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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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3:生き残るための選択

            「壊れた昇降路」




結城智の足元で、金属板を押さえていた石がわずかに傾き、細かな砂をこぼした。板の向こうでは、先ほど昇降台から落ちてきた怪物が、硬い爪を岩壁に食い込ませながら身体を押し込もうとしている。金属板は通路の入口に斜めに引っ掛かっているだけで、扉のように固定されているわけではない。怪物が力を掛けるたびに板の上端が揺れ、噛ませた石も少しずつ位置を変えていた。


 智は壁際に身体を寄せたまま、頭上へ視線を走らせた。昇降台は右側を岩壁に押しつけるように傾き、左側の縁がわずかに下がっている。先ほど上の男が金属の輪を回した直後、右側が急に滑って台全体が揺れた。その衝撃で何かが外れたのか、金属の擦れる音が今も断続的に響いている。


 金属板の向こうで、怪物がもう一度身体をぶつけた。石が床を擦り、智は思わず一歩退いた。左肩の傷が岩壁に触れて鋭く痛んだが、声を漏らす余裕はない。板の下端から細長い脚が一本伸び、床を探るように動いていた。


 このままでは、長く持たない。


 智は足元に転がっていた拳ほどの石を拾い、板の根元へ押し込もうとした。しかし、右手に力を込めた途端、腫れた指の付け根に痛みが走る。反射的に手を引いた拍子に石が転がり、怪物の脚がその音へ向かって跳ねた。爪の先が金属板の縁を叩き、甲高い音が通路に響いた。


 智は息を詰めた。怪物の脚は板の隙間を探っている。無理に近づけば、手を引っ掛けられるかもしれない。石を押し込むことは諦め、壁から剥がれ落ちた細長い岩片を足で寄せると、板の下端へ慎重に滑り込ませた。岩片の先が金属に当たって止まり、わずかに傾いていた板が一度だけ揺れた。


 怪物が内側から押した。


 岩片は軋んだものの、すぐには外れなかった。智はその様子を見届けると、ようやく息を吐いた。応急的な支えにすぎないが、何もないよりはましだろう。怪物が力任せに押し続ければ、いずれ砕けるか、滑って外れる。それまでに何をするかを決めなければならなかった。


 頭上から男の声が降ってきた。


「下の人! 大丈夫ですか!」


「まだ大丈夫です! そっちは動かないでください!」


 返事をしながら、智は縦穴の上方を見上げた。淡い光の届かない場所に三人がいる。負傷者を支えているらしい二人の声は聞こえるが、姿までははっきり見えなかった。男が再び金属の輪を操作すれば、傾いた昇降台がどう動くか分からない。


「さっきの輪、絶対に回さないでください。台が引っ掛かってます!」


「分かりました! でも、そっちに降りられないんですか!」


「今は危険です。少し調べますから、そこから離れないで!」


 男は何か言いかけたが、背後で女性の声がして、返事は途切れた。負傷者の様子を確認しているのかもしれない。智には確かめようがなかったが、少なくとも三人がまだ同じ場所にいることだけは分かった。


 智は《微光》を灯し、光を掌の内側に隠すようにして昇降台の下面へ向けた。怪物を刺激したくはなかったが、暗闇のままでは設備の状態を判断できない。光を少しずつ動かすと、岩壁に刻まれた二本の縦溝と、その間に挟まるように止まった金属製の台が浮かび上がった。


 溝は、単なる壁の傷ではなかった。左右とも内側に金属の帯が埋め込まれ、一定の間隔で横向きの継ぎ目が見える。昇降台の側面には、それぞれの溝へ差し込まれる短い腕のような部材があり、本来は台が横へ振れないよう案内しているのだろう。


 鋼製建具の修理をしていると、戸車やガイドレールのわずかなずれが、思いがけない不具合を引き起こすことがある。重量のある扉ほど、その影響は大きい。智は普段の仕事で見慣れた構造と目の前の設備を重ねながら、まず荷重の掛かっている場所を探した。


 右側の案内部材は、溝の縁に強く押しつけられていた。金属の表面が削れ、細い筋が斜めに走っている。左側は反対に、溝との間に不自然な隙間があり、台の側面から伸びた腕が少し下を向いていた。


 右が引っ掛かり、左が支えを失っている。


 そう考えると、台の傾き方には説明がつく。ただし、右側が滑ったように見えたことと、現在そこが引っ掛かっていることは矛盾しないのだろうか。滑り落ちた先で別の突起に乗った可能性もあれば、歪んだ部材が偶然噛み込んでいるだけかもしれない。


