2:生き残るための選択
「降りてくるもの」
頭上で、金属が軋んだ。
最初は、どこか遠くで古い扉を開けたような、かすかな音だった。それが縦穴の壁を伝って幾重にも反響し、やがて石を擦る低い振動へと変わっていく。
智は壁に預けていた背中を離し、顔を上げた。
見上げた先には、相変わらず底の知れない暗闇が広がっている。上方から差し込むわずかな明かりの中で、何かが動いていることだけはわかった。左右の壁に刻まれた縦長の溝。その片方に沿って、黒い金属の影がゆっくりと下がり始めていた。
「動いたぞ!」
上から男の声が響いた。少し興奮しているようにも聞こえる。
「わかります! でも、急に回さないでください!」
智は声を張り上げながら、縦穴の真下から通路側へ移動した。
何が降りてくるのか、まだはっきりしない。上にいる三人は、何らかの昇降設備を動かそうとしているらしいが、その仕組みも安全性もわからなかった。古い設備なのか、それともこの迷宮が生まれたときから存在しているものなのか。そもそも人間を乗せるために造られたものなのかさえ、不明である。
ただ、左右の溝に沿って動く構造には見覚えがあった。
建物のシャッターや昇降装置にも、似たような仕組みが使われている。もちろん、形が似ているからといって同じ構造とは限らない。それでも、荷重を支える部材と、動きを案内する部材が別々に存在するという考え方は、そう珍しいものではなかった。
(問題は、何で吊っているかだよな……)
智は目を細めた。
上から降りてきている金属の影は、まだ輪郭が曖昧だった。幅は縦穴の半分以上ありそうだが、厚みまではわからない。ところどころに横桟のようなものが見え、動くたびに鈍い光を返している。
先ほど、上にいる男が輪を回していた。
それが巻き上げ機の操作輪に相当するものなら、装置は何らかの鎖や軸で支えられている可能性が高い。しかし、その肝心な部分が見えなかった。
見えないものを、安全だと決めつけるわけにはいかない。
智はさらに二歩、通路の奥へ下がった。
足を動かすたびに、左肩の奥がずきりと痛む。落下したときに打ちつけた場所だ。右手も腫れが引かず、指を曲げようとすると関節のあたりが熱を持ったように疼いた。
少し前まで、こうして歩けているだけでもありがたいと思っていた。
それなのに今は、痛みを気にする余裕さえなくなりつつある。
(四十七にもなって、何をやってるんだか……)
口元に苦い笑みが浮かんだ。
いつもの仕事なら、こんな状態で現場に立つことはない。少なくとも、危険な作業は断る。脚立に上がるのも、重量物を扱うのも、怪我が治ってからだ。
だが、ここには代わりの職人も、作業を中止させてくれる現場監督もいない。
あるのは、暗い縦穴と、壊れかけた設備。そして、上で助けを待っている三人だけだった。
ガラッ、と小さな石が落ちてきた。
智は反射的に首をすくめる。
小石は少し離れた床に当たり、乾いた音を立てて転がった。その直後、上方から金属を引っ掻くような音が聞こえた。
カリ……カリカリ……。
智は眉をひそめた。
先ほどから、同じような音が何度か聞こえていた。最初は昇降設備の部材が擦れているのだと思ったが、どうにも規則性がない。金属同士が接触するなら、装置の動きに合わせて音が続くはずだった。
ところが、その音は止まったり、急に速くなったりする。
まるで何かが、金属の表面を這い回っているようだった。
(……まさか)
嫌な予感が胸をよぎる。
上には、あの怪物がいた。
三人を襲っていた、四肢の長い黒い生き物。智が下から見上げた限りでは、壁や金属の足場を自在に移動できるらしかった。
もし、降りてくる設備に取り付いていたら。
智は唾を飲み込んだ。
装置が下りれば、怪物も一緒に下りてくる。
そう考えた瞬間、背中に冷たいものが走った。
「上の人! 怪物はどうなってますか!」
返事はすぐにはなかった。
代わりに、何かを引きずる音と、短い話し声が聞こえてくる。三人のうち誰が何をしているのか、ここからではわからない。
「聞こえますか! 怪物です! まだそっちにいますか!」
「ちょっと待ってくれ!」
男の声が返ってきた。
「今、こっちからは見えない!」
見えない。
その答えは、智がもっとも聞きたくないものだった。
怪物が逃げたのか、隠れているのか。それとも、昇降設備の裏側に回り込んだのか。
確かめようがない。
智は一度、目を閉じた。
頭の奥に、まだ鈍い重さが残っている。
