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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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4:初めての地下世界

さあ!ここから物語は加速してゆく!


・・・・・・はず

            「初めての勝利」




 通路の奥に見える金色の光は、少しも揺れていなかった。


 炎であれば空気の流れに応じて形を変えるだろうし、水面に反射した光なら、わずかな波によって明るさが変わるはずだ。しかし、暗闇の向こうに浮かぶ淡い金色は、壁に描かれた模様のように一定の輝きを保っている。


 結城智は歩く速度を落とし、光の正体を確かめようと目を凝らした。


 背後から、重い音が響く。


 ――ドンッ。


 反射的に振り返ったものの、先ほど閉めた石の扉はもう見えなかった。通路が緩やかに曲がっているため、その先の様子までは分からない。それでも、怪物がまだ扉を叩いていることだけは、繰り返される衝撃音から容易に想像できた。


「……しつこいな」


 口に出してみても、気持ちは少しも軽くならない。


 左肩には三本の爪痕が残り、右手も腫れたまま。怪物の攻撃を鋼管で受け止めたときの衝撃が、まだ腕の奥に鈍く残っている。さらに、何度も《解析《アナライズ》》を使ったせいか、こめかみの辺りには重苦しい痛みが居座っていた。


 ここで再び怪物に追いつかれれば、今度こそ逃げ切れないかもしれない。


 智は痛む肩をかばいながら足を速めた。金色の光は次第に大きくなり、やがて通路の先に開けた空間が見えてくる。


 そこは、十メートル四方ほどの広間だった。


 壁の一部には青白い苔が生えているものの、中央付近だけは柔らかな金色に染まっている。光の源は、広間のほぼ中央に据えられた石の台座。その上には、拳を二つ並べたほどの大きさの結晶が浮かぶように収まっていた。


「……なんだ、あれ」


 結晶は透明に近い琥珀色で、内部には無数の小さな光の粒が見える。それらは水中を漂う細かな泡のように、ゆっくりと一定の方向へ回っていた。


 智は入口から動かず、まず広間全体を見回した。


 奥には別の通路が一つあり、入口から台座へ向かって二本の細い溝が延びている。先ほど見つけた経路管理装置とよく似た構造だが、こちらの台座には、結晶を囲むように四本の細い支柱が立っていた。


 支柱は金属製にも見え、その根元から床の溝へ何かがつながっている。台座の下部には円形の板が埋め込まれており、部品の配置には明らかな規則性があった。


 さらに、台座の側面には、石の表面を細く切り欠いたような隙間がある。その奥に、何枚もの金属板が重なっているのが見えた。金属板はそれぞれ異なる方向へ伸び、台座の内部で複雑に組み合わされているらしい。


 智は慎重に近づき、少し離れた位置でしゃがみ込んだ。


 電気錠の制御部。自動ドアの駆動装置。あるいは、制御盤から伸びる配線と、その先につながる機械。


 これまで仕事で扱ってきたものが、次々と頭に浮かんだ。


 もちろん、目の前にあるものは、そのどれとも違う。金属に似た支柱も、琥珀色の結晶も、智の知っている建具には使われていなかった。それでも、複数の部品が決まった位置に組み合わされている以上、何らかの仕組みに従って動いている可能性は高い。


 床の溝を目で追うと、一方は来た通路へ、もう一方は奥の通路へ続いている。


「……切り替え装置か?」


 独り言に答える者はいない。


 智はスマートフォンで台座を数枚撮影し、画面を確認してからポケットへ戻した。電池の残量は気になるが、ここで見つけた構造を記録しておけば、あとで役立つかもしれなかった。


 問題は、何のための装置なのかということだ。


 《解析》を使えば、少しは分かるだろう。しかし、先ほどから続く頭痛を考えると、むやみに能力を使うのは避けたい。必要以上に深く調べれば、怪物が迫ってきたときに動けなくなる恐れもある。


