1:生き残るための選択
「届かない光」
上方で、何かが激しくぶつかり合う音がした。
金属を硬い石に打ちつけたような響きに続いて、男の短い悲鳴が縦穴を落ちてくる。結城智は反射的に顔を上げたが、スマートフォンのライトが届くのは途中の壁までだった。そこから先は、光を吸い込むような暗闇が続いている。
「おい! 大丈夫か!」
返事はない。
代わりに聞こえたのは、何かを引きずるような音と、喉の奥から絞り出したような低い唸り声だった。
智は壁際へ身を寄せた。足元には細い水路があり、絶えず流れる水音が、上方の様子を聞き取る邪魔をしている。さっきまで人間の声が聞こえていた場所まで、どれほどの高さがあるのかも分からない。
右手のひらに、意識を向ける。
胸の内側に残っている、あの妙な感覚。池のそばで初めて魔力を感じたとき、智はそれを細い管の中を流れる水にたとえた。今も同じように呼吸を整え、胸から腕へ、腕から手のひらへと流すところを思い描く。
けれど、急いでいるせいか、うまくいかなかった。
「……くそ」
もう一度。
指先にわずかな熱が集まり、腫れた右手の痛みが意識に浮かぶ。その痛みを押しのけるように集中すると、手のひらの上に小さな白い光が生まれた。
直径一センチほど。
淡く、頼りなく、数秒もしないうちに消えてしまいそうな光だった。
「おーい! 上にいる人! 聞こえるか!」
智は光を掲げた。
だが、その明かりは自分の指先を白く染めるのが精いっぱいで、数メートル先の壁さえ照らせない。まして、はるか上方にいる人間の目へ届くとは思えなかった。
それでも、光を消す気にはなれなかった。
何もできないまま、誰かが襲われる音を聞いているよりはましだ。そんな思いが胸をよぎる一方で、別の考えも頭から離れない。
――これで、何ができる?
光は小さい。投げつけられるわけでも、敵の目を眩ませられるわけでもない。そもそも相手の位置すら分からないのだ。
白い光がふっと消えた。
同時に、こめかみの奥がわずかに重くなる。ほんの数秒の魔法でも、身体に負担がかかっているらしい。
智は右手を下ろし、ゆっくり息を吐いた。
ここで倒れたら、誰も助けられない。
その当たり前のことを、意識して自分に言い聞かせた。
上方から、男の声がした。
「下の人! 聞こえるか!」
最初に呼びかけてきた男とは違う、少し若い声だった。先ほど警告を発した人物かもしれない。
「聞こえる! そっちはどうなってる!」
「何かが来た! こっちに――」
言葉の途中で、硬いものが擦れる音が割り込んだ。
「危ない!」
短い叫び。続いて、足場を踏み鳴らすような音が二度、三度。
智は思わず一歩前へ出たが、すぐに足を止めた。頭上には金属製の足掛かりが続いているものの、途中の数本が欠けている。左肩は傷み、右手も強く握れない。勢いに任せて登れば、途中で落ちる可能性が高かった。
そして、落下するのは自分だけとは限らない。
上にいる人間が降りてくる途中だったら、狭い縦穴で鉢合わせになる。逃げ道を塞ぐかもしれない。
「上にいる人! 俺は縦穴の一番下だ! そっちから何か降りてくるなら教えてくれ!」
「分かった! 今は――」
また音が途切れた。
智は歯を食いしばり、スマートフォンの光を縦穴の壁へ向けた。
壁面は、ここまで通ってきた人工通路とよく似た灰色の材質でできている。一定の間隔で横方向の継ぎ目があり、その一部に金属の足掛かりが埋め込まれていた。単なる岩穴ではなく、誰かが昇降することを前提に造った構造物なのだろう。
そのはずなのに、足掛かりは不自然に欠けている。
智は壁のすぐそばまで近づき、下から二本目の金属部材を左手で軽く揺すった。大きなぐらつきはない。しかし、三本目は壁との接合部に細い亀裂があり、右側がわずかに下がっていた。
仕事で何度も見てきた、嫌な状態だった。
