4:初めての地下世界
さあ!ここから物語は加速してゆく!
・・・・・・はず
「初めての勝利」
通路の奥に見える金色の光は、少しも揺れていなかった。
炎であれば空気の流れに応じて形を変えるだろうし、水面に反射した光なら、わずかな波によって明るさが変わるはずだ。しかし、暗闇の向こうに浮かぶ淡い金色は、壁に描かれた模様のように一定の輝きを保っている。
結城智は歩く速度を落とし、光の正体を確かめようと目を凝らした。
背後から、重い音が響く。
――ドンッ。
反射的に振り返ったものの、先ほど閉めた石の扉はもう見えなかった。通路が緩やかに曲がっているため、その先の様子までは分からない。それでも、怪物がまだ扉を叩いていることだけは、繰り返される衝撃音から容易に想像できた。
「……しつこいな」
口に出してみても、気持ちは少しも軽くならない。
左肩には三本の爪痕が残り、右手も腫れたまま。怪物の攻撃を鋼管で受け止めたときの衝撃が、まだ腕の奥に鈍く残っている。さらに、何度も《解析》を使ったせいか、こめかみの辺りには重苦しい痛みが居座っていた。
ここで再び怪物に追いつかれれば、今度こそ逃げ切れないかもしれない。
智は痛む肩をかばいながら足を速めた。金色の光は次第に大きくなり、やがて通路の先に開けた空間が見えてくる。
そこは、十メートル四方ほどの広間だった。
壁の一部には青白い苔が生えているものの、中央付近だけは柔らかな金色に染まっている。光の源は、広間のほぼ中央に据えられた石の台座。その上には、拳を二つ並べたほどの大きさの結晶が浮かぶように収まっていた。
「……なんだ、あれ」
結晶は透明に近い琥珀色で、内部には無数の小さな光の粒が見える。それらは水中を漂う細かな泡のように、ゆっくりと一定の方向へ回っていた。
智は入口から動かず、まず広間全体を見回した。
奥には別の通路が一つあり、入口から台座へ向かって二本の細い溝が延びている。先ほど見つけた経路管理装置とよく似た構造だが、こちらの台座には、結晶を囲むように四本の細い支柱が立っていた。
支柱は金属製にも見え、その根元から床の溝へ何かがつながっている。台座の下部には円形の板が埋め込まれており、部品の配置には明らかな規則性があった。
さらに、台座の側面には、石の表面を細く切り欠いたような隙間がある。その奥に、何枚もの金属板が重なっているのが見えた。金属板はそれぞれ異なる方向へ伸び、台座の内部で複雑に組み合わされているらしい。
智は慎重に近づき、少し離れた位置でしゃがみ込んだ。
電気錠の制御部。自動ドアの駆動装置。あるいは、制御盤から伸びる配線と、その先につながる機械。
これまで仕事で扱ってきたものが、次々と頭に浮かんだ。
もちろん、目の前にあるものは、そのどれとも違う。金属に似た支柱も、琥珀色の結晶も、智の知っている建具には使われていなかった。それでも、複数の部品が決まった位置に組み合わされている以上、何らかの仕組みに従って動いている可能性は高い。
床の溝を目で追うと、一方は来た通路へ、もう一方は奥の通路へ続いている。
「……切り替え装置か?」
独り言に答える者はいない。
智はスマートフォンで台座を数枚撮影し、画面を確認してからポケットへ戻した。電池の残量は気になるが、ここで見つけた構造を記録しておけば、あとで役立つかもしれなかった。
問題は、何のための装置なのかということだ。
《解析》を使えば、少しは分かるだろう。しかし、先ほどから続く頭痛を考えると、むやみに能力を使うのは避けたい。必要以上に深く調べれば、怪物が迫ってきたときに動けなくなる恐れもある。
智はしばらく迷った末、結晶ではなく、台座の下部だけに意識を集中させた。