 智はしばらく迷った末、結晶ではなく、台座の下部だけに意識を集中させた。


「……解析」


 淡い文字が視界に現れる。


『対象:経路制御構造』


『状態:稼働中』


『接続先:二』


『駆動部:一部損傷』


 駆動部。


 機械を動かす部分なら、智にも理解できる。問題は、その損傷がどこにあり、どの程度のものなのかということだった。


 表示が続く。


『閉鎖機構:作動可能』


『作動条件:制御入力』


『制御方法:解析不能』


「……閉鎖機構?」


 智はすぐに《解析》を止め、顔を上げた。


 入口と奥の通路を交互に見比べる。どちらも今は開いたままで、扉らしいものは見当たらない。だが、閉鎖機構があるというなら、どこかに通路を塞ぐための仕組みが備わっているはずだった。


 智は台座から離れ、入口側の壁に沿って歩いてみた。


 通路の両脇には灰色の柱が埋め込まれている。先ほどは岩壁の一部だと思っていたが、よく見ると表面に細い縦溝が刻まれ、左右の柱が向かい合うように配置されていた。


 足を止め、柱と柱の間から天井を見上げる。


 そこには幅の広い隙間があり、暗がりの奥に厚い板のようなものが収まっていた。


「……シャッターか」


 普通のシャッターとは似ても似つかない材質だった。鋼板でもアルミでもなく、灰色の石に近い。しかし、左右にガイドとなる溝があり、上部に収納された板が下りてくる構造なら、通路を塞ぐことができる。


 智は奥の通路へも足を運んだ。


 こちらにも同じ柱と天井の隙間がある。つまり、広間の入口と出口、それぞれに閉鎖機構が設けられているらしい。


 なぜ、こんな場所に二つも必要なのだろう。


 答えは出ない。ただ、怪物がこの広間へ入ってきた場合、使い方によっては足止めできるかもしれなかった。


 智は台座へ戻り、四本の支柱を改めて観察する。


 そこで、一つだけ妙なことに気づいた。


 ほかの三本は真っ直ぐ立っているのに、手前右側の支柱だけが、わずかに内側へ傾いている。


 しゃがみ込んで根元を覗くと、細い金属片のような部品が曲がり、その先端が隣の部品に引っかかっていた。完全に折れているのか、途中でひびが入っているだけなのかは分からないが、本来の位置からずれていることは確かだった。


「……なるほどな」


 見慣れた故障の形だった。


 自動ドアでも、蝶番でも、ほんの数ミリのずれが原因で正常に動かなくなることがある。部品そのものが壊れていなくても、隣の金物と干渉していれば、動作が途中で止まってしまう。


 目の前の装置も同じ原理とは限らない。それでも、動きを妨げている部分があるなら、まずそこを疑うべきだろう。


 智は手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 不用意に触れるのは危険だ。金属片に見える部品が、実際には別の役割を持っている可能性もある。無理に押せば、取り返しのつかない故障を起こすかもしれなかった。


 周囲を見回すと、床に細長い石片が落ちている。長さは二十センチほどで、片方の先端が薄くなっていた。


 智はそれを拾い、曲がった部品の近くへ慎重に差し込んだ。


 まずは、ごく軽く押してみる。


 動かない。


 支点を変え、今度は横から力を加えると、金属片がほんのわずかに動いた。


 カチッ。


 小さな音が響き、台座の結晶が一瞬だけ強く輝いた。


 智はすぐに石片を引き抜き、数歩下がる。光はほどなく元の明るさへ戻り、ほかに変化は起きなかった。


「……反応したな」


 部品が動いたことと、結晶の光が変わったこと。


 二つの現象が偶然重なった可能性もあるが、少なくとも、今触れた場所が装置の動作に関係していることは考えられる。


 智は再び台座へ近づき、金属片の位置を確かめた。


 まだ完全には戻っていない。


 無理をすれば折れそうな細さだが、力のかけ方を変えれば、もう少し動かせるかもしれなかった。


 そのとき、背後から激しい衝撃音が響いた。


 ――ゴンッ!