見た目には固定されていても、荷重をかけた途端に外れる金具がある。とくに、長年の振動や腐食で接合部が弱っている場合は厄介だ。いま目の前にある金属が腐食しているかどうかは分からないが、傷んでいることだけは確かだった。
――登るなら、まず状態を調べないと。
智は意識を足掛かりへ絞った。
《解析》
視界の端に、薄い文字が浮かぶ。
『対象:昇降用固定部材』
『材質:不明』
『固定状態:一部不安定』
『局所構造解析:実行中』
『接合部の損傷を検出』
『推定荷重耐性:算出不能』
予想どおり、安心できる情報ではなかった。
少なくとも、いま触れている部材へ全体重を預けるのは危険だ。さらに上の足掛かりも同じ状態なら、登る途中で退路を失う。
智は解析を切り上げた。頭の奥に鈍い圧迫感が生じかけている。拡張されたとはいえ、《解析》を使い続けて平気になったわけではない。
「……さて、どうする」
誰に聞かせるでもなく呟く。
水路の流れは足元から奥へ続いている。人工通路も、縦穴の反対側へ伸びていた。もし上方から怪物が降りてきた場合、そこが逃げ道になるかもしれない。
ただし、先が安全だという保証もない。
智はライトを向け、通路の形を確かめた。幅は一メートルほど。天井は低くないが、二人が並んで歩くには窮屈だ。壁の下部には浅い溝が刻まれ、水路との境目には、ところどころ金属製の縁が残っている。
そのとき、背筋に冷たいものが走った。
理由は分からない。
けれど、池で飛行生物に襲われる直前にも、似た感覚があった。
智はすぐに壁から離れた。
次の瞬間、上方で甲高い音が響く。
何かが金属を引っかき、滑り落ちてきた。
智は反射的に身を伏せた。頭上を小さな破片が通り過ぎ、背後の床に跳ねる。カラン、と乾いた音を立てて転がったのは、細長い金属片だった。
スマートフォンを向けると、片端が曲がり、もう片端には灰色の破断面が見える。
足掛かりの一部だろうか。
そう思った直後、縦穴の奥から、先ほどより近い唸り声が聞こえた。
智は動きを止めた。
上方の人間たちが襲われている。そのことは分かる。しかし、何に襲われているのか、相手が何体いるのか、どこまで降りてきているのかは、依然として見当もつかなかった。
足掛かりの欠けた縦穴を見上げる。
人間の声がした。
「下の人! そこから離れろ!」
若い男の声だった。
「何か、落ちるぞ!」
智はすぐに縦穴の正面から身を引いた。水路をまたぎ、人工通路の入口へ身体を押し込む。左肩が壁に触れて痛みが走ったが、構ってはいられない。
直後、暗闇の中から黒い塊が落ちてきた。
激しい衝突音。
足元の石床が震え、水路の水が跳ね上がる。智は腕で顔をかばい、飛んできた水滴と細かな破片をやり過ごした。
恐る恐るライトを向ける。
縦穴の底に落ちていたのは、金属の棒が何本も組み合わされたような構造物だった。細い枠が歪み、一部が折れている。人が立つための足場か、昇降用の設備だったものかもしれない。
その向こうで、何かが動いた。
智の心臓が跳ねる。
だが、動いていたのは生き物ではなかった。折れた金属の端が、水路の流れに押されて小さく揺れているだけだった。
――まだ、落ちてくるかもしれない。
縦穴の真下に戻るのは危険だ。
「おーい! 上! 足場が落ちてきたぞ!」
「分かってる!」
返事はすぐに返ってきた。
「そっちは無事か!」
「ああ! こっちは大丈夫だ!」
言いながら、智は自分の右手を見た。腫れは引いておらず、金属片を避けた拍子に無理な力がかかったらしい。指を曲げると、掌の奥がじんと痛んだ。
大丈夫、というのは少し違う。
けれど、今すぐ動けなくなるほどではない。
「そっちは何人いる!」
智が叫ぶと、上で何かを相談するような声が重なった。内容までは聞き取れない。
「三人だ!」
しばらくして返事があった。
