2:初めての地下世界
「暗闇に残す道標」
最初の一歩を踏み出したところで、結城智は足を止めた。
遠くから聞こえた唸り声が、まだ耳の奥に残っている。青白い光を放つ苔、見覚えのない岩壁、そして頭上を覆う底知れぬ暗闇。札幌の街中で道路の陥没に巻き込まれたはずなのに、周囲には地上の気配がまるで感じられなかった。
地下迷宮。
先ほど視界に浮かんだ文字は、確かにそう告げていた。しかし、ここが地下迷宮だと分かったところで、帰り道が見つかるわけではない。むしろ、その言葉を知ったことで、分からないことがいっそう増えてしまった。
道路が崩れ、土砂の斜面を転がり落ちた。普通に考えれば、頭上のどこかに地上へ通じる穴があるはずだ。
ところが、いくら見上げても、青白い光の届く範囲に出口らしいものは見当たらない。天井の高ささえ分からず、崩れた道路の裏側も、落ちてきた穴も暗闇に隠されている。
あれほど大きな陥没だったのだ。黒田や高瀬が、智の落ちた場所を見失うとは思えない。警察や消防による救助活動も、すでに始まっているだろう。
それでも、ここで待っていれば必ず助かると考えるには、あまりにも不確かなことが多すぎた。
「……まず、身体だな」
小さく呟き、壁際の比較的平らな場所へ腰を下ろす。
左肩には、怪物の爪によって刻まれた三本の傷が残っていた。破れた作業着の下で鈍い痛みが続き、少し腕を動かすだけでも首筋まで響いてくる。右手も鋼管を握って怪物の一撃を受け止めた際の衝撃で腫れており、指先には痺れが残っていた。
智はスマートフォンのライトを点け、襟元をずらして傷口を確かめた。皮膚は赤く腫れ、三本の傷から血が滲んでいるものの、激しく出血している様子はない。
試しに右手の指先で傷の周囲を軽く押してみる。
「っ……!」
鋭い痛みが肩から首筋へ走り、反射的に手を離した。
傷の深さまでは分からない。下手に触って悪化させるより、今は動かせる範囲を把握しておく方がよさそうだった。
数日前、灰色の怪物に傷つけられた右腕は、翌朝には傷跡がほとんど分からなくなるほど回復していた。今回も同じことが起きるのかもしれないが、それを当てにする気にはなれない。
あの異常な回復が何によるものなのか、智自身にも説明できないのだ。
治ると決めつけて無理を重ね、途中で身体が動かなくなれば、それで終わる。
智は傷口に衣服が強く擦れないよう整えると、ポケットの中身を一つずつ確かめた。
財布と鍵、スマートフォン。それから、折り畳み式の小さなカッターナイフと、仕事で使っている黒い油性マーカーが一本。
手元に残っているのは、それだけだった。
いつも持ち歩いている工具箱は、地上に置いたままだ。怪物に襲われたときには、持って逃げる余裕などなかった。
水も食料もない。傷を手当てする包帯さえ持っていなかった。
「……参ったな」
思わずため息が漏れる。
財布を開けば、運転免許証やカード類、仕事関係の名刺が数枚入っている。札幌の街中なら当たり前に役立つものばかりだが、この場所では使い道が思いつかない。
それでも、見慣れた名前や住所を目にすると、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。
財布をしまい、スマートフォンの画面を確認する。
時刻は午後五時を少し過ぎたところだった。落下してから、それほど長い時間は経っていないらしい。
しかし、通信表示は圏外。位置情報も取得できず、地図を開いたところで現在地を知ることはできない。
