3:初めての地下世界
「光のない道」
暗い通路へ足を踏み入れて十歩ほど進んだところで、結城智は立ち止まった。
振り返ると、先ほど見つけた灰色の石柱が、闇の向こうにかろうじて浮かんでいる。その根元から延びていた細い溝は、智の足元を通り、さらに奥へと続いていた。
黒い多脚生物たちも、確かにこの方向へ進んでいったはずだ。ところが、すでにその姿はなく、耳を澄ませても、小さな脚が岩を擦る音さえ聞こえてこない。
「……速いな、あいつら」
小さく呟き、スマートフォンのライトを点ける。
白い光が暗闇を切り取り、左右の岩壁を照らし出した。
通路の幅は一メートルほど。ところどころ岩が張り出し、身体を横向きにしなければ通れそうにない場所もある。天井も低く、智が手を伸ばせば届きそうだった。
こういう場所は、仕事柄それほど珍しくない。
建具の修理では、天井裏や床下へ潜ることもある。配管や配線を避けながら狭い空間を進み、身体を捻って手の届きにくい金物を調整することも、これまで何度となく経験してきた。
ただし、ここには図面がない。
出入口の位置も、通路の長さも、先に何が待っているのかも分からない。しかも、壁一枚隔てた向こうには、人を襲う怪物がいるかもしれなかった。
慣れているなどと考えた途端、足元をすくわれそうな場所だった。
智はライトを下へ向けた。
石柱から続く溝は、途切れることなく通路の中央を走っている。幅は指一本ほどで、深さは数ミリ程度だろうか。岩の割れ目にしては妙に整っており、縁の部分には不自然なほど滑らかな面が残っていた。
しゃがみ込んで観察すると、何かの工具で削り出したようにも見える。
もっとも、何を使って加工したのかまでは分からない。
《解析》を使えば、もう少し情報を得られるかもしれなかった。しかし、先ほど石柱を調べた際の鈍い頭痛が、まだわずかに残っている。
能力を使えば、目で見るだけでは分からないことまで知ることができる。その一方で、使い続ければ身体に負担がかかることも、これまでの経験から明らかだった。
問題は、その限界がどこにあるのか、自分でも把握できていないことだ。
「……便利なんだか、不便なんだか」
智は苦笑し、立ち上がった。
今は、分からないものを無理に調べるより、先へ進める身体を残しておく方が大切だった。
ライトを足元へ戻し、細い溝を見失わないように歩き始める。
*
通路は緩やかな下り坂になっていた。
進むにつれて足元の砂が減り、硬い岩肌がむき出しになっていく。靴底から伝わる感触も、ざらついた土から、冷たく締まった石のものへと変わっていった。
やがて、一本だった溝の周囲に別の線が現れた。
智は足を止め、ライトを近づける。
溝が二本に分かれている。
ただし、道そのものが分岐しているわけではなかった。二本の線は一定の間隔を保ちながら並行して延び、数メートル先で再び一本に戻っている。その間には細かな横線が何本も刻まれ、まるで梯子を床へ寝かせたような模様になっていた。
「……なんだ、これ」
しゃがみ込んで確かめると、線の幅も横線の間隔も驚くほど揃っている。少なくとも、思いつきで適当に彫ったものには見えなかった。
智は仕事で見慣れた構造を思い浮かべた。
建具のレール。
床に埋め込む配線用の溝。
あるいは、排水のために設けられた細い水路。
どれにも少しずつ似ているが、どれとも違う。この細さではまともな排水路にはならないし、レールだとしても、何を走らせるためのものなのか見当がつかなかった。
智は写真を撮り、画面を拡大してみた。
横線の間隔は、ほぼ一定だった。
自然に生じた模様ではない。その確信だけが、観察を重ねるほど強くなっていく。
顔を上げると、周囲には荒々しい岩壁と低い天井が続いている。人工的な溝だけが、その風景の中で妙に浮いていた。
これを造った者がいる。
だとすれば、何らかの目的があったはずだ。