 智は振り返った。


 来た通路の奥から、低い唸り声が聞こえる。


 怪物だ。


 石の扉を、まだ叩いている。


 先ほどよりも音が大きい。距離のせいかもしれないが、扉そのものが傷んできた可能性もあった。


 智は奥歯を噛みしめた。


 ここに留まっていれば、いずれ追いつかれるかもしれない。奥の通路へ逃げ込むこともできるが、その先に安全な場所がある保証はなかった。


 視線が、自然と台座へ戻る。


 閉鎖機構。


 制御入力。


 駆動部の損傷。


 それぞれの言葉が、少しずつ頭の中で結びついていった。


 もし、この装置を動かして入口の石板を下ろせるなら、怪物の進路を塞ぐことができる。広間へ誘い込んでから閉鎖すれば、奥の通路へ逃げる時間を稼げるかもしれない。


 ただし、石板が下りる速度も、操作してから動き始めるまでの時間も分からない。途中で止まる可能性もあるし、怪物が別の通路を探すかもしれなかった。


 まして、あれほど大きな怪物を相手に、思いどおりの位置へ誘導できるとは限らない。


 智は天井を見上げた。


 石板はかなり厚い。重量も相当なものだろう。


 あれが怪物の身体に当たれば、傷を負わせられるかもしれない。しかし、石板が落ちる速度も、どれほどの力で閉じるのかも分からない以上、それを前提にした計画は危険だった。


 それでも、何もしなければ追いつかれる。


 智は石片を握り直した。


 右手には痛みが走り、左肩もじくじくと疼いている。まともに戦える状態ではない。それなら、目の前にある仕組みを利用するほかなかった。


 まずは、装置を動かせる状態にする。


 それから考える。


 智は曲がった金属片へ目を戻し、先ほどよりも慎重に石片を差し込んだ。


 接触している部分を目で追い、どちらへ動かせば干渉がなくなるかを考える。力をかける方向を間違えれば、細い部品は簡単に折れてしまいそうだった。


 智は石片の先端を少しずつ動かし、金属片の位置を確かめる。


 わずかな手応え。


 もう少し。


 その瞬間、部品が小さく跳ねた。


 カチッ。


 今度は、先ほどよりもはっきりした音だった。


 結晶の光が強まり、台座の表面に刻まれた模様が金色に輝き始める。床の溝にも細い光が走り、入口側と奥側、それぞれの柱へ向かって伸びていった。


 智は石片を引き抜き、身を引いた。


 台座の奥から、低い唸りのような振動が伝わってくる。


 ――ウゥン。


 機械が動き始めるときの音に似ていた。


「……動いた」


 智は息を呑んだ。


 修理できたと断言するには早い。それでも、部品の位置を戻したことで装置の反応が変わったのは確かだった。


 結晶を囲む枠の内側で、小さな円形の窪みが二つ浮かび上がる。これまでは模様の一部にしか見えなかったが、金色の光が縁をなぞったことで、周囲とは別の部品だと分かった。


 それぞれの窪みから、床の溝へ線がつながっている。


 一つは入口側。


 もう一つは奥の通路側だ。


「……これが操作部か?」


 智は窪みを見比べた。


 指先で押すためのものにも見える。しかし、押した途端に石板が下りてくるなら、位置を間違えれば自分の逃げ道を塞ぐことになる。


 そのとき、台座の内部から、かすかな金属音が聞こえた。


 カチ……カチ……。


 先ほどまで動かなかった円形の板が、ほんの少しだけ回転している。板の縁に沿って設けられた細い切り欠きが、台座の側面に埋め込まれた金属板の位置へ近づき、そこで止まった。


 智は眉をひそめた。


 まるで、複数の動作を順番に切り替えるための機構に見える。


 自動ドアにも、扉の開閉だけでなく、施錠や安全確認など、いくつもの動作を連動させる仕組みがある。もちろん、この装置が同じ用途だとは限らないが、二つの閉鎖板だけを動かすには、中央の構造が妙に複雑だった。


 とくに気になったのは、四本の支柱の根元だ。


 金属枠を固定しているように見えた部分には、わずかな遊びがある。支柱が動くのか、それとも台座の内側に別の部品が隠されているのか。今の位置からでは確かめられなかった。


 慎重に試したいところだった。


 だが、その余裕は失われつつあった。


 ――ガァンッ!