 智は光を少し上へ移した。右側の案内溝には、金属の小さな突起が等間隔に並んでいる。そのうち一つが昇降台の側面に隠れており、台から伸びた別の部材と接触しているように見えた。形ははっきりしないが、単なる案内用のレールとは違う仕組みが組み込まれているらしい。


 金属板が激しく鳴った。


 智は光を消し、反射的に壁際へ身を引いた。怪物が板の向こうから脚を差し込み、先ほど押し込んだ岩片を引っ掛けている。岩片が少しずつずれ、床に細かな破片が散った。


 まずい。


 智は昇降台から目を離し、怪物の動きを確かめた。板の下に見えていた脚は二本に増え、それぞれ違う方向へ伸びている。一方が岩片を探り、もう一方が板の縁を押し上げようとしていた。偶然の動きかもしれないが、結果として支えを外す方向へ力が掛かっている。


 智は後退しながら、通路の奥へ視線を走らせた。先ほど逃げ込んだ狭い通路は、数メートル先で緩く曲がっている。奥がどうなっているかは分からないものの、今いる場所に留まれば怪物が板を越えた瞬間に追い詰められる。


 昇降台の調査は、いったん中断するしかなかった。


 智は壁に手を添え、足元の石を踏まないように通路へ下がった。怪物の脚が床を叩く音を背後に聞きながら、曲がり角の手前で振り返る。金属板はまだ倒れていないが、上端が先ほどより大きく開いていた。


 次の衝撃で外れるかもしれない。


 そう思った直後、怪物が身体を押し込んだ。金属板が岩壁にぶつかり、押さえていた岩片が弾け飛ぶ。隙間から細長い脚が突き出し、続いて歪んだ胴体の一部が現れた。


 智は曲がり角の向こうへ身を隠した。


 爪が岩を削る音が近づいてくる。怪物は狭い通路へ入り込もうとしているらしいが、身体の幅が合わないのか、何度も岩壁にぶつかっていた。そのたびに石の欠片が落ち、硬いものが擦れる不快な音が響く。


 智は壁に背を預け、荒くなった呼吸を抑えようとした。左肩は動かすたびに痛み、右手の腫れも引く気配がない。普段なら何でもない距離を移動しただけなのに、脚には疲労が溜まり、額には冷たい汗が浮かんでいた。


 四十七歳になってから、無理が利かなくなったことは自覚している。重い建具を一人で持ち上げようとして腰を痛めたこともあれば、若い頃なら平気だった姿勢を続け、翌日まで身体が動かなかったこともある。まして今は怪我をしており、食事も休息も十分に取れていない。


 怪物と力比べをするなど、考えるだけ無駄だった。


 智は通路の奥へ視線を向けた。曲がり角の先は少し広くなっており、左側の岩壁に深い割れ目が走っている。そこから冷たい空気が流れ込んでいた。別の空間につながっている可能性はあるが、足元がどうなっているか分からない場所へ飛び込むのも危険だった。


 背後で怪物が身をよじった。


 智は割れ目へ逃げ込む代わりに、足元の大きな石へ目を向けた。人の頭ほどの大きさがあり、片側が平たくなっている。通路の狭い部分へ押し込めば、怪物の身体が通る幅をさらに減らせるかもしれない。


 石を持ち上げるのは無理だった。智は左手を添え、膝と足を使って少しずつ押した。床の凹凸に引っ掛かるたびに力を入れ直す必要があり、左肩の傷が熱を持つように痛んだが、石はゆっくりと動き始めた。


 怪物の爪が曲がり角から伸びてきた。


 智は身体を引き、爪が届かないことを確かめてから、もう一度石を押した。平たい面が岩壁の突起に当たり、通路の幅をさらに狭める。最後に足の裏で押し込むと、石は窪みへ斜めに収まり、簡単には転がらない位置で止まった。


 怪物が石を叩いた。


 鈍い衝撃が響いたものの、石は大きく動かなかった。胴体が狭い部分に引っ掛かっているため、十分な力を掛けられないのかもしれない。脚だけは伸びてくるが、その先端が届く範囲を見極めれば、少なくとも今すぐ襲われることは避けられそうだった。


 智は壁際へ退き、しばらく様子を見守った。怪物は何度も石を叩き、そのたびに身体を押し込もうとしている。石の位置は少しずつ変わっていたが、完全に外れるまでにはまだ時間が掛かりそうだった。