ただ、その目的が今も失われずに残っているとは限らない。
智は立ち上がり、ライトを前方へ向けた。
少し先で通路がわずかに広がり、その手前で溝が右へ曲がっている。足元を確かめながら進むと、数歩先で靴底に伝わる感触が変わった。
硬い。
それまでの岩肌とは違い、床が平らになっていた。
ライトを向けると、灰色の石板が通路の幅いっぱいに敷かれている。一枚岩ではなく、長方形の板が何枚も連なった構造で、継ぎ目は細く、ほとんど隙間がない。
「……床まで造ってあるのか」
智は石板の端へしゃがみ込み、わずかな段差に指先を触れた。
冷たい。
表面は滑らかに見えるものの、指でなぞると細かな凹凸がある。靴底を滑りにくくするための加工にも思えたが、それが意図的なものなのかは判断できなかった。
ここまで来ると、自然の洞窟を歩いているというより、何かの施設へ入り込んだような気がしてくる。
もっとも、天井や壁は相変わらず荒々しい岩肌のままだった。
床だけが、妙に整っている。
その不自然さが、かえって気になった。
智は慎重に石板へ片足を乗せた。
靴底を通して硬い感触が返ってくるだけで、特に変化はない。もう一歩踏み出してみても、床が沈んだり、何かが動いたりする様子はなかった。
それでも油断せず、足を置く場所を確かめながら進んでいく。
そのとき、前方から小さな音が届いた。
カリ。
カリカリ。
聞き覚えのある音だった。
智はすぐにライトを消し、壁際へ身体を寄せる。
しばらく暗闇に目を凝らしていると、遠くにわずかな青白い光が見え、その中を小さな影が横切った。
石のような背中と、細い脚。
あの多脚生物だ。
一匹ではない。何匹もの影が、床に刻まれた溝に沿って移動している。
智は動かずに様子をうかがった。
生き物たちはときどき立ち止まり、触角のような器官を小刻みに動かしている。やがて一匹が溝の中へ頭を突っ込み、小さな黒い粒を拾い上げた。
粒を顎で挟んだまま、その個体は再び歩き始める。
ほかの個体も、同じような動きを繰り返していた。
あの溝には、何かが溜まっているのだろうか。
それを食べているのか。それとも、巣へ運んでいるのか。
智は自分の足元へ目を向けた。
靴のすぐ先にも同じ溝が続いており、その中には砂粒ほどの黒いものがいくつか落ちている。
ライトを一瞬だけ点けて確かめると、粒はほとんど光を反射しなかった。石の粉にも見えるが、何かの種子のようにも思える。
触って確かめることはしなかった。
見知らぬ生き物の餌かもしれないものを、わざわざ拾う必要はない。
再びライトを消し、少し離れた場所から観察を続ける。
多脚生物たちは溝の上を進みながら黒い粒を拾い、ときどき別の個体とすれ違っていた。その際、互いの触角を短く触れ合わせるような動きを見せる。
何かを確認しているのだろうか。
それとも、単にぶつからないようにしているだけなのか。
どちらにしても、興味深い行動だった。
少なくとも、智の知っている虫とは少し違っている。
やがて生き物たちは奥の暗闇へ消えていき、岩を擦る小さな音も聞こえなくなった。
智はしばらく待ってからライトを点け、溝の中に残った黒い粒をもう一度見つめた。
石柱。
人工的な溝。
その上を移動し、何かを運ぶ生き物たち。
それぞれに関係があるのかどうかは分からない。
ただ、偶然にしては、少し出来すぎているようにも感じられた。
智は立ち上がり、通路の奥へ進んだ。
*
通路の先には、それまでとは比べものにならないほど広い空間が待っていた。
入口で足を止め、ライトを左右へ向ける。
壁が遠い。
天井も高く、光を向けても上部の様子ははっきりしなかった。
これまで通ってきた狭い岩の隙間とは、まるで違う。学校の教室より少し広いくらいだろうか。正確な寸法は分からないが、少なくとも数人が並んで歩いても余裕がありそうだった。
床一面には平らな石板が敷かれ、その中央を細い溝が真っ直ぐ延びている。