電池残量は六割ほど残っているものの、いつ地上へ戻れるか分からない以上、無駄遣いは避けたかった。
智はライトを消した。
周囲が暗くなるにつれ、岩壁に広がる青白い苔の光が浮かび上がってくる。強い明かりではないが、足元を確かめる程度なら、どうにかなりそうだった。
右手をゆっくり握り、開いてみる。
指は動く。痛みもあるが、先ほどより痺れは薄れているように感じられた。
衝撃から回復してきたのか、それとも身体に何か別の変化が起きているのか。判断する材料は、まだなかった。
立ち上がろうとしたとき、足元に転がっている灰色の小石が目に留まった。
拾い上げてみると、表面は妙に滑らかで、片面には細い溝が一本走っている。先ほど《解析》で調べた岩壁と、よく似た質感だった。
自然にできた傷にも見えるし、何かで刻まれた跡にも見える。
智はしばらく指先で転がしていたが、やがて元の場所へ戻した。
気になるものを片端から解析していては、身体がもたない。あの能力は便利だが、使いすぎれば頭痛を引き起こす。こんな場所で動けなくなれば、怪物から逃げることさえ難しくなるだろう。
今は、能力に頼らなくても分かることから確かめるべきだった。
智は立ち上がり、落ちてきた斜面を見上げた。
少なくとも、自分がここへ来た経路であることは間違いない。まずは戻れるかどうか、確かめておく必要がある。
斜面の下端には膝ほどの高さの岩がいくつも転がり、その向こうには急勾配の砂礫が続いていた。青白い光が届く範囲だけでも十メートル以上あり、さらに上がどうなっているのかは見通せない。
智は慎重に岩へ足をかけた。
靴底の下で砂が崩れ、身体が後ろへ傾く。
「おっと……」
咄嗟に左手を伸ばして岩を掴んだものの、肩に痛みが走り、思わず顔をしかめた。
それでも体勢を立て直し、今度は靴先を石の隙間へ押し込んでみる。しかし、体重をかけた途端、足場にした石が動き、乾いた音を立てて斜面を転がり落ちていった。
智は慌てて下へ戻った。
無理だ。
少なくとも、今の身体で登れる斜面ではない。仮に途中まで進めたとしても、その先に出口があるとは限らなかった。
無理をして滑り落ち、今度こそ脚でも折れば取り返しがつかない。
「……こっちは、ひとまず保留だな」
斜面を見上げたまま息を整え、スマートフォンを取り出す。
大きな岩の位置、斜面の形、周囲の壁。あとで戻ってきたときに場所を特定できるよう、角度を変えながら数枚の写真を撮った。
続いてポケットから油性マーカーを取り出し、近くの乾いた岩へ目を向ける。
アルミサッシの加工位置や、部材の取り付け方向を書くために普段から持ち歩いているものだ。こんな場所で役に立つとは、考えたこともなかった。
指で岩の表面の砂を払い、比較的滑らかな部分に太い矢印を描く。矢印の先は落ちてきた斜面へ向け、その下に小さく文字を書き添えた。
『落下地点』
一歩下がって確認すると、青白い光の中でも黒い線はどうにか見えた。
これだけで十分とは思わないが、何もないよりはましだろう。
仕事で初めて入る建物では、似たようなことを何度もしてきた。天井裏の配線経路や、複雑な建具の部品配置、取り外した金物の向き。あとで分からなくならないよう、印を残しておくのは基本だった。
迷宮だろうが建物だろうが、知らない場所であることに変わりはない。
智はマーカーのキャップを閉め、青白い苔の向こうへ続く通路を見つめた。
先ほど小さな多脚生物が消えていった方向だ。怪物の唸り声が聞こえたのも、確かあちら側だった。
