4:生き残るための選択
「助けるための判断」
昇降台の左端が沈み、岩壁に埋め込まれた金属の案内溝から、耳障りな摩擦音が響いた。智は反射的に頭を庇いながら壁際へ退いた。台の上に落ちた巨大な影が身じろぎするたび、金属の床が小刻みに震え、縁から剥がれた錆のような破片が降ってくる。
頭上の暗闇にいるものの全身は見えない。弱い《微光》が捉えたのは、昇降台の縁から垂れ下がった太い肢と、岩壁を擦る黒ずんだ外皮の一部だけだった。先ほどまで通路で暴れていた多脚の怪物とは、明らかに体格が違う。少なくとも、人が一人乗った程度では生じないような軋みが、台全体から聞こえていた。
「離れてください! 台の近くに寄らないで!」
智が叫ぶと、上方で足音が乱れた。男が誰かを引き寄せるような声を上げ、女性が短く悲鳴を漏らす。三人がまだ縦穴の縁にいることは分かったが、巨大な影との位置関係までは見えなかった。
昇降台がもう一度揺れた。
右側の案内溝で、何かが強く噛み合う音がした。落下抑止部が荷重を受けたのかもしれない。だが、左側はさらに下がり、台の床は傾斜を増している。あのまま重みが掛かれば、右側の金具まで壊れる可能性があった。
智は壁に背を預け、視線を上下へ走らせた。通路の入口では裂爪種の細長い脚が、斜めに渡した金属片を繰り返し叩いている。頭上には正体の分からない大型の怪物。二つの脅威に挟まれた形だったが、少なくとも今は、どちらも智へ直接手を伸ばせる位置にはいなかった。
それがいつまで続くかは分からない。
「下の人!」
上から男の声がした。先ほどまでより近く、切羽詰まっている。
「もういいです! 逃げてください!」
智は顔を上げた。
「何を言ってるんですか!」
「こっちは何とかします! あんたまで巻き込まれたら……!」
男の言葉が途切れ、代わりに重いものが岩壁を叩く音が響いた。上方の影が身体の向きを変えたらしい。昇降台の縁から伸びていた太い肢が引っ込み、今度は反対側で金属が擦れる音がした。
智は男へ返事をしないまま、足元を見た。
逃げること自体は、不可能ではなかった。先ほど見つけた岩の割れ目へ戻れば、少なくとも下の怪物からは距離を取れる。さらに奥へ進めば、別の通路につながっているかもしれない。肩と手の傷を考えても、ここで無理を重ねるより、その方が生き残る可能性は高そうだった。
しかし、上にいる三人はどうなる。
負傷者は自力で歩くことも難しい。残る二人も、傾いた昇降台と怪物に挟まれ、逃げ道を失いつつある。智が立ち去ったところで、三人だけで安全に降りられるとは思えなかった。
見知らぬ相手だった。
名前も知らない。どこから来たのか、どうしてこんな場所にいるのかさえ聞いていない。助ける義務があるのかと問われれば、簡単には答えられなかった。
それでも、声が届く距離にいる人間を置いて逃げたあと、自分は何を考えるだろう。
智は右手を握ろうとして、腫れた指の痛みに顔をしかめた。普段の仕事なら、危険だと判断した作業を中止するのは当然だった。無理な姿勢で重量扉を外せば、作業員も周囲の人間も怪我をする。安全を確保できないなら、手を出してはいけない。
だが、今は作業を中止したところで、危険そのものがなくなるわけではない。
上の三人は、ここに残される。
智は息を吸い込み、男へ向かって声を張った。
「逃げません! ただし、こっちの指示を聞いてください!」
「でも!」
「助けるつもりでいます! だから、勝手に動かないで!」
上方で短い沈黙があった。やがて男が、分かりました、と答えた。その声を聞いても安心はできなかったが、少なくとも三人が独断で昇降台へ飛び移るような事態は避けられそうだった。
智は改めて周囲を見回した。まず必要なのは、怪物との距離を保つことだ。下の裂爪種は金属片に阻まれているものの、何度も押し続けるうちに固定が緩み始めている。頭上の大型個体については、昇降台から動く気配があるかどうかを確かめるしかない。
《微光》を掌の内側で灯し、光を壁へ向けた。
昇降台の上にいる怪物の影が、ぼんやりと浮かび上がる。太い肢は少なくとも二本見えたが、ほかの部分は台の陰に隠れている。怪物は縦穴の壁に身体を押しつけるようにしており、金属の床へ全体重を掛けているわけではないらしい。