「……解析」
淡い文字が視界に現れる。
『対象:経路制御構造』
『状態:稼働中』
『接続先:二』
『駆動部:一部損傷』
駆動部。
機械を動かす部分なら、智にも理解できる。問題は、その損傷がどこにあり、どの程度のものなのかということだった。
表示が続く。
『閉鎖機構:作動可能』
『作動条件:制御入力』
『制御方法:解析不能』
「……閉鎖機構?」
智はすぐに《解析》を止め、顔を上げた。
入口と奥の通路を交互に見比べる。どちらも今は開いたままで、扉らしいものは見当たらない。だが、閉鎖機構があるというなら、どこかに通路を塞ぐための仕組みが備わっているはずだった。
智は台座から離れ、入口側の壁に沿って歩いてみた。
通路の両脇には灰色の柱が埋め込まれている。先ほどは岩壁の一部だと思っていたが、よく見ると表面に細い縦溝が刻まれ、左右の柱が向かい合うように配置されていた。
足を止め、柱と柱の間から天井を見上げる。
そこには幅の広い隙間があり、暗がりの奥に厚い板のようなものが収まっていた。
「……シャッターか」
普通のシャッターとは似ても似つかない材質だった。鋼板でもアルミでもなく、灰色の石に近い。しかし、左右にガイドとなる溝があり、上部に収納された板が下りてくる構造なら、通路を塞ぐことができる。
智は奥の通路へも足を運んだ。
こちらにも同じ柱と天井の隙間がある。つまり、広間の入口と出口、それぞれに閉鎖機構が設けられているらしい。
なぜ、こんな場所に二つも必要なのだろう。
答えは出ない。ただ、怪物がこの広間へ入ってきた場合、使い方によっては足止めできるかもしれなかった。
智は台座へ戻り、四本の支柱を改めて観察する。
そこで、一つだけ妙なことに気づいた。
ほかの三本は真っ直ぐ立っているのに、手前右側の支柱だけが、わずかに内側へ傾いている。
しゃがみ込んで根元を覗くと、細い金属片のような部品が曲がり、その先端が隣の部品に引っかかっていた。完全に折れているのか、途中でひびが入っているだけなのかは分からないが、本来の位置からずれていることは確かだった。
「……なるほどな」
見慣れた故障の形だった。
自動ドアでも、蝶番でも、ほんの数ミリのずれが原因で正常に動かなくなることがある。部品そのものが壊れていなくても、隣の金物と干渉していれば、動作が途中で止まってしまう。
目の前の装置も同じ原理とは限らない。それでも、動きを妨げている部分があるなら、まずそこを疑うべきだろう。
智は手を伸ばしかけ、途中で止めた。
不用意に触れるのは危険だ。金属片に見える部品が、実際には別の役割を持っている可能性もある。無理に押せば、取り返しのつかない故障を起こすかもしれなかった。
周囲を見回すと、床に細長い石片が落ちている。長さは二十センチほどで、片方の先端が薄くなっていた。
智はそれを拾い、曲がった部品の近くへ慎重に差し込んだ。
まずは、ごく軽く押してみる。
動かない。
支点を変え、今度は横から力を加えると、金属片がほんのわずかに動いた。
カチッ。
小さな音が響き、台座の結晶が一瞬だけ強く輝いた。
智はすぐに石片を引き抜き、数歩下がる。光はほどなく元の明るさへ戻り、ほかに変化は起きなかった。
「……反応したな」
部品が動いたことと、結晶の光が変わったこと。
二つの現象が偶然重なった可能性もあるが、少なくとも、今触れた場所が装置の動作に関係していることは考えられる。
智は再び台座へ近づき、金属片の位置を確かめた。
まだ完全には戻っていない。
無理をすれば折れそうな細さだが、力のかけ方を変えれば、もう少し動かせるかもしれなかった。
そのとき、背後から激しい衝撃音が響いた。
――ゴンッ!