「一人、足をやられた! 今、動けない!」
三人。
初めて人数が分かった。
智は暗闇を見上げた。少なくとも一人が負傷し、残る二人が対応しているらしい。ただ、三人ともまだ上にいるのか、別の場所へ移動できるのかは不明だった。
「怪物はどんなやつだ!」
「見えない! 黒くて、低い! 脚が――」
男の声が詰まった。
「また来た!」
その直後、何かを叩く音が連続した。
智は壁に背中をつけ、頭を下げた。縦穴の中を響く音は反響して方向が分かりにくい。低い唸り声が何度も重なり、まるで複数の場所から聞こえてくる。
実際に何体いるのかは分からない。
ただ、上の人間たちがまだ戦っていることだけは確かだった。
智は視線を足元へ落とした。
落ちてきた金属製の足場。その端には、細い板状の部材が一本、ほかの部分から半ば外れかけている。長さは六十センチほどだろうか。持ち上げられれば、棒の代わりに使えるかもしれない。
もっとも、取りに行くには縦穴の真下へ出なければならない。
危険だ。
智は迷った。
自分には武器がない。折り畳み式のカッターはあるが、怪物と向き合うための道具ではない。刃を出して戦えば、むしろ手を傷める可能性が高い。
では、金属片を拾うべきか。
また何かが落ちてくるかもしれない。
そのとき、頭の奥に一つの考えが浮かんだ。
――光だ。
さっきは、上の人間に見せようとして《微光》を使った。けれど、あの小さな明かりを遠くへ届けるのは無理だった。
ならば、別の使い道はないだろうか。
照らすのではなく、目印にする。
暗闇の中で、わずかな光でも人間の目には見えることがある。遠くを明るくする必要はない。上の人間がこちらを見たとき、縦穴の底に誰かがいると分かれば、それだけでも意味がある。
しかし、相手が怪物ならどうだろう。
光に反応するかもしれない。反応しないかもしれない。むしろ、自分の位置を知らせてしまう危険もある。
智はそこで考えるのをやめた。
確かめられないことを、都合よく決めつけるべきではない。
いま必要なのは、上の人間を助けることと、自分が死なないこと。その両方を満たす手段を探すことだった。
再び、男の叫びが聞こえた。
「こっちだ! 早く!」
続いて、何か重いものを引きずる音。
負傷した人間を移動させているのだろうか。
「下の人!」
最初に声をかけてきた男だった。
「そこから、逃げられるか!」
智は通路の奥を振り返った。
ライトの先には灰色の壁が続き、少し先で右へ曲がっている。そこから先は見えない。
「通路がある! 先は分からないが、移動はできる!」
「だったら、逃げろ!」
男は間を置かずに叫んだ。
「俺たちは、こっちで何とかする!」
智は返事ができなかった。
その声には、焦りと恐怖が混じっていた。相手は自分を助けようとしてくれた。怪物に襲われている今も、下にいる見知らぬ人間を逃がそうとしている。
それなのに、自分だけ逃げるのか。
考えた瞬間、胸の奥が苦しくなった。
ただ、残れば助けられるというものでもない。
智は、これまで何度も危険な建具の現場に立ち会ってきた。重い扉が傾いたとき、無理に手で支えようとした作業員が指を挟まれたこともある。壊れかけた設備を力任せに動かせば、被害が増える。
人を助けたい気持ちだけで、手を出していいわけではない。
だが――。
「上の人!」
智は声を張った。
「そっちに、降りられる道はないのか!」
「ない! 足場が壊れた!」
「ほかの通路は!」
「今いる場所の奥にある! でも、怪物が塞いでる!」
智は縦穴の壁を見上げた。
足場は壊れ、上の人間は逃げ道を塞がれている。自分は下にいる。直接助けに行くことは難しい。
それでも、構造物には上下をつなぐ何らかの仕組みがあるはずだった。
ここは自然の洞窟ではない。