進むべきか。それとも、ここで救助を待つべきか。
地上には黒田も高瀬もいた。警察と消防が動いている以上、智を助けようとしてくれるはずだ。
だが、この場所が普通の地下空間ではないなら、彼らが同じ場所へ来られる保証はない。そもそも、道路に開いた穴が今も残っているのかどうかさえ分からなかった。
それに、怪物の声が近づいている。
ここに留まることが、必ずしも安全とは限らない。
「……少しだけ、調べるか」
智は通路へ向き直った。
ただし、遠くまでは行かない。戻れる範囲で周囲を確かめ、道が分かれたら印を残す。危険なものを見つけても、不用意に近づかない。
そう自分に言い聞かせながら、慎重に足を踏み出した。
*
通路は、思っていたよりも広かった。
幅は三メートルほどあり、天井は場所によって高さが異なるものの、低いところでも屈まずに歩ける程度の余裕がある。
岩壁には青白い苔がまだらに広がり、光の強い場所と弱い場所が入り混じっていた。そのため、数メートル先まで見通せるところもあれば、すぐ目の前から暗闇に沈んでいるところもある。
智は足元を確かめながら、ゆっくりと進んだ。
砂や小石、乾いた土が混じる地面には、ときおり白い破片が落ちている。
最初は石だと思ったが、一つ拾い上げてみると妙に軽い。薄く湾曲した表面には細かな筋が走り、指先で軽く力を加えると、乾いた音を立てて折れてしまった。
「……骨か?」
折れた断面は空洞になっている。
何の骨なのかは分からない。人間のものには見えなかったが、見慣れない生き物がいる以上、形だけで判断することもできなかった。
智は破片を地面へ戻し、周囲を見回した。
同じような白い欠片が、通路のあちこちに散らばっている。大きさも形もばらばらで、何かがここで死んだのか、別の場所から運ばれてきたのかさえ分からない。
ふと、先ほど見かけた小さな多脚生物の姿が頭に浮かんだ。
あの生き物も、白い欠片のようなものを引きずっていた。
もしかすると、あれも骨だったのだろうか。
そう考えたとき、壁の低い位置に小さな穴が開いていることに気づいた。
直径は十数センチほど。周囲には細かな引っかき傷が無数についており、何かが繰り返し出入りしているように見える。
智はしゃがみ込み、顔を近づけないよう距離を保ったまま、スマートフォンのライトを一瞬だけ向けた。
穴の奥には細い通路が続き、その壁面には黒い粒のようなものが付着している。
あの多脚生物の巣だろうか。
確かめようと思えば、もう少し詳しく観察できるかもしれない。しかし、何が潜んでいるか分からない穴に顔を寄せるほど、智は無謀ではなかった。
分からないものには、手を出さない。
ライトを消し、再び歩き始める。
通路は緩やかに曲がっており、少し進むと落下地点が見えなくなった。
智はそこで足を止めた。
曲がり角を一つ越えれば、戻る方向を間違える可能性がある。壁の乾いた部分を探して矢印を描き、その横に数字の一を書き添えた。
矢印は落下地点へ戻る方向を示している。
指で軽くこすっても、黒い線は簡単には消えなかった。ただし、濡れた場所では使えないだろうし、インクにも限りがある。いずれ別の方法も考えなければならない。
そんなことを思いながら曲がり角の先を覗くと、通路はそこで二つに分かれていた。
右側は狭く、岩がせり出した先で暗闇に沈んでいる。一方、左側は比較的広く、青白い光が奥まで続いていた。
