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それでも、歩いてゆく  作者: 八代敬次
第1章 日常の終焉

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3:初めての地下世界

            「光のない道」




 暗い通路へ足を踏み入れて十歩ほど進んだところで、結城智(ゆいしろさとる)は立ち止まった。


 振り返ると、先ほど見つけた灰色の石柱が、闇の向こうにかろうじて浮かんでいる。その根元から延びていた細い溝は、智の足元を通り、さらに奥へと続いていた。


 黒い多脚生物たちも、確かにこの方向へ進んでいったはずだ。ところが、すでにその姿はなく、耳を澄ませても、小さな脚が岩を擦る音さえ聞こえてこない。


「……速いな、あいつら」


 小さく呟き、スマートフォンのライトを点ける。


 白い光が暗闇を切り取り、左右の岩壁を照らし出した。


 通路の幅は一メートルほど。ところどころ岩が張り出し、身体を横向きにしなければ通れそうにない場所もある。天井も低く、智が手を伸ばせば届きそうだった。


 こういう場所は、仕事柄それほど珍しくない。


 建具の修理では、天井裏や床下へ潜ることもある。配管や配線を避けながら狭い空間を進み、身体を捻って手の届きにくい金物を調整することも、これまで何度となく経験してきた。


 ただし、ここには図面がない。


 出入口の位置も、通路の長さも、先に何が待っているのかも分からない。しかも、壁一枚隔てた向こうには、人を襲う怪物がいるかもしれなかった。


 慣れているなどと考えた途端、足元をすくわれそうな場所だった。


 智はライトを下へ向けた。


 石柱から続く溝は、途切れることなく通路の中央を走っている。幅は指一本ほどで、深さは数ミリ程度だろうか。岩の割れ目にしては妙に整っており、縁の部分には不自然なほど滑らかな面が残っていた。


 しゃがみ込んで観察すると、何かの工具で削り出したようにも見える。


 もっとも、何を使って加工したのかまでは分からない。


 《解析《アナライズ》》を使えば、もう少し情報を得られるかもしれなかった。しかし、先ほど石柱を調べた際の鈍い頭痛が、まだわずかに残っている。


 能力を使えば、目で見るだけでは分からないことまで知ることができる。その一方で、使い続ければ身体に負担がかかることも、これまでの経験から明らかだった。


 問題は、その限界がどこにあるのか、自分でも把握できていないことだ。


「……便利なんだか、不便なんだか」


 智は苦笑し、立ち上がった。


 今は、分からないものを無理に調べるより、先へ進める身体を残しておく方が大切だった。


 ライトを足元へ戻し、細い溝を見失わないように歩き始める。


     *


 通路は緩やかな下り坂になっていた。


 進むにつれて足元の砂が減り、硬い岩肌がむき出しになっていく。靴底から伝わる感触も、ざらついた土から、冷たく締まった石のものへと変わっていった。


 やがて、一本だった溝の周囲に別の線が現れた。


 智は足を止め、ライトを近づける。


 溝が二本に分かれている。


 ただし、道そのものが分岐しているわけではなかった。二本の線は一定の間隔を保ちながら並行して延び、数メートル先で再び一本に戻っている。その間には細かな横線が何本も刻まれ、まるで梯子を床へ寝かせたような模様になっていた。