智は振り返った。
来た通路の奥から、低い唸り声が聞こえる。
怪物だ。
石の扉を、まだ叩いている。
先ほどよりも音が大きい。距離のせいかもしれないが、扉そのものが傷んできた可能性もあった。
智は奥歯を噛みしめた。
ここに留まっていれば、いずれ追いつかれるかもしれない。奥の通路へ逃げ込むこともできるが、その先に安全な場所がある保証はなかった。
視線が、自然と台座へ戻る。
閉鎖機構。
制御入力。
駆動部の損傷。
それぞれの言葉が、少しずつ頭の中で結びついていった。
もし、この装置を動かして入口の石板を下ろせるなら、怪物の進路を塞ぐことができる。広間へ誘い込んでから閉鎖すれば、奥の通路へ逃げる時間を稼げるかもしれない。
ただし、石板が下りる速度も、操作してから動き始めるまでの時間も分からない。途中で止まる可能性もあるし、怪物が別の通路を探すかもしれなかった。
まして、あれほど大きな怪物を相手に、思いどおりの位置へ誘導できるとは限らない。
智は天井を見上げた。
石板はかなり厚い。重量も相当なものだろう。
あれが怪物の身体に当たれば、傷を負わせられるかもしれない。しかし、石板が落ちる速度も、どれほどの力で閉じるのかも分からない以上、それを前提にした計画は危険だった。
それでも、何もしなければ追いつかれる。
智は石片を握り直した。
右手には痛みが走り、左肩もじくじくと疼いている。まともに戦える状態ではない。それなら、目の前にある仕組みを利用するほかなかった。
まずは、装置を動かせる状態にする。
それから考える。
智は曲がった金属片へ目を戻し、先ほどよりも慎重に石片を差し込んだ。
接触している部分を目で追い、どちらへ動かせば干渉がなくなるかを考える。力をかける方向を間違えれば、細い部品は簡単に折れてしまいそうだった。
智は石片の先端を少しずつ動かし、金属片の位置を確かめる。
わずかな手応え。
もう少し。
その瞬間、部品が小さく跳ねた。
カチッ。
今度は、先ほどよりもはっきりした音だった。
結晶の光が強まり、台座の表面に刻まれた模様が金色に輝き始める。床の溝にも細い光が走り、入口側と奥側、それぞれの柱へ向かって伸びていった。
智は石片を引き抜き、身を引いた。
台座の奥から、低い唸りのような振動が伝わってくる。
――ウゥン。
機械が動き始めるときの音に似ていた。
「……動いた」
智は息を呑んだ。
修理できたと断言するには早い。それでも、部品の位置を戻したことで装置の反応が変わったのは確かだった。
結晶を囲む枠の内側で、小さな円形の窪みが二つ浮かび上がる。これまでは模様の一部にしか見えなかったが、金色の光が縁をなぞったことで、周囲とは別の部品だと分かった。
それぞれの窪みから、床の溝へ線がつながっている。
一つは入口側。
もう一つは奥の通路側だ。
「……これが操作部か?」
智は窪みを見比べた。
指先で押すためのものにも見える。しかし、押した途端に石板が下りてくるなら、位置を間違えれば自分の逃げ道を塞ぐことになる。
そのとき、台座の内部から、かすかな金属音が聞こえた。
カチ……カチ……。
先ほどまで動かなかった円形の板が、ほんの少しだけ回転している。板の縁に沿って設けられた細い切り欠きが、台座の側面に埋め込まれた金属板の位置へ近づき、そこで止まった。
智は眉をひそめた。
まるで、複数の動作を順番に切り替えるための機構に見える。
自動ドアにも、扉の開閉だけでなく、施錠や安全確認など、いくつもの動作を連動させる仕組みがある。もちろん、この装置が同じ用途だとは限らないが、二つの閉鎖板だけを動かすには、中央の構造が妙に複雑だった。
とくに気になったのは、四本の支柱の根元だ。
金属枠を固定しているように見えた部分には、わずかな遊びがある。支柱が動くのか、それとも台座の内側に別の部品が隠されているのか。今の位置からでは確かめられなかった。
慎重に試したいところだった。
だが、その余裕は失われつつあった。
――ガァンッ!
