なら、まだ動かせるかもしれない。
「取っ手の横の金具を外したまま、少しだけ上へ動かしてください!」
上方で金属が擦れる音がした。
落下抑止部の先端が、案内溝の突起からわずかに離れる。
昇降台が、小さく沈んだ。
「止めて!」
智が叫ぶと、男はすぐに操作を止めた。
台はわずかに下がった位置で止まっている。左側の受け金具が荷重を受け、右側の金具も完全には外れていない。
智は息を詰めた。
もう少し。
あと少し下がれば、台の縁が下の岩の突起に近づく。
智は上方へ声を掛けた。
「もう少しだけ! ゆっくり!」
男が取っ手を動かした。
金属が擦れる音が響き、昇降台が再び沈んだ。
左側の縁が受け金具の上を滑り、右側の落下抑止部が次の突起へ近づく。
その瞬間、台が大きく揺れた。
「止めて!」
智は叫んだ。
男が取っ手を止める。
昇降台は一度傾いたものの、右側の落下抑止部が案内溝の突起に引っ掛かり、そこで止まった。
智は壁に手をつき、荒くなった呼吸を整えた。
危なかった。
あと少し操作が遅れていれば、台が一気に下がっていたかもしれない。
智は昇降台を見上げた。
台は、先ほどよりかなり下がっている。
下の岩の突起まで、手を伸ばせば届きそうな距離だった。
これなら、負傷者を下ろせるかもしれない。
智は上方へ声を掛けた。
「台が下がりました! でも、まだ乗らないでください!」
「分かりました!」
「まず、怪我した人を支えている方! その人の状態を教えてください!」
女性の声が返ってきた。
「意識はあります! でも、足が痛くて、立てません!」
「分かりました。無理に立たせないでください!」
智は昇降台を見上げた。
負傷者を台へ移すには、上の二人の協力が必要だった。
だが、台はまだ完全に安全ではない。
智は慎重に考えた。
まず、上の二人が負傷者を支えながら台へ移す。
その間、智は下から台の動きを確認する。
台が傾いたら、すぐに中止する。
そして、負傷者を下へ降ろす。
手順は単純だが、失敗すれば命に関わる。
智は上方へ声を掛けた。
「今から、怪我した人を台へ移します! でも、急がないでください!」
「分かりました!」
「二人で支えて、少しずつ! 台が揺れたら、すぐ止めてください!」
上方で男と女性が何かを相談する声が聞こえた。
智は昇降台の下にある岩の突起へ移動し、足場を確かめた。
台は、まだ少し傾いている。
右側の落下抑止部は、完全には噛み合っていない。
左側の受け金具も、いつまで耐えられるか分からない。
それでも、今ある設備を使うしかなかった。
智は上方へ声を掛けた。
「準備はいいですか!」
「はい!」
「じゃあ、ゆっくり!」
上方で足音がした。
男と女性が負傷者を支えながら、昇降台へ近づいているらしい。
智は息を詰め、台の動きを見守った。
金属の床が、小さく軋んだ。
負傷者の足が、台へ触れたのかもしれない。
智は右側の案内溝を見つめた。
落下抑止部は、まだ外れていない。
左側の受け金具も、台を支えている。
今のところ、問題はなかった。
しかし、そのとき。
背後の通路から、金属が弾けるような音が響いた。
智は振り返った。
裂爪種が、障害物を押し外した。
斜めに渡していた金属片が床へ倒れ、怪物の胴体が通路の入口から現れた。
智は息を呑んだ。
怪物は、ゆっくりと身体を押し出しながら、こちらへ向かってくる。
その脚は長く、爪は岩を削るほど硬い。
智は後退した。
だが、背後には昇降台がある。
上では、負傷者を台へ移そうとしている。
ここで逃げれば、三人を守る者はいなくなる。
智は折り畳み式カッターを握り直した。
怪物が一歩、近づいた。
智は壁際の岩の突起へ身を寄せた。
正面から戦えば、勝ち目はない。
ならば、地形を使うしかなかった。
智は足元の石を拾い、怪物の顔と思われる部分へ投げた。
石が当たったかどうかは分からない。
だが、怪物の動きが一瞬止まった。
智はその隙に、岩の突起の陰へ移動した。
怪物が追ってくる。
細長い脚が岩壁を叩き、爪が石を削る音が響く。
智は息を詰めた。
ここで時間を稼がなければならない。
上の三人が、負傷者を下ろすまで。