「……なんだ、これ」


 しゃがみ込んで確かめると、線の幅も横線の間隔も驚くほど揃っている。少なくとも、思いつきで適当に彫ったものには見えなかった。


 智は仕事で見慣れた構造を思い浮かべた。


 建具のレール。


 床に埋め込む配線用の溝。


 あるいは、排水のために設けられた細い水路。


 どれにも少しずつ似ているが、どれとも違う。この細さではまともな排水路にはならないし、レールだとしても、何を走らせるためのものなのか見当がつかなかった。


 智は写真を撮り、画面を拡大してみた。


 横線の間隔は、ほぼ一定だった。


 自然に生じた模様ではない。その確信だけが、観察を重ねるほど強くなっていく。


 顔を上げると、周囲には荒々しい岩壁と低い天井が続いている。人工的な溝だけが、その風景の中で妙に浮いていた。


 これを造った者がいる。


 だとすれば、何らかの目的があったはずだ。


 ただ、その目的が今も失われずに残っているとは限らない。


 智は立ち上がり、ライトを前方へ向けた。


 少し先で通路がわずかに広がり、その手前で溝が右へ曲がっている。足元を確かめながら進むと、数歩先で靴底に伝わる感触が変わった。


 硬い。


 それまでの岩肌とは違い、床が平らになっていた。


 ライトを向けると、灰色の石板が通路の幅いっぱいに敷かれている。一枚岩ではなく、長方形の板が何枚も連なった構造で、継ぎ目は細く、ほとんど隙間がない。


「……床まで造ってあるのか」


 智は石板の端へしゃがみ込み、わずかな段差に指先を触れた。


 冷たい。


 表面は滑らかに見えるものの、指でなぞると細かな凹凸がある。靴底を滑りにくくするための加工にも思えたが、それが意図的なものなのかは判断できなかった。


 ここまで来ると、自然の洞窟を歩いているというより、何かの施設へ入り込んだような気がしてくる。


 もっとも、天井や壁は相変わらず荒々しい岩肌のままだった。


 床だけが、妙に整っている。


 その不自然さが、かえって気になった。


 智は慎重に石板へ片足を乗せた。


 靴底を通して硬い感触が返ってくるだけで、特に変化はない。もう一歩踏み出してみても、床が沈んだり、何かが動いたりする様子はなかった。


 それでも油断せず、足を置く場所を確かめながら進んでいく。


 そのとき、前方から小さな音が届いた。


 カリ。


 カリカリ。


 聞き覚えのある音だった。


 智はすぐにライトを消し、壁際へ身体を寄せる。


 しばらく暗闇に目を凝らしていると、遠くにわずかな青白い光が見え、その中を小さな影が横切った。


 石のような背中と、細い脚。


 あの多脚生物だ。


 一匹ではない。何匹もの影が、床に刻まれた溝に沿って移動している。


 智は動かずに様子をうかがった。


 生き物たちはときどき立ち止まり、触角のような器官を小刻みに動かしている。やがて一匹が溝の中へ頭を突っ込み、小さな黒い粒を拾い上げた。


 粒を顎で挟んだまま、その個体は再び歩き始める。


 ほかの個体も、同じような動きを繰り返していた。


 あの溝には、何かが溜まっているのだろうか。


 それを食べているのか。それとも、巣へ運んでいるのか。


 智は自分の足元へ目を向けた。


 靴のすぐ先にも同じ溝が続いており、その中には砂粒ほどの黒いものがいくつか落ちている。


 ライトを一瞬だけ点けて確かめると、粒はほとんど光を反射しなかった。石の粉にも見えるが、何かの種子のようにも思える。


 触って確かめることはしなかった。


 見知らぬ生き物の餌かもしれないものを、わざわざ拾う必要はない。


 再びライトを消し、少し離れた場所から観察を続ける。


 多脚生物たちは溝の上を進みながら黒い粒を拾い、ときどき別の個体とすれ違っていた。その際、互いの触角を短く触れ合わせるような動きを見せる。


 何かを確認しているのだろうか。


 それとも、単にぶつからないようにしているだけなのか。


 どちらにしても、興味深い行動だった。


 少なくとも、智の知っている虫とは少し違っている。


 やがて生き物たちは奥の暗闇へ消えていき、岩を擦る小さな音も聞こえなくなった。


 智はしばらく待ってからライトを点け、溝の中に残った黒い粒をもう一度見つめた。


 石柱。


 人工的な溝。


 その上を移動し、何かを運ぶ生き物たち。


 それぞれに関係があるのかどうかは分からない。


 ただ、偶然にしては、少し出来すぎているようにも感じられた。


 智は立ち上がり、通路の奥へ進んだ。


     *


 通路の先には、それまでとは比べものにならないほど広い空間が待っていた。


 入口で足を止め、ライトを左右へ向ける。


 壁が遠い。


 天井も高く、光を向けても上部の様子ははっきりしなかった。


 これまで通ってきた狭い岩の隙間とは、まるで違う。学校の教室より少し広いくらいだろうか。正確な寸法は分からないが、少なくとも数人が並んで歩いても余裕がありそうだった。