智がどちらへ進むべきか考えていると、左側の通路から微かな音が届いた。
――ピチャン。
水滴の落ちる音だった。
しばらく耳を澄ませていると、同じ音がもう一度響く。
――ピチャン。
水がある。
少なくとも、そう考えられる音だった。
智は乾いた唇を舐めた。落下してからそれほど時間は経っていないはずなのに、口の中がひどく乾いている。緊張のせいかもしれないが、水を持っていない以上、水場の位置を把握しておく価値はあった。
もちろん、飲めるかどうかは別の話だ。
見たことのない地下空間の水を、安全だと決めつけて口へ入れるわけにはいかない。
智は左側へ進むことにした。
分岐の壁へ二つ目の矢印を描き、数字の二を書き添える。右側の暗い通路も写真に収めておけば、あとで必要になったときの手がかりになるだろう。
準備を終えると、足音をできるだけ抑えながら、水の音がする方向へ進んでいった。
*
水滴の音は、進むにつれて少しずつ大きくなっていった。
やがて通路が開け、智の前に小さな空間が現れる。
天井から垂れる細い水の筋が岩の窪みに落ち、浅い水たまりを作っていた。青白い苔の光を映した水面は静かで、まるで薄いガラスを敷いたようにも見える。
智は近づきかけて、足を止めた。
水たまりの縁に、何かの足跡が残っている。
人間の靴跡ではない。
三本の太い指のような形が湿った土に刻まれ、その先には鋭い爪を思わせる窪みがあった。長さは智の手のひらほどで、同じ形の足跡が水たまりの向こうまで続いている。
智はゆっくりしゃがみ込んだ。
札幌で見た灰色の怪物。
あれほど大きな身体なら、もっと大きな足跡を残しそうな気もする。だが、足の形を詳しく観察したわけではないし、同じ種類でも身体の大きさが違う可能性はあった。
決めつけるのは危険だ。
水たまりの向こうには、さらに奥へ続く通路が見える。その入口付近の岩壁には、腰ほどの高さまで細かな傷がついていた。
何かが繰り返し通っている。
しかも、一度や二度ではなさそうだった。
智は水面へ視線を戻した。
水は透明で、底に沈む小石まではっきり見える。濁りも目立つ浮遊物もないが、それだけで安全だとは判断できない。
手を伸ばすのはやめ、代わりにスマートフォンで写真を撮る。
足跡も記録しておこうと、自分の靴を横に並べて撮影した。
画面を確認していると、一つの足跡だけが妙に深いことに気づく。すぐ隣では土が横へ押し出されており、何かが急に踏ん張ったようにも見えた。
智は顔を上げる。
水たまりの向こうにある岩壁には、灰色の汚れが付着していた。
近づいて確かめたい気持ちが湧いたものの、すぐに思いとどまる。
ここは水場だ。
生き物が集まる可能性が高い。
もし足跡の主が戻ってきたら、逃げ道は限られる。
智は立ち上がり、来た道へ引き返そうとした。
そのとき、水面が小さく揺れた。
ピチャン。
天井から水滴が落ちる。
しかし、その波紋とは別に、細かな震えが水面へ広がっていた。
智は動きを止め、もう一度水たまりを見つめた。
水滴の落ちていない場所にも、波紋が生まれている。
地面が揺れているのだ。
それも、一定の間隔で。
ドン。
……ドン。
重い足音。
智は息を潜めた。
音は水たまりの向こう、暗い通路の奥から聞こえてくる。何かが近づいているのは間違いなかった。
後ずさった拍子に、靴底が小石を踏む。
カリッ。
乾いた音が静かな空間へ響いた。
足音が止まる。
まずい。
気づかれたか。
智は身体を硬くしたまま、暗闇を見つめた。