智は岩の突起を回り込み、怪物との距離を保ちながら移動した。
そのとき、頭上から男の声が響いた。
「下の人! 怪我した人、台に乗りました!」
智は顔を上げた。
昇降台の上に、負傷者が横たわっているような影が見えた。
男と女性が、その身体を支えている。
智は叫んだ。
「そのまま! 動かないで!」
怪物が近づく。
智は再び岩の突起の陰へ身を隠した。
今は、負傷者を下ろすことが最優先だった。
だが、そのためには、怪物を引きつけ続けなければならない。
智は荒くなった呼吸を整え、足元の石を拾った。
そして、怪物の動きを見極めながら、次の一手を考え始めた。
※
拾い上げた石を左手に握り、智は裂爪種の動きを見据えた。
怪物は崩れた金属片を乗り越え、縦穴の底へ半身を押し出していた。長い脚が岩壁を探るように広がり、鉤状の爪が床を叩くたびに乾いた音が響く。胴体はまだ狭い通路に引っ掛かっているものの、障害物が完全に外れた今、その身体が抜け出すのは時間の問題だった。
頭上では、負傷者を乗せた昇降台が不規則に軋んでいる。台は上方の足場から少し下がった位置にあり、男と女性が身を乗り出して負傷者を支えていた。右側の落下抑止部は案内溝に不完全な状態で掛かり、左側は壁から突き出した受け金具に支えられている。わずかな操作で動くことは確認できたが、人を乗せた状態で同じように動く保証はなかった。
智は昇降台と怪物を交互に見た。ここで怪物を迎え撃つことなど、到底できない。右手は腫れ上がり、左肩も少し動かすだけで痛む。逃げ回るだけでも精一杯の身体で、あの硬い外皮と長い爪を相手にするのは無謀だった。
それでも、負傷者が下りてくるまでの時間だけは稼がなければならない。
「上の人! 怪我した人は、台の中央にいますか!」
「はい! 横になってもらっています!」
「二人はまだ上の足場ですね?」
「そうです! こっちから支えています!」
智は頷いた。負傷者だけが昇降台に乗り、残る二人は上方の足場にいる。台が下がれば支えていた手は届かなくなるため、負傷者自身が姿勢を保てるようにしなければならない。
「台の右側が少し高くなっています。身体が滑らないよう、中央より右側へ寄せてください。動かすときは、二人で声を掛け合って!」
男が了承し、女性と相談する声が聞こえた。智はその間に足元の石を怪物の右側へ投げた。岩壁に当たった石が甲高い音を立てると、裂爪種の前脚がそちらへ向き、わずかに動きを止めた。
音に反応したのか、それとも単に障害物を警戒したのかは分からない。しかし、ほんの数秒でも注意を逸らせるなら、それで十分だった。
智は岩の突起を挟んで反対側へ回り込んだ。怪物が身体の向きを変えるには、長い脚を一度引き寄せなければならない。狭い通路では有利だった脚も、岩の突起が入り組んだ場所では、かえって動きを妨げているように見えた。
その動きを確かめた智は、怪物を倒すのではなく、進路を限定することに意識を切り替えた。
縦穴の底には、昇降設備から落ちた金属片がいくつも散乱している。そのうちの一本は、先ほど怪物に押し外されたものの、片端が岩壁の窪みに引っ掛かったままだった。もう一度角度を変えて固定できれば、怪物の脚を引っ掛ける障害物になるかもしれない。
智は怪物が反対側を向いている隙に金属片へ近づき、足で端を押した。右手に力が入らず、左肩も傷んでいるため、持ち上げることはできない。靴底で少しずつ押し込み、金属片の先端を岩壁の窪みへ滑り込ませる。
背後で爪が床を叩いた。
振り返ると、怪物が身体をこちらへ向けていた。智は慌てて岩の突起の陰へ退き、伸びてきた脚を避ける。爪が岩の表面を削り、細かな破片が頬に当たった。
距離が近い。
あと一歩判断が遅れていれば、身体を引き裂かれていたかもしれない。
智は壁に背を押しつけ、息を整えた。怪物は突起の向こう側から脚を伸ばしているが、胴体を回り込ませることができずにいる。そこへ先ほど動かした金属片が斜めに渡り、脚の一本が引っ掛かった。
怪物が強引に身体を動かそうとすると、金属片は岩壁の窪みに押しつけられ、さらに深く噛み込んだ。
智は足元の石を押し込み、金属片の根元を固定した。