背後から、これまでとは違う破砕音が響いた。
続いて、何か大きなものが崩れ落ちる音。
智は身体を強張らせ、入口へ目を向けた。
石の扉が壊れたのか。
確かめる間もなく、重い足音が聞こえてきた。
速い。
しかも、こちらへ近づいている。
智は台座から一歩離れ、入口を見つめた。
やがて暗い通路の奥に、黄色い光が二つ浮かび上がる。
怪物の目だった。
灰色の身体が金色の光の中へ現れる。人間よりも大きな体格、長い腕、犬に似た顎。岩のように硬そうな皮膚には細かな傷があり、鼻先を持ち上げるようにして広間の空気を嗅いでいた。
先ほど追ってきた個体だろうか。
体格も姿もよく似ているが、智には確信が持てなかった。
怪物は広間の入口で足を止めると、黄色い目をこちらへ向けた。
見つかった。
低い唸り声が、広間に響く。
智は反射的に後ずさった。
心臓が激しく打っている。今すぐ奥の通路へ逃げ込みたい。だが、逃げ続けても、また追いつかれるかもしれない。
智は台座を横目で見た。
入口側の円形の窪み。
その先にある、天井の厚い石板。
操作できるかどうか、まだ確かめていない。
もし動かなければ。
もし、思ったより遅ければ。
怪物が一歩踏み出す。
石の床に、重い足音が響いた。
智は深く息を吸い、震える声を押し出した。
「……来いよ」
怪物がわずかに頭を傾ける。
言葉を理解した様子はない。それでも、智がそこにいることは認識しているらしく、長い腕を揺らしながら、ゆっくりと近づいてきた。
智は足元に落ちていた小石を拾い、怪物の手前へ投げた。
カンッ。
石が床を跳ねる。
怪物の視線が動いた。
次の瞬間、灰色の巨体が走り出す。
「……っ!」
速い。
智は反射的に後ろへ下がった。
台座まで、あと二歩。
怪物が広間へ踏み込む。
その身体が入口の柱と柱の間を通過したところで、智は台座へ駆け寄り、入口側の窪みに右手を押し当てた。
何も起きない。
一瞬、息が止まった。
怪物が迫る。
智は指の位置を変え、もう一度、強く押し込んだ。
今度は台座の模様が輝き、頭上から低い振動が伝わってきた。
――ゴゴゴッ。
入口の天井に収まっていた灰色の石板が、ゆっくりと下り始める。
動いた。
だが、遅い。
想像していたよりも、ずっと遅かった。
怪物はすでに広間の中へ入っている。このままでは、石板は怪物の後ろへ下りるだけで、足止めにはならない。
智は奥歯を噛みしめた。
失敗した。
操作する位置は間違っていなかったが、閉鎖板の速度を見誤っていた。怪物をもっと入口付近で止めておくか、先に装置の動作を確かめる必要があったのだ。
だが、今さら考えても遅い。
怪物が腕を振り上げる。
智は台座の陰へ飛び込んだ。
直後、鋭い爪が石の表面を引っかき、火花のような光が散る。衝撃で台座が震え、智は床へ転がった。
「ぐっ……!」
左肩に激痛が走る。
息を詰めながら顔を上げると、怪物が台座の反対側へ回り込もうとしていた。
智は慌てて立ち上がり、奥の通路へ向かって走る。
背後から重い足音。
入口の閉鎖板はまだ下り続けているが、怪物はその手前にいる。いまさら入口側を閉じたところで、怪物の動きを止められない。
奥の通路まで、あと数メートル。
怪物との距離は、それより短い。
このままでは追いつかれる。
智は一瞬だけ振り返り、台座と床の溝を見た。
入口側の閉鎖板。
奥側の閉鎖板。
その間に、台座がある。
怪物は今、広間の中央付近にいる。
両側を閉じれば、怪物を閉じ込めることはできるかもしれない。しかし、それだけでは倒せない。何より、操作する自分まで広間に残れば、怪物と一緒に閉じ込められてしまう。
智は唇を噛んだ。
考えろ。
何かあるはずだ。
台座の位置。
閉鎖板の速度。
怪物の動き。
頭の中で、いくつもの情報が入り乱れる。
そのとき、怪物が台座へ向かって突進した。
智は反射的に身を伏せる。
――ガァンッ!
怪物の腕が、結晶を囲む金属枠へ叩きつけられた。
四本の支柱のうち一本が大きく歪み、金色の光が不規則に揺れる。台座の内部から甲高い音が響き、床の溝を走る光も一瞬だけ乱れた。
智は顔を上げた。
怪物の腕が、金属枠の間に挟まっている。
鋭い爪が支柱へ引っかかり、抜けなくなったらしい。
怪物は腕を引き抜こうと暴れ、枠全体が大きく軋んだ。力任せに引けば、すぐに壊れてしまいそうだった。
ところが、怪物がもう一度腕を引いたとき、金属枠は単に歪むだけではなかった。
ガチンッ。
支柱の根元で何かが噛み合う音がした。
歪んだ支柱がわずかに戻り、その隣にある別の金属板が、内側へ動く。怪物の前腕を挟んだ隙間が、ほんの少し狭くなった。
怪物が吠え、さらに力を込める。
すると、台座の内部から今度は低い軋みが聞こえた。
智は息を呑んだ。
――枠が、動いている?