やがて通路の奥で何かが動き、青白い光の中へ太い前脚が現れる。
灰色の皮膚。
黒く鋭い爪。
続いて姿を見せた大きな頭には、犬に似た顎があり、その奥で黄色い目が鈍く光っていた。
「……また、お前か」
智の口から、思わず声が漏れた。
札幌の路上で襲ってきた大型個体ほどではない。背中の突起も目立たなかったが、それでも体格は人間よりひと回り大きく、長い腕は膝の近くまで届いている。
怪物は通路の入口で立ち止まると、鼻先を持ち上げ、周囲の空気を嗅ぐように動かした。
智は壁際へ身体を寄せた。
逃げるなら、今だ。
背後には来た道がある。曲がり角まで戻れば、通路が二つに分かれている。
しかし、怪物の方が速いかもしれない。
地上で遭遇したときも、まともに逃げ切ることはできなかった。まして今は左肩に傷を負い、右手も腫れている。
智は呼吸を抑え、怪物の動きを見守った。
やがて怪物の視線が水たまりへ向く。
ゆっくり近づき、頭を下げると、そのまま水を飲み始めた。
智は思わず目を見開いた。
怪物が、水を飲んでいる。
ただ、それだけのことだった。
しかし、智にとっては妙に意外な光景だった。
地上で見た怪物は、人間を襲う存在でしかなかった。突然現れて暴れ、銃で撃たれても簡単には止まらない。そんな姿ばかりを目にしていた。
だが、目の前の怪物は、今、水を飲んでいる。
生き物なら当然の行動なのかもしれない。喉が渇けば水を飲み、腹が減れば何かを食べる。眠ることだってあるのだろう。
そんな当たり前のことを、智は初めて考えた。
怪物にも、生活があるのか。
いや、生活と呼べるものかどうかは分からない。それでも、四六時中人間を襲っているわけではなさそうだった。
智は怪物から目を離さないまま、そっと後ろへ下がった。
一歩。
もう一歩。
怪物は水を飲み続けている。
あと数歩で、曲がり角へ戻れる。
そのときだった。
怪物の頭が上がった。
黄色い目が、こちらを向く。
智の身体が凍りついた。
怪物はしばらく動かず、鼻先を小さく揺らしていた。口元から水滴が落ち、湿った土へ吸い込まれていく。
そして、低く唸った。
「……っ!」
智は踵を返した。
走る。
背後で怪物が吠え、洞窟全体が震えるような声が響いた。
肩が痛む。
足元の石が滑る。
それでも、止まれば追いつかれる。
智は歯を食いしばり、通路を駆け抜けた。
曲がり角が見える。
壁に描いた矢印と、数字の二。
そこを右へ曲がった途端、背後から重い足音が迫ってきた。
速い。
思っていた以上に速い。
智は息を切らしながら、さらに走る。
次の曲がり角には、数字の一がある。落下地点へ戻る方向を示した印だ。
しかし、そこへ戻ったところで逃げ道はない。
登れない斜面があるだけだった。
一瞬の迷いが、足を鈍らせる。
背後で怪物の爪が岩を引っかき、鋭い音を響かせた。
智は振り返らずに走り続けた。
前方には、最初の分岐がある。
右へ進めば落下地点。
左へ進めば、まだ調べていない暗い通路。
戻っても行き止まり。
ならば、知らない道でも進むしかない。
分岐が迫る。
怪物の足音は、もう数メートルも離れていなかった。
智は左へ身体を倒し、暗い通路へ飛び込んだ。
その瞬間、右肩が岩壁にぶつかる。
「ぐっ!」
痛みが走ったが、立ち止まる余裕はない。
通路は想像以上に狭く、両側から岩がせり出していた。智でさえ肩をすぼめなければ通れないほどで、足元にも大小の石が散らばっている。
背後で怪物が吠えた。
次の瞬間、鈍い衝突音が響く。
ドンッ!