怪物が暴れるたびに金属が軋み、岩壁から小石が落ちてくる。長くは持たないだろうが、少なくとも今すぐ追ってくることはできない。
「位置、直しました!」
上から男の声が響いた。
智は怪物から距離を取り、昇降台の右側が見える位置へ移動した。負傷者は台の中央付近で身体を低くしている。男と女性が両側から支えていたが、台を下げればその手は離さなければならない。
「怪我した人に伝えてください。今から少しずつ下がります。動かず、できるだけ身体を低くしていてください!」
男が負傷者へ声を掛け、しばらくして返事があった。
「分かりました! 準備できています!」
智は右側の案内溝を見上げた。落下抑止部の先端は突起に掛かっているものの、接触面が浅い。左側の受け金具も台の縁を支えているが、どちらか一方が外れれば、台は大きく傾く可能性があった。
今から行うのは、安全が確認された操作ではない。
壊れた設備を、わずかに残された機能だけで動かそうとしているのだ。
智はその危険を理解したうえで、上方へ声を張った。
「取っ手を少しだけ上へ動かしてください。抵抗が変わったら、すぐ止めて!」
金属の擦れる音が響き、昇降台がわずかに沈んだ。左側の縁が受け金具の表面を滑り、右側の落下抑止部が案内溝の突起から離れていく。智は動きを見極め、次の突起へ掛かる直前に声を上げた。
「止めて!」
男が操作を止めると、昇降台は小さく揺れながらも、その位置に留まった。負傷者が短く呻いたが、身体が滑る様子はない。右側の金具も再び突起に掛かっている。
智は胸の奥に溜まっていた息を吐いた。
あと少しだ。
下方の岩の突起までは、もう大きな距離はない。そこまで台を下げられれば、負傷者を受け止めることができる。
しかし、次の操作を指示しようとした瞬間、背後で激しい金属音が響いた。
裂爪種が身体をよじり、引っ掛かっていた脚を強引に引き抜こうとしていた。金属片は大きくしなり、根元を押さえていた石が床を滑り始めている。
智は振り返り、怪物との距離を測った。今なら岩の突起を回り込んで逃げられるが、昇降台の操作を続ければ、その間に怪物が近づいてくる。
迷っている時間はなかった。
「上の人! もう一度、さっきと同じように!」
男が返事をし、取っ手を動かした。
昇降台がゆっくり沈む。
右側の金具が案内溝を滑り、左側の受け金具が鈍い音を立てた。智は落下抑止部の動きを見ながら、次の突起へ掛かる位置を待った。
「そこで止めて!」
男が操作を止めると、台は一度大きく揺れたものの、右側の金具が突起に掛かり、左側も受け金具に支えられて静止した。
智は慎重に近づき、左手を伸ばした。
昇降台の縁に指が届く。
岩の突起との間にはまだ段差があるが、身体を支えながら移せない距離ではなかった。負傷者を抱え上げることはできないため、台の高さを利用して、少しずつ岩の上へ移動させるしかない。
「聞こえますか! 今からこっちへ移ります。痛いと思いますが、無理に足を動かさないでください!」
負傷者は苦しそうに顔を上げ、小さく頷いた。
智は台の縁へ左腕を掛け、相手の背中を支えた。右手は添える程度にしか使えず、左肩も傷んでいる。負傷者の身体を持ち上げるのではなく、台の上を滑らせるようにして、少しずつ岩の突起へ寄せた。
相手が痛みに声を漏らすたび、智は動きを止めた。焦れば、負傷した脚をさらに傷めるかもしれない。それでも、背後では怪物が金属片を押し曲げる音が続いている。
男と女性が上から励ます声を掛け、負傷者も歯を食いしばって身体を動かした。
やがて、負傷者の腰が岩の突起へ移った。
智は膝をつき、相手の背中を支えながら、残る脚を慎重に引き寄せた。負傷していない方の足が岩に触れ、ようやく身体全体が昇降台から離れる。
智は相手を壁際へ横たえ、短く声を掛けた。
「ここなら、ひとまず大丈夫です。動かないでください」
負傷者は何か言おうとしたが、痛みのためか言葉にならなかった。智は頷いてみせると、すぐに上方へ向き直った。
まだ二人残っている。
昇降台を再び上まで動かし、二人を一人ずつ下ろさなければならない。だが、怪物は障害物を破ろうとしており、頭上の大型個体も姿を消しただけで、どこかへ去ったとは限らなかった。