 この間に、昇降台をもう一度見たい。


 しかし、来た道を戻れば怪物と鉢合わせになる。智は背後の割れ目へ目を向け、慎重に近づいた。冷たい空気は奥から流れており、岩壁の隙間は人が横向きになれば通れそうな幅がある。


 智は《微光》を弱く灯し、足元を照らした。割れ目の床は緩やかに下っていたが、途中に大きな段差は見えない。壁に沿って進むと、数メートル先で通路が右へ曲がり、その向こうからかすかな金属音が聞こえてきた。


 昇降台の音だろうか。


 智は足を止め、耳を澄ませた。遠くで金属が軋む音がし、その後に上方から人の声が聞こえた。言葉までは分からなかったが、縦穴の近くへつながっている可能性は高い。


 この道なら、怪物のいる通路を避けて戻れるかもしれない。


 智は岩壁に身体を沿わせ、慎重に進んだ。途中で足元の小石が転がり、思わず動きを止める。怪物の爪音は遠くなっていたが、完全に聞こえなくなったわけではない。石を押し込んだ場所で、まだ暴れているのだろう。


 やがて割れ目が広がり、智は縦穴の壁際へ出た。


 昇降台は、先ほどと同じ位置に止まっていた。傾きも大きくは変わっていない。智は安堵しかけたが、すぐに視線を下げた。足元には金属の破片が散らばり、その中に細長い部材が一本落ちている。


 片端が平たく潰れ、二つの穴が開いていた。反対側には丸い突起があり、表面には擦れた跡が残っている。智はしゃがみ込み、左手でその部材を持ち上げようとしたが、予想以上の重さに顔をしかめた。


 無理に持ち上げるのはやめ、床に置いたまま向きを変える。


 穴の縁には、金属同士が擦れたような光沢があった。片方の穴はわずかに楕円形へ広がっており、強い力が掛かった跡にも見える。折れた断面はなく、何かから外れた部材のようだった。


 智は昇降台の左側を見上げた。


 案内部材の根元にあった、不自然な隙間。


 そこには、今見ている金属片と似た形の受け金具が残っている。距離があるため断定はできないが、落ちている部材は、あの部分に取り付けられていたのかもしれない。


 だとすれば、左側の案内部材が歪んでいる理由にも説明がつく。


 固定していた部材が外れ、支えを失ったことで、昇降台の左側が下がったのではないか。


 智は金属片を見つめながら考えた。普通の建具なら、外れた金具を元に戻し、変形した部分を調整することで動きを改善できる場合がある。しかし、目の前の設備は構造も材質も分からず、工具もない。しかも、台は頭上で傾いたまま止まっている。


 修理など、できる状態ではなかった。


 それでも、故障の原因を推測できれば、避けるべき操作は見えてくる。


 左側の案内部材が支えを失っているなら、昇降台を動かすほど歪みが大きくなる可能性がある。右側の案内溝も強く擦れている以上、無理に上下させれば途中で完全に噛み込み、あるいは支えが外れるかもしれない。


 智は上方へ声を掛けた。


「上の人! 聞こえますか!」


 少し間を置いて、男の声が返ってきた。


「はい! どうしました!」


「台の左側が壊れているみたいです。さっきの輪は、まだ触っていませんね!」


「触ってません!」


「そのままでお願いします。近くに、輪とは別の取っ手や金具はありませんか!」


 男が周囲を確かめる気配がした。上方から足音が聞こえ、女性が何かを注意している。智は慌てて声を上げた。


「無理に近づかないで! 見える範囲だけでいいです!」


「分かりました!」


 しばらくして、男が答えた。


「輪の横に、小さい取っ手があります! でも、何に使うのか分かりません!」


「今、どっちを向いてますか!」


「下です! 下向きになってます!」


 智は昇降台を見上げた。右側の案内溝には、先ほど見つけた小さな突起が並んでいる。もし、それらが落下を防ぐための仕組みなら、上の取っ手は固定や解除に関係している可能性があった。


 だが、形が似ているというだけで判断するのは危険だ。


「取っ手の近くに、文字や印はありますか!」


「……丸い印が二つあります! 上と下に!」


「分かりました。まだ動かさないでください!」


 男は不安そうな声で尋ねた。


「これで、降りられるんですか!」


 智はすぐには答えられなかった。


 昇降台は止まっている。だが、それが安全に固定されているからなのか、壊れた部材が偶然引っ掛かっているだけなのかは分からない。負傷者を乗せた途端に傾く可能性もあり、上から飛び乗るような使い方は絶対に避けるべきだった。