その姿勢に、智はわずかな希望を見いだした。
怪物が壁を伝って移動できるなら、昇降台から離れる可能性がある。
ただし、こちらの都合よく動いてくれる保証はなかった。音や光に反応するかどうかも分からない。下の裂爪種は石を投げた音に一瞬動きを止めたが、同じ方法が大型個体に通用するとは限らない。
智は光を弱め、壁際の落下物へ目を移した。昇降台から剥がれたらしい細長い金属の帯が、足元の岩に引っ掛かっている。片端は折れ曲がり、もう片方には穴が並んでいた。重さは相当ありそうだが、持ち上げる必要はない。地面に沿って動かせれば、通路の入口を塞ぐ材料に使えるかもしれなかった。
裂爪種が金属片を強く押した。
入口を塞いでいた部材が大きく傾き、怪物の脚が一本、こちら側へ伸びた。智はすぐに身体を引いたが、爪の先はまだ届かない。狭い通路が胴体の移動を妨げているうちに、障害物を増やす必要があった。
智は金属の帯を左手で引き寄せた。岩に擦れるたびに嫌な音が響き、怪物の脚がその方向へ動く。智は途中で手を止め、脚が引っ込むのを待ってから再び引いた。右手を添えると痛みが走るため、最後は足の裏で押しながら位置を調整した。
金属の帯は、通路の入口にある岩の突起と、先ほど渡した金属片の間へ収まった。二本の部材が交差する形になり、隙間はさらに狭くなる。ただし、交差しただけでは衝撃に耐えられない。智は近くに転がっていた石を足で押し込み、帯の折れ曲がった部分を床の窪みに噛ませた。
怪物が内側から押した。
金属が軋み、石がわずかに動いた。それでも、二本の部材はすぐには外れなかった。智は数歩下がり、怪物の脚が届く範囲を見極める。爪は隙間から伸びてくるものの、胴体を通すだけの幅は残っていない。
これで安全になったわけではない。
だが、怪物が障害物を壊すには、もう少し時間が掛かるはずだった。
智は縦穴の中央へ視線を戻した。昇降台は先ほどより傾いているが、まだ落下していない。右側の落下抑止部が耐えているのか、それとも別の場所が噛み込んでいるのか。どちらにせよ、上の大型個体が乗ったままでは、台を動かすことなど考えられなかった。
そのとき、上方で女性の声が響いた。
「こっちに来る!」
続いて、男が誰かを庇うように叫んだ。智は反射的に光を上へ向けかけ、寸前で止めた。光が怪物の注意を引くかもしれない。代わりに耳を澄ませると、太い肢が岩壁を擦る音が、昇降台の上から縦穴の側面へ移っていくのが分かった。
怪物が動いている。
智は壁に身を寄せたまま、音の方向を追った。重い擦過音はしばらく同じ高さに留まっていたが、やがて少しずつ上へ移動し始めた。昇降台の軋みも、先ほどより弱まっている。
大型個体が台から離れつつあるのかもしれない。
しかし、上の三人へ近づいている可能性もあった。
「上の人! そっちの怪物、どこにいますか!」
「壁を登ってます! こっちに……いや、反対側へ行った!」
「三人とも、まだ同じ場所にいますね!」
「はい! 怪我した人は、僕たちで支えてます!」
智は短く息を吐いた。大型個体が上方へ移動したなら、昇降台に掛かる重みは減ったはずだ。ただし、三人がいる縁へ戻ってくる危険は残る。
「そっちは怪物から目を離さないでください! でも、追いかけたり、近づいたりしないで!」
「分かりました!」
男の返事を聞きながら、智は昇降台の右側を観察した。先ほどまで激しく軋んでいた案内溝は、今は静かになっている。左側の傾きは残っているが、それ以上沈む様子はない。
智は落下抑止部へ意識を向けた。
《解析》を使えば、もう少し詳しい情報が得られるだろうか。
頭の奥にはまだ鈍い痛みが残っていたが、無闇に試すつもりはなかった。確認したいのは、右側の部材が現在どのような状態にあるかという一点だけだ。智は壁に手をつき、対象を絞って《解析》を発動した。
視界の端に、淡い文字が浮かんだ。
――落下抑止部。
――係合状態:不完全。
表示はそれだけだった。