石の隔壁も、池の流出口にあった点検口も、誰かが使うことを想定して造られていた。ならば、この縦穴にも、足掛かり以外の設備が残っている可能性がある。
智はスマートフォンを壁に向けた。
下部の灰色の石材には、縦方向の細い溝が二本走っている。これまでは単なる装飾か、部材の継ぎ目だと思っていた。しかし、落ちてきた足場の枠を見たあとでは、別のものにも見えてくる。
ガイドレール。
昇降設備を一定の方向へ動かすための、案内溝ではないか。
智は溝の近くへ寄った。右手の痛みをかばいながら、左手で表面を確かめる。石は冷たく、溝の内側には金属らしい細い帯が埋め込まれていた。
ただし、上へ続いているかどうかは分からない。
智は対象を絞って《解析》を使った。
『対象:縦穴壁面構造』
『局所構造解析:実行中』
『縦方向の案内構造を検出』
『接続先:上方』
『可動機構:検出不能』
『詳細情報:不足』
ガイドのような構造があることは分かった。だが、それを使う設備が今も動くかどうかは別問題だ。
智は唇を噛んだ。
もし上へ行く手段があれば。
そんな期待を抱きかけたところで、上方から重い衝撃音がした。
壁の細い溝を伝って、微かな振動が指先へ届く。
智は顔を上げた。
もう一度、衝撃。
そして、低い金属音。
何かが壁の案内構造に触れているのかもしれない。
しかし、今の智には、それが何なのか判断できなかった。
「おーい! 上! 壁に縦の溝がある! そっちにも見えるか!」
しばらく返事がなかった。
智は耳を澄ませた。水路の音、遠くで擦れる金属音、荒い呼吸のような響き。
やがて、男の声が戻ってきた。
「ある! こっちにもある!」
「その近くに、何か動かせそうなものはないか!」
「待て! 今、見てる!」
智は溝から手を離した。
上の人間に何かを操作させるのは危険だ。もし壊れた昇降設備を不用意に動かせば、残っている足場まで崩れるかもしれない。
「無理に触るな! 動かす前に状態を見てくれ!」
「分かった!」
短い返事のあと、上で何かを探るような音がした。
智は息を殺した。
数秒。
十秒。
それ以上かもしれない。
時間の感覚が曖昧になるほど、縦穴の暗闇は深かった。
そして、若い男が叫んだ。
「あった! 壁に、丸い窪みがある!」
智の胸が跳ねた。
丸い窪み。
これまで通ってきた地下の構造物にも、似た形があった。石の台座、経路を制御する装置、池の流出口にあった固定部材。用途は違っていても、円形の操作部分を備えたものが少なくない。
ただ、同じ仕組みだと決めつけるわけにはいかない。
「押せそうか!」
「分からない! 金属の輪がついてる!」
智は一瞬考えた。
押すのか、回すのか、引くのか。
操作を間違えれば、何が起きるか分からない。
「まず、動く方向だけ確かめてくれ! 力いっぱい動かすな!」
「分かった!」
上方で、かすかな金属音がした。
その直後だった。
縦穴の壁に埋め込まれた二本の溝が、低く震え始めた。
智は反射的に後ずさった。
水路の表面に細かな波紋が広がり、落下した金属製の足場が小さく鳴る。どこか遠くで、重い歯車が噛み合うような音がした。
――動いた?
だが、何が動いたのかは分からない。
智はスマートフォンを持ち直し、溝の先を見つめた。
やがて、暗闇の上方から、規則的な擦過音が聞こえ始めた。
ゆっくりと。
確実に。
何かが、縦穴の中を移動している。
「上! 何を動かした!」
智が叫ぶと、返事が返ってきた。
「輪を少し回しただけだ! そしたら――」
男の声が途切れた。
次の瞬間、縦穴の上方から、別の音が聞こえた。
硬い爪が、金属の上を走るような音。
それが一度ではなく、何度も続く。
智は背筋を強張らせた。
降りてきているのは、設備だけではないのかもしれない。
暗闇の奥で、何かが動いた。
そして、縦穴の壁を伝う金属音が、少しずつ近づいてきた。