 背後から、これまでとは違う破砕音が響いた。


 続いて、何か大きなものが崩れ落ちる音。


 智は身体を強張らせ、入口へ目を向けた。


 石の扉が壊れたのか。


 確かめる間もなく、重い足音が聞こえてきた。


 速い。


 しかも、こちらへ近づいている。


 智は台座から一歩離れ、入口を見つめた。


 やがて暗い通路の奥に、黄色い光が二つ浮かび上がる。


 怪物の目だった。


 灰色の身体が金色の光の中へ現れる。人間よりも大きな体格、長い腕、犬に似た顎。岩のように硬そうな皮膚には細かな傷があり、鼻先を持ち上げるようにして広間の空気を嗅いでいた。


 先ほど追ってきた個体だろうか。


 体格も姿もよく似ているが、智には確信が持てなかった。


 怪物は広間の入口で足を止めると、黄色い目をこちらへ向けた。


 見つかった。


 低い唸り声が、広間に響く。


 智は反射的に後ずさった。


 心臓が激しく打っている。今すぐ奥の通路へ逃げ込みたい。だが、逃げ続けても、また追いつかれるかもしれない。


 智は台座を横目で見た。


 入口側の円形の窪み。


 その先にある、天井の厚い石板。


 操作できるかどうか、まだ確かめていない。


 もし動かなければ。


 もし、思ったより遅ければ。


 怪物が一歩踏み出す。


 石の床に、重い足音が響いた。


 智は深く息を吸い、震える声を押し出した。


「……来いよ」


 怪物がわずかに頭を傾ける。


 言葉を理解した様子はない。それでも、智がそこにいることは認識しているらしく、長い腕を揺らしながら、ゆっくりと近づいてきた。


 智は足元に落ちていた小石を拾い、怪物の手前へ投げた。


 カンッ。


 石が床を跳ねる。


 怪物の視線が動いた。


 次の瞬間、灰色の巨体が走り出す。


「……っ!」


 速い。


 智は反射的に後ろへ下がった。


 台座まで、あと二歩。


 怪物が広間へ踏み込む。


 その身体が入口の柱と柱の間を通過したところで、智は台座へ駆け寄り、入口側の窪みに右手を押し当てた。


 何も起きない。


 一瞬、息が止まった。


 怪物が迫る。


 智は指の位置を変え、もう一度、強く押し込んだ。


 今度は台座の模様が輝き、頭上から低い振動が伝わってきた。


 ――ゴゴゴッ。


 入口の天井に収まっていた灰色の石板が、ゆっくりと下り始める。


 動いた。


 だが、遅い。


 想像していたよりも、ずっと遅かった。


 怪物はすでに広間の中へ入っている。このままでは、石板は怪物の後ろへ下りるだけで、足止めにはならない。


 智は奥歯を噛みしめた。


 失敗した。


 操作する位置は間違っていなかったが、閉鎖板の速度を見誤っていた。怪物をもっと入口付近で止めておくか、先に装置の動作を確かめる必要があったのだ。


 だが、今さら考えても遅い。


 怪物が腕を振り上げる。


 智は台座の陰へ飛び込んだ。


 直後、鋭い爪が石の表面を引っかき、火花のような光が散る。衝撃で台座が震え、智は床へ転がった。


「ぐっ……!」


 左肩に激痛が走る。


 息を詰めながら顔を上げると、怪物が台座の反対側へ回り込もうとしていた。


 智は慌てて立ち上がり、奥の通路へ向かって走る。


 背後から重い足音。


 入口の閉鎖板はまだ下り続けているが、怪物はその手前にいる。いまさら入口側を閉じたところで、怪物の動きを止められない。


 奥の通路まで、あと数メートル。


 怪物との距離は、それより短い。


 このままでは追いつかれる。


 智は一瞬だけ振り返り、台座と床の溝を見た。


 入口側の閉鎖板。


 奥側の閉鎖板。


 その間に、台座がある。


 怪物は今、広間の中央付近にいる。