溝の先には、低い台座のようなものが置かれていた。
高さは膝ほど、幅は一メートル程度。上面には丸い窪みがあり、周囲には細かな模様が刻まれている。
智は入口から動かず、空間全体を見回した。
壁の一部には青白い苔が広がり、その弱い光だけでも、おおよその輪郭を確かめることができる。
奥の壁には、二つの暗い通路が開いていた。
右側は天井が低く、左側は比較的広い。どちらも途中から暗闇に沈み、先がどうなっているのかは見通せなかった。
怪物の声は聞こえない。
多脚生物の姿も見当たらなかった。
静かだった。
あまりにも静かで、かえって落ち着かない。
ここへ来るまで、すでに何度も危険な目に遭っている。何も起きないことさえ、不気味に感じられるようになっていた。
智はスマートフォンで入口や床、中央の台座、奥にある二つの通路を順番に撮影した。それから入口脇の岩壁へ戻り、マーカーで数字の四と、来た道を示す矢印を書き込む。
これで、少なくとも落下地点までの道順は記録できた。
問題は、そこまで戻ったところで地上へ出られないことだ。
あの急斜面は今の身体では登れそうにないし、そもそも上に出口があるかどうかも分からない。
智は苦い顔をした。
しかし、この空間にも地上へ通じるような出口は見当たらない。
自然と、中央の台座へ目が向いた。
床の溝は台座の手前で二つに分かれ、左右から回り込むように延びている。まるで、何かを台座へ送り込むための経路にも見えた。
智は慎重に近づいた。
台座の表面には、先ほどの灰色の石柱とよく似た模様が刻まれている。ただし、こちらの方が複雑だった。
円と直線、幾度も折れ曲がる細い線。それらが幾何学的に組み合わさり、中央の丸い窪みを取り囲んでいた。
智は台座の前にしゃがみ込む。
窪みの直径は十センチほど。深さは数センチあり、底は滑らかに仕上げられている。
何かを置くための場所だろうか。
そう考えて手を伸ばしかけたものの、途中で止めた。
触らない。
まずは見る。
それが今の自分に必要なことだった。
台座の周囲を一周してみると、裏側にも同じような模様が続いている。ただ、取っ手やレバーらしいものはなく、動かせそうな部品も見当たらなかった。
床との境目もはっきりせず、台座全体が石板と一体になっているように見える。
智は少し離れ、これまでに見てきたものを頭の中で並べてみた。
落下地点から続く通路。
灰色の石柱。
床に刻まれた溝。
そして、この台座。
それぞれが無関係とは考えにくい。
何らかの仕組みがある。
そう考えるのは自然だった。
だが、仕組みがあるからといって、それを自分が使えるとは限らない。
智は深く息を吸った。
《解析》を使うか。
迷いはあった。
頭の奥には、まだ鈍い痛みが残っている。それでも、この台座が何なのか分かれば、先へ進む手がかりになるかもしれなかった。
無理に深く調べるつもりはない。
分かる範囲だけ確かめよう。
智は意識を台座へ集中させた。
「……解析」
視界に淡い文字が浮かび上がる。
『対象:人工構造物』
『材質:不明』
『機能:一部解析可能』
智は黙って続きを待った。
こめかみの奥に、じわりとした痛みが生まれる。
やがて、表示が切り替わった。
『機能候補:経路管理装置』
「……経路管理?」
思わず眉をひそめる。
道を管理する装置。
そういう意味だろうか。
先ほどの石柱は経路標識。こちらは経路管理装置。
言葉は似ているが、同じ役割ではなさそうだった。
智は続く表示を待った。
『動作状態:停止』
『必要条件:不明』
『詳細情報:閲覧条件未達成』
そこで、文字が途切れる。
頭の奥に痛みが広がり始めたため、智はすぐに解析を止めた。
視界から文字が消える。
「……くっ」
片膝をつき、目を閉じて呼吸を整えた。
頭痛はすぐには引かなかった。
「……やっぱり、使いすぎか」
便利な能力には違いない。
しかし、万能ではなかった。