 智は一度目を閉じ、考えを整理した。


 完全修理はできない。


 昇降台を無理に動かすこともできない。


 それなら、今の位置で固定する方法を探すしかない。


 上の三人を安全に下ろすために必要なのは、設備を元どおりに動かすことではなく、落下の危険を抑えながら足場として利用できる状態を作ることだった。


 智は右側の案内溝へ視線を戻した。金属の突起は一定の間隔で並び、そのうち一つが昇降台の側面と接触しているように見える。あの部分が荷重を受けているのなら、台が止まっている理由を説明できるかもしれない。


 しかし、どれほどの力に耐えられるのかは分からない。


 智は《解析》を使うか迷った。能力を使えば、何か分かる可能性はある。だが、これまで何度も使用したせいか、頭の奥には鈍い重さが残っている。無理に使い続ければ、かえって判断力を落としかねない。


 それでも、今は確認する価値があった。


 智は金属の突起へ意識を向け、《解析》を発動した。


 視界の端に、淡い文字が浮かぶ。


 ――落下抑止部。


 表示されたのは、短い名称だけだった。


 智はそれを見つめ、ゆっくり息を吐いた。やはり、落下を防ぐための部品らしい。ただし、今の状態で安全に使えるのか、どれほどの荷重に耐えられるのかまでは分からない。


 《解析》を解除すると、こめかみに軽い痛みが走った。智は壁に手をつき、しばらく呼吸を整えた。能力が教えてくれるのは、あくまで断片的な情報にすぎない。それをどう判断し、どう使うかは自分で考える必要がある。


 智はもう一度、昇降台を見上げた。


 右側には落下を防ぐ仕組みがある。


 左側は損傷している。


 ならば、台を動かす前に、左側がさらに下がらないようにする方法を考えなければならない。


 そのとき、背後の通路から、石が崩れる音が響いた。


 智は振り返った。


 怪物が押し込んだ石を動かしたのかもしれない。硬い爪が岩を叩く音が、先ほどより近い場所から聞こえてくる。


 昇降台の調査を続ける時間は、もうほとんど残されていなかった。


 智は《微光》を消し、壁際へ身体を寄せた。上の三人を助けるための手掛かりは、ようやく見つかり始めたばかりだ。しかし、その手掛かりを確かめる前に、怪物がこちらへ到達するかもしれない。


 智は足元の金属片へ目を向けた。


 修理には使えないかもしれない。


 だが、今この場で怪物の進路を塞ぐためなら、利用できる可能性があった。


 背後で、再び石が崩れた。


 智は金属片の端へ左手を掛け、痛む肩をかばいながら、ゆっくりと引きずり始めた。


   ※


金属片の先端が床の窪みに引っ掛かり、智は思わず動きを止めた。左肩に走った痛みが腕の付け根まで広がり、握っていた指から力が抜けそうになる。持ち上げれば早いのだろうが、片手では重すぎるうえ、右手は腫れてまともに使えない。結局、金属片を少し傾け、岩の出っ張りを避けながら引きずるしかなかった。


 背後では、怪物が通路を塞いでいた石を押し続けている。硬い爪が岩を削る音に混じって、ときおり重いものが床を擦る音が聞こえた。先ほどまで怪物の胴体を押しとどめていた石が、少しずつ動かされているのかもしれない。智は振り返りたい衝動を抑え、金属片を縦穴の壁際へ運んだ。


 通路の出口には、岩壁から張り出した大きな突起があった。高さは膝ほどで、その脇には人が横向きになれば通れる程度の隙間がある。金属片を斜めに渡せば、怪物の進路を狭められるかもしれない。ただし、怪物の脚は人間の腕よりも長く、胴体が通れなくても攻撃が届く可能性はあった。


 智は金属片の平たい端を岩の窪みに押し込み、反対側を突起の根元へ寄せた。穴の開いた部分が床に引っ掛かり、わずかに安定する。足元の石を一つ押し込むと、金属片は斜めに突っ張る形になった。力を掛ければ外れるだろうが、少なくとも怪物が勢いよく飛び出してくるのを妨げることはできそうだった。


 そのとき、通路の奥で何かが崩れた。


 智は顔を上げた。暗闇の向こうから、硬い爪が石を叩く音が近づいてくる。先ほどの障害物を越えたのか、それとも別の隙間を通ってきたのかは分からない。ただ、怪物がこちらへ向かっていることだけは確かだった。