 両側を閉じれば、怪物を閉じ込めることはできるかもしれない。しかし、それだけでは倒せない。何より、操作する自分まで広間に残れば、怪物と一緒に閉じ込められてしまう。


 智は唇を噛んだ。


 考えろ。


 何かあるはずだ。


 台座の位置。


 閉鎖板の速度。


 怪物の動き。


 頭の中で、いくつもの情報が入り乱れる。


 そのとき、怪物が台座へ向かって突進した。


 智は反射的に身を伏せる。


 ――ガァンッ!


 怪物の腕が、結晶を囲む金属枠へ叩きつけられた。


 四本の支柱のうち一本が大きく歪み、金色の光が不規則に揺れる。台座の内部から甲高い音が響き、床の溝を走る光も一瞬だけ乱れた。


 智は顔を上げた。


 怪物の腕が、金属枠の間に挟まっている。


 鋭い爪が支柱へ引っかかり、抜けなくなったらしい。


 怪物は腕を引き抜こうと暴れ、枠全体が大きく軋んだ。力任せに引けば、すぐに壊れてしまいそうだった。


 ところが、怪物がもう一度腕を引いたとき、金属枠は単に歪むだけではなかった。


 ガチンッ。


 支柱の根元で何かが噛み合う音がした。


 歪んだ支柱がわずかに戻り、その隣にある別の金属板が、内側へ動く。怪物の前腕を挟んだ隙間が、ほんの少し狭くなった。


 怪物が吠え、さらに力を込める。


 すると、台座の内部から今度は低い軋みが聞こえた。


 智は息を呑んだ。


 ――枠が、動いている?


 怪物が引っ張っているから動いたのか、装置そのものが動き始めたのか、判断できない。


 ただ、金属枠の内側へ入り込んだ怪物の腕は、先ほどより深く固定されているように見えた。


 ほんの数秒。


 だが、今なら。


 智は台座へ駆け戻り、奥側の円形の窪みに手を伸ばした。


 押す。


 金色の光が走る。


 奥の通路の天井から、もう一枚の石板が下り始めた。


 智はその動きを確かめ、すぐに怪物へ目を戻した。


 これで、両側の閉鎖機構が動いている。


 同時に、台座の下から、これまで聞こえなかった重い音が響き始めた。


 ――ゴ……ゴ……。


 入口の石板が下りる振動とは、明らかに違う。


 台座の側面に見えていた円形の板が、ゆっくり回転している。その縁に刻まれた切り欠きが一つずつ金属板に触れるたび、四本の支柱の根元から、硬いものが締まるような音がした。


 智は一瞬、動きを止めかけた。


 装置の内部で、何かが連動している。


 だが、その仕組みを考えている時間はなかった。


 奥の石板が下り切る前に、自分は通路へ逃げ込まなければならない。しかも、怪物の腕が外れれば、すぐに追ってくるだろう。


 怪物が吠えた。


 金属枠がさらに軋む。


 怪物は空いている方の腕で台座を殴りつけた。石の表面が欠け、結晶の光が激しく揺れる。


 だが、挟まった腕は抜けない。


 むしろ、暴れるたびに支柱の内側で金属板がわずかに動き、腕の周囲を締めつけているように見えた。


 智はぞっとした。


 この台座は、単に結晶を支えるためのものではないのかもしれない。


 しかし、確かめる余裕はない。


 智は台座の反対側へ回り込み、床に落ちていた小さな石片を拾った。怪物の足元へ投げると、硬い石が跳ね、短い音を響かせる。


 怪物の黄色い目が、一瞬だけそちらを向いた。


 その隙に、智は奥の通路へ走った。


 閉鎖板は下り続けている。


 まだ、人が通れるだけの隙間はあった。


 智は身体を低くする。


 左肩が痛む。右手にも力が入らない。


 それでも止まれない。


 床を蹴り、下りてくる石板の下へ身体を滑り込ませる。


 作業着の背中が石の床に擦れた。


 頭上すれすれを、分厚い石板が通り過ぎる。


 そして――。


 ――ゴンッ!