 床一面には平らな石板が敷かれ、その中央を細い溝が真っ直ぐ延びている。


 溝の先には、低い台座のようなものが置かれていた。


 高さは膝ほど、幅は一メートル程度。上面には丸い窪みがあり、周囲には細かな模様が刻まれている。


 智は入口から動かず、空間全体を見回した。


 壁の一部には青白い苔が広がり、その弱い光だけでも、おおよその輪郭を確かめることができる。


 奥の壁には、二つの暗い通路が開いていた。


 右側は天井が低く、左側は比較的広い。どちらも途中から暗闇に沈み、先がどうなっているのかは見通せなかった。


 怪物の声は聞こえない。


 多脚生物の姿も見当たらなかった。


 静かだった。


 あまりにも静かで、かえって落ち着かない。


 ここへ来るまで、すでに何度も危険な目に遭っている。何も起きないことさえ、不気味に感じられるようになっていた。


 智はスマートフォンで入口や床、中央の台座、奥にある二つの通路を順番に撮影した。それから入口脇の岩壁へ戻り、マーカーで数字の四と、来た道を示す矢印を書き込む。


 これで、少なくとも落下地点までの道順は記録できた。


 問題は、そこまで戻ったところで地上へ出られないことだ。


 あの急斜面は今の身体では登れそうにないし、そもそも上に出口があるかどうかも分からない。


 智は苦い顔をした。


 しかし、この空間にも地上へ通じるような出口は見当たらない。


 自然と、中央の台座へ目が向いた。


 床の溝は台座の手前で二つに分かれ、左右から回り込むように延びている。まるで、何かを台座へ送り込むための経路にも見えた。


 智は慎重に近づいた。


 台座の表面には、先ほどの灰色の石柱とよく似た模様が刻まれている。ただし、こちらの方が複雑だった。


 円と直線、幾度も折れ曲がる細い線。それらが幾何学的に組み合わさり、中央の丸い窪みを取り囲んでいた。


 智は台座の前にしゃがみ込む。


 窪みの直径は十センチほど。深さは数センチあり、底は滑らかに仕上げられている。


 何かを置くための場所だろうか。


 そう考えて手を伸ばしかけたものの、途中で止めた。


 触らない。


 まずは見る。


 それが今の自分に必要なことだった。


 台座の周囲を一周してみると、裏側にも同じような模様が続いている。ただ、取っ手やレバーらしいものはなく、動かせそうな部品も見当たらなかった。


 床との境目もはっきりせず、台座全体が石板と一体になっているように見える。


 智は少し離れ、これまでに見てきたものを頭の中で並べてみた。


 落下地点から続く通路。


 灰色の石柱。


 床に刻まれた溝。


 そして、この台座。


 それぞれが無関係とは考えにくい。


 何らかの仕組みがある。


 そう考えるのは自然だった。


 だが、仕組みがあるからといって、それを自分が使えるとは限らない。


 智は深く息を吸った。


 《解析》を使うか。


 迷いはあった。


 頭の奥には、まだ鈍い痛みが残っている。それでも、この台座が何なのか分かれば、先へ進む手がかりになるかもしれなかった。


 無理に深く調べるつもりはない。


 分かる範囲だけ確かめよう。


 智は意識を台座へ集中させた。


「……解析」


 視界に淡い文字が浮かび上がる。


『対象:人工構造物』


『材質:不明』


『機能:一部解析可能』


 智は黙って続きを待った。


 こめかみの奥に、じわりとした痛みが生まれる。


 やがて、表示が切り替わった。


『機能候補:経路管理装置』


「……経路管理?」


 思わず眉をひそめる。


 道を管理する装置。


 そういう意味だろうか。


 先ほどの石柱は経路標識。こちらは経路管理装置。


 言葉は似ているが、同じ役割ではなさそうだった。


 智は続く表示を待った。


『動作状態:停止』


『必要条件:不明』


『詳細情報:閲覧条件未達成』


 そこで、文字が途切れる。


 頭の奥に痛みが広がり始めたため、智はすぐに解析を止めた。


 視界から文字が消える。


「……くっ」


 片膝をつき、目を閉じて呼吸を整えた。


 頭痛はすぐには引かなかった。


「……やっぱり、使いすぎか」


 便利な能力には違いない。


 しかし、万能ではなかった。