怪物が引っ張っているから動いたのか、装置そのものが動き始めたのか、判断できない。
ただ、金属枠の内側へ入り込んだ怪物の腕は、先ほどより深く固定されているように見えた。
ほんの数秒。
だが、今なら。
智は台座へ駆け戻り、奥側の円形の窪みに手を伸ばした。
押す。
金色の光が走る。
奥の通路の天井から、もう一枚の石板が下り始めた。
智はその動きを確かめ、すぐに怪物へ目を戻した。
これで、両側の閉鎖機構が動いている。
同時に、台座の下から、これまで聞こえなかった重い音が響き始めた。
――ゴ……ゴ……。
入口の石板が下りる振動とは、明らかに違う。
台座の側面に見えていた円形の板が、ゆっくり回転している。その縁に刻まれた切り欠きが一つずつ金属板に触れるたび、四本の支柱の根元から、硬いものが締まるような音がした。
智は一瞬、動きを止めかけた。
装置の内部で、何かが連動している。
だが、その仕組みを考えている時間はなかった。
奥の石板が下り切る前に、自分は通路へ逃げ込まなければならない。しかも、怪物の腕が外れれば、すぐに追ってくるだろう。
怪物が吠えた。
金属枠がさらに軋む。
怪物は空いている方の腕で台座を殴りつけた。石の表面が欠け、結晶の光が激しく揺れる。
だが、挟まった腕は抜けない。
むしろ、暴れるたびに支柱の内側で金属板がわずかに動き、腕の周囲を締めつけているように見えた。
智はぞっとした。
この台座は、単に結晶を支えるためのものではないのかもしれない。
しかし、確かめる余裕はない。
智は台座の反対側へ回り込み、床に落ちていた小さな石片を拾った。怪物の足元へ投げると、硬い石が跳ね、短い音を響かせる。
怪物の黄色い目が、一瞬だけそちらを向いた。
その隙に、智は奥の通路へ走った。
閉鎖板は下り続けている。
まだ、人が通れるだけの隙間はあった。
智は身体を低くする。
左肩が痛む。右手にも力が入らない。
それでも止まれない。
床を蹴り、下りてくる石板の下へ身体を滑り込ませる。
作業着の背中が石の床に擦れた。
頭上すれすれを、分厚い石板が通り過ぎる。
そして――。
――ゴンッ!
閉鎖板が床へ到達した。
智はそのまま数歩転がり、壁に手をついて身体を起こした。
振り返ると、灰色の石板が通路を完全に塞いでいる。
怪物の姿は見えない。
だが、向こう側から激しい衝撃音が響いた。
ドンッ!
続いて、もう一度。
ドンッ!
怪物が暴れている。
智は荒い息を整えながら、閉鎖板を見つめた。
閉じ込めた。
少なくとも、今は。
だが、それだけでは倒したことにはならない。石板が壊されれば、再び追われることになるだろう。
智は壁に背を預け、痛む左肩を押さえた。
入口側の閉鎖板も、すでに下り切っているはずだ。そうであれば、怪物は二枚の石板に挟まれた広間から出られない。
ただし、あの怪力なら、装置そのものを壊すかもしれなかった。
向こう側で、金属が軋むような音が響く。
続いて、怪物の咆哮。
智は閉鎖板から目を離せなかった。
先ほど見た光景が頭から離れない。
怪物の腕を挟んだ金属枠。
内側へ動いた金属板。
そして、台座の下でゆっくり回り始めた円形の部品。
もし、あれが何かを締めつけるための仕組みだったとしたら。
――ギギギ……。
隔壁の向こうから、重い金属音が聞こえてきた。
怪物が暴れている音とは違う。
一定の間隔で、何かが噛み合い、押し込まれていくような音だった。
その合間に、怪物の唸り声が重なる。
智は思わず身を起こした。
「……おい」
返事などあるはずがない。
それでも、声を出さずにはいられなかった。
金属音が、さらに低くなる。
――ゴリ……ゴリ……。
何かが強い力を受け、軋んでいる。
怪物の咆哮が一段と大きくなった。
そして、その声が突然途切れた。
「……?」
智は眉をひそめた。
閉鎖板の向こうでは、低い振動がまだ続いている。
何かが動いている。
何かが、壊れているのかもしれない。
やがて、重いものが床へ落ちるような音が響いた。
――ドスン。
そのあと、しばらくして、台座の内部から聞こえていたらしい規則的な音も止まった。
静寂が戻る。
智は息を止め、耳を澄ませた。