 智は金属片から手を離し、縦穴の壁際へ後退した。今いる場所からは昇降台の下面が見えるが、怪物が通路を抜ければ身を隠す場所は少ない。左手側には先ほど通ってきた岩の割れ目があり、そこへ逃げ込めば一時的に距離を取れる。しかし、上の三人との連絡も、昇降設備の調査も中断せざるを得なくなる。


 頭上で、男が何かを叫んだ。


「下の人! 何か来てるんですか!」


「さっきのやつです! まだこっちにいます!」


「大丈夫なんですか!」


 智は答えに迷った。大丈夫だと言える状況ではないが、上の男を余計に動揺させるわけにもいかない。何より、男が焦って操作部に触れることだけは避けたかった。


「今は通路で止まっています! そっちは動かないで、怪我した人を見ていてください!」


 返事を聞くより早く、通路の奥から金属を引っ掻く音が響いた。智が設置した金属片に、怪物の脚が触れたらしい。甲高い音が続き、斜めに渡した部材が小刻みに震え始める。


 智は壁際に身を寄せ、怪物の動きを見守った。金属片の向こうに細長い脚が一本現れ、続いてもう一本が岩壁を探るように伸びてくる。胴体はまだ通路の奥にあるらしく、こちらからは見えない。だが、脚の先端は金属片の上を越え、床に届くほど長かった。


 距離を取らなければ危ない。


 智は足元を確かめながら後退した。怪物は金属片を押し続けているが、突っ張った部材が邪魔になり、すぐには通れないようだった。力任せに壊されるまでの時間は分からないものの、少なくとも今すぐ襲いかかってくる様子はない。


 そのわずかな猶予を、どう使うべきか。


 智は昇降台を見上げた。右側の案内溝には落下抑止部があり、左側の案内部材は損傷している。先ほどの《解析》で分かったのは、右側の突起が落下を防ぐための部品らしいということだけだった。台が安全に固定されている保証はないが、完全に支えを失っているわけでもない。


 智は視線を上へ移した。昇降台の右側から、短い金属の腕が伸びている。その先端が案内溝の突起に引っ掛かり、台の重みを受けているように見えた。反対側にも似た部材があるはずだが、左側は歪んだ金具に隠れてよく見えない。


 もし左右に同じ仕組みがあるなら、左側も落下を抑える部材が残っている可能性がある。


 ただし、案内部材が外れている以上、正常に働いているとは限らない。


 智は《微光》を灯し、左側の案内溝を照らした。光が金属の縁をなぞり、奥に小さな突起が並んでいるのが見える。右側と同じ間隔だったが、そのうち一つは表面が削れ、先端が欠けていた。


 智は目を細めた。


 左側にも落下抑止部はある。


 しかし、昇降台から伸びた腕が正しい位置に収まっていない。金具が外れたことで、突起に十分掛からなくなっているのだろう。台が左へ傾いているのは、そのためかもしれない。


 智は普段の仕事で扱う重量扉を思い浮かべた。扉を支える金具が片側だけ緩めば、重さがもう一方へ集中する。最初は動きが悪くなる程度でも、無理に開閉を続ければ金具が変形し、最悪の場合は扉そのものが外れてしまう。


 今の昇降台も、それに近い状態なのではないか。


 右側だけで荷重を受け続ければ、いずれ限界が来る。左側を元どおりに修理できれば理想的だが、工具も足場もなく、そもそも部材の構造が分からない。今できるのは、台がこれ以上傾かないようにする方法を探すことだった。


 智は縦穴の壁面を見回した。案内溝の周囲には、一定の間隔で小さな窪みがあり、そのいくつかには金属の棒が差し込まれている。昇降台の動きを制限するためのものなのか、別の用途があるのかは分からないが、少なくとも壁に固定された部材らしい。


 そのうち一つが、昇降台の左側の縁より少し下にあった。


 智は光を近づけた。


 金属棒は壁から斜めに突き出し、先端が平たくなっている。昇降台がさらに下がれば、その縁が棒に接触する位置だった。意図的に設けられた支えなのか、偶然そこにあるだけなのかは判断できない。


 だが、もし台の左側が沈んだとき、あの棒が荷重を受けられるなら。


 智は考えかけて、すぐに首を振った。


 見た目だけで強度を判断するのは危険だ。まして、人間の体重が加わることを考えれば、安易に頼るべきではない。棒が折れれば、台はさらに傾き、右側の落下抑止部にも大きな負担が掛かる。