 むしろ、中途半端に情報が得られるせいで、分からないことが増えている気さえする。


 経路管理装置。


 停止。


 必要条件不明。


 そんな言葉だけ示されても、何をすればよいのか見当がつかない。


 智は台座を見上げた。


 中央の丸い窪みに何かを置けば、動くのだろうか。


 適当な石を入れてみるか。


 そんな考えが浮かんだものの、すぐに首を振った。


 危険だ。


 何が起きるか分からない装置を、思いつきだけで動かすべきではない。


 智はゆっくり立ち上がり、台座から距離を取った。


 今は触らない。


 写真を残し、場所を覚えておく。


 それで十分だ。


 スマートフォンを取り出し、台座の模様をもう一度撮影する。


 そのときだった。


 カリ。


 足元で、小さな音がした。


 智が顔を上げると、床の溝の上を黒い多脚生物が一匹歩いていた。


 先ほど見かけた個体より、少し大きい。


 体長は十センチほどだろうか。石のような硬い殻には細い白い筋が走り、触角のような器官を絶えず動かしている。


 その生き物は溝に沿って台座へ近づき、根元で立ち止まった。


 智は動かずに見守った。


 多脚生物は触角を小刻みに揺らしたあと、台座の裏側へ回り込む。そして、床との境目にある小さな隙間へ身体を押し込み、そのまま姿を消してしまった。


「……そこ、通れるのか」


 智は慎重に台座の裏側へ回った。


 先ほど一周したときには気づかなかったが、床との境目に高さ数センチほどの隙間が開いている。ライトを向けると、その奥には黒い粒がいくつも落ちていた。


 通路で見かけた多脚生物たちが運んでいたものと、よく似ている。


 さらに奥には小さな穴があり、どうやら台座の内部へつながっているらしかった。


 智は眉をひそめた。


 経路管理装置。


 動作停止。


 そして、その内部へ出入りする多脚生物。


 何か関係があるのだろうか。


 それとも、単にこの場所を巣として利用しているだけなのか。


 しばらく考えてみたが、答えは出なかった。


 分からないものは、分からない。


 それを認めることも必要だった。


 智が立ち上がろうとしたとき、台座の内部から硬いものが触れ合うような音が聞こえた。


 コツ。


 少し間を置いて、もう一度。


 コツ、コツ。


 智は動きを止めた。


 音は確かに、台座の中から聞こえている。


 多脚生物が動いているだけだろうか。


 そう思った直後、床の溝に変化が起きた。


 黒い粒が、わずかに震えている。


 智は目を凝らした。


 風はない。


 地面も揺れていない。


 それなのに、溝の中に落ちていた粒だけが、ゆっくりと動き始めた。


 台座の方へ。


 まるで、見えない何かに引き寄せられているかのように。


「……おいおい」


 智は思わず一歩下がった。


 黒い粒は次々と台座へ集まり、細い溝の中を滑るように移動していく。その動きは決して速くないが、偶然転がっているだけとは思えなかった。


 やがて、台座の表面に刻まれた線が淡く光り始める。


 青白い光だった。


 壁に生えている苔の柔らかな光とは違う。もっと鋭く、冷たい印象を与える光が、幾何学模様に沿って少しずつ広がっていく。


 智は息を呑んだ。


 装置が動き始めている。


 自分は何も触っていない。


 《解析》を使っただけだ。


 それが原因なのか。


 それとも、あの多脚生物が何かをしたのか。


 判断できないまま、智はさらに距離を取った。


 中央の丸い窪みが光を帯び、その光が周囲の模様へ伝わっていく。


 細い線をたどり、台座の縁を越え、やがて床に刻まれた溝へと流れ込んだ。


 まるで、配線に電気が通っていくようだった。


 光は床の溝を伝って三方向へ広がっていく。


 智が来た通路。


 奥にある右側の通路。


 そして、左側の通路。


 暗闇の中に、細い青白い線が浮かび上がった。


「……道を、示してるのか?」


 智は台座と床の溝を見比べた。


 停止していたはずの装置が、今は確かに何らかの動作をしている。


 ただし、何のために動いているのかまでは分からない。


 光が進んだ先で、何が起きるのだろう。


 智はスマートフォンを構え、床の変化を撮影した。


 画面越しにも、青白い線が石板の上を延びていく様子が確認できる。