怪物の唸り声は聞こえてこない。足音もなく、爪が石を引っかく音さえ消えていた。
遠くで水滴が落ちる音だけが、静かな通路に響いている。
「……どうなった?」
声に出しても、答えは返ってこない。
智は閉鎖板へ近づきかけたが、途中で足を止めた。
向こう側の様子は分からない。
怪物が動かなくなったとしても、単に待ち伏せしているだけかもしれなかった。
それに、閉鎖板を開ける方法も分からない。
不用意に触れるべきではないだろう。
そう考えた瞬間、視界に文字が浮かび上がった。
『未分類生物の生命反応消失を検出』
智は目を見開いた。
自分で《解析》を使ったわけではない。これまでにも何度か現れた、個体情報を管理する仕組みからの通知だった。
続いて、別の文字が現れる。
『戦闘行動の終了を確認』
『討伐寄与を確認』
『経験値を取得しました』
智は、しばらく動けなかった。
倒した。
あの怪物を。
自分が。
いや、正確には、装置の力を借りたのだ。
しかも、何が致命傷になったのかは分からない。
怪物の腕が金属枠に挟まれたことは見ている。閉鎖板を動かしたあと、台座の内部で何かが動き始めたことも確かだ。
あの枠が、怪物の腕を締めつけたのだろうか。
あるいは、暴れた怪物が装置を壊し、その結果として何かが起きたのか。
閉鎖板の向こうを見られない以上、答えは出せなかった。
ただ、目の前の表示が正しいなら、怪物はもう生きていない。
智はゆっくり壁へ背を預けた。
膝が震えている。
肩の痛みも、右手の腫れも、少しも消えていない。それなのに、身体の力だけが急に抜けていくようだった。
怖かった。
本当に、怖かった。
石板が動かなければ。
怪物の腕が台座に引っかからなければ。
奥の閉鎖板をくぐるのが、あと一瞬でも遅れていれば。
どこか一つ違っていただけで、今ごろ自分が倒れていたかもしれない。
智は震える右手を見つめた。
勝ったという実感は、まだない。
ただ、生きている。
その事実だけが、胸の奥へゆっくり染み込んでいった。
やがて、視界の文字が変わる。
『経験値が規定値に到達しました』
『Lvが上昇しました』
「……レベル?」
智は顔を上げた。
新しい表示が現れる。
『Lv:1 → 2』
その文字を見た瞬間、胸の奥に温かいものが生まれた。
熱とも、光とも違う不思議な感覚だった。身体の中心から何かが広がり、肩や腕、脚の奥へゆっくり染み込んでいく。
全身の筋肉が、かすかに震える。
智は思わず壁から身体を離した。
呼吸が、少し深くなったように感じられる。
さっきまで重かった脚にも、わずかな軽さが戻っていた。
試しに右手を握ってみる。
痛みは残っている。それでも、指の動きは先ほどより滑らかになったようだった。
左肩の傷も、まだ疼いている。
完全に治ったわけではない。
しかし、身体の芯に溜まっていた疲労が、ほんの少し薄れた気がした。
「……なんだ、これ」
智は自分の手を見つめた。
続いて、視界に文字が現れる。
『身体適応値:微増』
『筋力:微増』
『持久力:微増』
『反応速度:微増』
智は息を呑んだ。
強くなった。
ほんの少しだけ。
だが、確かに何かが変わっている。
これまでの身体とは、どこか違う。
それでも、無理ができるようになったとは思えなかった。左肩は痛み、右手も腫れている。疲労が完全に消えたわけでもない。
数字が上がったからといって、怪我まで治るわけではないのだろう。
智は慎重に肩を動かし、痛みが強くならない範囲を確かめた。
まだ、戦える身体ではない。
その認識だけは、変わらなかった。
すると、さらに別の表示が現れた。
『既存スキルの使用履歴を確認』
『《解析》の熟練度が上昇しました』
智は目を見開いた。
『《解析》:機能拡張』
『追加機能:局所構造解析』
『追加機能:動作傾向推定』
『解析負荷:一部軽減』
「……機能拡張?」
智は表示を読み返した。
局所構造解析。
動作傾向推定。
どちらも、これまで自分が欲しいと思っていた情報に近い。
壊れた部品の一部分だけを詳しく調べることができれば、修理の判断に役立つだろう。動作の傾向を推定できるなら、機械の不具合や、これから起きそうな変化を把握できるかもしれない。