ここまで何度か使ってきた《解析》。便利な能力ではあるが、使うたびに頭が疲れる。わからないものを見ようと意識を集中させるほど、その負担は大きくなるようだった。
それでも、今は少しでも情報が欲しい。
(……一回だけだ)
智は降下中の金属部材に視線を定め、意識を集中させた。
《解析》
視界の中に、淡い文字が浮かび上がる。
――構造物。
――金属製。
――昇降機構。
――損傷あり。
文字の一部が揺れた。
その先にも何かが表示されかけたが、輪郭が定まらない。知らない言葉のようなものが重なり、読もうとするほど視界の奥がざわついた。
智はすぐに意識を切った。
「……っ」
こめかみの内側が、針で刺されたように痛んだ。
壁に手をつき、数回、深く息を吸う。
見えたのは、ほんのわずかな情報だけだった。
しかも、損傷があることなど、金属の軋みを聞いていれば想像できる。肝心の損傷箇所や、どの程度危険なのかはわからなかった。
(便利なんだか、不便なんだか……)
もっと使いこなせるようになれば違うのかもしれない。
だが、今の自分にできることには限界がある。
智は再び装置を見上げた。
《解析》で見えなかったものを、目と耳で拾っていく。
左側の金属部材は、比較的滑らかに下がっている。一方、右側はときどき小さく跳ねるような動きを見せていた。そのたびに壁の溝から砂や石片が落ちてくる。
左右で動きが揃っていない。
智の胸に、別の不安が生まれた。
(ガイドが曲がってるのか……それとも、片側だけ引っかかってる?)
いずれにせよ、無理に動かせば危険だ。
「上の人! 少し止めてもらえますか!」
「止めるのか!」
「はい! 左右の動きが違います!」
しばらくして、金属の軋みが弱まった。
装置が止まる。
静かになった縦穴で、智は耳を澄ませた。
そして、聞いた。
カリッ。
金属を引っ掻く、短い音。
今度は、先ほどより近い。
智の視線が、装置の裏側へ向かった。
暗闇の中で、細い影が動いた気がした。
もう一度、カリッ。
今度は間違いない。
金属部材の縁から、黒いものが突き出している。
爪だった。
「……いる」
思わず、声が漏れた。
その瞬間、黒い爪が引っ込み、代わりに細長い腕が現れた。
智は息を止めた。
腕は、人間のものに似ていた。しかし関節の位置がおかしい。肘に当たる部分が不自然な方向へ曲がり、長い指先が金属の縁を掴んでいる。
続いて、頭が現れた。
細長く、平たい顔。
裂けたように大きな口。
暗闇の中で、二つの眼が鈍く光った。
(やっぱり……!)
怪物は昇降設備の裏側に取り付いていた。
しかも、こちらを見ている。
智はゆっくりと後退した。
怪物の頭が、その動きを追う。
上にいる三人には、まだ気づかれていないのだろうか。
智は声を張り上げた。
「怪物がいます! 装置の裏側です!」
「何だって!」
「そっちから見えない場所に取り付いてます! 近づかないでください!」
上で誰かが叫んだ。
続いて、慌ただしい足音。
怪物が顔を上げた。
その口が、ゆっくりと開く。
ギャッ。
短い鳴き声が縦穴に響いた。
次の瞬間、怪物は金属部材から身体を離した。
落ちる。
智はそう思った。
だが、怪物は落下する途中で壁を蹴り、突き出した石の縁に爪をかけた。身体が不自然な角度に折れ曲がり、そのまま縦穴の壁を伝って降りてくる。
速い。
人間が梯子を降りる速度ではない。
黒い影は壁から壁へ跳び移りながら、あっという間に距離を詰めてきた。
「くそっ!」
智は通路の奥へ走った。
いや、走ろうとした。
右足を踏み出した途端、身体が思うようについてこない。左肩に痛みが走り、バランスが崩れた。壁に右手をつくと、今度は腫れた指に激痛が走る。
「ぐっ……!」
声を噛み殺しながら、どうにか体勢を立て直した。
若い頃なら、もっと速く動けただろうか。
そんな考えが頭をよぎったが、すぐに打ち消す。
今さら年齢を嘆いても、怪物が待ってくれるわけではない。
智は足元を見た。
通路の入口近くには、先ほど落下してきた金属板が斜めに倒れている。片端は床に接し、反対側は壁の出っ張りに引っかかっていた。
大きな板というより、枠に薄い金属を張りつけたような部材だった。
幅は人間の肩幅よりかなり広い。長さも相当ある。
重そうではあるが、完全に固定されているわけではない。
その横には、狭い隙間があった。
(あそこだ)
智は直感的に判断した。
怪物は四肢が長い。