智は上方の男へ、昇降台を上げる操作ができるか確認した。
「輪を逆に回せば上がると思います! さっき、少し動きました!」
「分かりました。ただし、途中で引っ掛かったら無理に回さないでください!」
男が操作を始めると、昇降台は不規則な音を立てながら上昇した。案内溝の途中で一度止まりかけたものの、男が力を緩めると再び動き始める。智は下から金具の位置を確認し、危険な傾きが生じたところで操作を止めさせた。
何度か同じことを繰り返し、ようやく台は上方の足場に近い位置まで戻った。
最初に乗ったのは男だった。
男は台の中央へ身体を低くして移り、女性が操作部を引き受けた。智は下から金具の動きを確認しながら、先ほどと同じ手順で少しずつ下ろすよう指示した。
台が下がる途中、背後で金属片が大きく跳ねた。
裂爪種の脚が自由になったらしい。
智は一瞬振り返ったが、怪物はまだ岩の突起の向こう側にいる。こちらへ回り込むには時間が掛かるものの、もう障害物は残っていなかった。
智は男が乗る昇降台へ向き直り、最後の操作を急がせた。
やがて台が岩の突起の高さまで下がると、男は智の差し出した左手を掴み、慎重に地面へ降り立った。二人で負傷者を壁際へ移動させ、昇降台の落下範囲から離したところで、智は再び上方へ声を掛けた。
「最後の方! 台を戻します!」
女性は一人で操作部を動かし、昇降台を上昇させた。途中で金属が引っ掛かる音がしたが、男が下から案内溝を確認し、智が女性へ声を掛けることで、何とか上の足場まで戻すことができた。
女性が台へ移ると、今度は上に操作する者がいなくなる。
智は男と顔を見合わせた。
「下から動かせますか?」
男が案内溝の横にある金属の輪を指差した。
「ここにも、同じような輪があります。さっき見つけました」
智はその輪を確かめた。上方の操作部と同じ機構につながっているかどうかは分からないが、金属の棒が壁の内部へ伸びている。男が慎重に輪を回すと、昇降台がわずかに動いた。
智は頷いた。
「それなら、下から操作しましょう。僕が金具を見ます」
男が輪を回し、智が落下抑止部の動きを確認する。女性は台の中央で身体を低くし、揺れに耐えていた。途中で大きな軋みが響き、二人は何度も操作を止めたが、少しずつ台を下げることができた。
やがて、女性の足が岩の突起へ届いた。
男が腕を伸ばし、女性を支えながら地面へ降ろす。
三人目が、ようやく縦穴の底へ降り立った。
智はその姿を見届け、膝に手をついた。全身から力が抜けそうになるのを、どうにか堪える。助かったという実感よりも先に、もうこれ以上は動けないかもしれないという疲労が押し寄せてきた。
しかし、休む時間はなかった。
背後で爪が岩を叩く音が響いた。
裂爪種が、岩の突起を回り込んでくる。
「ここから離れます!」
智の声に、男と女性がすぐに反応した。二人は負傷者の両側へ回り、肩を貸して立たせる。負傷者は痛みに顔を歪めたが、自分の足でも何とか身体を支えようとしていた。
智は先頭に立ち、以前見つけた岩の割れ目へ向かった。
そこは人が横向きになれば通れる程度の狭い通路で、裂爪種の大きな胴体では入りにくいはずだった。ただし、長い脚が届く可能性はある。智は《微光》を弱く灯し、足元の段差を確認しながら進んだ。
負傷者を支える二人の歩みは遅い。智は何度も振り返り、そのたびに背後から近づく爪の音を聞いた。怪物が縦穴の底を移動しているのか、岩壁を伝っているのかは分からない。
ようやく割れ目へ辿り着くと、智は先に身体を滑り込ませ、通路の奥を確かめた。床は不規則に傾いているものの、大きな段差はない。負傷者も支えがあれば通れそうだった。
「ここを抜けます。狭いので、一人ずつ。怪我した人は、僕が向こう側から支えます」
男と女性が頷き、負傷者を慎重に割れ目へ通した。智は反対側から身体を支え、負傷した脚が岩に当たらないよう声を掛ける。途中で相手が痛みに呻いたが、二人が背後から支え続けたおかげで、何とか通り抜けることができた。
最後に男が割れ目を抜けた直後、背後で硬い爪が岩壁を叩いた。
智は振り返った。
裂爪種の脚が一本、割れ目の入口へ伸びている。