ただし、それがどこまで正確なのかは分からない。
まして、怪物の動きを完全に予測できるようになったとは考えにくかった。
智は表示を見つめたまま、静かに息を吐いた。
能力が成長したことは、ありがたい。
だが、使い方を間違えれば危険なのは、これまでと同じだ。
そう考えていると、さらに文字が切り替わった。
『新規スキルの獲得条件を満たしました』
『《危機察知》を獲得しました』
「……新しいスキル?」
智は思わず声を漏らした。
表示が続く。
『《危機察知》』
『周辺の危険兆候を感覚的に補助します』
『検出精度:低』
『未知の危険、遮蔽物越しの危険は検出できない場合があります』
智はしばらく文字を見つめ、それから小さく苦笑した。
「……相変わらず、説明が不親切だな」
危険を察知する能力。
言葉の意味は分かる。
だが、具体的に何が起きるのかまでは分からなかった。怪物が近づけば、何となく嫌な予感がするのだろうか。それとも、危険な場所へ足を踏み入れたとき、身体が反応するのだろうか。
どちらにしても、万能ではないらしい。
検出精度は低く、未知の危険や遮蔽物越しの危険には反応しない場合があるという。
つまり、この能力があっても、すべての危険を避けられるわけではない。
智は深く息を吐いた。
それでも、ありがたかった。
怪物に襲われる直前、ほんの少しでも早く異変に気づけるなら、生き残る可能性は上がる。
ただし、頼りすぎないこと。
能力は、あくまで補助。
最後に判断するのは、自分自身だ。
智はそう心に決め、閉鎖板へ目を向けた。
向こう側には、倒した怪物がいるはずだった。
だが、今すぐ確かめに行く気にはなれない。
装置が壊れているかもしれないし、ほかの怪物が入り込んでいる可能性もある。何より、自分の身体はまだ傷ついていた。
智は奥の通路へ視線を移した。
暗闇の先には、再び青白い光が見えている。
この先に何があるのかは分からない。
地上へ戻る道なのか。
さらに深い場所へ続いているのか。
それとも、また別の怪物が待っているのか。
分からないことばかりだった。
それでも、さっきまでとは少し違う。
逃げることしかできなかった自分が、初めて怪物を倒した。
しかも、力任せに戦ったわけではない。
これまで積み重ねてきた仕事の経験を使い、目の前にある構造を観察し、動かせる部分を探し、使えるものを利用した。
もちろん、偶然に助けられた部分も大きい。
装置の修理がうまくいったことも、怪物の腕が金属枠に引っかかったことも、すべてが計算どおりだったわけではなかった。
むしろ、失敗の方が多かったかもしれない。
それでも、考えることをやめなかった。
その結果、今こうして生きている。
智は右手をゆっくり握った。
まだ痛い。
それでも、少しだけ力が入る。
「……よし」
小さく呟き、壁から身体を離した。
通路の先に見える青白い光は、これまで何度も見てきたものと変わらない。だが、その向こうへ進もうとする自分の気持ちは、ほんの少しだけ違っていた。
怪物を倒したからといって、この地下迷宮を生き抜ける保証はない。
新しい能力を得たからといって、何でもできるようになったわけでもない。
それでも、ここには理解できる仕組みがある。
すべてではない。
だが、少なくとも一部は。
ならば、まだやれることがある。
智は痛む左肩をかばいながら、ゆっくりと歩き始めた。
生き残るために考える。
考えたことを試す。
うまくいかなければ、別の方法を探す。
それは、四十七年間生きてきた自分にとって、決して特別なことではなかった。
壊れた扉を前にしたときも、同じようにしてきた。
目の前の問題から逃げず、一つずつ原因を探していく。
今は、それを続けるしかない。
智は暗い通路の奥へ進んでいった。
背後には、閉ざされた石の隔壁が残されている。
その向こうで何が起きたのか、確かめることはできなかった。
ただ一つ、分かっていることがある。
自分は、まだ生きている。
そして、帰るための道を探し続けている。
青白い光が、少しずつ近づいてきた。
智はその光を見つめながら、足を止めずに歩き続けた。