広い場所なら、その手足を使って素早く動ける。だが、狭い場所ではどうだろう。
人間より身体が細くても、関節の可動域には限界があるはずだ。
少なくとも、正面から飛びかかる動きは制限できるかもしれない。
智は金属板の脇へ移動し、通路の壁に身体を寄せた。
怪物が床に降り立つ。
ドンッ、と鈍い音が響いた。
想像していたよりも重い。
石床の細かな破片が跳ね、砂埃が舞い上がる。
怪物は四肢を広げた姿勢で着地すると、ゆっくりと顔を上げた。
近くで見ると、その姿はますます異様だった。
黒い皮膚は濡れた革のような光沢を帯び、肩から背中にかけて骨のような突起が並んでいる。腕は膝より下まで伸び、指先には金属を引っ掻けるほど鋭い爪があった。
智は喉の奥が乾くのを感じた。
これが本当に、生き物なのか。
人間の知っている動物とは、あまりにも違う。
怪物は首を傾けた。
その仕草だけなら、何かを不思議がっているようにも見える。
だが、次の瞬間、口の端が大きく裂けた。
黄色がかった細い歯が、幾重にも並んでいた。
(冗談じゃないぞ……)
智は息を整えた。
逃げるなら今だ。
通路の奥へ走れば、少なくともこの場からは離れられる。
だが、その先に何があるのかはわからない。行き止まりかもしれないし、別の怪物がいるかもしれない。
それに、上にいる三人との連絡も途切れてしまう。
何より、怪物がこの場所に残れば、昇降設備を使って降りてくる人間が危険にさらされる。
(……止めるしかないのか)
智は歯を食いしばった。
戦うつもりなどなかった。
こんな相手とまともに殴り合って、勝てるはずがない。
ならば、戦わずに済む方法を探すしかない。
怪物の視線が、智の右手へ向いた。
腫れた指をかばうようにしているのがわかるのだろうか。
そんなことまで考えた瞬間、怪物が低く身を沈めた。
来る。
智は金属板の横へ半歩移動した。
怪物の後脚が石床を蹴った。
黒い身体が、一気に距離を詰める。
智は横へ身を滑らせた。
直後、鋭い爪が金属板を叩いた。
ガギィン!
耳を刺すような音が響き、火花に似た小さな光が散った。
怪物の前脚が板の縁に引っかかっている。
智はその隙に、狭い通路の奥へ身体を押し込んだ。
肩が壁に触れ、痛みが走る。
それでも止まらなかった。
怪物はすぐに前脚を引き抜き、追いかけようとした。しかし、長い腕と張り出した肩が金属板にぶつかり、身体をまっすぐ入れることができない。
ギャアッ!
苛立ったような声が響いた。
怪物が板を押す。
金属が軋み、床との接点がわずかにずれた。
(まずい。これじゃ、すぐに抜けてくる)
智は周囲を見回した。
使えそうなものは、落ちた石と金属片くらいしかない。
まともな工具があれば、板を固定する方法も考えられる。だが、ここにあるのは、偶然落ちてきた部材だけだった。
怪物がもう一度、板を押した。
ギギッ、と金属が動く。
板の下端が床を滑り、隙間が広がった。
智は足元の石片に目を留めた。
握り拳より少し大きい、不格好な石だった。
片側が尖っており、反対側は平らに近い。
(これなら……)
智はしゃがみ込んだ。
右手で持ち上げようとしたが、指に力が入らない。仕方なく左手を添えると、肩に鋭い痛みが走った。
「いっ……!」
思わず声が漏れる。
それでも、石を落とすわけにはいかなかった。
智は両手で抱えるようにして持ち上げ、金属板の下端へ押し込んだ。
板は床に対して斜めに立っている。
その下端が滑れば、怪物の通れる隙間が広がる。逆に、下端を動かないようにできれば、板がつっかえ棒のように働くかもしれない。
ただし、板そのものの強度も、壁側の引っかかりも不明だ。
これで怪物を閉じ込められる保証などない。
智は石を押し込みながら、板の動きを確かめた。
怪物が反対側から力をかける。
金属が震え、石が床を擦った。
智は慌てて指を引っ込めた。
危うく挟まれるところだった。
(落ち着け……落ち着け)
心臓が激しく打っている。
呼吸も浅い。
智は一度、息を吐いた。
今までの仕事で、重い建具を無理に動かそうとして怪我をした人を何人も見てきた。焦って手を差し込めば、指を潰す。支えが外れれば、身体ごと挟まれる。
そんな基本的なことを、今になって忘れるわけにはいかない。
智は石の位置を少し変え、靴底で押した。
ゴリッ。
鈍い音がした。
石が板の下へ噛み込む。
怪物がさらに力を加えると、金属板はわずかに動いたものの、それ以上は滑らなくなった。
ギャッ!