 閉鎖板が床へ到達した。


 智はそのまま数歩転がり、壁に手をついて身体を起こした。


 振り返ると、灰色の石板が通路を完全に塞いでいる。


 怪物の姿は見えない。


 だが、向こう側から激しい衝撃音が響いた。


 ドンッ!


 続いて、もう一度。


 ドンッ!


 怪物が暴れている。


 智は荒い息を整えながら、閉鎖板を見つめた。


 閉じ込めた。


 少なくとも、今は。


 だが、それだけでは倒したことにはならない。石板が壊されれば、再び追われることになるだろう。


 智は壁に背を預け、痛む左肩を押さえた。


 入口側の閉鎖板も、すでに下り切っているはずだ。そうであれば、怪物は二枚の石板に挟まれた広間から出られない。


 ただし、あの怪力なら、装置そのものを壊すかもしれなかった。


 向こう側で、金属が軋むような音が響く。


 続いて、怪物の咆哮。


 智は閉鎖板から目を離せなかった。


 先ほど見た光景が頭から離れない。


 怪物の腕を挟んだ金属枠。


 内側へ動いた金属板。


 そして、台座の下でゆっくり回り始めた円形の部品。


 もし、あれが何かを締めつけるための仕組みだったとしたら。


 ――ギギギ……。


 隔壁の向こうから、重い金属音が聞こえてきた。


 怪物が暴れている音とは違う。


 一定の間隔で、何かが噛み合い、押し込まれていくような音だった。


 その合間に、怪物の唸り声が重なる。


 智は思わず身を起こした。


「……おい」


 返事などあるはずがない。


 それでも、声を出さずにはいられなかった。


 金属音が、さらに低くなる。


 ――ゴリ……ゴリ……。


 何かが強い力を受け、軋んでいる。


 怪物の咆哮が一段と大きくなった。


 そして、その声が突然途切れた。


「……?」


 智は眉をひそめた。


 閉鎖板の向こうでは、低い振動がまだ続いている。


 何かが動いている。


 何かが、壊れているのかもしれない。


 やがて、重いものが床へ落ちるような音が響いた。


 ――ドスン。


 そのあと、しばらくして、台座の内部から聞こえていたらしい規則的な音も止まった。


 静寂が戻る。


 智は息を止め、耳を澄ませた。


 怪物の唸り声は聞こえてこない。足音もなく、爪が石を引っかく音さえ消えていた。


 遠くで水滴が落ちる音だけが、静かな通路に響いている。


「……どうなった?」


 声に出しても、答えは返ってこない。


 智は閉鎖板へ近づきかけたが、途中で足を止めた。


 向こう側の様子は分からない。


 怪物が動かなくなったとしても、単に待ち伏せしているだけかもしれなかった。


 それに、閉鎖板を開ける方法も分からない。


 不用意に触れるべきではないだろう。


 そう考えた瞬間、視界に文字が浮かび上がった。


『未分類生物の生命反応消失を検出』


 智は目を見開いた。


 自分で《解析》を使ったわけではない。これまでにも何度か現れた、個体情報を管理する仕組みからの通知だった。


 続いて、別の文字が現れる。


『戦闘行動の終了を確認』


『討伐寄与を確認』


『経験値を取得しました』


 智は、しばらく動けなかった。


 倒した。


 あの怪物を。


 自分が。


 いや、正確には、装置の力を借りたのだ。


 しかも、何が致命傷になったのかは分からない。