むしろ、中途半端に情報が得られるせいで、分からないことが増えている気さえする。
経路管理装置。
停止。
必要条件不明。
そんな言葉だけ示されても、何をすればよいのか見当がつかない。
智は台座を見上げた。
中央の丸い窪みに何かを置けば、動くのだろうか。
適当な石を入れてみるか。
そんな考えが浮かんだものの、すぐに首を振った。
危険だ。
何が起きるか分からない装置を、思いつきだけで動かすべきではない。
智はゆっくり立ち上がり、台座から距離を取った。
今は触らない。
写真を残し、場所を覚えておく。
それで十分だ。
スマートフォンを取り出し、台座の模様をもう一度撮影する。
そのときだった。
カリ。
足元で、小さな音がした。
智が顔を上げると、床の溝の上を黒い多脚生物が一匹歩いていた。
先ほど見かけた個体より、少し大きい。
体長は十センチほどだろうか。石のような硬い殻には細い白い筋が走り、触角のような器官を絶えず動かしている。
その生き物は溝に沿って台座へ近づき、根元で立ち止まった。
智は動かずに見守った。
多脚生物は触角を小刻みに揺らしたあと、台座の裏側へ回り込む。そして、床との境目にある小さな隙間へ身体を押し込み、そのまま姿を消してしまった。
「……そこ、通れるのか」
智は慎重に台座の裏側へ回った。
先ほど一周したときには気づかなかったが、床との境目に高さ数センチほどの隙間が開いている。ライトを向けると、その奥には黒い粒がいくつも落ちていた。
通路で見かけた多脚生物たちが運んでいたものと、よく似ている。
さらに奥には小さな穴があり、どうやら台座の内部へつながっているらしかった。
智は眉をひそめた。
経路管理装置。
動作停止。
そして、その内部へ出入りする多脚生物。
何か関係があるのだろうか。
それとも、単にこの場所を巣として利用しているだけなのか。
しばらく考えてみたが、答えは出なかった。
分からないものは、分からない。
それを認めることも必要だった。
智が立ち上がろうとしたとき、台座の内部から硬いものが触れ合うような音が聞こえた。
コツ。
少し間を置いて、もう一度。
コツ、コツ。
智は動きを止めた。
音は確かに、台座の中から聞こえている。
多脚生物が動いているだけだろうか。
そう思った直後、床の溝に変化が起きた。
黒い粒が、わずかに震えている。
智は目を凝らした。
風はない。
地面も揺れていない。
それなのに、溝の中に落ちていた粒だけが、ゆっくりと動き始めた。
台座の方へ。
まるで、見えない何かに引き寄せられているかのように。
「……おいおい」
智は思わず一歩下がった。
黒い粒は次々と台座へ集まり、細い溝の中を滑るように移動していく。その動きは決して速くないが、偶然転がっているだけとは思えなかった。
やがて、台座の表面に刻まれた線が淡く光り始める。
青白い光だった。
壁に生えている苔の柔らかな光とは違う。もっと鋭く、冷たい印象を与える光が、幾何学模様に沿って少しずつ広がっていく。
智は息を呑んだ。
装置が動き始めている。
自分は何も触っていない。
《解析》を使っただけだ。
それが原因なのか。
それとも、あの多脚生物が何かをしたのか。
判断できないまま、智はさらに距離を取った。
中央の丸い窪みが光を帯び、その光が周囲の模様へ伝わっていく。
細い線をたどり、台座の縁を越え、やがて床に刻まれた溝へと流れ込んだ。
まるで、配線に電気が通っていくようだった。
光は床の溝を伝って三方向へ広がっていく。
智が来た通路。
奥にある右側の通路。
そして、左側の通路。
暗闇の中に、細い青白い線が浮かび上がった。
「……道を、示してるのか?」
智は台座と床の溝を見比べた。
停止していたはずの装置が、今は確かに何らかの動作をしている。
ただし、何のために動いているのかまでは分からない。
光が進んだ先で、何が起きるのだろう。