思わず振り返ると、怪物の肩が通路の入口に引っかかっていた。
太い腕を伸ばし、こちらへ爪を振るっている。しかし、身体が入らない。
智は息を呑んだ。
通れない。
少なくとも、あの姿勢では。
怪物は再び身体を押し込もうとし、岩壁が軋むほどの力を加えた。頭上から小石が落ち、乾いた音を立てて転がっていく。
智は慌てて後ずさった。
あの力なら、無理やり通路を広げるかもしれない。引き返して別の道から回り込む可能性もある。
安心するには早すぎた。
智はスマートフォンのライトを点け、狭い通路の奥へ進んだ。
数メートル先では岩の隙間がさらに細くなっており、人間なら身体を横向きにすれば通れそうだった。
智は左肩をかばいながら、慎重に身体を滑り込ませる。
作業着が岩肌に擦れ、傷口に痛みが走った。
それでも、どうにか通り抜ける。
背後では怪物がまだ暴れていた。岩を叩く音、爪が擦れる音、低い唸り声。それらが暗い通路に反響し、どこから聞こえているのか分からなくなる。
智は足を止めず、さらに奥へ進んだ。
やがて音が遠ざかり、ようやく立ち止まる。
息が荒い。
胸が痛み、膝も震えていた。
智は岩壁へ背を預け、そのままゆっくり座り込んだ。
「……はあ……はあ……」
しばらくは何も考えられなかった。
ただ呼吸を整えることだけに集中し、胸の激しい鼓動が落ち着くのを待つ。
やがて、背後の音が聞こえなくなった。
怪物が諦めたのか、それとも別の道を探しているのかは分からない。
智はスマートフォンのライトを消した。
周囲には青白い苔がほとんど生えておらず、闇の中で自分の呼吸だけが聞こえている。
生きている。
また、生き残った。
だが、次も同じように逃げられるとは限らない。
さっきは、たまたま通路が狭かった。怪物の身体が引っかかり、その隙に逃げ込めただけだ。
右手の腫れはまだ残り、左肩も痛む。
武器らしい武器もない。
まともに戦える身体ではなかった。
それでも、逃げ道を見つけることはできた。
智は暗闇の中で、ゆっくり顔を上げた。
狭い通路。
岩壁。
そして、見通せない暗闇。
そこにあるものを見て、考える。
それは、自分が長年続けてきた仕事と、どこか似ている気がした。
壊れた扉を前にしたとき、力任せに動かしても直るとは限らない。まずは、どこが引っかかっているのかを確かめる。どの部品が、どの部品と干渉しているのか。何が原因で動かないのか。
仕組みを理解しなければ、適切な対処はできない。
怪物も、同じなのかもしれない。
もちろん、扉と生き物は違う。思いどおりに動いてくれるわけではないし、相手には相手の意思がある。
それでも、身体の大きさや通れる場所には限界がある。どれほど力が強くても、狭い場所では自由に動けない。
そのことを、智は今、身をもって知った。
「……戦わなくても、いいんだよな」
小さく呟いた。
倒す必要はない。
まずは生き残る。
帰る道を探す。
そのために、使えるものを使う。
智は壁に手を添え、ゆっくり立ち上がった。
スマートフォンのライトを点けて前方を照らすと、通路はさらに奥へ続いている。
ただ、その先には、これまでとは違うものが見えた。
岩壁ではない。
平らな面と、直線的な角。
何かの構造物だった。
智は眉をひそめ、慎重に近づいた。
ライトの光が、その全体を照らし出す。
灰色の石でできた四角い柱。
高さは二メートルほどあり、表面には細い溝が幾何学的な模様を描いていた。
智は息を呑んだ。
見覚えがある。
札幌の道路陥没現場で見た石の構造物。
五階建ての建物に突然現れた扉。
そして、落下地点で《解析》を使った滑らかな岩壁。
それらと、よく似た質感や模様だった。
柱は通路の奥に一本だけ立っており、周囲にはほかに人工物らしいものが見当たらない。
智は近づきすぎない位置で立ち止まり、まずスマートフォンで写真を撮った。
それから、柱の表面をじっと観察する。
細い線は複雑に交差し、ところどころで途切れていた。単なる装飾というより、何らかの配線図にも似ている。
線には意味があるのか。
どこかにつながっているのか。
それとも、ただの模様なのか。
確かめたいという衝動が湧いた。
しかし、智はすぐに自分を戒めた。
知らないものを、知っているものに当てはめる。
似ているからといって、同じ仕組みだとは限らない。仕事でも、思い込みによる判断が原因で、余計な手間を増やしたことがあった。