怪物が鳴いた。
長い腕を伸ばし、板の縁を掴もうとする。しかし、身体を入れるには隙間が足りず、腕を大きく振り回すこともできない。
智は数歩下がった。
成功した。
少なくとも、今は。
だが、安心するには早すぎた。
怪物は板の向こうで激しく暴れている。爪が金属を削り、細かな破片が飛び散った。
石が外れれば終わりだ。
板が曲がっても終わり。
怪物が別の経路を見つけても、同じことだった。
(時間稼ぎにしかならないな……)
智は額の汗を袖で拭おうとして、左肩の痛みに顔をしかめた。
代わりに右腕を持ち上げる。
指は痛むが、肘を曲げるだけなら何とかなる。
額に触れた袖は、冷たく湿っていた。
ここに落ちてから、どれほど時間が経ったのだろう。
時計を確認する余裕もなく、周囲の明るさにもほとんど変化がない。
上から聞こえる人の声だけが、今も地上とつながっている証拠のように感じられた。
「下の人! 大丈夫ですか!」
その声が、まさに頭上から響いた。
智は顔を上げる。
「何とか生きてます!」
返事をした途端、自分の声が思った以上にかすれていることに気づいた。
「怪物はどうなった!」
「通路のところで止めています! でも、長くはもちません!」
「こっちからは見えない! 何かできることはないか!」
智は少し考えた。
できること。
上の三人に頼めること。
怪物が下へ降りてきた以上、上は先ほどより安全になっているかもしれない。だが、昇降設備が動いている途中で、別の怪物が現れる可能性もある。
何より、装置の状態が気になった。
「今、昇降設備は止まっていますよね!」
「ああ! 言われたとおり止めた!」
「そのままにしてください! 下で確認します!」
「わかった!」
智は怪物から目を離さないようにしながら、通路の入口まで戻った。
金属板の向こうで、怪物が低く唸っている。
ときおり爪が隙間から突き出すが、今のところ身体は通れないらしい。
智は十分な距離を取り、縦穴を見上げた。
昇降設備は、先ほどよりもかなり下まで来ていた。
ようやく全体の形が見え始めている。
それは、四角い金属の枠だった。
床に相当する部分は格子状になっており、左右には背の低い柵のようなものがある。上部から伸びる部材が縦穴の壁に沿っており、全体を支えているように見えた。
人が乗るための台に似ている。
だが、どこにも見慣れたワイヤーや滑車が見当たらない。
上に続く金属の棒が、何らかの仕組みで動力を伝えているのだろうか。
(エレベーターというより、作業用の昇降台みたいだな……)
智は目を細めた。
問題は右側だった。
左側の枠は壁の溝に収まっているように見えるが、右側はわずかに外へ張り出している。しかも、装置全体がほんの少し傾いていた。
最初からそういう構造なのか。
それとも、怪物が取り付いて暴れたせいで歪んだのか。
わからない。
ただ、傾きがあること自体は、決して良い兆候ではなかった。
智は耳を澄ませた。
装置が止まっているにもかかわらず、金属の内部から細かな音が聞こえる。
ピシ……。
ギ……。
何かが荷重に耐えている音だった。
智は思わず顔をしかめた。
こういう音には、嫌な記憶がある。
以前、古いシャッターの修理を頼まれたときのことだ。左右のガイドレールが歪み、途中で動かなくなっていた。依頼主は「少し力を入れれば動く」と言ったが、智が確認すると、片側の固定金具が緩んでいた。
無理に動かしていれば、シャッターが脱落していたかもしれない。