 必要なのは、台を支える仕組みを一つに頼らないことだった。


 智は再び右側の案内溝を見た。落下抑止部が一定間隔で並んでいるということは、台が途中で止まることを想定した構造なのかもしれない。上の操作部にある小さな取っ手も、それに関係している可能性があった。


 しかし、取っ手を動かすことはまだできない。


 智は上方へ声を掛けた。


「上の人! さっきの小さい取っ手、まだ触ってませんね!」


「はい! そのままです!」


「取っ手の周り、もう少し見えますか! 無理に近づかなくていいので!」


 男は少し間を置いて答えた。


「見えます! 輪の横に付いてて、下向きになってます!」


「その取っ手、何かに繋がっていますか! 棒とか、鎖とか!」


「……細い棒が、下の方に伸びてます!」


 智は息を止めた。


 取っ手から下へ伸びる棒。


 それが昇降台の固定機構につながっているなら、操作部から落下抑止部を動かせる仕組みなのかもしれない。


「その棒、どこまで見えますか!」


「途中で壁の中に入ってます! その先は分かりません!」


「分かりました。ありがとう。まだ触らないでください!」


 智は返事を聞き、考え込んだ。取っ手を動かせば固定が強まる可能性もあるが、逆に解除される可能性もある。表示されている丸い印が何を意味するのか分からない以上、試すわけにはいかなかった。


 それでも、設備が完全に壊れているわけではないことは分かってきた。


 案内溝、落下抑止部、操作部から伸びる棒。


 それぞれが何らかの役割を持ち、昇降台を支えたり動かしたりしている。


 問題は、その一部が壊れていることだった。


 智は昇降台の位置を確かめた。上の三人がいる場所から台までは数メートルほどあり、手を伸ばして届く距離ではない。仮に台を固定できたとしても、そこへどうやって降りるかという問題が残る。


 負傷者を自力で降ろすのは難しい。


 残る二人が支えるとしても、足場がなければ危険すぎる。


 智は上方へ尋ねた。


「そっちに、ロープみたいなものはありますか!」


「ロープはないです! でも、バッグの肩紐とベルトならあります!」


「長さはどのくらいですか!」


「肩紐は一メートルくらいだと思います! ベルトも、それくらいです!」


 智は唇を噛んだ。


 それだけでは、昇降台まで届かない。


 つなぎ合わせれば長くなるかもしれないが、結び目や金具の強度が分からない。人間を吊るすために作られたものではない以上、負傷者の体重を預けるのは危険だった。


「それ、まだ外さないでください! 人を吊るすのには使わない方がいい!」


「じゃあ、どうすれば……」


 男の声に焦りが滲んだ。


 智はすぐには答えられなかった。昇降台を使う方法は見えてきたが、上からそこへ降りるための手段がない。台を上へ戻せれば解決するかもしれないが、損傷した案内部材を考えれば、無理に動かすのは危険すぎる。


 智は壁際にしゃがみ込み、頭の中で状況を整理した。


 昇降台は途中で止まっている。


 右側には落下を防ぐ仕組みが残っている。


 左側は損傷しており、台が傾いている。


 上の三人は台まで直接降りられない。


 そして、怪物は通路の奥から近づいている。


 どれか一つでも見誤れば、取り返しのつかないことになる。


 智は額の汗を拭い、もう一度昇降台を見上げた。今の位置で使うことにこだわりすぎているのかもしれない。台を動かさずに三人を下ろす方法がないなら、動かすことを前提に、危険を最小限に抑える手順を考える必要がある。


 ただし、操作する前に固定の仕組みを確認しなければならない。


 智は右側の案内溝に並ぶ突起を見つめた。落下抑止部が一定間隔で配置されているなら、台は段階的に止まるように作られている可能性がある。上の取っ手がその固定と解除を切り替えるものなら、台を少しずつ下げることもできるかもしれない。


 だが、それはあくまで推測だった。


 智は《解析》を使おうとして、途中で思いとどまった。頭の奥にはまだ鈍い痛みが残っている。能力を使えば何か分かるかもしれないが、無理をして倒れてしまえば意味がない。


 今は、目で見て判断できることを優先しよう。


 智は昇降台の下面へ光を向けた。台の中央には太い横桁が通り、その両端が左右の案内部材へつながっている。左側の金具は外れているが、横桁そのものは大きく曲がっていないように見えた。