智はスマートフォンを構え、床の変化を撮影した。
画面越しにも、青白い線が石板の上を延びていく様子が確認できる。
やがて光は、来た道へ向かう溝では途中で消え、右側の通路でも入口付近で途切れた。
一方、左側の通路へ向かった光だけは、奥の暗闇まで続いている。
智は眉をひそめた。
あの先に何かがあるのか。
それとも、単に装置の一部が壊れているだけなのか。
光っているから安全とは限らない。
光っていないから通れないとも限らない。
それは、建具の仕事でも同じだった。通電しているからといって正常に動作するとは限らず、表示灯が消えているからといって、機械全体が停止しているとも限らない。
見えている現象と、その原因は別のものだ。
智はそう考えながら、しばらく台座を観察し続けた。
多脚生物の姿は、もう見えない。
装置は静かに光り続けている。
これ以上変化が起きないようなら、奥の通路を調べるしかないだろう。
智が入口付近へ戻ろうとしたとき、遠くから低い音が響いた。
――グルルル。
背筋が冷たくなる。
怪物の声だった。
さっき逃げてきた方向から聞こえてくる。
距離は分からない。
だが、確実に近づいているように感じられた。
智は奥の二つの通路へ目を向けた。
右か。
左か。
どちらへ進むべきか。
迷っていると、台座の光が一瞬だけ強くなった。
青白い光が床の溝に沿って走り、左側の通路の奥へ流れ込む。
その先で、何かが浮かび上がった。
扉だった。
灰色の石でできた、大きな扉。
それまで壁と一体化していたのか、智はまったく気づいていなかった。
高さは二メートル半ほど、幅は一メートル半程度。表面には複雑な幾何学模様が刻まれ、札幌の五階建ての建物で見た扉と、よく似ている。
ただし、こちらには取っ手のようなものがあった。
中央より少し右に、縦長の窪みが設けられている。その奥には、金属らしい部品が見えた。
「……扉?」
智は思わず声を漏らした。
ここまで、出口らしいものは何一つ見つからなかった。
だが、今、目の前に扉がある。
しかも、地上で見たものとよく似ている。
これが地上へ戻る道なのか。
それとも、さらに奥へ進むためのものなのか。
分からない。
ただ、背後から怪物の唸り声が再び響いたことで、考えている時間がそれほど残されていないことだけは分かった。
今度の声は、先ほどより近い。
智は振り返った。
来た道の奥に、何かが動く気配がある。
このままでは、ここへたどり着かれるかもしれない。
智は扉へ向き直った。
取っ手のような部品。
石の表面。
周囲の枠。
長年、建具を扱ってきた経験が、自然と頭の中で働き始める。
どちらへ開く。
蝶番はあるのか。
鍵はかかっているのか。
そもそも、人間の力で動かせる構造なのか。
智は一歩踏み出した。
扉まで、あと数メートル。
しかし、近づいてみても蝶番らしい部品は見当たらず、石の枠と扉の境目さえ、光の当たり方によっては判別しにくかった。
普通の建具ではない。
それだけは間違いなかった。
頭の奥には、まだ鈍い痛みが残っている。
それでも、扉の仕組みが少しでも分かれば、開けられるかもしれない。
智は唇を噛み、対象を扉だけに絞って意識を集中させた。
「……解析」
視界に淡い文字が浮かび上がる。
『対象:隔壁構造』
『材質:不明』
『開閉機構:一部解析可能』
『施錠状態:解除』
智は息を呑んだ。
鍵は、かかっていない。
続いて、もう一行。
『開放方向:手前』
手前。
つまり、こちら側へ引けば開く。
少なくとも、解析結果はそう示していた。
智はすぐに能力を止め、右手を握り直した。
まだ痛む。
左肩もまともに動かせない。
だが、扉を開けるだけなら何とかなるかもしれなかった。
そのとき、怪物の唸り声が再び響いた。
智は顔を上げた。
暗い通路の奥。
青白い光の向こうに、黄色い目が二つ浮かんでいる。
怪物だ。
あの灰色の怪物が、こちらを見ていた。