あのときは作業を止め、部材を交換した。
それで済んだ。
だが、今はどうだ。
交換する部材も、固定する工具もない。
装置の構造さえわからない。
智は奥歯を噛みしめた。
(どうやって降ろす……)
上にいる三人のうち、少なくとも一人は怪我をしているようだった。
この装置を使えなければ、縦穴を自力で降りるしかない。
だが、壁面は滑らかではなく、途中には壊れた金属の足場が残っている。健常な人間でも危険なのに、負傷者を連れて降りるのは現実的とは思えなかった。
だからこそ、昇降設備を動かしたのだろう。
しかし、その設備が壊れかけている。
智は上を見上げたまま、しばらく考え込んだ。
動かすべきか。
止めておくべきか。
今の情報だけでは、どちらが正しいとも言えない。
そして、判断を間違えれば、人が死ぬ。
その重さが、急に胸にのしかかってきた。
「……参ったな」
小さく呟いた。
こんな場所で、どうして自分が判断しなければならないのだろう。
自分は、ただの建具修理職人だ。
会社で働き、現場へ行き、見積もりを作り、壊れたものを直してきただけの男である。
人命救助の訓練を受けたわけでも、特殊な機械を扱う資格を持っているわけでもない。
それなのに、上にいる三人は自分の言葉を待っている。
智は一度、深く息を吸った。
できないことを、できると言ってはいけない。
それは現場でも同じだった。
わからないものは、わからない。
危険なものは、危険だと伝える。
そのうえで、できることを探す。
智は顔を上げた。
「上の人! 少し確認させてください!」
「何だ!」
「その装置、誰か乗っていますか!」
「いや! まだ誰も乗ってない!」
智は胸を撫で下ろした。
少なくとも、今すぐ装置が落ちても、そこに人はいない。
「怪我をしている人は、歩けますか!」
上で短いやり取りがあった。
「支えれば歩ける! でも、長くは無理そうだ!」
「わかりました! 今は絶対に装置へ乗らないでください!」
「ああ!」
智は続けて、操作輪の状態を尋ねた。
「輪を回すと、重さは変わりますか!」
「重さ?」
「急に軽くなったり、引っかかったりしませんでしたか!」
「途中から重くなった! それで、少し力を入れたら動いたんだ!」
智の眉間に皺が寄った。
途中から重くなった。
力を入れたら動いた。
それは、引っかかっていた部材が無理やり押し出された可能性を示している。
もちろん、単に機構の抵抗が変わっただけかもしれない。
だが、現物を確認できない以上、危険な方を想定するしかなかった。
「わかりました! もう無理に回さないでください!」
「でも、それじゃ降りられないぞ!」
男の声には、焦りが滲んでいた。
当然だろう。
上に取り残され、怪我人もいる。
助かるための装置が目の前にあるのに、動かすなと言われれば、不安にもなる。
智自身、同じ立場ならそう思うはずだった。
「今のまま動かすと、途中で外れるかもしれません! もう少し見させてください!」
返事はなかった。
しばらくして、小さく「わかった」と聞こえた。
智は息を吐いた。
時間が必要だった。
だが、その時間を、怪物が与えてくれるとは限らない。
ガンッ!
背後で大きな音がした。
智は振り返った。
金属板が揺れている。
怪物が反対側から何度も身体をぶつけていた。
板の下に噛ませた石は、まだ残っている。
だが、少しずつ位置が変わっていた。
床に刻まれた細い傷が、その動きを示している。
(あと何回もつ……?)