 怪物の腕が金属枠に挟まれたことは見ている。閉鎖板を動かしたあと、台座の内部で何かが動き始めたことも確かだ。


 あの枠が、怪物の腕を締めつけたのだろうか。


 あるいは、暴れた怪物が装置を壊し、その結果として何かが起きたのか。


 閉鎖板の向こうを見られない以上、答えは出せなかった。


 ただ、目の前の表示が正しいなら、怪物はもう生きていない。


 智はゆっくり壁へ背を預けた。


 膝が震えている。


 肩の痛みも、右手の腫れも、少しも消えていない。それなのに、身体の力だけが急に抜けていくようだった。


 怖かった。


 本当に、怖かった。


 石板が動かなければ。


 怪物の腕が台座に引っかからなければ。


 奥の閉鎖板をくぐるのが、あと一瞬でも遅れていれば。


 どこか一つ違っていただけで、今ごろ自分が倒れていたかもしれない。


 智は震える右手を見つめた。


 勝ったという実感は、まだない。


 ただ、生きている。


 その事実だけが、胸の奥へゆっくり染み込んでいった。


 やがて、視界の文字が変わる。


『経験値が規定値に到達しました』


『Lvが上昇しました』


「……レベル?」


 智は顔を上げた。


 新しい表示が現れる。


『Lv:1 → 2』


 その文字を見た瞬間、胸の奥に温かいものが生まれた。


 熱とも、光とも違う不思議な感覚だった。身体の中心から何かが広がり、肩や腕、脚の奥へゆっくり染み込んでいく。


 全身の筋肉が、かすかに震える。


 智は思わず壁から身体を離した。


 呼吸が、少し深くなったように感じられる。


 さっきまで重かった脚にも、わずかな軽さが戻っていた。


 試しに右手を握ってみる。


 痛みは残っている。それでも、指の動きは先ほどより滑らかになったようだった。


 左肩の傷も、まだ疼いている。


 完全に治ったわけではない。


 しかし、身体の芯に溜まっていた疲労が、ほんの少し薄れた気がした。


「……なんだ、これ」


 智は自分の手を見つめた。


 続いて、視界に文字が現れる。


『身体適応値:微増』


『筋力:微増』


『持久力:微増』


『反応速度:微増』


 智は息を呑んだ。


 強くなった。


 ほんの少しだけ。


 だが、確かに何かが変わっている。


 これまでの身体とは、どこか違う。


 それでも、無理ができるようになったとは思えなかった。左肩は痛み、右手も腫れている。疲労が完全に消えたわけでもない。


 数字が上がったからといって、怪我まで治るわけではないのだろう。


 智は慎重に肩を動かし、痛みが強くならない範囲を確かめた。


 まだ、戦える身体ではない。


 その認識だけは、変わらなかった。


 すると、さらに別の表示が現れた。


『既存スキルの使用履歴を確認』


『《解析《アナライズ》》の熟練度が上昇しました』


 智は目を見開いた。


『《解析《アナライズ》》:機能拡張』


『追加機能:局所構造解析』


『追加機能:動作傾向推定』


『解析負荷:一部軽減』


「……機能拡張?」


 智は表示を読み返した。


 局所構造解析。


 動作傾向推定。


 どちらも、これまで自分が欲しいと思っていた情報に近い。


 壊れた部品の一部分だけを詳しく調べることができれば、修理の判断に役立つだろう。動作の傾向を推定できるなら、機械の不具合や、これから起きそうな変化を把握できるかもしれない。