智はすぐに能力を解除した。こめかみに痛みが走り、視界が一瞬揺れる。壁に手をついて呼吸を整えながら、今得られた情報を頭の中で繰り返した。
係合状態が不完全。
つまり、右側の落下抑止部は何らかの形で引っ掛かっているが、正常な固定状態ではないらしい。
それなら、台が止まっているからといって安心はできない。
智は昇降台の下面を見上げた。右側の金具は案内溝の突起に接触しているものの、先端が斜めに掛かっているように見える。荷重が変われば外れる可能性があり、今のまま人を乗せるのは危険だった。
では、どうすればいい。
智は視線を左へ移した。損傷した案内部材の下には、壁から突き出した金属棒がある。先ほど見つけた補助的な支えになりそうな部材だ。昇降台がわずかに下がれば、その縁が棒へ接触する位置にある。
右側の落下抑止部が不完全なら、左側の支えを利用して荷重を分散させるしかない。
ただし、金属棒がどれほどの重みに耐えられるかは分からない。台の傾きを抑える補助として使うにしても、そこへ人を乗せる前に状態を確かめる必要があった。
智は上方へ声を掛けた。
「上の人! さっきの輪と取っ手、まだそのままですか!」
「はい! 触ってません!」
「今から、台を少し動かせるか確認したいんです。でも、まだ操作しないでください!」
男が短く返事をした。智は昇降台の下にある岩の突起へ近づき、足場の状態を確かめた。台が動いたとき、どこへ逃げれば落下物を避けられるか。右側の金具が外れた場合、台はどちらへ傾くか。考えられる危険を一つずつ確認しながら、立つ位置を決めていく。
その途中で、智は昇降台の左側にある金属棒の根元へ目を向けた。
棒は岩壁に埋め込まれた枠へ差し込まれており、先端には平たい受け金具が付いている。表面には古い擦過痕があり、昇降台の縁と接触した跡にも見えた。
もし、この棒がもともと台を受け止めるための部材なら。
智はそこまで考え、すぐに判断を保留した。用途が似ているからといって、今も正常に使えるとは限らない。確認すべきなのは、棒が動くかどうか、根元に緩みがないか、そして台の縁がどの位置で接触するかだった。
智は手の届く範囲で金属棒を軽く押した。右手は使わず、左手の指先で慎重に力を掛ける。棒はわずかにしなったものの、根元が大きく動く様子はなかった。さらに角度を変えて確かめると、枠の一部に小さな隙間があり、そこへ棒が深く差し込まれていることが分かった。
固定されている。
少なくとも、手で触れただけで抜け落ちるような状態ではない。
智は上を見上げた。
昇降台を完全に修理することはできない。
だが、右側の落下抑止部を利用し、左側の受け金具で傾きを抑えられれば、台を限定的に動かせる可能性はある。
そのためには、まず大型の怪物が完全に台から離れたことを確認しなければならなかった。
「上の人! 大きい怪物、今どこですか!」
「見えなくなりました! 上の壁の方へ行ったと思います!」
「こっちへ戻ってくる様子は?」
「今は……ありません!」
智は頷いた。姿が見えない以上、安心はできない。それでも、昇降台に掛かる異常な重みがなくなった今が、状態を確かめる機会だった。
智は男へ声を掛けた。
「これから、台を少しだけ動かす準備をします! でも、操作は僕が合図してからです!」
「分かりました!」
「それと、怪我した人を支えている方は、そのまま離れないでください! 無理に動かさなくていいです!」
上方から女性の返事が聞こえた。短い声だったが、はっきりとした意思が感じられた。
智は昇降台の下から一歩離れ、右側の案内溝を見上げた。
次に何をするかは、まだ決まっていない。
しかし、少なくとも、何を確かめなければならないかは見えてきた。
右側の落下抑止部が外れないこと。
左側の受け金具が台を支えられること。
そして、操作部の取っ手が固定と解除のどちらに関係しているのかを見極めること。
どれか一つでも確認できなければ、人を乗せるわけにはいかなかった。
智はゆっくり息を吐き、足元の退避経路をもう一度確かめた。
背後では、裂爪種が金属の障害物を押し続けている。
頭上には、姿を消した大型の怪物がいる。
安全な場所など、どこにもない。