智は板の角度を見た。
最初よりも、わずかに立っている。
怪物が押すたびに、壁側の引っかかりが削られているのかもしれない。
このままでは、いずれ倒れる。
智は通路の奥へ逃げる経路を確認した。
曲がり角までは十数歩。
その先はまだ調べていない。
暗闇の中に何があるのか、わからなかった。
もし怪物が抜けてきたら、そこへ逃げ込むしかない。
だが、怪物は壁を走れる。
狭い場所で多少動きが鈍くなったとしても、長く追いかけられれば追いつかれるだろう。
智は口の中が乾いていくのを感じた。
そのとき、上から女性の声がした。
「下の方!」
先ほどとは違う、少し落ち着いた声だった。
「そちら、本当に大丈夫ですか!」
「今は大丈夫です!」
智は答えた。
「でも、怪物がいます! そちらも気をつけてください!」
「わかりました!」
短い返事のあと、女性は続けた。
「私たち、ここで待っていていいんでしょうか!」
智は言葉に詰まった。
待っていていいのか。
そんなこと、自分にもわからない。
上が安全なのかどうかさえ、確かめられないのだ。
それでも、今すぐ装置に乗せるよりは、動かずにいてもらう方がよい。
「少なくとも、今は動かない方がいいと思います!」
智は慎重に言葉を選んだ。
「装置の片側が傾いています! もう少し確認してからにしましょう!」
女性は何かを言いかけたが、結局「わかりました」と答えた。
その声を聞いて、智は胸の奥が痛んだ。
信じてくれている。
顔も見えない、名前も知らない男の言葉を。
それが、ありがたくもあり、恐ろしくもあった。
智は再び装置へ目を向けた。
右側の溝。
そこに、何か細いものが挟まっているように見える。
石片だろうか。
それとも、折れた金属の一部だろうか。
上からの光だけでは、はっきりしない。
智は右手を持ち上げかけて、止めた。
《微光》を使えば、少しは見えるかもしれない。
だが、あの小さな光で照らせる範囲は限られている。しかも、長く維持できるわけではない。
ここから装置までは距離がありすぎた。
(使うなら、もっと近づいてからだな)
そう考えたものの、近づくには怪物のいる通路の入口を通らなければならない。
智は苦笑した。
何をするにも、危険がついて回る。
少し前まで、自分の人生はそれなりに平穏だった。
仕事で面倒なことはあっても、命を狙われるようなことはない。
今日だって、本来ならいつもどおりの一日で終わるはずだった。
それが、どうしてこんなことになったのか。
答えのない疑問が、胸の奥に沈んでいく。
智は頭を振った。
今は考えるな。
生きて戻ってから、いくらでも考えればいい。
そのときだった。
ギギ……。
昇降設備が、小さく揺れた。
誰も操作していないはずなのに。
智は顔を上げた。
右側の金属枠が、わずかに下がっている。
ほんの数センチ。
だが、確かに動いた。
(……おいおい)
智の背筋に冷たいものが走った。
装置は止まっているはずだった。
操作輪も回していない。
それなのに、片側だけが下がった。
つまり、どこかで荷重を支えていた部分が、少しずつずれている。
智は思わず叫んだ。
「上の人! 輪には触ってませんよね!」
「触ってない!」
「本当ですね!」
「ああ! 誰も動かしてない!」
智は唇を噛んだ。
ならば、装置そのものが動いている。
それも、正常な動きではない。
右側の枠がさらに下がった。
今度は、左側がほとんど動かない。
装置全体が斜めになる。
金属が擦れ合い、甲高い音が響いた。
ギィィィ……。
智は無意識に後退した。
この音は嫌だ。
何かが限界に近づいている。
だが、どこが壊れようとしているのか、正確にはわからない。
右側のガイドか。
上部の支持部材か。
それとも、床の格子を支える枠か。
可能性はいくつもある。
そのどれであっても、良いことではなかった。
「装置が動いています!」
智は上へ向かって叫んだ。
「誰も乗らないでください! 近づくのも危ない!」
「こっちでも音がしてる!」
男の声が返ってきた。
「どうしたらいい!」
「まず離れてください! 何かが落ちるかもしれません!」
言い終える前に、金属の奥から乾いた音がした。
パキンッ。
小さな音だった。
だが、智の身体が硬直した。
金属が折れる前に聞こえる音に、似ていた。
もちろん、そう断定できるわけではない。
石が割れただけかもしれない。
何かの留め具が外れただけかもしれない。
だが、どちらにせよ、今は最悪を想定するしかなかった。
「離れて!」
智が叫んだ。
その直後だった。
ガァンッ!