 その構造を見て、智は一つの可能性に気づいた。


 昇降台を完全に水平へ戻す必要はない。


 今の傾きを保ったままでも、荷重を掛ける位置を限定すれば、足場として使えるかもしれない。


 もちろん、右側の落下抑止部が確実に働いていることが前提になる。さらに、左側が大きく沈まないようにする支えも必要だった。


 智は先ほど見つけた金属棒へ視線を戻した。


 あれを補助的な支えとして使えないだろうか。


 棒そのものの強度は分からないが、昇降台の縁が接触する位置にある。もし台がわずかに下がったとき、棒が動かずに残るなら、左側の沈み込みを抑えられる可能性がある。


 ただし、試すために台を動かすわけにはいかない。


 智は壁際へ近づき、金属棒の根元を観察した。岩壁に直接差し込まれているように見えるが、周囲には金属の枠があり、棒の付け根を覆っている。少なくとも、単なる落下物が偶然引っ掛かっているわけではなさそうだった。


 智は少しだけ安堵した。


 設備の一部なら、何らかの荷重を受けることを想定している可能性がある。


 しかし、それでも安全とは言い切れない。


 智は上方へ声を掛けた。


「上の人! 台の右側に、引っ掛かっている金具が見えますか!」


 男がしばらく周囲を確認してから答えた。


「……見えます! 右側に、何か出っ張ってます!」


「左側はどうですか!」


「左は……よく見えません! 台が傾いてて!」


「無理に覗き込まないでください! 見える範囲だけで十分です!」


 智は男の返事を聞き、視線を下げた。上からも右側の金具が見えるということは、少なくとも完全に隠れた位置ではないらしい。もし操作部と連動しているなら、動きの変化を確認できるかもしれない。


 ただし、今すぐ試すわけにはいかない。


 智は上の男へ続けた。


「今から、台をどう使うか考えます! でも、まだ誰も乗らないでください!」


「分かりました!」


「怪我した人は、動かさずに支えていてください。準備ができるまで、絶対に無理をしないで!」


 男の返事が返ってきた。


 智は壁に背を預け、深く息を吐いた。


 救出のための手順は、少しずつ形になり始めていた。


 まず、昇降台が今の位置で落下しないことを確かめる。


 次に、左側の沈み込みを抑えられるか確認する。


 そのうえで、上の三人が台へ移る方法を考える。


 最後に、台から下へ降りるための足場を確保する。


 どれも簡単ではない。


 だが、何も分からなかったときよりは前へ進んでいる。


 智は足元の岩を見回した。昇降台の下には、比較的大きな平たい岩がいくつか突き出している。台が少し下がれば、そのうち一つが足場として使える位置にあった。負傷者が自力で降りるのは難しいが、二人が支え、智が下から補助できれば、可能性はある。


 ただし、台を動かす危険は残る。


 智はそのことを忘れないように、頭の中で繰り返した。


 焦って操作すれば、すべてが終わる。


 そのとき、通路の奥から、金属が弾けるような音が響いた。


 智は顔を上げた。


 怪物が、斜めに渡した金属片を押し外したのかもしれない。


 硬い爪が床を叩く音が、先ほどより近くなっている。


 智は《微光》を消し、壁際へ身を寄せた。


 怪物の脚が通路の入口から伸びてきた。


 金属片はまだ完全には外れていないが、片側が大きく浮き上がっている。怪物が力を掛けるたびに部材が揺れ、足元の石が転がった。


 智は後退しながら、周囲を見回した。


 逃げ道はある。


 しかし、昇降台から離れれば、上の三人を助けるための準備が止まってしまう。


 智は唇を噛んだ。


 怪物を倒すことはできない。


 だが、少しでも距離を保てれば、まだ時間は稼げる。


 智は足元の石を拾い、怪物のいる通路とは反対側の岩壁へ投げた。石は壁に当たり、乾いた音を立てて転がった。


 怪物の爪音が一瞬止まった。


 続いて、金属片を叩く動きが弱まった。


 音に反応したのかもしれない。


 智はその隙に、縦穴の壁際から少し離れた場所へ移動した。怪物が通路を抜けたとしても、すぐに追いつかれないようにするためだ。


 だが、怪物は完全には引き返さなかった。


 しばらくして、再び金属片を押す音が響き始めた。


 智は息を整えながら、昇降台を見上げた。


 上の三人を下ろすためには、もう少し時間が必要だった。


 その時間を、どうやって確保するか。


 智は壁際の岩の突起へ目を向けた。先ほど見つけた平たい足場の近くには、崩れた石がいくつか積み重なっている。これらを利用すれば、怪物の進路をさらに狭められるかもしれない。