それでも、智は昇降台から目を離さなかった。
上の三人を助けるためには、この壊れた設備を使うしかないのだから。
※
背後で金属が軋んだ。通路を塞いでいる二本の部材が、裂爪種に押されて少しずつ位置を変えている。智は振り返り、斜めに渡した金属片の下端が床の窪みから浮きかけていることに気づいた。あれが外れれば、怪物の胴体を押しとどめるものはなくなる。
昇降台の状態を調べる時間は、もうほとんど残されていなかった。
智は足元の退避経路を確かめ、右側の案内溝へ視線を戻した。落下抑止部は不完全に噛み合ったまま、台の重みを受けている。左側には壁から突き出した受け金具があるものの、昇降台の縁とはまだわずかな隙間があった。台を下げれば接触する位置だが、その前に右側の金具が外れれば、台全体が落下しかねない。
上の操作部にある小さな取っ手が、固定を切り替えるためのものだとすれば。
智はその可能性を考えながら、案内溝の突起を見つめた。突起の表面には斜めの擦過痕があり、昇降台の側面から伸びた腕が、上から押しつけられる形になっている。もし台が少し下がれば、腕の先端が次の突起へ掛かる構造なのかもしれない。
ただし、そうなる保証はない。
智は上方へ声を掛けた。
「上の人! 取っ手の横にある丸い印、もう一度確認してください!」
「はい! 上と下に二つあります!」
「その印の近くに、線とか矢印はありませんか!」
男が少し間を置いて答えた。
「あります! 下の丸から上の丸へ、曲がった線が伸びてます!」
智は眉を寄せた。上下の印が固定と解除を示しているのか、それとも別の意味を持つのかは分からない。男に詳しく説明してもらっても、実物を見なければ判断は難しそうだった。
「取っ手は、今どっちの丸に近いですか!」
「下です!」
「分かりました。まだ動かさないでください!」
智は昇降台を見上げた。台は右側の落下抑止部に支えられ、左側が沈んだ状態で止まっている。取っ手が下向きになっていることと、落下抑止部が不完全に噛み合っていることに関係があるのかもしれない。しかし、下向きが固定なのか解除なのかは分からない。
そのまま操作させるのは危険だった。
智は壁際へ近づき、案内溝の下にある金属棒をもう一度確かめた。棒の根元には小さな隙間があり、金属の枠が岩壁に埋め込まれている。昇降台の左端がさらに沈めば、縁がこの棒に接触する位置だった。
もし、台を動かさずに左側を支えられれば。
智は周囲を見回した。床には大小さまざまな金属片が散らばっているが、昇降台の縁まで届く長さのものは見当たらない。先ほど怪物の進路を塞ぐために使った部材なら長さは足りるものの、今それを外せば、怪物が通路を抜けてくる。
智は唇を噛んだ。
設備を固定するための材料と、怪物を防ぐための材料。
どちらも必要だった。
背後で、金属片が大きく跳ねた。
智は振り返った。裂爪種の脚が障害物の隙間から伸び、床を探るように動いている。先ほどまで二本の部材で塞がれていた入口に、拳ほどの隙間ができていた。怪物はそこへ脚を差し込み、内側から押し広げようとしているらしい。
このままでは、すぐに突破される。
智は壁際の石を拾い、怪物の脚とは反対側へ投げた。石が岩壁に当たり、乾いた音を立てる。裂爪種の脚が一瞬止まり、音の方向へ向きを変えた。
智はその隙に、足元の大きな岩片を通路の入口へ押し込んだ。右手は使えないため、左手と足を使って少しずつ動かす。岩片は金属片の下へ入り込み、浮き上がっていた部材を床へ押し戻した。
怪物が内側から押した。
金属が軋み、岩片がわずかに動いたものの、すぐには外れなかった。智はさらに足で押し込み、岩片が床の窪みに収まる位置まで動かした。
これで、少しは時間を稼げる。
智は荒くなった呼吸を整えながら、昇降台へ視線を戻した。
そのとき、頭上から男の声が響いた。
「下の人! あの大きいやつ、また戻ってきました!」
智は顔を上げた。
上方の暗闇から、岩壁を擦る重い音が聞こえてくる。先ほど昇降台から離れた大型の怪物が、再び縦穴の近くへ戻ってきたらしい。
「どこにいますか!」