 やがて光は、来た道へ向かう溝では途中で消え、右側の通路でも入口付近で途切れた。


 一方、左側の通路へ向かった光だけは、奥の暗闇まで続いている。


 智は眉をひそめた。


 あの先に何かがあるのか。


 それとも、単に装置の一部が壊れているだけなのか。


 光っているから安全とは限らない。


 光っていないから通れないとも限らない。


 それは、建具の仕事でも同じだった。通電しているからといって正常に動作するとは限らず、表示灯が消えているからといって、機械全体が停止しているとも限らない。


 見えている現象と、その原因は別のものだ。


 智はそう考えながら、しばらく台座を観察し続けた。


 多脚生物の姿は、もう見えない。


 装置は静かに光り続けている。


 これ以上変化が起きないようなら、奥の通路を調べるしかないだろう。


 智が入口付近へ戻ろうとしたとき、遠くから低い音が響いた。


 ――グルルル。


 背筋が冷たくなる。


 怪物の声だった。


 さっき逃げてきた方向から聞こえてくる。


 距離は分からない。


 だが、確実に近づいているように感じられた。


 智は奥の二つの通路へ目を向けた。


 右か。


 左か。


 どちらへ進むべきか。


 迷っていると、台座の光が一瞬だけ強くなった。


 青白い光が床の溝に沿って走り、左側の通路の奥へ流れ込む。


 その先で、何かが浮かび上がった。


 扉だった。


 灰色の石でできた、大きな扉。


 それまで壁と一体化していたのか、智はまったく気づいていなかった。


 高さは二メートル半ほど、幅は一メートル半程度。表面には複雑な幾何学模様が刻まれ、札幌の五階建ての建物で見た扉と、よく似ている。


 ただし、こちらには取っ手のようなものがあった。


 中央より少し右に、縦長の窪みが設けられている。その奥には、金属らしい部品が見えた。


「……扉?」


 智は思わず声を漏らした。


 ここまで、出口らしいものは何一つ見つからなかった。


 だが、今、目の前に扉がある。


 しかも、地上で見たものとよく似ている。


 これが地上へ戻る道なのか。


 それとも、さらに奥へ進むためのものなのか。


 分からない。


 ただ、背後から怪物の唸り声が再び響いたことで、考えている時間がそれほど残されていないことだけは分かった。


 今度の声は、先ほどより近い。


 智は振り返った。


 来た道の奥に、何かが動く気配がある。


 このままでは、ここへたどり着かれるかもしれない。


 智は扉へ向き直った。


 取っ手のような部品。


 石の表面。


 周囲の枠。


 長年、建具を扱ってきた経験が、自然と頭の中で働き始める。


 どちらへ開く。


 蝶番はあるのか。


 鍵はかかっているのか。


 そもそも、人間の力で動かせる構造なのか。


 智は一歩踏み出した。


 扉まで、あと数メートル。


 しかし、近づいてみても蝶番らしい部品は見当たらず、石の枠と扉の境目さえ、光の当たり方によっては判別しにくかった。


 普通の建具ではない。


 それだけは間違いなかった。


 頭の奥には、まだ鈍い痛みが残っている。


 それでも、扉の仕組みが少しでも分かれば、開けられるかもしれない。


 智は唇を噛み、対象を扉だけに絞って意識を集中させた。


「……解析」


 視界に淡い文字が浮かび上がる。


『対象:隔壁構造』


『材質:不明』


『開閉機構:一部解析可能』


『施錠状態:解除』


 智は息を呑んだ。


 鍵は、かかっていない。


 続いて、もう一行。


『開放方向:手前』


 手前。


 つまり、こちら側へ引けば開く。


 少なくとも、解析結果はそう示していた。


 智はすぐに能力を止め、右手を握り直した。


 まだ痛む。


 左肩もまともに動かせない。


 だが、扉を開けるだけなら何とかなるかもしれなかった。


 そのとき、怪物の唸り声が再び響いた。


 智は顔を上げた。


 暗い通路の奥。


 青白い光の向こうに、黄色い目が二つ浮かんでいる。


 怪物だ。


 あの灰色の怪物が、こちらを見ていた。


 まだ距離はある。


 しかし、すでに智の存在に気づいているらしく、長い腕を揺らしながら近づいてきていた。