 ただし、それがどこまで正確なのかは分からない。


 まして、怪物の動きを完全に予測できるようになったとは考えにくかった。


 智は表示を見つめたまま、静かに息を吐いた。


 能力が成長したことは、ありがたい。


 だが、使い方を間違えれば危険なのは、これまでと同じだ。


 そう考えていると、さらに文字が切り替わった。


『新規スキルの獲得条件を満たしました』


『《危機察知《センス・デンジャー》》を獲得しました』


「……新しいスキル?」


 智は思わず声を漏らした。


 表示が続く。


『《危機察知《センス・デンジャー》》』


『周辺の危険兆候を感覚的に補助します』


『検出精度:低』


『未知の危険、遮蔽物越しの危険は検出できない場合があります』


 智はしばらく文字を見つめ、それから小さく苦笑した。


「……相変わらず、説明が不親切だな」


 危険を察知する能力。


 言葉の意味は分かる。


 だが、具体的に何が起きるのかまでは分からなかった。怪物が近づけば、何となく嫌な予感がするのだろうか。それとも、危険な場所へ足を踏み入れたとき、身体が反応するのだろうか。


 どちらにしても、万能ではないらしい。


 検出精度は低く、未知の危険や遮蔽物越しの危険には反応しない場合があるという。


 つまり、この能力があっても、すべての危険を避けられるわけではない。


 智は深く息を吐いた。


 それでも、ありがたかった。


 怪物に襲われる直前、ほんの少しでも早く異変に気づけるなら、生き残る可能性は上がる。


 ただし、頼りすぎないこと。


 能力は、あくまで補助。


 最後に判断するのは、自分自身だ。


 智はそう心に決め、閉鎖板へ目を向けた。


 向こう側には、倒した怪物がいるはずだった。


 だが、今すぐ確かめに行く気にはなれない。


 装置が壊れているかもしれないし、ほかの怪物が入り込んでいる可能性もある。何より、自分の身体はまだ傷ついていた。


 智は奥の通路へ視線を移した。


 暗闇の先には、再び青白い光が見えている。


 この先に何があるのかは分からない。


 地上へ戻る道なのか。


 さらに深い場所へ続いているのか。


 それとも、また別の怪物が待っているのか。


 分からないことばかりだった。


 それでも、さっきまでとは少し違う。


 逃げることしかできなかった自分が、初めて怪物を倒した。


 しかも、力任せに戦ったわけではない。


 これまで積み重ねてきた仕事の経験を使い、目の前にある構造を観察し、動かせる部分を探し、使えるものを利用した。


 もちろん、偶然に助けられた部分も大きい。


 装置の修理がうまくいったことも、怪物の腕が金属枠に引っかかったことも、すべてが計算どおりだったわけではなかった。


 むしろ、失敗の方が多かったかもしれない。


 それでも、考えることをやめなかった。


 その結果、今こうして生きている。


 智は右手をゆっくり握った。


 まだ痛い。


 それでも、少しだけ力が入る。


「……よし」


 小さく呟き、壁から身体を離した。


 通路の先に見える青白い光は、これまで何度も見てきたものと変わらない。だが、その向こうへ進もうとする自分の気持ちは、ほんの少しだけ違っていた。


 怪物を倒したからといって、この地下迷宮を生き抜ける保証はない。


 新しい能力を得たからといって、何でもできるようになったわけでもない。


 それでも、ここには理解できる仕組みがある。


 すべてではない。


 だが、少なくとも一部は。


 ならば、まだやれることがある。


 智は痛む左肩をかばいながら、ゆっくりと歩き始めた。


 生き残るために考える。


 考えたことを試す。


 うまくいかなければ、別の方法を探す。


 それは、四十七年間生きてきた自分にとって、決して特別なことではなかった。


 壊れた扉を前にしたときも、同じようにしてきた。


 目の前の問題から逃げず、一つずつ原因を探していく。


 今は、それを続けるしかない。


 智は暗い通路の奥へ進んでいった。


 背後には、閉ざされた石の隔壁が残されている。


 その向こうで何が起きたのか、確かめることはできなかった。


 ただ一つ、分かっていることがある。


 自分は、まだ生きている。


 そして、帰るための道を探し続けている。


 青白い光が、少しずつ近づいてきた。


 智はその光を見つめながら、足を止めずに歩き続けた。




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