「反対側の壁です! こっちを見てるみたいで……!」
智は息を詰めた。
大型個体が上の三人へ向かえば、昇降台を動かすどころではなくなる。下の裂爪種も、障害物を押し続けている。二つの怪物に挟まれた状況は、少しも改善していなかった。
智は一瞬、逃げ道へ目を向けた。
今なら、まだ逃げられるかもしれない。
しかし、上の三人は動けない。
負傷者を置いて逃げれば、残る二人も助けようとして危険にさらされるだろう。
智は目を閉じ、短く息を吐いた。
ここで逃げる選択は、もうしない。
そう決めた以上、今できることを考えるしかなかった。
「上の人! 大きい怪物から目を離さないでください! でも、刺激しないように!」
「分かりました!」
「それと、怪我した人を支えている方! 動けますか!」
女性の声が返ってきた。
「はい! でも、足が……!」
「無理に立たせなくていいです! 今は、その場で支えていてください!」
智は返事を聞きながら、昇降台の右側を見つめた。
落下抑止部。
左側の受け金具。
上の操作部。
それぞれの関係を、もう一度考える。
右側の金具は、台が下がろうとする力を受けている。左側の受け金具は、台の傾きを抑える位置にある。もし、右側の落下抑止部を一時的に解除できれば、台はわずかに下がり、左側が受け金具に接触するかもしれない。
だが、その操作は危険だった。
右側の固定が完全に外れれば、台が一気に落下する可能性がある。
智は上方へ声を掛けた。
「上の人! さっきの取っ手、動かす前に確認したいことがあります!」
「何ですか!」
「取っ手の根元、何か引っ掛かっているような感じはありますか! 見える範囲でいいです!」
男が少し間を置いた。
「……小さい金具があります! 取っ手の横に!」
「その金具、取っ手を押さえてますか!」
「はい! 押さえてるように見えます!」
智は考え込んだ。
取っ手が不用意に動かないよう、別の金具で固定されているのかもしれない。だとすれば、操作には二段階の手順が必要なのだろう。
ただし、それが安全装置なのか、単なる留め具なのかは分からない。
智は昇降台の下から離れ、壁際の安全な位置へ移動した。
「分かりました。今から少しだけ確認します。でも、僕が言うまで触らないでください!」
男が返事をした。
智は右側の案内溝へ視線を向けた。落下抑止部は斜めに噛み合っている。もし取っ手を動かしたとき、この金具がどう動くかを確認できれば、固定と解除の関係が分かるかもしれない。
ただし、操作することで台が落ちる危険はある。
智は迷った。
今の状態で放置すれば、怪物が戻ってきたときに再び台が揺れ、金具が外れるかもしれない。逆に、操作すればその場で落下する可能性もある。
どちらにしても危険だった。
智は上方へ声を掛けた。
「取っ手の横の金具、手で外せそうですか!」
「外せると思います!」
「でも、まだ外さないでください!」
智は再び昇降台を見上げた。
操作を試すなら、台の下に誰もいないことが絶対条件だった。上の三人にも、昇降台へ近づかないようにしてもらう必要がある。
「今から、台を少し動かすかもしれません! でも、誰も乗っていない状態で確認します!」
「分かりました!」
「怪我した人は、絶対に動かさないでください!」
智は返事を待ち、周囲を見回した。下の裂爪種はまだ障害物に阻まれている。大型個体は上の壁にいるらしいが、昇降台へ戻ってくる気配は今のところない。
今しかない。
智は壁際へ身を寄せ、右側の案内溝が見える位置に立った。
「取っ手の横の金具を、少しだけ動かしてみてください! でも、取っ手そのものは動かさないで!」
「分かりました!」
上方で小さな金属音がした。
智は昇降台を見つめた。
変化はない。
男が声を掛けてきた。
「金具、外れました!」
「取っ手は動いてませんね!」
「はい!」
智は息を吐いた。
少なくとも、留め具を外しただけでは台は動かなかった。
次は取っ手だ。
智は慎重に言葉を選んだ。
「取っ手を、ほんの少しだけ上へ動かしてみてください。抵抗があったら、すぐ止めて!」
「分かりました!」
男が取っ手へ手を掛けたらしい。