 智は扉へ駆け寄り、縦長の窪みに右手をかけた。


 金属らしい部品は、ひどく冷たい。


 指に力を込めた途端、腫れた手のひらに痛みが走る。


「……くそっ!」


 左手も添え、肩の痛みをこらえながら身体を後ろへ引いた。


 扉はびくともしない。


 重い。


 想像していた以上に重かった。


 しかし、さらに体重をかけたとき、石と石が擦れるような低い音が響いた。


 扉が、わずかに動く。


 開く。


 智は歯を食いしばり、足を踏ん張った。


 少しずつ、扉が手前へ動いていく。


 やがて生まれた隙間から、冷たい空気が流れ出してきた。


 その向こうは暗かった。


 だが、完全な闇ではない。


 遠くに、かすかな光が見える。


 智は一瞬、その光に目を奪われた。


 この先に何があるのかは分からない。


 地上へつながっている保証もない。


 それでも、背後には怪物が迫っている。


 ここに留まることだけはできなかった。


 智は扉をさらに引き、人が通れるだけの隙間を確保した。


 その瞬間、背後で怪物が吠えた。


 振り返る余裕はない。


 智は身体を横向きにし、扉の向こうへ滑り込んだ。


 冷たい空気が頬を撫でる。


 足元には、平らな石の床が続いていた。


 しかし、背後からは重い足音が迫ってくる。


 智はすぐに扉の縁へ手をかけた。


 閉めなければ。


 怪物が入ってくる前に。


 だが、扉は開けるときと同じように重かった。


 智は身体の向きを変え、傷ついた左肩をかばいながら、右肩と身体全体で扉を押した。


 石の扉が、ゆっくりと閉じ始める。


 隙間が狭くなる。


 その向こうに、灰色の怪物の姿が見えた。


 黄色い目。


 大きな顎。


 長い腕。


 怪物がこちらへ突進してくる。


 智は歯を食いしばった。


「……閉まれ!」


 最後の力を込める。


 扉が動く。


 隙間は、あとわずか。


 その向こうから、怪物の爪が伸びてきた。


 間に合うか。


 間に合わないか。


 次の瞬間。


 ――ゴンッ!


 重い音とともに、石の扉が閉じた。


 直後、向こう側から激しい衝撃が伝わってくる。


 扉全体が震え、智は思わず後ろへよろめいた。


 怪物が体当たりしたのだ。


 ドンッ!


 もう一度。


 石の床にまで振動が伝わり、智の足元を揺らす。


 今のところ、扉は開いていない。


 だが、いつまで持つか分からなかった。


 智は扉から距離を取り、荒い呼吸を整えようとした。


 そのとき、視界に文字が浮かび上がった。


『隔壁閉鎖を確認』


『経路接続:変更』


『周辺環境情報を更新』


 智は足を止めた。


 自分で《解析》を使ったわけではない。


 先ほどまでとは違う、個体情報を管理する仕組みからの通知らしかった。


 続いて、別の表示が現れる。


『領域種別:地下迷宮』


『階層情報:解析中』


 智は文字を見つめた。


 落下地点では取得できなかった階層情報。


 それが、今になって初めて明らかになろうとしている。


 しばらくすると、表示が切り替わった。


『階層:B1F』


「……地下、一階?」


 思わず声が漏れる。


 地下迷宮の第一階層。


 ここが、その場所なのか。


 だが、今まで歩いてきた場所も同じ階層だったのだろうか。それとも、扉を越えたことで別の階層へ移ったのか。


 表示だけでは、そこまで分からない。


 智は扉を振り返った。


 向こう側から、再び重い衝撃音が響く。


 ドンッ!


 石の扉が震えた。


 智は顔をしかめた。


 考えるのは、あとだ。


 まず、ここから離れなければならない。


 前を向くと、暗闇の向こうに淡い光が見えた。


 これまでの青白い苔とは違う。


 温かみのある、薄い金色。


 何かが遠くで、静かに輝いている。


 智はその光をしばらく見つめていた。


 怪物のいる扉の向こうへ戻ることはできない。


 この先が安全だという保証もない。


 それでも、進むしかなかった。


 痛む左肩をかばい、腫れた右手をそっと握り直す。


 そして智は、金色の光を目指して歩き始めた。





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