大きな衝撃音が縦穴に響いた。
右側の枠が一気に下がり、装置全体が斜めに傾いた。
壁の溝から石片が飛び散る。
金属の横桟が大きく跳ね、何かが弾けるように外れた。
智は反射的に壁へ身を寄せた。
頭上から落ちてきた小さな金属片が、すぐ近くの床を叩く。
カンッ、と高い音が響き、破片は暗闇の奥へ転がっていった。
上から悲鳴が聞こえた。
「きゃあっ!」
「つかまれ!」
続いて、何かが倒れる音。
智は息を止めた。
「大丈夫ですか!」
返事がない。
「上の人! 聞こえますか!」
数秒。
いや、もっと長かったかもしれない。
ようやく、男の声が返ってきた。
「……大丈夫だ! こっちは無事だ!」
智は壁に額を押しつけたくなった。
だが、安心するには早い。
傾いた装置は、今もわずかに揺れている。
片側の金属枠が、壁の溝から半分ほど外れかけていた。
次に動けば、完全に脱落するかもしれない。
智は喉の奥で息を呑んだ。
上には、怪我をした人を含む三人。
下には、今にも拘束を破りそうな怪物。
そして、その間にある唯一の昇降設備は、壊れかけている。
助けるために動かしたものが、今度は三人の命を奪いかねなかった。
智は傾いた金属枠を見上げた。
(どうする……)
四十七年間、生きてきた。
壊れた扉も、曲がった枠も、動かなくなったシャッターも、数え切れないほど直してきた。
けれど、人の命がかかった装置を、怪物に追われながら直したことなど、一度もない。
智は腫れた右手を握りしめようとして、痛みに顔をしかめた。
それでも、目を逸らさなかった。
壊れたものには、必ず原因がある。
原因がわかれば、できることもあるはずだ。
そう信じて、もう一度、装置を見上げる。
――そのとき。
背後で、金属が短く鳴った。
ギリッ。
智は振り返った。
金属板の向こうから、怪物の爪が一本、突き出している。
板の下に噛ませた石が、ゆっくりと動いていた。
ゴリ……。
もう一度。
ゴリッ。
石が床を削り、ほんの少し外側へ押し出される。
怪物の腕が、隙間から伸びてきた。
長い指が床を掻き、爪が石を引っかける。
智は息を呑んだ。
怪物は、ただ暴れているのではない。
隙間を広げようとしている。
そして、その方法を見つけかけていた。
頭上では、傾いた昇降設備が不気味に揺れている。
足元では、怪物を止めている石が少しずつ動いている。
どちらも、いつ壊れてもおかしくない。
智は一歩、後退した。
その瞬間、金属板の下から石が半分ほど飛び出した。
ガコンッ!
板が大きく揺れる。
怪物の口から、低い唸り声が漏れた。
智は通路の奥へ視線を走らせた。
逃げるなら、今しかない。
だが、逃げれば上の三人を置き去りにすることになる。
しかも、装置が落ちれば、この場所に戻ってくる道さえ塞がれるかもしれない。
智は歯を食いしばった。
逃げたい。
心の底から、そう思った。
こんな怪物と戦いたくない。
誰かの命を預かるような判断もしたくない。
自分ひとりが生き残るだけで精一杯なのに、どうして他人のことまで考えなければならないのか。
その問いに、立派な答えなどなかった。
ただ、上から聞こえた女性の声が、耳に残っていた。
――私たち、ここで待っていていいんでしょうか。
あの声には、確かに恐怖があった。
それでも、智の返事を待っていた。
智は目を閉じ、短く息を吐いた。
自分に何ができるのかは、まだわからない。
怪物を倒せるとも、装置を直せるとも思えない。
それでも、何もせずに逃げるという選択だけは、今の自分にはできなかった。
ゆっくりと目を開ける。
まずは、怪物。
次に、昇降設備。
そして、上にいる三人。
すべてを一度に解決することなどできない。
だから、一つずつ考えるしかない。
智は通路の壁に手を添え、身体の向きを変えた。
そのとき、怪物の爪が金属板の縁を掴んだ。
ギギギッ。
板が持ち上がる。
噛ませていた石が、床を転がった。
拘束が解ける。
智は反射的に身構えた。
しかし、怪物はすぐには飛びかかってこなかった。
金属板の隙間から、ゆっくりと顔を覗かせる。
その眼が、智を捉えた。
口が裂ける。
そして、怪物は低く唸った。
まるで、次は逃がさないと告げるように。
智は腫れた右手を身体の前へ引き寄せ、痛む左肩をかばいながら、一歩ずつ後退した。
頭上で、昇降設備が再び軋む。
ギィ……。
怪物の爪が、石床を擦った。
カリッ。
二つの音が、暗い通路に重なった。
逃げ道も、救いの道も、同時に崩れようとしていた。