まだ距離はある。
しかし、すでに智の存在に気づいているらしく、長い腕を揺らしながら近づいてきていた。
智は扉へ駆け寄り、縦長の窪みに右手をかけた。
金属らしい部品は、ひどく冷たい。
指に力を込めた途端、腫れた手のひらに痛みが走る。
「……くそっ!」
左手も添え、肩の痛みをこらえながら身体を後ろへ引いた。
扉はびくともしない。
重い。
想像していた以上に重かった。
しかし、さらに体重をかけたとき、石と石が擦れるような低い音が響いた。
扉が、わずかに動く。
開く。
智は歯を食いしばり、足を踏ん張った。
少しずつ、扉が手前へ動いていく。
やがて生まれた隙間から、冷たい空気が流れ出してきた。
その向こうは暗かった。
だが、完全な闇ではない。
遠くに、かすかな光が見える。
智は一瞬、その光に目を奪われた。
この先に何があるのかは分からない。
地上へつながっている保証もない。
それでも、背後には怪物が迫っている。
ここに留まることだけはできなかった。
智は扉をさらに引き、人が通れるだけの隙間を確保した。
その瞬間、背後で怪物が吠えた。
振り返る余裕はない。
智は身体を横向きにし、扉の向こうへ滑り込んだ。
冷たい空気が頬を撫でる。
足元には、平らな石の床が続いていた。
しかし、背後からは重い足音が迫ってくる。
智はすぐに扉の縁へ手をかけた。
閉めなければ。
怪物が入ってくる前に。
だが、扉は開けるときと同じように重かった。
智は身体の向きを変え、傷ついた左肩をかばいながら、右肩と身体全体で扉を押した。
石の扉が、ゆっくりと閉じ始める。
隙間が狭くなる。
その向こうに、灰色の怪物の姿が見えた。
黄色い目。
大きな顎。
長い腕。
怪物がこちらへ突進してくる。
智は歯を食いしばった。
「……閉まれ!」
最後の力を込める。
扉が動く。
隙間は、あとわずか。
その向こうから、怪物の爪が伸びてきた。
間に合うか。
間に合わないか。
次の瞬間。
――ゴンッ!
重い音とともに、石の扉が閉じた。
直後、向こう側から激しい衝撃が伝わってくる。
扉全体が震え、智は思わず後ろへよろめいた。
怪物が体当たりしたのだ。
ドンッ!
もう一度。
石の床にまで振動が伝わり、智の足元を揺らす。
今のところ、扉は開いていない。
だが、いつまで持つか分からなかった。
智は扉から距離を取り、荒い呼吸を整えようとした。
そのとき、視界に文字が浮かび上がった。
『隔壁閉鎖を確認』
『経路接続:変更』
『周辺環境情報を更新』
智は足を止めた。
自分で《解析》を使ったわけではない。
先ほどまでとは違う、個体情報を管理する仕組みからの通知らしかった。
続いて、別の表示が現れる。
『領域種別:地下迷宮』
『階層情報:解析中』
智は文字を見つめた。
落下地点では取得できなかった階層情報。
それが、今になって初めて明らかになろうとしている。
しばらくすると、表示が切り替わった。
『階層:B1F』
「……地下、一階?」
思わず声が漏れる。
地下迷宮の第一階層。
ここが、その場所なのか。
だが、今まで歩いてきた場所も同じ階層だったのだろうか。それとも、扉を越えたことで別の階層へ移ったのか。
表示だけでは、そこまで分からない。
智は扉を振り返った。
向こう側から、再び重い衝撃音が響く。
ドンッ!
石の扉が震えた。
智は顔をしかめた。
考えるのは、あとだ。
まず、ここから離れなければならない。
前を向くと、暗闇の向こうに淡い光が見えた。
これまでの青白い苔とは違う。
温かみのある、薄い金色。
何かが遠くで、静かに輝いている。
智はその光をしばらく見つめていた。
怪物のいる扉の向こうへ戻ることはできない。
この先が安全だという保証もない。
それでも、進むしかなかった。
痛む左肩をかばい、腫れた右手をそっと握り直す。
そして智は、金色の光を目指して歩き始めた。