 しかし、石を運ぶには時間が掛かる。


 しかも、怪物が近づいている今、通路の入口へ戻るのは危険だった。


 智は無理をすることを諦めた。


 今は、逃げ道を確保しながら、怪物の動きを見極めるしかない。


 頭上から男の声が聞こえた。


「下の人! 怪我した人が、もう限界みたいです!」


 智は顔を上げた。


「意識はありますか!」


「あります! でも、すごく痛がってて!」


 智は奥歯を噛みしめた。


 時間は、怪物だけでなく負傷者の状態によっても削られている。


 このまま待ち続ければ、三人の体力も限界に近づくだろう。


 智は昇降台を見上げた。


 完全に安全な方法など、見つからないかもしれない。


 それでも、今ある設備を使って救出するしかない。


 智は上方へ声を掛けた。


「分かりました! 今から、降ろすための準備を始めます!」


「本当ですか!」


「ただし、まだ動かないでください! 順番を確認してからです!」


 男の返事が返ってきた。


 智は昇降台の右側を見つめた。


 落下抑止部が荷重を受けている。


 左側には補助的な支えになりそうな金属棒がある。


 台の下には足場として使えそうな岩がある。


 そして、上には三人がいる。


 危険は大きい。


 だが、救出の見通しは立ち始めていた。


 智は左肩の痛みをこらえながら、壁際の足場へ近づいた。負傷者を下ろすなら、まず自分がどこで支えるかを決めておく必要がある。足場の幅、壁との距離、昇降台の傾き。どれも、実際に人が動くときには重要になる。


 智は足元を確かめ、比較的平らな場所へ立った。


 ここなら、上から降りてくる人を支えられるかもしれない。


 ただし、負傷者を抱え上げるほどの力は残っていない。


 上の二人と協力し、少しずつ身体を移すしかないだろう。


 智は上方へ声を掛けようとした。


 そのときだった。


 縦穴の上方から、これまでとは違う音が響いた。


 重いものが、岩壁を叩く音。


 続いて、何かがゆっくりと擦れるような音が聞こえた。


 智は顔を上げた。


 上の男が、息を呑む気配がした。


「……何だ、あれ」


 その声には、明らかな恐怖が滲んでいた。


 智は《微光》を灯そうとして、手を止めた。


 暗闇の向こうで、何かが動いている。


 先ほどの怪物とは違う。


 もっと重く、ゆっくりとした動きだった。


 岩壁を伝う振動が、足元まで届いてくる。


 智は息を詰めた。


 上の三人を下ろす準備は、まだ終わっていない。


 昇降台も、完全には固定できていない。


 そのうえ、通路の奥には怪物がいる。


 逃げ道はある。


 だが、上の三人を置いて逃げるわけにはいかなかった。


 智は壁際の狭い通路へ視線を走らせた。


 怪物がどれほど大きいのかは分からない。


 しかし、今度の音は、明らかに先ほどまでとは違っていた。


 金属片を叩く爪音が、背後で激しくなった。


 上からは、重い振動が近づいてくる。


 智は折り畳み式カッターを握り直した。


 左肩が痛む。


 右手も、まだ十分に動かない。


 それでも、ここで諦めるわけにはいかなかった。


 智は昇降台を見上げ、上の三人へ声を掛けた。


「動かないで! 今は、絶対に!」


 返事はなかった。


 代わりに、上方の暗闇から、低く湿った音が響いた。


 それは、何かが息を吐く音にも聞こえた。


 智は一歩だけ後ろへ下がった。


 次の瞬間、昇降台の上に大きな影が落ちた。


 傾いた金属の床が、重みに耐えるように軋む。


 智は目を見開いた。


 救出のために使おうとしていた昇降台に、何かが乗ったのだ。


 そして、その重みで、台の左側がさらに沈み始めた。


 金属の軋みが、縦穴全体に響き渡る。


 智は思わず叫んだ。


「まずい……!」


 昇降台が、ゆっくりと傾いていく。


 その上で、巨大な影が動いた。


 智は壁際へ身を寄せ、落下に備えて身体を低くした。


 怪物の爪音が背後から迫る。


 頭上では、金属が悲鳴を上げていた。


 そして、暗闇の中で、何かが大きく動き始めた。



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