智は深く息を吸い、柱全体へ意識を向けた。
「……解析」
視界に淡い文字が浮かび上がる。
『対象:人工構造物』
『材質:不明』
『内部構造:一部検出』
『機能候補:経路標識』
『詳細情報:閲覧条件未達成』
智は表示を読み終えると、すぐに解析を止めた。
「……経路標識?」
道案内。
そういうことなのだろうか。
柱の模様を見直してみると、確かに線の一部は矢印のようにも見える。しかし、どちらを指しているのか分からず、詳しい情報も表示されていない。
「……肝心なところが分からねえな」
思わず苦笑したものの、収穫がなかったわけではない。
この地下空間には、誰かが造った構造物が存在している。
しかも、道を示すためのものかもしれない。
少なくとも、ここが自然にできた洞窟だけで構成されているわけではないことは、ほぼ間違いなさそうだった。
智は柱を見上げた。
その向こうには、暗い通路が続いている。
行くべきか。
戻るべきか。
迷っていると、ふと足元に細い溝があることに気づいた。
柱の根元から通路の奥へ向かって延びている。
しゃがみ込み、ライトを低い位置から当ててみると、溝は岩の表面に刻まれ、ほぼ一定の幅と深さを保ったまま真っ直ぐ続いていた。
自然の亀裂とは考えにくい。
智は指を伸ばしかけたが、途中で止めた。
触れる必要はない。
見るだけで分かることもある。
溝の先をライトで追うと、数メートル先で岩壁の向こうへ消えている。
この先に何かがある。
出口かもしれないし、別の部屋かもしれない。あるいは、もっと危険な場所へつながっている可能性もある。
それでも、闇雲に歩くよりは手がかりがあった。
智は柱の写真をもう一枚撮り、少し離れた岩壁へ小さな矢印を描いた。
矢印は来た道へ向け、その横に数字の三を書き添える。
柱そのものには何も書かなかった。
何のために設置されたものなのか分からない以上、不用意に触れたり傷つけたりするべきではないと思ったからだ。
マーカーのキャップを閉め、暗い通路の奥へ視線を向ける。
「……行ってみるか」
声は小さかったが、先ほどより少しだけ落ち着いていた。
怪物から逃げるために飛び込んだ、狭い岩の隙間。その先で見つけた奇妙な石柱と、そこから続く人工的な溝。
偶然なのか。
それとも、この地下迷宮には何らかの道筋が用意されているのか。
まだ分からない。
智が足元を確かめながら一歩踏み出したとき、背後の暗闇から小さな音が聞こえた。
カリ。
カリカリ。
振り返ると、岩壁の隙間から黒い小さな影が姿を現していた。
先ほど見かけた多脚生物によく似ている。石のように硬そうな背中に、細い脚。頭部には触角のような器官があり、それを小刻みに動かしながら進んでくる。
一匹。
続いて、もう一匹。
さらに、その後ろから三匹。
智は思わず息を潜めた。
小さな生き物たちは、柱の根元へ集まっていく。
そして、そこに刻まれた溝に沿うように、一列になって歩き始めた。
偶然だろうか。
それとも、あの溝は、この生き物たちが通るための道なのか。
智は動かずに見守った。
黒い影の列は、細い溝をたどりながら暗い通路の奥へ進み、やがてライトの届かない場所へ消えていった。
「……道ってのは、人間だけのもんじゃないか」
ぽつりと呟く。
答える者はいない。
ただ、暗闇の奥では、小さな脚が岩を擦る音だけが続いていた。
智は柱を一度振り返り、それから前を向いた。
怪物の唸り声は、もう聞こえない。
だが、ここが安全になったわけではなかった。
この地下には、自分の知らない生き物がいる。
知らない道があり、誰が何のために造ったのかも分からない構造物が存在している。
その一つひとつを確かめながら、進むしかない。
智はマーカーをしまい、青白い光の届かない通路へ慎重に足を踏み入れた。
背後の岩壁には、黒い矢印と数字の三が残されている。
もし戻ることができれば、その印が帰り道を教えてくれるだろう。
けれど、戻れなかったとしたら。
智はその考えを途中で打ち切った。
今は、まだ考える必要がない。
帰るために道を探しているのだ。
そう自分に言い聞かせながら、暗闇の奥へ進んでいく。
足元には、細い溝が続いていた。
誰が刻んだのかも分からないその線を、智は見失わないように歩き続けた。