怪物は身体を押し込もうとしていたが、胴体が岩に引っ掛かり、それ以上は進めないようだった。爪だけが狭い隙間を探り、岩の表面を削っている。
智は三人へ先に進むよう促した。
四人は割れ目の奥へ進み、やがて少し広い空間へ出た。岩壁に囲まれた小さな区画で、縦穴からは直接見通せない位置にある。通路はさらに奥へ続いていたが、今のところ怪物の気配は感じられなかった。
智は《微光》を弱め、三人へ声を掛けた。
「ここで、少し休みましょう。まだ安全とは言い切れませんが、さっきの怪物は通りにくいはずです」
男と女性が負傷者を壁際へ座らせた。智も近くの岩へ腰を下ろし、ようやく肩の力を抜いた。左肩の傷は熱を持ち、右手の腫れもひどくなっている。全身が重く、指先には細かな震えが残っていた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
四人の荒い呼吸だけが、静かな空間に響いていた。
やがて男が顔を上げ、智へ深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。あなたがいなかったら、僕たちは……」
言葉の続きを探すように、男は口を閉じた。
智は小さく首を振った。
「まだ助かったとは言い切れませんよ。ここがどこなのかも、地上へ戻れるのかも分かっていませんから」
「それでも、あそこで諦めずに助けてくれました」
智は返事に困り、視線を落とした。
助けたという実感は、まだ薄かった。何度も判断を誤りかけ、そのたびに偶然と相手の協力に救われた。少しでも操作を間違えていれば、昇降台ごと三人を落としていたかもしれない。
女性が負傷者の脚を確かめながら、静かに口を開いた。
「でも、私たちだけでは絶対に降りられませんでした。本当にありがとうございます」
智は苦笑した。
「こちらこそ、協力してもらえて助かりました。一人だったら、あの台を動かすこともできなかったと思います」
智は改めて三人の顔を見回した。男は三十代半ばくらいだろうか。疲れ切った顔をしているものの、負傷者を支えるときの動きには迷いがなく、責任感の強そうな印象を受ける。女性は二十代後半ほどに見え、乱れた髪を耳に掛けながら、負傷者の様子を気遣っていた。壁にもたれている若い男性は二十代前半くらいで、右脚を庇いながらも、周囲の会話に耳を傾けている。
「そういえば、まだ名前も聞いていませんでしたね」
智が口を開くと、男は少し驚いたように顔を上げ、それから苦笑した。
「確かに……。あんな状況でしたから、名前を聞く余裕もありませんでした」
「ですよね。私は結城智といいます。四十七歳で、札幌で修理やメンテナンスの仕事をしています」
「結城さんですね。僕は高橋直人です。三十五歳で、普段は会社員をしています」
高橋はそう言って軽く頭を下げた。先ほどまで昇降設備の輪を操作していた男だと考えると、落ち着いた話し方が妙に頼もしく感じられる。
「私は佐々木美咲です。二十八歳です。看護師をしています」
女性はそう名乗ると、少し申し訳なさそうに笑った。
「本当はもっとちゃんと手当てしてあげたいんですけど、道具がなくて……」
「看護師さんなんですか。それは心強いですね」
智が答えると、美咲は首を横に振った。
「こんなところでは、できることも限られています。でも、少しでも役に立てればと思います」
最後に、壁にもたれていた若い男性が顔を上げた。
「僕は小林悠斗です。二十二歳で、大学生です。……すみません。僕が怪我したせいで、皆さんに迷惑を掛けてしまって」
悠斗は俯き、負傷した右脚へ視線を落とした。
「そんなこと気にしなくていいですよ。誰だって、あんな怪物に襲われたら怪我くらいします」
智がそう言うと、高橋も頷いた。
「そうだよ。悠斗君が悪いわけじゃない。今は全員が生きていることを喜ぼう」
悠斗は少しだけ表情を緩め、小さく頭を下げた。
智は三人を見回した。名前を知っただけで、先ほどまで見知らぬ人間だった相手が、少し身近に感じられる。もちろん、互いのことはまだ何も分かっていない。それでも、これから一緒に行動するのなら、まずは名前を呼び合えることが大切なのだろう。