しばらくして、金属の擦れる音が響いた。
昇降台の右側で、小さな金具が動いた。
智は目を凝らした。
落下抑止部の先端が、案内溝の突起からわずかに離れた。
「止めて!」
智が叫ぶと、金具の動きが止まった。
昇降台はまだ落ちていない。
しかし、右側の固定が緩み始めていることは明らかだった。
智は男へ声を掛けた。
「そのまま! 動かさないで!」
男の返事が返ってきた。
智は昇降台の左側を見た。
台の縁は、受け金具のすぐ上にある。
もし右側の固定が外れれば、台は左へ傾きながら下がるかもしれない。
だが、受け金具が荷重を受ければ、そこで止まる可能性もある。
智は決断した。
「取っ手を、もう少しだけ上へ動かしてください! ゆっくり!」
上方で金属が擦れる音がした。
落下抑止部が動く。
昇降台が、わずかに沈んだ。
智は息を詰めた。
左側の縁が受け金具に近づく。
次の瞬間、鈍い音が響いた。
昇降台の左端が、金属棒の受け金具に接触した。
台が大きく揺れたものの、すぐには落下しなかった。
「止めて! そこで止めて!」
男が取っ手を止めた。
智は昇降台を見上げた。
左側が受け金具に乗り、右側の落下抑止部が再び案内溝の突起に掛かっている。
台は先ほどより少し下がった位置で止まっていた。
智は胸の奥に溜まっていた息を吐いた。
成功した。
少なくとも、台を少しだけ下げることはできた。
ただし、完全に安全になったわけではない。
左側の受け金具がどれほどの重みに耐えられるかは分からない。右側の落下抑止部も、不完全な状態から完全に戻った保証はない。
それでも、台を動かす手順の一部は分かった。
智は上方へ声を掛けた。
「取っ手を、元の位置へ戻せますか! ゆっくりでいいです!」
男が慎重に操作した。
金属の擦れる音が響き、右側の落下抑止部が案内溝の突起へ近づいた。
やがて、小さな音とともに金具が噛み合った。
智は昇降台を見上げた。
台は動かない。
左側も受け金具に乗ったままだった。
智は慎重に頷いた。
これなら、段階的に台を動かせる可能性がある。
ただし、人を乗せる前に、もう一度確認する必要がある。
智は男へ声を掛けた。
「今の操作で、台が少し下がりました! でも、まだ誰も乗らないでください!」
「分かりました!」
「これから、もう少し下げられるか確認します!」
智は昇降台の下にある岩の突起へ視線を移した。
台があと少し下がれば、負傷者を下ろすための足場に近づく。
その位置なら、上の二人が負傷者を支え、智が下から補助できるかもしれない。
もちろん、まだ危険は残っている。
しかし、救出のための道筋は、ようやく見え始めていた。
そのとき、通路の奥で金属が激しく鳴った。
智は振り返った。
裂爪種が、障害物を押し外そうとしている。
斜めに渡した金属片が大きく傾き、隙間から怪物の胴体が少しずつ現れ始めた。
智は唇を噛んだ。
もう時間がない。
智は上方へ声を掛けた。
「急ぎます! でも、操作は慎重に!」
男が返事をした。
智は右側の案内溝を見つめた。
落下抑止部が噛み合っていることを確認し、次の操作に備える。
そのとき、頭上で女性が叫んだ。
「怪我した人が、もう立っていられない!」
智は顔を上げた。
負傷者の限界が近づいている。
これ以上、待たせることはできなかった。
智は決断した。
「分かりました! 今から降ろします!」
上方で、男と女性が負傷者を支え直す気配がした。
智は昇降台の下にある岩の突起へ移動し、足場を確かめた。
台はまだ完全に安全ではない。
だが、これ以上待てば、怪物が通路を抜けてくる。
智は上方へ声を掛けた。
「ゆっくり! 一人ずつです!」
男が返事をした。
昇降台の上で、何かが動く音がした。
負傷者が、二人に支えられながら台へ移ろうとしているのだろう。
智は息を詰めた。
その瞬間、昇降台の右側から、これまでとは違う金属音が響いた。
甲高い、嫌な音だった。
智は反射的に案内溝を見上げた。
落下抑止部の先端が、わずかに浮いている。
昇降台が、小さく揺れた。
智の背筋に冷たいものが走った。
次の瞬間、金属の奥で、何かが折れるような音が響いた。




